アビシニアンと狡猾狐

篠原 皐月

プロローグ 幸恵、人生最大の後悔

「今更、一家揃って、何をしに来るって言うのよ」

「しかしだな、門前払いをするわけにも……」

「それはそうだろう。確かに向こうにも、事情ってものが」

「でも、幾ら選挙期間中だからって、何とか抜ける事は出来たんじゃないの?」

「兄さん、相手が国会議員だからって、ちゃんと文句の一つも言わなくちゃ駄目よ!?」

 大好きだった祖母の、四十九日法要当日。家の中から漏れ聞こえてくる大人達の声を聞き流しながら、庭にいた黒いワンピース姿の幸恵は、一心不乱にバケツの中で棒をかき回しながら泥水を作っていた。


(許さない……。お父さんやお母さんが何て言っても、私は絶対に許さないんだから。私だけは、許しちゃいけないんだから! おばあちゃんはずっと、叔母さんの事を待ってたのに!!)

 怒りにまかせて作っている様に見えて、幸恵は前日までに試作を行い、10Lでは重くて持ち上げられず、2Lのそれでは迫力に欠けていた為、消去法で5Lバケツを選択し、それに八分目位まで水と土を交互に入れ、視界を涙で滲ませながら、固まり過ぎない様に最後の調整を行っていた。


(今更のこのこ、ここに顔を出すつもりなら、あの人でなし一家に目にもの見せてやるわ!)

 そんな決意を新たにしていると、門の辺りで複数の停車する音が響き、玄関から回り込んだ場所に居た幸恵にも、ざわめきと人の話し声が伝わってきた。そして微かに聞こえる内容から、待ち人の来訪だと分かった幸恵は、不敵に顔を歪めて立ち上がり、手やワンピースの裾が汚れるのにも構わず、バケツを持ち上げて歩き出す。

 そして幸恵が玄関の横に到達した時、玄関から出てきた父親と、門の所で車から降りた喪服姿の一家が、前庭で緊張感を漲らせながら、相対している所だった。


「お久しぶりです、荒川さん」

「君島さん、葬儀の際は結構なお花を頂戴致しまして、ありがとうございました。代理の方にも、色々お手伝い頂きまして」

「いえ、葬儀に出席できなかったばかりか、こちらに出向くのが遅くなって大変失礼致しました。今回夢乃の体調も回復しましたので、四十九日の法要に合わせて、こちらをご訪問させて頂く事に」

「くたばれ! この人でなし一家! 地獄に落ちろっ!」

 父親たちが互いに頭を下げつつ、取り敢えず通り一遍の挨拶を交わしている間に、幸恵は玄関付近で様子を窺っていた大人達の間をすり抜けて一家の前に立った。そして叫びながら、手にしていたバケツの中身を、力一杯憎い相手に向かってぶちまける。その途端、周囲から狼狽と非難の声が上がった。


「え?」

「うわっ!!」

「おいっ! 幸恵!?」

「きゃあっ!」

「幸恵ちゃん、何をするの!?」

(あ……、まともにかかっちゃった……)

 次の瞬間、自分のした事の結果を目の当たりにした幸恵は、密かに狼狽した。


 一番制裁を加えたかった叔母の夢乃は、その夫である君島と長男が素早く庇い、彼女には泥はね一つ付かない状態だったのとは対照的に、父親の陰に隠れていた次男は、父親が母親の前に素早く移動した事で無防備な状態で泥水を被る事になった。更に悪い条件が重なった事に、幸恵は六歳であり、幾ら渾身の力を込めても大人には下半身にしか泥水をかける事ができなかったが、彼は幸恵とさほど年齢も上背も変わらない子供だった為、頭から泥水を浴びてしまっていた。

 そして驚きのあまり、髪や額を流れ落ちる茶色の水に構わず目を見開いて固まっていた彼が、急に瞼を固く閉じて拳で擦り始めた為、幸恵の中に罪悪感が芽生える。 


(ひょっとして、目に泥が入っちゃった?)

「あの……」

 恐る恐る幸恵が、その子供に向かって一歩足を踏み出し、謝ろうとした時、彼の傍に駆け寄った兄が苛立たしげに叫んだ。


「和臣、強く擦るな! 角膜が傷付く可能性があるぞ! 蓼原さん、目を洗い流す量で良いから、大至急水を持ってきて下さい!!」

「はいっ! すみません、台所をお借りします!」

「はい、どうぞこちらへ!」

「夢乃、綾乃も大丈夫か?」

「はい、大丈夫です」

 一家に付き従っていた秘書らしい男が泡を食って玄関に飛び込み、親戚の女性が慌てて彼を案内する。そして驚きのあまり真っ青になって固まっていた夢乃に、君島が気遣わしげに声をかけているのを、荒川家の親族達や付き合いのある近所の者達は、いたたまれない風情で見守っていたが、最大の被害者である弟の様子を見ていた長男が憤怒の形相で振り返り、中学生とは思えない迫力で幸恵を怒鳴りつけた。


「貴様……、ガキだからと言って、やって良い事と悪い事がある位、分からないのか!?」

 頭ごなしにそんな事を言われた幸恵は、謝ろうとした気持ちなど綺麗に吹き飛び、負けずに怒鳴り返した。


「何よ、偉そうに! そっちこそ、親の肩書きでふんぞり返っているだけのガキのくせに!」

「何だと!?」

「それにその人だって、何澄ました顔して突っ立てんのよ! お祖母ちゃんは叔母さんの事、最後の最後まで待ってたのに! 広島でちやほやされてふんぞり返ってるのが気持ち良くて、実家の事なんかどうだって良くなったのよ!」

 もう売り言葉に買い言葉状態で、夢乃を指差しながら絶叫した幸恵に、相手は本気で腹を立てたらしく、幸恵に掴みかかろうとした。


「このガキ、こっちの事情も知らないで、黙って言わせておけば何様のつもりだ!」

「篤志止めろ! 相手は小さな女の子だろうが!」

 血相を変えて君島が、息子と幸恵の間に割って入り、息子を諌めつつ体を押さえたが、頭に血を上らせた幸恵には、その行為すら欺瞞に満ちた物に思え、彼の脛を渾身の力を込めて蹴りつけた。


「体裁だけ整える為に来たって、誰が入れてやるもんですか!! とっとと帰りなさいよ!!」

「ぐわっ!!」

 予想外の攻撃を食らった君島が、痛みに顔を顰めて反射的に足を押さえようとした所で、幸恵が更に体当たりした為、見事にバランスを崩した君島は、地面に無様に転がった。それを目の当たりにした君島、荒川双方の関係者が、全員蒼白な顔になる。


「せ、先生っ!?」

「あなた!」

「父さん!? 」

「幸恵! お前何をするんだ!」

「早く幸恵ちゃんを、中に連れて行け!」

「分かった! 幸恵、お前幾らなんでもやり過ぎだろうがっ!!」

 兄と叔父に叱り付けられながら自分の部屋に連行されようとした幸恵は、憤慨しながら手足をばたつかせて抵抗した。


「ちょっと叔父さん、お兄ちゃん、離してよ! やだぁぁっ!」

 そこで一際鋭い怒声がその場を切り裂いた。

「和臣! その手を離せっ!! あのガキ、躾け直してやる!!」

 そして何気なくその声のした方に幸恵が目を向けると、泥だらけになった少年が固く目を閉じたまま、兄の上着の裾を掴んで離さず、無言で首を振っていた。

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