こころもよう

あしどいずみ

第1話

 激しく降りしきる初冬の雨粒が、フロントガラスに当たっては俊敏に作動するワイパーによって左右に流され、当たっては流されを繰り返していた。先ほどからおよそ十分に一度の間隔で、眼前の真暗な空が一瞬光り、すぐさま轟音が大気を通じてマキオの運転するステーションワゴンを微かに振動させた。

 マキオは数十分前と比較して、自分の心臓の鼓動が随分安定していることを自覚していた。未だに頭の中は混乱していたものの、少なくとも身体的には、マキオは平時の状態を取り戻し始めていた。手の震えもいつの間にか止んでいた。

 物事は段階的に進行していく。次にマキオがすべきことは、頭の中を整理し、考えも無しに走らせているこの車に対し、明確な目標地点を与えることだった。

 マキオは胸ポケットからマルボロを取り出し火を着けてから、煙を逃すために運転席と助手席の窓をそれぞれ三センチ程開けた。ニコチンは数秒でマキオの脳を刺激し、マキオの意識に重要事項を決定するための準備を整えた。

 まずは現状を正確に把握しなければならない。車内の時計に目をやると、時刻は午後一一時二〇分。ガソリンの残量はおよそ三分の二。ナビが指し示す現在地は、豊田市内の山中。確か財布には現金で五万といくらかが入っていたはずだ。そして、何より忘れてはいけないのは、ラゲッジスペースに横たわる、女の死体の存在だ。

 マキオは煙を吐き出しながら、大きく舌打ちをした。

 さて、覚悟を決めなくてはならない。マキオには選択肢が三つあった。一つ目は、このまま豊田警察署へ向かい、今日起こったことを洗いざらい正直に話すこと。二つ目は、女の死体を自力で処理し、殺人に加え、死体遺棄の罪を重ねること。三つ目は、このまま死体を車内に放置し、自分もまた、なんらかの方法で人生に自ら決着を付けることだった。

 マキオはその三つの選択肢を頭の中で交互に吟味し、現状を鑑みて、最後の選択肢も悪くないなと思った。もちろん、死はできるだけ回避したい。人に自慢できるような生活を送ってきたわけでも、将来の大きな希望を予感していたわけでもないが、マキオの内側から沸き起こる、一個体としての本能が、生に対して執着を示していた。

 しかし、マキオの従来の性格からして、罪を認め重罪人としての余生を生きることは、とても耐えられない恥であった。それに、故意でないとはいえ、人を一人殺しているのだ、いきなり死刑になることはないだろうが、執行猶予が付くようなことも考えられない。十年か、二十年か、塀の中で過ごすことになる。それはまだ二十代のマキオの青春の全てを失うことを意味し、出所後の生活も悲惨なものになるであろうことは容易に想像がついた。

 死体の処理をするにしても、それはやはり簡単な道には思えなかった。マキオはひどく億劫な人間で、加えて小心者でさえあった。仮に、人間の死体を埋めるのに丁度いい場所が見つかったとしても、いったい何メートルの深さまで穴を掘れば死体がすっぽり隠れて、しかも長年の雨が表土を侵食し、死体が人の目に露出することがないと保証されるのだろう。そしてその後何年に渡って、その悪事が白日の元に晒される可能性の影に怯え続けなければいけないのだろう。殺人と死体遺棄を併せた罪の時効は、いつ成立するだろうか。

 そのようなことを考えただけでも、腸がきゅるりと音をたて、マキオは今にも下痢が始まりそうな勢いだった。

 やはり、自殺しかないのだろうか。この本能的な生存への欲求をどうにかして押し殺し、正々堂々と、この女にしたのと同じように、自分自身を殺めるしかないのだろうか。他の二つの選択肢に比べたら、やはりそれが一番まともに思えて仕方がなかった。

 この選択肢の魅力的な点は、他の誰でもない、マキオ自身が自らの罪に審判を下せるというところだった。

 自首などした日には、何日もの間拘留をされ、こちらが犯罪者だというだけで尊大な態度を取る刑事どもの取り調べを受け、エリート面した検察官の前に突き出された上、我こそが正義也といった態度で裁判官達がマキオの将来を一方的に通告するのだ。その際、裁判長には被告に対して説教を垂れることが、きちんと法律で認められていることをマキオは知っていた。

 被告席の背後には、法学部の学生や、単に暇潰しの奴らや、この女の遺族などが控えているはずだ。下手をすると、裁判員などと名乗るそこらの下衆連中までもがその一連の儀式に参加をするかもしれない。

 マキオはとてもそんな屈辱に耐えられる気がしなかった。やはり、自分の人生には、自分でけりを付けた方がいい。これは、一個体の本能云々の問題ではなく、一人の人間としての、尊厳の問題なのだ。マキオはそこまで考えると、心が軽くなった気がした。

 人生に於ける重大な決断というのは、その解答に至るまでの道筋は苦しいが、自分が納得できるように突き詰めて思考を巡らせば、それ自体は大したことではないのだ。

 マキオは口元に微笑さえ浮かべながら、ラジオのスイッチをオンにした。スピーカーからはビートルズの、「オブラディ・オブラダ」が流れていた。陽気なリズムでポール・マッカートニーが歌っている。


 ーオブラディ・オブラダ、人生はこうして進んでいくー


 まったく、今まさに人生を終える決断をしたところだというのに皮肉な選曲だ、とマキオは一人笑い、音楽に合わせて指でハンドルを叩き始めた。

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