第6話 トラウマに触れてしまった

 瑠庵るあんで二時間ほど飲んだ後、僕らは店を出た。

 月明かりの道を二人はゆっくりと歩く、ともこは俺の後ろから二、三歩離れてついてきている。さっき、強引に腕を掴まれたことが不快だったのかもしれない。女性にあんなやり方は無神経だったと後悔するが、こうでもしないと一緒に居酒屋にきてはくれなかっただろうし、おかげで楽しい時間が過ごせた。

 このまま別れたくない、もっと話がしたい、ともこを喫茶店へ誘おうかと俺は考えていた。酔い冷ましに喫茶店でお茶でもどうですか? そう言って、ともこを誘おうと心の中で決めた。ゴクリと唾を呑む、なんだか緊張してきた――。

 振り返って、話しかけようとした瞬間、アルコールに足をとられて、グラリと前のめりになって倒れそうになった。咄嗟に「うわっ!」と声を上げ、ともこの方へ手を伸ばしたら、彼女は顔を強張らせ、目を見開いて、こちらを凝視ぎょうししていた。

 そのまま、二、三歩後ずさりすると、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

 びっくりした俺は、「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」声をかけたが返事はなく、ともこはブルブルと震えている。

 ひょっとして、抱きつこうとしたと勘違いされたのではないかと思い「いいや違う! お酒のせいで足がふらつい転びそうになったんです。どうか誤解しないでください」必死で言い訳したが、ともこはうずくまったまま動こうとしない。

 なぜ、あんなに脅えているんだろう? いったいどうしたらいいのか、この状況に俺は困惑していた。

 しばらくして、やっと我に返ったともこは「ごめんなさい……」泣きそうな声で呟くと、俺の前から走り去った。


 道にひとり取り残されて、何がなんだか分からない俺がいる――。

 さっきまでお互い和やか雰囲気だったのに……いったい何が原因で、あそこまで豹変してしまったのだろうか。ともこの尋常じんじょうではない行動について考えてみた。

 サスペンス映画でしか見たこともないような、恐怖で引き攣った表情といい、しゃがみ込んで頭を抱えるなんて……あれは外敵から自分の身を守るためのポーズではないのか? いったい過去に何があったのだろう?

 あの時、ともこのトラウマに触れてしまったようだ――。 


 昨夜は、あれから家に帰っても、ともこのことが心配で落ち着かなかった。

 もしかして電話をくれないかと心待ちにしていたけれど……結局、かかってこなかった。俺は、ともこに拒絶されているのかな? 

 いつも目立たない格好して、人目を避けている様子だし……それでも放って置けない気がする。何も分からないけれど、ともこのことをもっと知りたいと思った。

 もう一度会って、彼女の身の上話を聞きたい、何か、この自分にも助けられることがあるかもしれないと考えていた。

 翌日、お弁当屋『お多福たふく』に行ったけれど、カウンターの上に弁当を置く、ともこの手しか見えなかった。それでも仕事をしていることに少し安心した。

 その次の日も、お店が閉まる時間帯を見計らって『お多福』に行ってみたけれど、店の前でいくら待っていても、ともこは出てこなかった。その日も会えずに……事務所のあるビルに帰ってきたら、うちの会社の駐車場に真っ赤なフェラーリが停まっていた。

 こんな派手な車を乗っている人物を、この町でひとりだけ俺は知っている。


「よっ! 千葉ちゃん」

 事務所に入ると、リビングのソファーに社長が寝転がっていた。

「先輩、いつ日本に帰ってきたんですか?」

「一昨日だ。緊急の用事で帰国させられた」

 俺より二つ年上の先輩は、この町の資産家の一人息子である。

 ビル管理とマンション経営など不動産関係だけで数十億の資産があるといわれる、裕福な家庭のおぼっちゃんは家業も手伝わず、趣味で始めた輸入雑貨の仕事で一年の半分は海外暮らしという、どうしようもない道楽息子どうらくむすこなのだ。

 ちなみに事務所のあるこのビルも、先輩の親がオーナーをしている。

「何かあったんですか?」

「ああ、まぁね」

 いつになく冴えない表情である。

「相変わらず、おまえの部屋は女っ気ないなあ」

 大学時代から女たちと浮名うきなを流した、チャラ男の先輩にだけは言われたくない。

「もう女も結婚も懲り懲りですから……」

 そんな風に答えながらも、俺の脳裏のうりにはともこの面影おもかげがよぎった。

「結婚かぁ~。俺さ、嫁さんに浮気がバレて離婚されそうなんだよ」

「もしかして、シルビアさんのこと?」

「それな。嫁さんが探偵雇ってさ、イタリアまで行って調査させたみたい。証拠をいろいろ突きつけられて、ぐぅの音も出なかったよ」

 やっぱし本妻は強いなあ。

「それで先輩はどうするつもりなんですか?」

「離婚はしない。だいたい俺たちの結婚なんて一族との結びつきなんだ。資産家の俺の家と市会議員の嫁の父親と金と名誉で繋がってるだけ。愛情なんて二の次だから……それでも子どもは可愛いし、親たちにとっちゃ世間体せけんていが大事だから離婚なんかできない」

 そもそも先輩とシルビアは彼女が日本に留学していた十年前からの付き合いだった。むしろ結婚生活よりも二人の付き合いの方が長いくらいだ。先輩が輸入雑貨の仕事を始めたのは、イタリアにいるシルビアに会いに行く口実を作るためだったに違いない。

 そういう理由から、シルビアに対する先輩の気持ちは本気なのかもしれないと、そう思える。

「先輩はシルビアさんと別れるつもり?」

「……まあ、当分はイタリアには行けないなあ。嫁さん怖いし、親たちの監視もあるから」

「じゃあ、この会社はどうなるんですか?」

「うん。これからイタリアへ買い付けにいくのは千葉ちゃんにやって貰いたい」

「えぇ―――! 俺がですか?」

 先輩の言葉には驚いた。

「そうそう。だって俺は当分イタリアに行けないもん。嫁さんなんか、こんな会社止めてしまえって酷いこと言うんだぜぇ~。だから社長の座は後輩の千葉に譲るから、続けさせてくれって必死こいてお願いしたくらいだ」

「いきなり社長と言われても……それにイタリア語なんて喋れないよ」

 元妻と縁を切るため、少しのあいだ腰かけ気分で働いていた、この俺が社長だなんて……。

「大丈夫! 向うにシルビアの従弟いとこのマルチェロという男がいて、そいつがいろいろサポートしてくれる手筈てはずになってるから、千葉ちゃんは何も心配しなくていいぞ」

「ちょっと待って、少し考えさせて欲しいんだけど……」

「出発は一週間後なっ! よろしく~」

 俺の返事もきかず、イタリアのトリュフチョコレートをお土産に置いて、さっさっと先輩は帰ってしまった。

 突然、先輩の家庭の事情で社長にされて、一週間後にイタリア行きとか……むちゃくちゃ過ぎる! 今はともこのことが気になっていて、とてもそんな気分にはなれなかった。

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寿司を喰う女 泡沫恋歌 @utakatarennka

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