花冠のパヴァーヌ

星町憩

 

 一面の砂。人々が砂漠と呼ぶそれは、今日も吹きすさぶ風にその表面を撫ぜられ、空気の色を芥子色に濁らせている。空と砂漠の境界は曖昧だ。水平線というものは確かに存在するはずなのに、風が砂を巻き上げるせいでほとんど見えることはない。その真っ白な一筋――どこまでも続く細い透明を見つけたら、今日は運がついてるだなんて言う人もいる。それは空に架かる虹を見ることと同じくらい、珍しい現象だった。空さえ砂色に見えるほどの、茫漠。黄金色の大地には、小さな影が一つ落ちて、ゆっくりと動いていた。風が強いこんな日に目印のない砂漠を歩いているのは、その少女だけである。少女が残した足跡は、即座に風に運ばれた砂で埋められ、かき消される。灼熱の光は、少女の顎を伝う汗の雫をまるで宝石のように輝かせていた。

 空からは、日の光を眩しく反射する濃い緑の蔦があちこちへと伸びて、砂の大地を貫いている。蔦が一体どこから降りてきているのか、人々は知らない。ただ、ある日突然、それは空から降ってきて、砂漠に突き刺さったのだ。人々は、「植物だ! 植物が天から降ってきた!」と歓声を上げた――植物は貴重な水資源だからだ。けれど、蔦が砂漠に落とす細長い影は縄みたいで、まるで誰かを囚えようとしているようにも見えて空恐ろしい。

 少女はこの砂漠で生まれ育った。人々もまた、風が運ぶ砂でざらざらとした洞窟の中で、身を寄せ合って暮らしていた。少女は洞窟の中の暗さと、焚火の赤、そして砂の色しか知らない。顔を上げれば刻一刻と色直しをする空の色も拝めるけれど、太陽の光が眩しすぎるから、滅多に顔を上げる気にはならないのだった。少女は空の色の移り変わりに、大した感慨を持たなかった。それよりも少女は、砂漠の色の移り変わりの方が好きだった。少女は砂の色に溺れてきた。砂漠を好きというわけではないけれど、この蔦がなければ景色はどんなに綺麗だろうかと思う。

砂漠の周りにはもっと美しい景色があるらしい。この砂漠の端っこへ行けば、砂を飲みこむ美しい青の世界、海というものが広がっているのだそうだ。ある時期から砂漠に移り住んできた肌の白い人々はそう言って、青が恋しいと泣いた。ならば海に帰ればいいのにと少女は思ったが、人はもう海の側では生きていけないとのことで。来訪者は、人が生きていける大地はこの砂漠しか残っていないと嘆いた。彼らはひ弱だった。太陽の日差しに肌を火傷して、痛い痛いと言って蹲る。中には日の光にやられ、目が見えなくなった者もいた。少女と同じ浅黒い肌の原住民は、そんな彼らを馬鹿にした。けれど少女は、そんなひ弱な来訪者たちの苦しみにも、少しだけなら共感できるのだった。一日中砂漠を歩いていると、目が焼けて、痛くて何も見えなくなることが少女にもあるから。少女の瞳の色は淡い黄緑色で、茶色や金色の目を持つ他の原住民よりも光に目が弱い。空が淡い紫色から濃い藍色へと移り変わるその一瞬は、目が色彩の急激な変化に追いつけず、世界が白黒(モノクロ)に見えてしまう。そんな白黒の視界は、なんだかとても気持ち悪い。

 この砂漠の女たちは、一様に黒い布で肌を隠すのが習わしだ。目以外の全てを布で覆い、肌が日差しで痛まないようにと気に掛けなければいけない。それは男たちの気を引くためで、男たちの子供を産み養ってもらい、生き延びるためだ。けれど十二歳の時、少女は思い立って、肌を隠すことをやめた。布を取り払い、男たちと同じ服を身に着けてみた。少女はそれから男として生きることにした。実の父親は最初こそ少女を言うことを聞かないと怒って打ったが、少女の意志の固さに諦めた。男として生きるなら、働かなくてはいけない。少女が思いついたのは、砂漠の果ての水場(オアシス)まで赴き水を汲んでくることだった。水場はとても遠いところにあったから、人々は空から延びる蔓の表面を傷つけ、中の水分を飲むことで喉の渇きを癒していた。水源は目の前にたっぷりあるのに、今更遠路はるばる水場へ行くだなんて馬鹿らしいと皆に笑われた。蔦は、その肌を修復する間もなく、人が水を得るため毎日のように傷つけられた。ぼろぼろになった蔦を、少女は哀れだと思った。空を仰ぐと、空へ吸い込まれた蔦の先は、ゆらゆらと大きく揺れて今にも千切れそうだ。少女は、蔦がそう長くは持たないだろうなと想像した。だとしたら、やはり自分が水を汲みに行くことにも少しは意味があるだろう。他に誰も、行きたがらないのだから。少女は誰に言われずとも駱駝に乗って水汲みの仕事を続けた。

 少女の駱駝は、しばらくして寿命で死んだ。貴重な駱駝の一体を死なせたことを責められ、少女は鞭で打たれた。それからは、一人で砂漠を歩くようになった。少女は砂漠の色の変化に目を配りながら、水場までの距離を把握した。海からの来訪者は砂漠を黄金色だなんて評するが、砂漠の色は移ろうのである。夜明けには白く瞬き、日の出と共に金色に輝き出す。太陽が一番高く昇る頃には少女の瞳の色に近い、淡い緑色に染まって、日が翳りだすと橙色を滲ませる。日没に真っ赤に輝く砂の大地は、燃え盛る炎のよう。太陽が隠れた一瞬だけ暗い紫黒色に染まり、やがて綺羅星のように淡く銀色に輝きだす。その些細な色の変化に注意して、太陽の位置を確認して、蔦の影から目を離さず――そうしていれば、風で様相を刻一刻と変える道標のない砂の大地でも、迷うことなく戻って来られる。

 砂を含んだ風は、池の表面を撫ぜる。眩い日の光で照らされた水面はキラキラと輝き、その反射光に照らされた風の砂もまた、白や銀色に瞬く。その様はまるで、冷えた空気の靄で覆われた氷のようでもある。

 その日も無事に水場にたどり着き、少女はひんやりと冷たい水面を細い指で撫でた。まずは一気に手首までずぶりと沈め、ゆっくりと肘まで濡らす。指先で掴んだ壺を水面から浮き上がらせれば、ざぶんという大きな音と共に水面は激しく揺れて眩く輝いた。壺を頭の上まで掲げ、一気にひっくり返す。砂にぶつかった水がじゅう、と音を立てた。岸辺の僅かな緑の草が、雫を弾いて震えた。肌を伝った水の雫は最初こそ冷たかったが、すぐに温くなってしまった。けれど、これが渇ききるころには体の熱が少し下がってくれるから、構わない。少女はもう一度だけ水を汲み、体にかけた。三度目の水は零れないように気をつけて、布で覆って蓋をした。布と壺の口を縄で縛る。結び目は念入りに三重にする。少女の黒い前髪から、雫がぽたぽたと垂れて布に影色の染みを作った。

 不意に少女の足下に薄い灰色の影が現れ、次第に濃く大きく広がっていった。少女はぎょっとして、顔を上げた。黒い何かが空から落ちて来ていた。少女は壺を抱えて走り出した。やがて、それは凄まじい音と砂埃を立て、着地した。少女は振り返り、砂の霧が晴れるまでその一点だけを見つめ、微動だにしなかった。やがて空気が澄んできたところで、少女は来た道を引き返した。砂色の奥に、鮮やかな青色が見える。

「……花びら?」

 少女は、風に飛ばされて靴にぶつかった、大きな花弁を見て思わず声を零した。元々は瑞々しかったであろうその花弁は、砂の熱にやられ萎びて、色を失ってしまっていた。

 少女は、まだ少しひんやりとしたその花弁を拾い上げ、もう一歩足を進めた。砂埃の底に転がっていたそれは、少女の身体ほどの大きさの、青い花の蕾だった。少女が知っている花はサボテンに咲く鮮やかな赤や黄色、白、薄紅色や橙色の花だけで、青色の花を見るのは、初めてだった。少女はしばらく、見惚れていた。

 やがて、蕾は唐突にぶるぶると震えだした。少女が一歩後ずさると、蕾は音もなく弾け、壊れた。花弁と共に、砂が再び舞いあがる。青い色を、砂の金色が汚した。

 少女は数歩前に進んで、それを覗き込んだ。青い花の残骸に、少女の大きな灰色の影がかかる。花弁の山が、再びびくりと震えた。まるで生き物のようだと少女は思った。この花弁の下に、きっと何かがいる。

 少女は手を伸ばし、その花弁を一枚剥がしてみた。まだ砂に接していないせいか、なめらかで柔らかく、しっとりとして冷たい。少女が花弁を剥がす度に、花弁の山の下で【何か】はぶるぶると大仰に震えた。もしかしたらそれは蠍や蛇かもしれないのに、少女は好奇心を押さえられなかった。やがて、花弁の下から白い肌が現れた。少女は一瞬仰け反った。それは、少女の影を失った途端日の光に照らされ、見る見るうちに赤みを帯びた。少女は慌ててその場に屈み、それを自分の影で覆い隠した。

 ――人肌だ。

 少女はごくりと唾を飲み込んだ。壺を砂の上に置き、何重にも重ねた服を一枚解いて、広げた。それを花の山にかぶせてやると、それはついにがばっと身体をもたげた。

「痛いよお!」

 泣きそうな甲高い声が響く。少女はただただ呆気にとられた。花弁の下から現れたそれは、来訪者のように、否、彼らよりも更に透き通るような、白磁の肌を持っていた。砂に触れるその膝頭は火傷しかけている。少女は慌てて彼か彼女かもわからない、人の姿をした子供を肩に担いで、池の中にドボンと投げ入れた。子供の透き通るような青い髪が、ぱらぱらと広がり揺れて、水面にぶつかって、沈んだ。

 しばらく水面には、ぶくぶくと泡が浮かんでいた。少女は、己の懐をまさぐった。火傷に効く薬の入った袋を取り出して、口を開ける。

 青い髪の子供は、ややあって「ぷはあっ」と叫び顔を水面から覗かせた。少女はその頭に、先刻脱いだ布をばさりと投げた。子供は踏まれた蛇のような声を漏らした。

「おいで。言葉は……わかるよね。薬を塗ってあげるよ」

 少女は優しい声音でそう言った。子供は布の影から鮮やかな橙(オレンジ)色の瞳を覗かせて、拗ねたような様子で少女を見つめた。少女は思わず、足元に散らばる花びらをまさぐった。

「なにするんだよう!」

 子供はそれを見て甲高い声を上げた。少女はやがて、ねっとりした何かに触れた。鮮やかな橙色の花芯だ。少女はもう一度顔を上げた。子供の目には、何となく違和感がある。じっと観察してみれば、瞳孔が駱駝の目のように横に長かった。少女は口から細い息を吐いた。この子供は一体何なのだろう。神様だろうか。いずれにせよ、手当てしてやらないと痛そうだ。少女は手を伸ばした。

「肌が火傷しちゃっただろ。ほら、おいで。そのままにすると膿んでしまうよ。薬を塗ってあげる」

「は、は、裸を見られるのはいや!」

 子供は唇まで水に沈めて、少女を睨んできた。少女は呆れてしまって嘆息した。

「だから、その服貸してあげたろ。裸がいやならそれをまとって岸辺におあがり」

「やだ! すごく熱いんだもん!」

 聞き分けのない子だなあと思いながら、少女はふと、子供に靴を与えていなかったことを思いだした。自分の足元を見つめる。布靴の上に革の靴を履いている。布靴だけで砂漠の熱に耐えられるとは思えないけれど、目の前の子供より自分の浅黒い肌の方が熱さに強いことは明らかだ。少女は革靴を脱いだ。砂の熱がじんわりと足の裏をつついた。少女はもう一枚服を脱いで、足の下に敷いた。革靴は、子供に投げてやった。

「ほら、それを履きな。それだと熱くないよ」

「本当かよ」

 子供はぶつぶつと何か文句を言いながら、水の中に潜った。ああもうあの靴は使えないなあと思いながら、少女は足の下の布を半分に裂いて、両足に器用に巻きつけた。肩がいつもにくらべるとやはり少しだけひりひりする。自分でさえそうなのだから、肌の白い青髪の子供はもっとだろう。既に二枚の布を脱いでしまった状態で、これ以上脱ぐべきかどうかを少女が思案していると、ばしゃりと音がして子供が水の中から手を伸ばした。少女はその手首を掴んで、引き上げてやった。

 濡れ鼠のような体で、子供はぼたぼたと雫を垂らしながら砂の上に降り立った。布も器用に体に巻きつけている。頭のいい子だと思って、少女は口元にふわりと笑みを浮かべた。

「……熱い」

 子供は、ぽつりと呟く。

 少女はあと二枚服を脱いで、一枚を子供の身体に巻きつけてやった。

「ほら、私の代わりにこれを持ってくれ。私は君を担いで歩こう。その足じゃ、砂漠を長くは歩けないだろうから」

「うん……」

 子供は少女から素直に壺を受け取った。

「中に水が入ってるから、零さないようにしてね」

「うん……」

 子供は大人しく少女の肩に担がれた。少女は二人の身体を覆うように、もう一枚の布をかけた。後ろの砂を眺めると、腕をぴんと伸ばした影が長く伸びている。壺をまっすぐに保とうとしているらしかった。少女は苦笑して声を漏らした。

「ほら、そんな風にしていたら、腕が疲れてしまってもたないだろ。私の背中で壺を支えていいから」

「うん? うん……」

 少年は頷いて、少女の背中に壺の底を押し当てた。少年の深い溜息が、少女の耳の後ろで揺れる。少女はもう一度ふっと笑って、ざくざくと砂を踏みしめた。砂漠はほんのりと赤みを帯びてきている。急いで帰らないと夜になってしまう。砂漠の夜は氷のように冷たく、容易に人の体温を奪うのだった。子供一人担いで砂漠でのたれ死ぬのだけは、避けたい。

「あの……、僕、木を探しているから……」

 少女がしばらく歩いたところで、不意に子供は焦ったようにそう言った。

「うん?」

 少女は歩調を緩めないまま応えてやった。

「あの、だから、木を探しているんだ。僕のつがいを探してる。僕が落っこちてきたところに、木があるはずなんだ。僕はその木に会いたくて空の上から落ちてきた。……まあ、本当はもうちょっと蕾の中で眠っているつもりだったんだけど……」

 子供はもぞもぞと身体を揺らした。まるで、少女の肩から降りたがっているようだった。

「だから、あの場所から遠ざかりたくないんだ。ねえ降ろしてよ。なんで僕連れて行かれてるの。僕をどうするつもり? ねえ、下ろしてよ。こわいよ、こわいよ」

「よくわからないけど……」

 少女は、悲鳴じみてきた少年の声を遮る様に大きな声を出した。

「君は水場の傍にいたいんだね? でもだめだよ。君の白い肌じゃあっという間に肌が焦げてしまうだろう。ちゃんと服も靴も揃えて出直した方がいいし、それに、一日中あの場所に居たら君は死んでしまうよ。砂漠の夜をなめちゃいけない。君の体温を奪って、君を凍らせてしまう」

「でも、でも、」

 子供はじたばたと足を動かした。固い靴先が少女の胸に当たって、少女は呻き、思わず膝を折った。

「……っ、水を、零すなと言ったよな」

 少女の喉から低い声が漏れる。子供は、びくりと身体を揺らした。

「暴れるな」

 少女は唸って、もう一度立ち上がった。

「でも……」

 子供の声は、擦れていた。

「あ、あなたが、僕をまた、夜が明けたらあの場所に連れ戻してくれるって信じていいの?」

 少女は立ち止まった。不意に、胸の奥がすんとした。きっとこの子供は、心細さと不信感からそう言っているのだと思う。少女は今まで、信じていいのかだなんて言われたことがなかった。水汲みは自分のためにやり始めたことだ。誰もやりたがらないし、あの場所で一日中男女の睦を見るのもつらい。仕事のためと言えば兄弟の世話も放棄できる。全て自分のためだった。それでも、水汲みの仕事を無意味だと嗤われ、汲んできた水に群がる人々を見るのは気分がよくなかった。少女は、頭で考えるよりも早く、子供の言葉を文字通りに受け取った。今初めて、自分は頼られていると思った。この子供の安否は、自分の意思一つにかかっているのだ。

「わ、たしが、賢い人間だったら、」

 少女は擦れた声で呟いた。

「君を利用するだろう。君は珍しい青の髪で、花の蕾から生まれてきた。まるで神様だ。けれど私には、君を利用する術が何にも浮かばない。私はただ、君の火傷を治療してあげたいだけで、君に服を与えたいだけだ。その後のことすら、考えていなかったんだ……」

 少女はゆっくりと太腿を上げ、再び砂を踏み鳴らした。子供は黙っていた。息を潜めて、少女の次の言葉を待つかのように。

「だから、君がまたあの場所に帰りたいというのなら、連れて行ってあげよう。どうせ明日も明後日もそのまた明日も、私はずっとあの水場へ通い続ける。けれど砂漠の夜に君を一人置き去りにできるほど、私は強くはないな……これも全部、私自身のためだ。私が、君を置き去りにした良心の呵責に苛まれたくないだけなんだ」

 子供は随分と長く黙っていた。少女も黙っていた。二人の影が、長く長く伸びていく。砂の色が淡い紫に染まった頃、二人は洞窟の入り口に辿りついた。赤茶けた砂を纏うその岩窟をちらと見て、少年はようやく吐き捨てるように呟いた。

「明日もまた、連れて行ってよ。置いて行かないで。こわい、ここ」

 少女はぼんやりとした頭で、ゆっくりと頷いた。

「中に入る前に、顔は布で隠しておいで」

 少女は子供にそっと耳打ちした。子供は訝しげに眉根を寄せ、首を傾げた。

「どうして?」

「君みたいに青い髪で、鮮やかな橙色の目を持っている人なんて、私達は見たことがないから。ここでは、私のように浅黒い肌で、黒い髪で、黒い眼を持っていなければ蔑まれるんだよ。無闇に傷つきたくはないでしょう?」

 少女は柔らかく笑った。青髪の子供はじっと少女の目を見つめた後、ぽつりと声を零した。

「でも、あなたの目は僕の髪と同じじゃないか。空の色だ」

 かすれ気味の、低くて優しい声音。少女はびくりと小さく肩を跳ねさせた。子供の眼差しが、どこか大人びて見える。少女は作り笑いを浮かべ、首を振った。

「そう。だから私は、傷ついている」

 言いながら少女は、私は傷ついていたのかと呆然とした。ぼんやりとした頭で洞窟の天井を意味もなく眺めた。少女は子供が抱えていた壺を受け取り、頭の上に乗せて右手で支えた。空いた左手で子供の手を引いて、暗闇の中へ足を踏み出す。

「そんなこと言われたら、僕も傷つくよ。好きで青い花になったわけじゃない」

 子供は俯いて、そんなことを言った。

 案の定、少女が人間を一人連れてきたことで、洞窟内の人間の視線は一斉に子供に注がれた。子供は言いつけどおりなのか、それとも単純にたくさんの視線が気持ち悪かったのか、頭にかかった布を引っ張り一層顔を隠して俯いた。少女は抑揚のない声で、砂漠で人を一人拾ったと言った。怖い思いをしたみたいで、あまり話してくれない。だから、しばらくそっとしておいてもらえないだろうか――私が、面倒を見るから。

「ふん、実の兄弟家族の世話もしないくせに、拾い子の世話はするってか。えらくなったもんだな」

 親でもない大人の一人が、馬鹿にしたように鼻で嗤った。少女は口元に笑みを浮かべたまま、思わず子供の手を強く握ってしまった。子供は不思議そうに、少女の顔を見あげた。

 少女は子供の手を引いたまま、片手で器用に頭の上から壺をとり、地面に置いた。その壺に群がる人々は、まるで虫の死骸にたかる蟻のようだ。少女は、人ごみを縫って自分と子供用のわずかばかりの水を袋に注いだ。袋を投げてよこすと、青髪の子供は拙い手つきで袋の口を紐で閉じた。本当に、勘がよくて良い子だ――少女は笑みを浮かべ、その口元を隠す様に、首に巻いた布をそっと引き上げた。

 焚火の灯りが淡い橙色の光を同心円状に広げている。その光が辛うじて届く壁際に子供を連れて、少女は腰を下ろした。

「服を変えよう。そのびしょ濡れじゃ、寒いだろ」

「もう乾いたよ」

「さあ、どうかしら」

 少女は笑って、子供の脇の辺りをぎゅっと掴んだ。子供は「ひゃっ」と小さな声を漏らした。

「ほら、ここはまだ湿ってる。夜は冷えるから、からっからに乾いた服で寝ないと風邪を引くよ」

「くすぐったいだろ!」

 子供はむすっとして、触られた方の脇を手で隠しながら少女を睨む。

 少女はくすくすと笑いながら、服の裾をめくって子供の火傷の痕に薬を塗った。汚れた指を自分の服で拭き取りながら立ち上がり、乾いた布を五枚投げてよこす。少女が口元を首の布で隠しながら笑うのを、子供は睨みつけた。

「見ないでよ!」

「ははっ、今更」

 子供が顔を真っ赤にして怒鳴るのを、少女は笑って受け流した。けれど少女は、子供が着替えている間、ちゃんと背中を向けてやった。そもそも、少女も着替える必要があった。少年を担いでいた左の肩口から背中にかけては、ぐっしょりと濡れてしまっていたからだ。

 少女は灯りの届かない暗闇で服を解いて、また布を巻きつけた。身なりを整え、灯りの届く場所に戻ると、子供は最後の一枚を体に巻きつけることに苦戦しているようだった。布靴の履き方がわからないらしい。

 少女は何も言わず子供の手を押しとどめて、子供に靴を履かせてやった。触れた子供の手は、思った以上に骨ばっていて、少女は少しだけどきりとした。なぜどきりとしたのか、自分でもよくわからないのだけれど。

 子供が見よう見まねで頭に撒いたターバンの隙間からは、青い髪がぴょんぴょんと飛び出していた。少女は何も言わずターバンを解いた。子供の髪は肩にかかるくらいで、ターバンで隠すには少々不向きだ。少女は首を横に傾けた状態で、しばらくその頭を観察していた。

「な、なあに」

子供は、擦れた声で言った。

「うーん」

 少女は唸った。

「ねえ、君。髪の毛を切るのと、結んでまとめるのと、どちらがいい?」

「髪を切る!? いやだよ、せっかくめかしているのに、僕の美貌が落ちちゃうじゃない」

 子供は素っ頓狂な声をあげた。

「めかしているの?」

 少女は目を丸くした。

「そうだよ! 僕は木のつがいだけれど、でも……でも万が一、僕に惚れてもらえなかったら怖いから……この青い髪は綺麗でしょう。花色の髪は、木の気を引くための僕らの本能なんだよ。僕は木に出会うために生まれてきて、ずっとずっと花が咲くまで眠っているつもりだったんだ。本当は、花が咲くまで眠っていたかった……まだ咲く時期じゃなかったのに、強制的に外に引きずり出されて……だから僕、こんなみすぼらしい姿のままだ。もう、髪の毛しか取り柄がない」

 子供は自分の身体を見下ろして、ため息をついた。

「木、って、さっきも言っていたね」

 少女は子供の髪に触れて、指で梳いた。子供は少女の指先を脇目でじっと見ていた。

 ふと少女は、自分はどうして、この子供の髪にはためらいなく触れてしまっているのだろうと思った。妹や弟達に触れるときには、愛しい気持ちと不快な感覚が渦巻いて押し寄せて、触れるのを一瞬ためらってしまうし、用もないのに触りたいとは思わない。それに、少女が触れようとすると弟妹は決まって一瞬肩をびくりと震わせるのだ。それを見ると、よけいに不快な心地になる。悲しいという気持ちよりも、先に。

 青髪の子供は、少女を拒絶しない。睨んだり、裸を見られたくないとは言うけれど。子供の肌はまだ日差しにほとんど傷つけられていなくて、十分綺麗だと少女は思うのだった。しばらく動きを止めた少女の指とその顔を、青髪の子供は眉根を寄せて交互に見つめた。少女は細く息を吐いて、髪結い用の紐を歯ではさみ、子供の髪を両手の指で梳いて後ろ一つにまとめてやった。歯にはさんだ紐を片手で取って、その髪の付け根にぐるぐると巻きつける。そうしたら、髪に隠されていた子供の顔がようやく露わになった。少女は、子供の夕焼け色の瞳に見惚れた。自分よりもずっと背の低い、幼げなその子供は、思った以上に精悍な面立ちで――少女はまた、どきりとした。少女はしんと冷えた指先の冷たさをごまかす様に子供の頭皮に触れて、熱を分けてもらった。子供の頭をもう一度、ターバンでぐるぐる巻きにする。

「ええと、そう。木って何? この辺りに、木はもう生えていないよ。サボテンですらもう、見かけなくなって数年だ。この辺りに残っている植物は、あの緑の蔦だけ」

「そんなはずない」

 子供は間髪をいれずにそう言った。子供の眼に、ぎらぎらとした光が灯る。

「僕が、早すぎたと言え目覚めたんだ。この世界に木がないはずがない。そもそも、木がない星(せかい)なんてありえない。僕が落ちてきたそこに、木はあったはずだ」

 少女は言葉に詰まった。少女が知る限りで、水場の周りに木なんてものは一つもなかった。けれどもしかしたら、元々はあったのかもしれない。普通の植物は水場の周りに生える。事実、水場の岸には僅かな草が茂っているし、水底に沢山の藻があることも少女は知っていた。

「もしかしたら、もう誰かに切り落とされたのかもしれない」

 少女は、優しい声で言った。

「本当に、私達はあのあたりに生える木を知らないんだ。私が生まれた頃にはもう、この砂漠には一本の木もなかった。もしかしたらずっと昔はあったのかもしれない。誰かが飢えて切り落としたか、自然に枯れたか、……もう、それしか考えられないよ」

「そんなことない!」

 子供はかんしゃくを起こした。

「世界樹が本当に枯れたのなら、死んでしまったのなら、この星が今ものうのうと生き残っているはずがないんだ! 僕がこの砂漠とやらに辿りつけたのがいい証拠だ。かわいそうに、きっとこの熱い砂の底に埋まっているんだ。砂が多くて、息が苦しくて、出てこられないだけなんだ。きっとあるはずなんだ……僕はただ、僕のつがいに会いたいだけ……」

 子供は両の手で顔を覆った。少し離れた場所から、煩いぞと怒鳴られる。少女はそっと、端の方へと子供の手を引いて移動した。子供を座らせて、自分も屈む。

「木って言うのは、その……世界樹って言うのは、君のように人の姿をしているの?」

 少女は声を潜めた。

「そうだよ」

 ぐすん、と子供は鼻を鳴らした。指の隙間から覗いた橙色の瞳は、僅かな炎の灯りに照らされキラキラと輝き、揺れて見えた。

「僕と同じ。僕は花の蕾の中で長い時間をかけて育つ。彼も同じ。世界を支える大きな木の洞の中で、長い長い時間をかけて眠り続ける。僕たちは、神様が最初に作った人間だもの。君達なんて、その人間の真似事。本当の人間を模って生まれた、人形みたいなものなんだよ。だから、どうせ滅ぶんだよ。神様の決めた気まぐれなきまりのせいで、君は世界樹と僕が……宇宙の恋人が出会ったら、滅ぶようにできているんだ。彼が目覚めて、木の洞から這い出してくる頃、僕ら蕾は彼の眠る星(せかい)に蔦を伸ばし足場を作って、空から降りてくるんだ。そうして世界で一番綺麗な花を咲かせる。花が咲いたら、その匂いにつられて彼が僕を迎え入れてくれるんだ。そうして僕たちはようやく出会う。その時、世界樹の養分だったこの星(せかい)も、もう用済みだから滅んじゃう。まさか……最初に出会ったのが焦がれた恋人じゃなくて、人形の方だったなんて、って――」

 子供は、顔から手を離して、きゅっと口を引き結んだ。それから子供はしばらく少女の顔をじっと見て、不意に少女の頬に手を伸ばした。ひんやりとした指が少女の頬を、骨の縁を探す様に撫ぜる。少女は身を固くして、けれどその冷たさが気持ちいいと思ってしまった。子供の言っている言葉の意味がよくわからない。頭の中で、整理しきれないのだった。

 子供の手にそっと頬をすり寄せると、子供はぽつりと呟いた。

「よく、できてるね、人形も」

 その声音に、少女は少しだけぞくりとして瞬きをした。子供は眉尻を下げて、唇を噛んでいた。

「木を探さなきゃ……ごめん、忘れて。ばいばい」

 子供は少女の頬から手を離し、身を翻そうとした。外は満天の星空が広がって、砂漠を銀色に染め上げているだろう。洞窟の入り口から、コウコウと獣の唸り声のような風の音が潜りこむ。少女は温もりを求めるように、青髪の子供を後ろから抱きしめて引き留めた。

「だめだよ。明日連れて行ってあげると言っただろ」

 少女は子供の耳元でそっと囁いた。

「人間はね、凍えたら死んじゃうんだよ。だからもう少しだけ、ここにいて、私にお話を聞かせてくれよ。寂しいから、聞きたいな」

 青髪の子供は身を固くして、しばらく微動だにしなかった。少女がそっと腕を引くと、俯いたまま少女の後について、一緒に壁にもたれて座った。

 子供は心細いのだろう、と少女は思った。少女は子供の腕に自分の腕をからめた。あたたかい。

 少女は少女で、子供が何度も呟いた『滅ぶ』という言葉に、現実味がわかないでいた。頭の奥が微熱を孕んで、ぼんやりとしている。

「人形かあ」

 少女はぽつりと呟く。子供は少女の隣でびくりと肩を震わせた。長いこと、二人は一言も会話をしなかった。少女はぼんやりと、自分が人形で青髪の子供が人間なら、だから自分はこの子といて楽なのかもしれないと思った。お人形遊びをして苦しいのは、人間の方だ。泣き止まない弟妹を手作りの人形であやしつけるのは、とても苦しくて、つらかった。少女には、少女がかつて抱えた人形の気持ちが、少しだけわかったような心地がした。


     §


「夜空に星がたくさん浮かんでたでしょ」

 踏みしめる度舞い上がる砂に咳込みながら、子供はつっけんどんにそう言った。少女は子供の首の周りの布をもう一度巻きなおして、小さな口を隠してやった。子供がもごもごと何かを言う度、布の模様が上下に揺れる。少女はくすりと笑った。

「あの星のね、それぞれの周りにも本当は丸い星があるんだよ。それが世界樹の土壌。君たちのこの星も、その一つで、世界樹が育つためだけの材料なんだ。だけど世界樹の中で、その子が育つのにはとてもとても長い時間が必要だから、栄養だらけの星の上では、そのうち色んな生き物が生まれてしまう。君達もその一種だよ。あの、気味悪い蠍とかいうやつも、全部、全部。勝手にわいてきたんだ。僕らが出会ったら滅んじゃうのにさ。意味わかんない」

 滅ぶ、という言葉をよく使う子供だ、と少女は思った。まるで、その言葉で自分を刺しているみたいだ。少女は、子供の放つ言葉で一つも傷つきはしないのに。「これだけ言われて、なんで笑っているの?」と子供は目くじらを立てるけれど、少女にとっては本当に、現実味もわかず、どうでもいいとさえ思えることなのだった。

「私達の国はねえ」

 少女は、今日は珍しく薄らと映る白い地平線を見つめながら呟いた。

「昔は、異教徒の国だと言われて、弾圧されていたそうだよ。私達の信じる神様と、余所の国の信じる神様が違ったんだ。けれど神様が違うのに、二つの国の神様は同じように、最初に男と女の二人の人間を作っていた。……つまり、つがいとなる二人をね。それが、私達は私たち人間の祖先と信じて疑わなかったけれど、本当は君とその木の子供だというだけのことでしょう」

 子供は、少女の横顔を見つめながら、風が運んでくる砂粒に目を擦った。

「……神様は、蕾の子と木の子を作ってね、木の子の種を、宇宙いっぱいの星にばら撒いた。そうして蕾の子は皆手元に残したんだ。僕たちが、本当にちゃんと愛を遂げられるか見るため――悪趣味だけど、そんなこと言ったら僕は後で神様に蔑まれるだろうな」

 青髪の子供は俯いた。

「そうして、木の子が星に根を張って、充分に育ったら、僕達蕾の子を宇宙に投げるんだよ、神様は。僕たちは、つがいがどこにいるのかわからないまま彷徨う。宇宙は広くて、星を一つ見つけるのも苦労するんだ」

「ええ、あんなにたくさん星はあるのに」

 少女は目を見開いて、空を仰いだ。太陽の光が、目をつんと貫いた。

「……今は見えないけど。ほら、夜なら」

 少女は目を閉じて俯き、瞼を撫でた。

「だから、世界樹がいる星はその周りにある、光らない星なんだってば。空からは見えないの」

「ふうん」

「それに、すごく近いように見えて、本当は星と星の間には深い暗闇が広がっているんだ。だからなかなかつがいを見つけられなくて、枯れちゃう蕾の子だっている。つがいを見つけたら、僕たちは蔓を伸ばして、もう見失なわないように星を捕えるんだ。そして、木の子を目指して恐る恐る星に向かって下りていく。僕ら蕾の子の蔦に捕まった時点で、その星は滅びるって決まってる。星を支えた世界樹が、木の子を目覚めさせるために腐れて崩れてしまうんだ。支えを失った星は形を保てない。そこで生きていた生き物も死ぬ。植物も死ぬ。水も枯れる。大地は全てなくなる」

「ああ、だからこの世界は砂だらけなんだ」

 少女は、のんびりとした声で言った。

「話ちゃんと聞いてる? 僕の言ってることわかる?」

 子供は、喧々とした声で言った。

「わかるよ」

 少女はゆっくりと頷いた。

「来訪者達は、もうこの砂漠以外に人の住める土地はないと言っていた。全て海の底に沈んでしまったと。けれどこの砂漠も、水場はもうあの一つしかなく、植物も枯れ果てた。食べ物は蠍と蛇くらいのものだ。いつ飢え死にするか、焼け死ぬか、私達は常に死に怯えている。それなのに生まれてくる子供の数は耐えない。そうだ、肉がなくて、生まれてすぐに死んだ子供を食べた時もあったなあ。吐きたかったけれど、人間お腹が本当にすいていたら、吐くこともできないんだ。どうせ排泄してしまうのに、食べて栄養にしてしまう」

 少女の声は、擦れていた。

「あなたは……」

 子供は、静かな声で言った。

「同じ人を、食べちゃったの」

「食べるしかなかった。みんな食べていたし。食べないと死ぬし。食べないと、頭がおかしいと思われるし」

 少女は目を伏せた。風が運ぶ砂の粒が、睫毛に絡んでキラキラと涙の粒みたいに輝いている。輪郭はぼやけたまま。

「今は来訪者を迎え入れた私達も、そのうち食糧に飢えて、彼らを食べるんじゃないかな。私達は彼らを蔑んでいるから。実の子供さえ食べられるような人が、肌色の違う人間を同胞と思えるわけがない。今はまだ、蔦があるからそうならずに済んでいるだけ……君は、まだもう少し蕾の中で眠っているつもりだったと言ったよね」

 少女は子供の瞳を見つめた。子供は頷いた。

「多分、君の目覚めが早まったのは、私達のせいだ。私達は、空から蔦が伸びてきた時喜んだ。水と食べ物が降ってきたと思った。蔦の肌をナイフで削り、そこから垂れそぼる水を啜った。ぼろぼろになった蔦を切り、焼いて味付けして食べた。私達はこの数年間、そうして生き延びてきた。君は足場を失ったから、落っこちてしまったんだろう。きっと、咲いた君はさぞ美しかったろうに」

 少女は、首の布を引き上げて、鼻先まで覆った。

「本当は、君の生まれたあの蕾の残骸を拾って、持ち帰ろうかとも思った。花もまた私達にとっての貴重な食糧だ」

 子供はびくりと身体を震わせた。少女は子供と目を合わせて、反らした。子供の白い肌は、青みがかって見えた。

「けれど、できなかった。君のためじゃない。君も担いで、あの重たそうな花も抱えることは女の私にはできなかった」

 子供は、しばらく黙っていた。

「馬鹿みたいだ」

 少女は、鋭い声で言った。子供は顔を上げた。

「どうして?」

「どうせ今からみんな死ぬ。住む場所がなかったら死ぬしかない。なのに、私は弟の肉を食べたんだな。たった数年、生き延びるためだけに」

 子供が、息を飲んだのがわかった。けれど、毒を吐かずにはいられなかった。どうしてこんな、焼石のような心を持て余すのか、少女にもわからなかった。

「もっと早く来てほしかった。そうしたら、私は弟を食べずに済んだだろう。弟か妹か、性別さえ分からないまま焼かれたあの子も食べずに済んだ。口減らしをするくらいなら、どうして睦むのだろうと何度思ったことか。人間はね……そう、君の言うところの人形は、苦しければ苦しいほど快楽に走る存在らしい。まあ私には、あれのどこが気持ちいいのかわからないけれど」

 少女は砂をそっと踏んだ。

「そして私は、口減らしをするなら自分が死ねたらどんなにいいかと何度思ったことだろう。けれど死ぬのは怖かった。あんな風に食べられてしまうのは怖い。私が水汲みを始めたのは、水さえあれば誰よりも長く生きられるからだ。もし、あの洞穴の誰もが飢え死にしても、私だけは、私だけがこの水場に一人で辿りつける。そんなこと、あいつらはきっと思いもよらないな。私だけが、世界でたった一人きりで、最後まで生き延びる。誰にも食べられずに、私は私の身体で死ねる。この砂と溶けて――まあ、蟻地獄に喰われてしまうかもしれないが、それはそれでも構わない。虫けらに喰われることなんてなんともない。私は、私と同じものに食べられたくはない。この砂の茫漠が私の墓場だ。私の苦しみは、直に終わるのか。なら、怖くはない。君は、私がこの星の滅びを穏やかに受け止めているから、気味が悪いのかい?」

 少女はくすりと笑って、子供の頭を撫でた。

「私ね、君からその話を聞いて、馬鹿らしくなって、同じくらい安心したのさ。ああ、やっと私は死ねるのかってね。この砂に溶けて逝けるのかって。それが、快楽ではなく純粋な愛のためだというなら、幸せだとすら思えるね。私は人間の――君達で言うところの人形同士の愛なんて信じないけれど、君のような綺麗な人の恋なら応援するよ。さあ、ついたよ。水場だ。砂の中に埋まっているかもしれないなら、探そう。非力な私では、何の力になれないかもしれないけれど」

「……あなたは、恋をしたことがないの?」

 子供は、擦れた声で呟いた。

 少女はきょとんとして、水場を指さした腕をゆるゆると下ろした。心なしか、子供の頬は先刻よりも赤く色づいていた。自分を見あげる夕焼け色の眼差しが、美しい。少女は腰や腹がぞくっとしたのを感じて、子供から一歩距離をとった。

「ないよ」

 少女はぶっきらぼうに答えた。

「怖くて」

「そう。実は、僕もだよ」

 子供は、へらと笑って俯いた。

「僕にとってのよすがが木の子ってだけで、僕は恋もまだ知らない。だって生まれたばかりだもの。目覚めたばかりで、初めて出会ったのはあなただった。恋なんて知りようがないよ。あなたと同じなんだ。僕だって神様に対して憤ってて」

「どうして憤るのさ」

 少女は、子供の手を引いてオアシスの岸辺に辿りついた。

「だって、」

 子供は、泣きそうな声で言った。

「人形がこんなに綺麗だなんて知らなかった」

 少女は首を傾げた。今しがた、自分はこの世界の人間の醜さについて、吐きだしたつもりだった。己の狡さを吐露したつもりだったのだ。人形という名にふさわしい生き物なのだと。

「私達は綺麗じゃないよ」

「綺麗だよ。熱くて、気持ち悪くて、綺麗だ。そう……そうだ、この砂の景色みたいだ」

 子供は不意に、恍惚とした眼差しで、地平線を眺めた。

「砂漠の色は、緑色」

「昼間だからね」

「もう少したら、赤くなるかな」

「そうだね」

「僕ねえ、昨日、あなたの肩に担がれて、沈む太陽をずっと見つめていたんだ。砂漠の色がどんどん変わっていって、綺麗だったなあ。僕の足を簡単に焼く砂なのに、すごく綺麗だった」

「そう」

 少女は岸辺に屈み、左手を水に沈めながら右手でそっと熱い砂を撫でた。指先にちくちくと痛みが走る。

「……木を、探さなきゃ」

 思い詰めたような声が降ってきて、少女は顔を上げた。子供は、先刻の表情とは打って変わって、青ざめた顔で自分の影を凝視していた。

「僕は……僕は、恋を知りたくてここに来たんだから……」

「そうか」

 少女はくすりと笑って立ち上がり、壺を逆さまにして、子供にざぶんと水をかけた。子供の白い肌を雫がつたう。青い睫毛に、玉のような雫が引っかかっている。子供は呆然として少女を見あげた。その表情が、少女にはとても愛らしく思えた。少女は笑ったままもう一度壺に水を汲んで、自分にもかけた。それを繰り返す少女を、子供はただぼうっとして見つめていた。

「ねえ……」

「うん?」

 子供の擦れた声に、少女は壺を抱えたまま振り返った。

「あなたは……水をここで飲めるのに、蔦を傷つけたりした?」

「はは、それ、どんな答えがほしいの?」

 少女は笑った。子供は顔を真っ赤に染め上げた。まるで夕暮れの砂漠のようだと少女は思った。

「ぼ、僕は、なんでも……」

 しどろもどろになりながら手を振って、子供は俯いた。子供の爪から弾かれた雫が、少女の頬にも跳ねた。

「覚えてない」

 少女は正直に答えた。壺の口に布を被せて紐で縛る。

「蔦の水を、誰か大人に飲ませられたかもしれない。蔦が初めて伸びてきた頃、私はまだ幼かった。だけれど、ぼろぼろになっていく蔦を見ていたら、サボテンもそうしてなくなったのになあって不快だった。神様が私達に与えた最後の食糧かもしれないのに、今食い散らかして、無くなったらどうするつもりなんだろうって」

「食糧……」

 子供は、しゅんとしたような声で呟いた。

「だから私は、水を汲みに来た。自分からあの蔦にナイフを突き立てたことはないよ。ここで水を飲むほうがずっとおいしい。たくさん飲めるしね。これが私だけの特権なの」

 少女は掌で水を掬って、飲んだ。こくりと喉の骨が皮膚の下でゆれる。それをじっと見つめながら、子供はまた顔を赤く染めた。

「あなたは……正直な人だね」

「神様の子供に嘘をついたところで、しょうがない」

「ふふ」

 子供は、なぜか幸せそうに笑った。頬に手を当てる仕草が愛らしい。少女も微笑んだ。二人はしばらく、見つめ合っていた。やがて子供は、我に返ったようにはっとして顔をこわばらせ、俯いた。

「木を、探さなきゃ……」

 子供は、また暗い声でそう呟いて、吹きすさぶ砂の風を睨んだ。それを言う度に子供の顔が曇ることが、少女には気にかかるのだった。


     §


 それからの日々、少女と青髪の子供は毎日のように水場に通い詰めた。少女にとっては、いつもの日課をこなしているだけのことだったし、そこに連れが一人増えた程度の事だ。何も変わらないと思っていた。子供の「このあたりにいるはずなんだ!」という根拠のない言葉を鵜呑みにして砂を掘り進めるのは、無謀だなと少女は思っていた。だから少女は、自ら子供に手を貸さなかった。元々、頼まれないことはやらない主義だったから。

 子供は子供で、木がオアシスの近くにあると信じていながら、どうすることもできないでいるようだった。「僕がここにいればきっと見つけてここに枝を伸ばしてくれるはずだから。そしたら僕はその手をつかめるから……」と、酷く小さな声で子供は呟くばかりだった。子供は少女に、協力してとは頼んでこなかった。助けを求めることを思いつかないでいるのか、手を貸されたくないのか、少女には判別がつかなかった。少女は、子供の気を紛らせようと意味もなく子供に水をかけた。途中から水の掛け合いになって、日が翳るころには二人ともはしゃぎすぎてくたくたになった。

「どうやって木を見つけるか、何も考えはないの」

 オアシスの畔でしゃがみ込んだまま、ぼうっとして砂めく地平線を眺めるだけの子供のつむじに、声を落とす。子供は少女の顔を見上げて、その肩口から差し込む日差しに目を細めた。

「何も……」

 子供の答えに、少女は溜息をついた。

「舞でも踊ってみる?」

「舞?」

 少女の言葉に、子供は首を傾げた。少女は首回りの布を引き上げて口元を隠した。

「見ててね」

 少女は鼻歌を歌いながら、爪先とかかとを交互にあげてその場でくるくると回って見せた。腕を伸ばして、腰から体を折って、足を上げて。爪先で跳ねると、砂がぶわりと舞い上がる。少女はぎゅっと目を閉じた。目の中に砂が少しだけ入ってしまった。

「こういう、の」

 少女は舞を踊るのをやめて屈んだ。膝を砂につけて、長い指を水に浸して目を洗う。少女の仕草を、子供は瞬きもしないでずっと凝視していた。少女は何度か目を指で擦った。

「雨乞いの舞だけれど。まあ、こんなものやったって意味がないと、肌の白い人たちがそう言ったんだ。だから私達はもう踊らなくなった。けれどね、時々、こうして一人で体を慣らしていたんだよ。ここでね。水面は鏡みたいで、自分の姿を見るのにちょうどいい」

 少女は両手で水を掬って、ばしゃりと顔に浴びせかけた。雫の垂れた顔をそのまま子供に向けると、子供はなぜか開けてた口をぱちりと閉じて頬を染め、ぷい、とそっぽを向いた。

「雨乞いの舞を僕が躍るの?」

「だって、木は植物だから、水が必要だろう? だから君はこの、池の真上から落ちてきたのではないの」

「一人で踊るの、恥ずかしいよ」

「私が教えてあげるのだから、私も一緒に踊るさ」

「なら、いいけど」

 子供は首まで赤く染めたまま、少女の伸ばした手をとった。それからしばらく、少女と子供は二人で踊りの練習をした。宝石のような水面に、二人の姿が揺らめいて瞬き続ける。キラキラ。キラキラ。少女と子供の散らした汗も輝く。喉が渇いて、二人で手に水を掬って飲みこむ。子供の指の隙間から漏れた水がその白い腕を伝って、肘からぽたりと落ちて、またキラキラ輝くのだった。少女はふと、自分の手を見つめた。指先に残った水滴もまた、キラキラと輝いている。揺れる水面は光の網目を編み続けては解いて。押し寄せては引いて。次第に少女の鼓動は早くなった。少女は、湿った息を吐いて、吸った。とく、とく、と鼓動が落ち着いて行く。「どうしたの?」と言って、子供が少女の顔を覗き込む。子供は手の甲で濡れた口を拭っていた。拭った唇も、濡れた手の甲も、日の光を浴びてキラキラと輝く。少女は子供に見惚れながら、ずっとこうしていられたらいいのに、と息だけで呟いた。目を閉じると、小さな雫の跳ねた睫毛が雫を頬に落として、ひんやりとした。少女ははっと我に返った。目に、ぎらぎらと煌めく砂の金色が飛び込んでくる。

 少女は胸を押さえた。おかしい。私は、どうかしてしまったのだろうか。ずっとこうしていられたらいいのに? 子供が木に出会ったら世界が滅んでしまうから、今になって命が惜しくなったのだろうか――少女は口元を手で覆った。どうして、そんなこと。本当は、終わりが来るのが怖いのだろうか? 今になって、血を分けた家族がいなくなってしまうことが悲しいのか。それとも、蕾の子供とこうして笑いあえなくなることが、悲しい?

 オアシスで水を汲んで、一人でぼんやりして帰るだけだった日常。キラキラと輝く湖を、宝石みたいだと零せる相手はいなかった。砂漠の色の移ろいが美しいのだと、教えてやれる人もいなかった。子供は、少女の心の隙間にするりと入ってきた。煌めく水が宝石のようだと笑い、砂の色が美しいと頬を染める。少女がぼうっとしていると、どうしたのと尋ねてくる。少女の世界はそれまで、砂と水の蠢く静かな音だけだった。たまに浴びせられる言葉は罵倒。だから少女は、人の声が不快だったのに。

 少女の中で、言葉にしがたい想いが広がっていく。子供は木が気にかかって少女についてきているだけで、心を許せる相手が少女しかいないだけで。だから傍に纏わりつくのだろうけれど――

 子供はそれから、笑うことが増えた。その分、木のことを口に出すことが少なくなった。それが気にかかって、少女は聞かれもしないのに子供に木の話を振った。何か手伝おうかと。頼まれないことは、やらない主義だったのに。

 そんな言葉をかけてみて初めて、今まで一度も手伝ってやろうと思わなかった自分は、なんて薄情だったのだろうかと少女はぼんやり考えた。どうもこの子供のことになると、少女は今まで知らなかった自分を自覚させられるらしかった。「砂を掘ってみようか」――少女のその言葉に、子供は頷かなかった。「あなたの手が傷ついてしまう。それは……いやだ」と子供は小さな声で言って、膝頭に顔を埋めた。

 胸がぎゅっと締め付けられる。かっと頬が熱くなって、少女は戸惑った。どうして頬が熱くなったのか、自分でもよくわからなかった。子供が悲しげに顔を歪めたことだけが、悲しい。――きっとこの子は、恋人に会えないから苦しいのだ。

 少女は、子供の悲しみにもっと寄り添いたいとさえ思い始めた。どうしてそんなことを思ってしまうのか、自分でも答えが見つからない。ただ、子供の心に寄り添えない理由だけはよくわかるのだ。少女は今まで、誰かに焦がれたことがなかったから。

 朝起きて、身支度をして。少女が動き出すと、子供は飛び起きて、少女を追いかけてくる。少女は子供に外套を投げてよこす。子供はそれを身に着けて、少女の左手をそっと握る。二人で洞窟の入り口に向かって、砂の浸みる風に目を細めて歩き出す。日はまだ昇ったばかりで、伸びた二人の影は薄い灰色をしている。その間、二人は一言も言葉を交わさない。子供は、まるで当たり前のように少女についてきて、洞窟に帰ってからも必ず傍にいる。ただそれだけのことだ。幼い弟妹が、まだ少女が冷たく接する前、少女について回っていたのと同じことのはずだった。初めて出会った人間。唯一話せる人形。蕾と木の真実を、静かに受けとめたただ一人。そんな少女に、青髪の子供がなつかないわけがないのだ。だから、それだけの理由なのだと少女は自分に言い聞かせていた。それでも、手を握ってくる子供の骨ばった冷たい手にどきりとしたり、澄んだ橙色の目で見つめられると鼓動が早くなる。子供は、少女よりも随分と背が小さかったけれど、時折大人びた表情で少女の身体を気遣うのだった。

 月のものが来た日。少女はお腹が痛いと蹲っていた。どうしたの、どうしたの、と慌てる子供に、人間の女の子の体の性だよと、少女は擦れた声で応えた。蕾の子にも木の子にも、性はないという。彼らは子供を作り、命をつなぐことを目的としていない。だから性が必要ないのだ。子供は少女の語った男と女の話、子供の生まれ方、育て方を、ぼんやりとした表情で聞き入った。血で汚れた下着を水で洗う少女の隣に、子供ははりついていた。それが少女には気恥ずかしかった。子供は、少女の血が滲む薄赤い水をじっと見ていた。

 子供が、洞窟内の幼い子供達に興味を示すようになったのはそれからだ。その頃には子供は青髪と瞳を人々にも臆せず晒していて、他の大人達もさして気にしてはいないようだった。自分と見た目は年端の変わらない子供たちと戯れる青髪の子供を眺めながら、少女は少しだけ悲しくて、けれど心の中にほんのりと温かさが広がっていくのだった。幼子が何か可愛らしい仕草をすると、共感を得ようとでもするかのように少女を振り返る彼の顔は、とても綺麗だと少女は思っていた。

 やがて、子供は少女の傍にも幼子たちを連れてきた。少女は、幼子に触れるのを躊躇った。子供が耳元でくすりと笑って、「あなた、すごくかわいい顔してる」とささやいたから、腰がぞくりとして少女は座り込んでしまった。わけもわからない。

「あなたはきっと、子供が好きなんだ。だから彼らを食べたことに傷ついているし、僕にも優しくしてくれる」

 ある日子供は、口元に大人びた微笑を浮かべながらそう言って、膝を抱えて焚火のそばに座る少女を見下ろした。

「そう……かしら」

 少女はぼんやりと呟いた。そうかもしれないとも思うし、違うような気もする。少女が子供を連れてきたのは、庇護欲からではなかった。けれどその理由の如何など、些細なことだとも思っている。いつの間にか一緒にいることが、自然になったけれど――少女にとっては今でも、青髪の子供は“自分の日常に紛れ込んだだけ”の存在のはずだった。けれど、子供はその理由に妙にこだわった。

「あなたは子供たちに優しくしたくて、けれど大きなわだかまりがあってできなくて、そこに僕なんて子供が降ってきたから、優しくしたくなったんだろ。だって僕は人間じゃない。人間よりもっと上の存在で、あなたは僕のことを食べ物としてみなくていいわけだし」

「私は、別に他人のことも食べ物だとは思っていないけれど」

 何度目になるかわからない、理由のないかんしゃくだ。少女は子供を宥めるようにやんわりとそう応えた。

「ねえ、君は一体私に何を言ってほしいの。どうしてかんしゃくを起こすの」

「あなたが血なんて見せるから」

 子供は声を荒げた。少女は眉根を寄せた。

「……勝手に見たのは君だよ。私はいつもの日常を送っていただけ。じっと見つめてきたのは君だ。私が見てくれだなんて言ったわけじゃない。そもそも、見られたことは少しは恥ずかしかった」

 少女の言葉に、子供は顔を真っ赤に染め上げた。

「恥ずかしかったの?」

「うん。でも、君はそもそも神様の子供だ。私達のように性もないし、恥ずかしがることじゃあないなと思った。だから何も言わなかった」

「そういう、ところが……」

 子供は俯いた。

「なんだよ」

「わからない……僕、本当に、どうかしちゃったんだ。ああ、そうだ、悪かったよ。あなたを人形だって言ったこと、まだ気にしてる?」

「そんなこと……」

 少女は洞窟の天井を見あげた。幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣がランプの灯に照らされて、子供の瞳と同じ、鮮やかな橙色に輝いている。

「気にするとか、そういう次元の話じゃないでしょう?」

 少女の言葉に、子供はすっと表情を消した。

「僕は……あなたと僕は、同じだと思ってるよ。僕には性がないだけ。あなたが求める、男になれないだけ」

「私は別に、求めていないけれど」

 少女は困惑した。子供の放った言葉の意味を、図りかねていた。

「もう、寝よう。今日は長いことオアシスにいて、太陽の光をたくさん浴びたから君も疲れているんだ。きっと」

 少女は嘆息して、掛け布をとるため立ち上がった。子供は、大人達が身を寄せ合う一角を睨みつけていた。

「あなたはあれを気持ちが悪いと言ったけれど、」

 子供はぽつりと呟いた。

「僕は、綺麗だと思うよ」

「そう」

 少女は子供に布を投げた。それを片手で掴んで寝転びもせず、少女が子供の傍に腰かけるまで少女を睨み続けていた。

「僕が花開くまで蕾の中で眠れていたなら」

 暗闇で囁かれた言葉に、少女は微睡の中で耳を傾けた。

「あなたと同じくらいの背格好だったのに」


     §


 その日も、少女は子供と池の岸に腰かけ、水を汲んでいた。壺の口を布で塞いで、縛って。久方ぶりに髪の毛でも洗おうと思いつき、少女はターバンを外して頭ごと水につけた。頭皮に冷たい水の雫がつたって、気持ちがいい。少女は小さな吐息を漏らした。ふと、髪の毛が引かれる感触がして、少女は閉じた目蓋を開いた。

「なに、してるの」

「絡まっていたから、梳いてあげてるだけ」

 子供は、少女の髪に指を通して、撫でていた。冷え切った肌に子供の温かい指が触れる。太陽に晒した首筋に熱がともった。少女は両の腕で自分の肩を抱いた。

「や、めて。もういい。拭くから」

「そう」

 子供は静かにそう言って、立ち上がった。少女はほっとして、布で髪を乱雑に拭き、頭を振った。雫の跳ねる音がする。脇をすり抜けた影を目で追って、少女は振り返った。喉から思わず小さな声が漏れた。

 白い肌に、宝石の雫がついている。子供は服を脱いで、オアシスの中で水を浴びていた。日の光をさえぎるために、布を一枚だけ被って。少女は瞬きを繰り返した。じっと注がれる視線に気が付いたのか、子供は顔を上げて少女と目を合わせた。

「なに?」

「……珍しいね。今日は私に裸を見られて嫌じゃないの」

「ああ……あれは、もういいやと思って」

「よくわからない」

 子供は、すっと目を細めて少女から視線を逸らした。少女は首を傾げた。

「どうして僕は、あなたと同じ体をしているんだろう」

 子供は、雫の垂れる肌を撫でて、吐き出すように言った。少女は笑った。

「ああ、同じじゃないよ。君にはおへそがない」

 子供は眉根を寄せた。

「それ、大事なこと?」

「大事さ。へその緒と言ってね。母親のおなかの中で、子供と母親がつながっていたところの痕なのさ」

「あなたも、いつか誰かの子供を産むの。おへそのある子を」

 子供は、少女を睨んだ。少女は目を瞬いた。

「いつかも何も……どうせそのうち滅ぶんだろう? じゃあ、子供を産む意味はないな」

「そうじゃなくて――」

 子供は、擦れた声で呟いて、苦しげに顔を歪めた。白くて細い指が、子供の頬を這って目を覆う。子供の頭から布が落ちて、水面にぶつかった。布はじっとりと暗い色の水の染みを広げていく。子供の肌が紅く染まっていく。

「そうじゃなくて……ああ、このまま、このまま木が見つからなかったら、あなたは僕と一緒にずっといてくれるの。わからないよ。わけがわからないの。この星がまだ生き続けたら、あなたは誰かの子供を産むの。僕はどのみち、取り残されてしまうというの」

「何を言っているの」

 少女は服を一枚脱いで、子供の身体を太陽から隠した。

「ほら、もう上がって。肌が火傷しちゃう」

「僕のこの身体も、肌も、なんのためにあるの。つがうためでもなくて、ただ美しさをひけらかすためだけなの。僕と木はつがいなのに、あなたたちみたいにつがうわけじゃない。ただ姿を認めるだけなんだ。それで一体、何が恋だというの。あなたに肌を見せても、おへそがないだなんて、ただそれだけ――」

「あがってったら」

 少女は子供の手を引いた。子供はいやだいやだと駄々を捏ねるように首を振って、少女の腕を掴んだ。

「火傷したっていいよ! 痛くたっていい。意味がない。意味がないよ」

「落ち着いて。木に会えないから、きっと君は今さみしいんだ」

「またあなたは、そんなことを言う」

 子供は、少女の腕を引いた。少女の身体がぐらりと傾く。自分よりも背の高い少女の体を、子供は難なく受け止めた。

「冷たい……」

 布から染み入ってくる冷たさに、湿り気に、少女は擦れた声で呟いた。

「なに、してるの」

 少女の声に、子供は答えない。子供の頭は少女の胸の高さにある。少女は濡れて濃い青に輝く少年の髪を見つめた。少女の足は、太腿まで濡れてしまった。

 少女は、子供に抱きつかれていた。否、恐らくは、抱きしめられていた。子供の肩は震えていた。少女は、子供の涙を初めて見た。子供の涙もまた、金剛石の欠片のようだ。

「木に会えない方がいい。怖いんだ。僕はあなたのことがこんなに好きなのに、好きなんだ。好きなんだよ。だって初めて出会ったんだもの。あなたが一番最初に僕の心に飛び込んできた。ずっとずっと一緒にいたじゃないか。これが恋じゃなかったら、一体他の何が恋だというんだよ。それでももしかしたら、木に出会ってしまったら、僕も木を愛するのかもしれないじゃないか。あなたは僕を諦めて、死んでしまうかもしれないじゃないか。そしたら僕は耐えられると思う? わからないよ。怖いんだ。知らないことを知るのが怖いんだ。知らないことを想像し続けることが、もう怖い。でも僕があなたを選んだら、この星がもうしばらく生き残るなら、あなたは誰か他の男にとられてしまうんでしょう。だってあなたは、男の格好をしているけれど、やっぱり女の子だもの」

「私は……子供は産まないよ。産みたくないんだ」

 少女は擦れた声で呟いた。世界が蒼く染まったような気がした。

「それは、子供を食べたり、食べさせたりしたくないからだろ!」

 子供は叫んだ。熱い息が少女の胸にかかる。

「それがなかったら、あなたは子供が好きなんだ。それがなかったら、あなたがつがいを拒絶することもなかった。男の格好をすることもなかった。あなたはただ、好きなものから逃げてるだけなんだ。そこで、世界の終わりを告げる僕なんかが現れたから、このまま逃げおおせるだなんてほっとしてるだけ。あなたは、この世界がもっと生きやすくて、食べ物もあって、愛してくれる人がいたら、きっと子供を産んでいた」

「決めつけないで。私はこの生き方、嫌ってない」

「でも、僕みたいに怖がってもいないだろ」

 子供は、少女の腕を一層強く掴んだ。

「僕はあなたと同じじゃないから、あなたと一緒に生きられない。僕があなたといたらいつか誰かにとられちゃう。でも僕が木と出会ったら、僕はあなたを永遠に失うんだ。苦しい。苦しいよ。恋がこんなに苦しいなんて、思わなかった。最悪だ。大好きだ」

 少女はくずおれた。その身体を、子供はそっと抱き留めた。少女の肩に子供の顎が乗る。少女の胸には、揺れる水面がぶつかるのだった。

 子供は、少女の首に腕を回して、少女の耳たぶをそっと食んだ。少女はびくりと肩を揺らした。子供は温かい息を少女の首筋にかけて、ざぶりと音を立てて岸辺にあがった。少女はそのまま、水に顔をつけた。視界が青に染まったまま、揺らめいている。ぽこぽこと、七色に光る泡が少女の頬を撫でてどこかへ消えていく。少女は首筋までずぶずぶと池に浸かった。青。青。青。世界中の人達が永遠に失ったというその色に、少女は今包まれている。少女は冷たい水の中でそっと自分の唇を撫でた。体がずぶずぶと沈んでいく。気持ちがいい。心地がいい。青、青、青。一面の青。煌めく色。

 靴底が、水底の藻たちを踏みつぶした。少女はすべって尻もちをついた。けれどすぐに、尻は水底から離れて浮いた。少女は口から泡を零した。蜘蛛の巣のように絡み合った藻の奥に、茶色の固い何かを見つけた。

 枝だ。小さな枝。木の枝。木の、小さな芽。

 どうして思いつかなかったんだろう。木は、水底で眠っていたのだ。ずっと藻に絡め取られて、身動きが取れなかったのに違いない。水底を覗こうだなんて、思いつきもしなかった。ずっと砂の下にあると思い続けて、木が蒼い水面を透かして見上げている場所で、少女と子供は心を通わせていたのだ。なんて滑稽だろう。

 少女は指で藻を千切って、そっと木の芽に触れた。

 ――ダイスキダ。

 蕾の子の甘い声が、耳の中に残っている。消えてくれない。少女は声にならない悲鳴を上げた。喉が痛くて、少女の周りで水が揺れる。

 ああ、ああ、と少女は声を上げた。こぽこぽと唇の隙間を小さな泡がすり抜ける。

 あとは、衝動だった。

 少女の手は木の芽をむしり、口に入れていた。少しの塩と、甘さと、緑の匂いが口の中に広がる。少女はそれを飲み下した。誰かが少女の腰に手を回して、引き上げる。

 音が帰ってくる。砂を巻き上げる、風のコウコウとした音が。少女は口からだらだらと水を零しながら、蕾の子を見あげた。服を無造作に羽織っている。結局子供も、腰から下がずぶ濡れになってしまっていた。子供は乾いた袖で少女の顔を拭いた。少女はゆるゆると瞳を揺らして子供の目を見た。幼子のような自分の顔が、その橙色の瞳に小さく映っている。子供はふわりと笑った。幼さの残るその顔には、大人びた眼差しが浮かんでいた。

「大丈夫? まさか溺れるなんて思わなかった。ごめんね、手を離して」

 子供は、砂の上に座り込んだままの少女の首に腕を回して、少女の濡れた髪に頬をすり寄せた。そうして、優しい声で囁いた。

「生きててよかった」

 少女は、自分の喉を両手で押さえて、泣いた。

 蕾の子は少女を抱きしめた。抱きしめて、人間の男と女がそうするように、少女にそっと口づけをした。その時の幸福を、少女は忘れない。蕾の子の唇は柔らかな熱を孕んで、何度も何度も少女の唇をついばみ、額に、頬に、首筋に、指先に、何度も何度も優しさを落としていった。気が付いた時には、満月が空いっぱいに砂漠を見下ろしていた。少女は、このまま夜の砂漠で、二人で凍え死ぬのもいいのではないかとぼんやり考えた。薄赤に輝く砂は、まるであの世とこの世を繋ぐ花畑のようだ。

「月が、赤い」

 少女は震える声で呟いた。

「え?」

 子供は訝しげに眉根を寄せる。

「あなたと同じ瞳の色をしている。月が、近づいてる。私の方に、近づいてきた」


     §


 大地が割れる。

 割れた隙間の空洞へ、赤く染まった砂がさらさらと零れ落ちていく。

 大地が傾く。

 砂がさらさらと流れていく。音は静かで、けれど砂の雪崩は人々を簡単に飲みこんで。

 砂漠の裂け目から、人を丸呑みできそうな蟻地獄が這いずりだした。月明かりに照らされた黒い肢体は忙しなく動き、けれど砂は無慈悲にその巨大な虫をひっくり返す。虫が手足をばたつかせる中、砂はそれを生き埋めにしてしまった。

 水場は、とっくに砂で埋め尽くされていた。砂漠の裂け目から、水飛沫が上がる。その縁は、少女や青髪の子供の肌に切り傷をつけた。しょっぱい水。砂漠の下に押しとどめられていた海水が飛び出して、最後の楽園を飲みこもうとしている。

「何? 一体、どうして急に――」

 蕾の子は、少女を一層強く抱きしめながら声を上げた。少女の肢体は力なく垂れ落ち、子供が支えていなければすぐに砂の雪崩に引きずり込まれてしまいそうだった。

 遠くから人の悲鳴が僅かに聞こえ、すぐに砂嵐に揉み消された。瞼を開けることも叶わないほどの強風。砂の粒が、二人の肌を切り裂いていく。

「時が来たんだ」

 不意に、少女は呟いた。命のない人形のようにだらりとしていた少女の目に、光が灯る。蕾の子ははっとして少女の目を見つめた。

「ごめんね、私は君のつがいを見つけて、食べちゃった。またおんなじことをしちゃったんだ。軽蔑するだろう? それとも、それでも私を愛してくれる?」

 蕾の子は、声も出せなかった。

「私の中で、木の子供が溶けていく。私とこの子が一つになる。自我はどうしよう? 私が表でも、木の子供が表でも、どちらでもいいよ。私はあなたの傍にいたいだけ。他の誰のものにもなりたくないんだ。ただそれだけだったんだ」

「なんてばかなことをしたんだ!」

 蕾の子は叫んだ。吹きすさぶ砂の粒は、風で弾かれた子供の涙にくるまれてどこかへ消えた。

「あなたが木の子になったって、それはあなたじゃないじゃないか! 僕の愛した人を返して! ねえつがい、どうか返して、何でもいうことを聞くから。君の奴隷になったっていいから」

「僕の愛した人を返して……?」

 子供の言葉に、少女はぽつりと呟いた。

「はは……はは……」

 少女は小さく笑う。その青い目は、同じだけ青い満天の星空を見つめていた。

 少女の双瞼から、涙が零れる。赤い月はいつの間にか砂の海に沈み、星明りにのみ照らされたそれは、僅かに白い輪郭を揺らめかせていた。

 やがて砂の大地は海に飲みこまれ、星の光の殆ど届かぬ暗い闇の洞に二人は揺蕩っていた。かつて自分たちが生きた球体の星が、端の方からぼろぼろと崩れていく。音もなく。色もなく。

「ああ、君の追っていた私は理想だったか」

 少女はぽつりと呟いた。

「何を言っているの」

 子供は泣いた。

「女というのはね、時に苛烈な感情を抱くものなんだって。私はどこまでも女だった。そして君は、それを解しない、性無き神の子だった」

 少女は宇宙の暗闇を踏んで、蕾の子から手を離した。

 少女は鼻歌を歌う。くるくると舞う。楽しそうに、少女らしくけらけらと笑って。

「ああ、やっと出会えたねつがい。待ちくたびれた。木の子がそう言っているよ。むしろ私に食べられてよかったってさ」

「あなたはそんなことを言わない」

 蕾の子は、目にあふれんばかりの涙をためて、少女を睨んだ。

 少女はくすりと笑って、そっと彼の頬に口付けた。子供は喉から声にならない悲鳴を漏らして、肩を腕で抱いた。子供の身体が少しずつ大きくなっていく。少年から青年へ。かつて蕾の子自身が、そうあればよかったと願ったように。

「ほら、これで君は私の恋人だ。性器はないけれど、私は女で君が男。よくできているだろう? 愛しているよ」

「あなたは……そんなことは、言わない……」

 蕾の子は、肩を抱いたままはらはらと涙を零した。身体は、痛みで悲鳴を上げている。意識を保つのもやっとだった。彼を繋ぎとめていたのは、ただ一つの希望だった。

「お願い、僕の大好きな人。今のあなたは、木の子、お前なんだろう。お前があの人の意識を食っちゃって、あの人のふりをしているだけなんでしょう? そうだと言って。あの人が、お前みたいなやつに変わってしまったなんて言わないで」

「その真実は」

 少女は不意に、舞うのをやめて、爪先で宇宙を撫でた。

「必ず君と私のどちらかを傷つける。あるいはどちらも。私は答えられない」

「ああ!」

 青髪の青年は、顔を両手で覆った。さめざめと泣いた。体中の水が枯れ切る程に泣いた。やがて彼は一株の青い美しい花になった。花になって、直ぐに萎れてしまう。

 花が枯れ切る寸前で、少女はその花の株を手に取った。花は枯れるのをやめた。ふるりと震えて、二度と動かなくなった。少女はしばらくその株を胸に抱いて、暗闇に座っていた。

 青い花は種を残さなかった。少女は花をしばらくまさぐって、茎の根元から一本一本千切った。花は少しだけ揺れた。

 少女は、かつて弟妹に聞かせた子守歌を歌いながら、花の茎をねじり、萎れかけの青い花冠を編んだ。少女の表情には、感情の一つも宿らず、その双瞼から涙がぽたぽたと零れ落ちるばかりだ。

 少女は、花冠を頭に乗せた。つま先立ちになって、ゆっくりと暗い空を歩いた。目を見開き、瞬きもしないでいたら、涙が浮かんできた。少女は銀河の煌きを瞳に納めた。たまった涙に、キラキラと光が反射する。

 少女は、青い花をそっと指で撫でて、目を閉じた。少女の目から一滴の涙が零れて、少女の頬と爪先を濡らした。



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花冠のパヴァーヌ 星町憩 @orgelblue

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