SIN

雪月風花

SIN

 冬の澄んだ空気を風が運んでいく。それがボクの体を優しく撫でる。心地よい刺激を受けて、ボクは目を覚ます。

 上から雀のさえずりが聞こえてくる。目の前に続く道路も、その両脇の家々の屋根も塀の上も、白に染められている。

 昨日は視界を遮るほどの雪が降っていた。今は降っていないけど、いつまた降り出してもおかしくないような分厚い雲が、空一面をモノクロ色にしている。

 ボクから一番近い家。その家の玄関の扉が、ガチャッという音を立てながら開いた。そこから小さな子供が二人出てきた。男の子と女の子。

 男の子は青い毛糸の帽子を被っていて、茶色いジャンパーを着ている。ジャンパーのボタンはしっかりと全部とめてある。男の子がしている布製の黄色い手袋は、指が五本とも別々に動かせるタイプのものだ。防水加工がされた銀色のズボンを履いていて、ズボンの裾は黒い長靴にすっぽりと覆われている。

 女の子は帽子は被っていなくて、そのかわりにピンク色をした耳当てを着けている。可愛らしいウサギのキャラクターがプリントされている、これまたピンク色のジャンパーを着ている。手には男の子と同じタイプの白い手袋をしている。水色のズボンは男の子のズボンと同じで、防水加工がなされているもののようだ。女の子の長靴は、雪景色によく映える赤色だ。

 雪に足を取られて転びそうになりながら、二人はボクのいる道路に出てきた。二人の膝から下は、雪に隠れて見えなかった。

 二人はその小さな手で雪を野球ボールくらいの大きさに丸めて、それをお互いに投げ合い出した。男の子の投げた雪玉が女の子の顔に当たった。女の子も負けじと雪玉を投げる。しかし、男の子は上手く避けて、そしてまた雪玉を投げる。雪玉を作るためにしゃがんでいる女の子の背中に当たった。女の子は立ちあがりながら、出来たばかりの雪玉を投げる、と見せかけて投げなかった。慌てて避けて雪に足を取られて転んでいる男の子の顔に、白い塊が当たって壊れて、破片が周りに飛び散る。顔に付いた雪を手で払いのけた男の子と女の子の目が合った。二人は楽しそうに笑った。

 その後も二人は雪玉を投げあったり、積もった雪をそのまま掛けあったりしていた。二人は遊び疲れて家に帰るまで、ずっと楽しそうにしていた。

 ボクも仲間に入れて欲しかったけれど、ボクはここから一歩も動けないから、それは無理だった。


 空は真っ黒。月はおろか、星の瞬きさえ一つも見えない。街灯。それ以外の光が無くなった世界。二人は今頃、家の中で何をしているのだろう? おいしいご飯を食べているのだろうか? それとも、もう暖かい布団の中で夢を見ているのだろうか?

 静かな夜の中、そろそろボクも寝ることにした。おやすみなさい。心の中で笑顔の二人に言った。


 目を覚ましたボクは驚いた。目がおかしくなっている。左目からは昨日と変わらない道路が見えている。しかし、右目が映し出しているのは道路ではなく、雲一つ無い蒼い空だった。

 どうして? と、考えていると、右目に女の子の顔が映った。女の子はボクの右目に手を伸ばしてくる。右目の視界が黒くなった。

 右目が、女の子の手が右目から離れていく様を映し出す。すると、右目は昨日と同じ道路を映し出していた。どうやら女の子が、右目を治してくれたらしい。お礼を言いたかったけど、僕は喋れないから言えなかった。

 女の子は玄関の側にいる男の子の方へと歩いていく。雪が邪魔をして、とても歩きにくそうだ。

 二人は昨日と同じ服装だったけど、男の子はスコップとバケツを持っていた。自分の背ほどもあるスコップと空色のバケツ。男の子はバケツを女の子に手渡した。

 二人は玄関の脇に雪を集め始めた。男の子はその大きなスコップで、使いにくそうにしながらもバニラアイスのような雪を掘る。女の子はバケツを雪の中に突っ込んで、そしてある程度溜まったら、手でバケツの中をぎゅっと押して雪を固める。その作業を繰り返して、バケツ一杯に固まった雪が溜まったら、玄関脇にその雪を置く。男の子は時折二人で集めた雪を、スコップで叩いて固めている。

 ボクはそれをじっと見ている。昨日もそうだったけど、二人とも手袋が濡れてしまっていて、手袋をしている意味がほとんど無いように思える。二人は時々手に、はぁーっと息を吐き掛けている。白い息は手に当たり、煙のようにすぐに空気に溶ける。

 男の子がスコップを白い地面に突き刺した。どうやら完成したようだ。二人は手を取り合って喜んだ。

 それは小さな雪の山だった。女の子が山の頂上に上り、座りながら下に滑る。男の子も同じことをする。それを二人は繰り返した。楽しそうに。繰り返した。そして、男の子がボクの頭の上に空色のバケツをのせて、二人は家の中へと入っていった。

 ボクの帽子と同じ色をした空。その空には、二人の吐いていた息のような雲が、ゆっくりと皆同じ方向に流れていく。ここから一歩も動けないボクは羨ましく思う。ボクの体と同じ色をした雲。もしかしたらボクの体と雲は、同じもので出来ているのかもしれない。それならボクも雲のように空を散歩出来るかなぁ? でもどうやったら出来るのだろう? わからなかった。


 太陽がボクの背中から頭を越えて、ボクの正面に来る。紅い太陽。ボクの目から見えるもの全てを紅く染めている。多分ボクの体も紅いのだろう。男の子と女の子の遊んだ跡も、照らされて紅い凹凸の陰影を創っている。そして、少しずつ黒くなっていく。


 今日も背中から光が生まれてくる。降り注ぐ光が影を作る。僕の影。ボクの体も空色のバケツも黒い。

 影が少しづつ動いて、ボクの影が、ボクの視界から消えた頃。楽しそうな声が聞こえてきた。

 玄関から楽しそうに話しながら出てくる。男の子と女の子と女の人。女の人はエプロンを男の子と女の子にひっぱられながら外に出ると、とても寒そうに自分の体を抱いた。男の子と女の子は、女の人を急かす。女の人はその場にしゃがんで、優しい笑顔で玄関のすぐ側の雪を手で集めだした。そしてそれを、おわんの形に固める。その様子を男の子と女の子は、じっと見つめている。

 女の人はエプロンのポケットから、小さくて赤い粒を出した。それを固めた雪に、二つ付ける。そしてまたエプロンのポケットに手を入れる。今度は緑の葉っぱを出した。それを二つの赤い粒の少し上に、二つ刺した。

 女の人はその雪で出来たウサギを、二人によく見えるように両手で持ち上げる。男の子と女の子は、実に嬉しそうにそれを見る。女の人はポケットから、赤い粒と緑の葉っぱを出して、男の子と女の子に渡した。

 二人は楽しそうに雪を集めだした。女の人はそれを微笑ましそうに見ながら、家の中へと戻っていった。

 二人は女の人と同じように、雪をおわんの形にして、赤い粒と緑の葉っぱをそれに付ける。男の子の雪ウサギはかなり大きかった。形もいびつだ。しかし、男の子は満足げに鼻の下を人差し指で掻いた。女の子の雪ウサギは小さかった。それをいくつも作っている。出来あがった小さな雪ウサギを、女の人が作った雪ウサギの周りに並べていく。

 二人はそれからも、飽きることなく雪ウサギを作り続けた。それをいろんなところに並べる。昨日作った小さな雪の山の上や、道路に。そうして、赤い粒と緑の葉っぱが無くなるまで作っていた。そして家の中へと戻っていった。


 雪で出来たウサギが、いつ動き出すかと待っていると、日が暮れ始めた。動けないのか、動かないのか。わからなかったけど、今日はいつもよりも寂しくない夜が過ごせそうだ。


 目が覚めると、すでに目の前では、男の子と女の子が遊んでいた。青空の中の太陽はもう、随分と高い位置にあった。

 二人は相変わらず楽しそうに遊んでいる。二人して真新しい雪の中に飛び込んでいる。

 ボクの背中の方から音が聞こえてきた。音は段々と近づいてくる。音がボクの側を通り過ぎようとした時、女の子が道路の真新しい雪の中へと飛んだ。女の子が音の聞こえる方に顔を向けた。車は耳障りな甲高い音を立てる。女の子は宙を舞った。くるくるくる、と。お人形さんのように、力の抜けた体は、ころころころころ、雪を踏みつけながら、地面を転がる。道路脇の塀にぶつかってやがて止まり、女の子の体から、赤い水がじわじわじわ、と周囲に広がる。白い雪は、赤い水によって赤く染められ、少し解けた。

 車から男の人が出てくる。ゆっくりとした動作で。女の子の方へと歩いていく。間隔の狭い足跡が残る。女の子の前で立ち止まり、女の子を見下ろす男の人。車の方へと戻っていく。感覚の広い足跡が残る。また音がして車が動き出す。車は物凄いスピードで、女の子の脇を通り過ぎ、やがて見えなくなり、音も聞こえなくなる。

 タイヤの跡が残った雪の積もった道路。タイヤに踏み潰された雪ウサギ。その道路に男の子が出てくる。周りを見回し、長靴以外も赤くなった女の子を見つける。男の子は泣き出した。その場で泣き出した。何をするでもなく、泣く。

 しばらくすると、その泣き声を聞きつけたのか、玄関から女の人が出てくる。泣いている男の子の側に駆け寄る。男の子に話し掛ける。男の子が指を差す。女の人がその方向に顔を向ける。一瞬止まる女の人。絶叫。何度か転びながら、女の子の元へと走り寄る。女の人の背中姿。両手を顔に持っていく。また絶叫。倒れそうになる女の人。塀にもたれ掛かり、崩れ落ちそうになる後姿。しかし何とか持ち堪える。戻ってくる。転びそうになりながら。その顔に昨日の笑顔は無い。家の中へと飛び込む。すぐに戻ってくる。女の人は女の子の元へと行く。そして、赤い女の子を抱きしめる。辺りからは二人の泣き声しか聞こえてこない。

 どれくらいの時間が経ったのだろう? 赤い光を辺りに撒き散らしながら、救急車が来た。救急車の中から何人かの人が出てくる。担架に女の子を乗せる。そして、救急車の中へと戻っていく。赤く染まったエプロンを着た女の人と男の子も一緒に乗る。周りの家々からは、何事かと窓からその様子を見る人。外に出てきて見ている人。

 救急車は来た時と同じように大きな音がするサイレンを鳴らしながら、走り出した。


 三日月。その周りには、たくさんの光の粒達。ボクはたまに流れ落ちる、光の粒にお願いをする。


 今日も朝から良い天気だった。綺麗に晴れ渡った青空に、小さな雲が少しだけ。

 昼を少し過ぎた頃。ボクのすぐ側にタクシーが止まった。タクシーから女の人と男の子が出てくる。二人には笑顔も言葉も無かった。二人は家の中へと入っていく。すぐに女の人だけが戻ってきて、タクシーに乗った。

 タクシーがボクの視界から消えた頃。玄関の扉がゆっくりと開いた。男の子が顔だけを出す。寂しそうで悲しそうな顔で左右を見ている。そしてため息を残して扉を閉めた。

 男の子はそれからも、何度も何度も、玄関の扉から顔だけを出し、ため息を吐いて扉を閉めていた。


 今日も世界が紅く染まって、そして。幻想的で綺麗な夜空。ボクは光の粒が流れ落ちるのを見つける度に、願った。


 また一日が始まる。今日もとても良い天気。ボクは寝ないでずっと願い事をしていたせいか、ちょっと痩せたような気がする。

 昼過ぎにまたタクシーに乗って、女の人が帰ってきた。家に入って暫くすると、またタクシーに乗ってどこかへ行った。

 男の子は今日も昨日と同じことを、何度も何度も繰り返していた。

 そんな日が何日も続いた。


 昨夜も寝ないで、流れ星に願い事をしていたのに、いつの間にか眠ってしまったようだ。僕は目を覚ました。

 ボクの背はかなり低くなっていた。そして体は斜めに傾いている。ボクは何となく、もう自分にはあまり時間が無いのだな、と思った。

 今日も昼過ぎくらいに、女の人が家に帰ってきて、すぐにどこかに戻って行った。

 男の子もいつもと同じことを繰り返していた。


 あれから何日が経っただろう。もう覚えてない。ずっと良い天気だったことは覚えているけど。

 ボクは最初の半分も背が無かった。今の僕の視界は地面すれすれだ。

 道路にはもう、ほとんど雪が無くなっていた。両脇に少し残っているくらいだ。雪ウサギは皆いなくなってしまった。男の子と女の子が作った小さな雪の山も、もう山とは呼べなくなっている。ボクの体からは、水が止まることなく少しずつ流れていく。

 昼過ぎ。太陽の光が眩しい。しかし、タクシーと女の人は来なかった。それから暫くして、男の子が玄関の扉から顔を出した。男の子は左右を見回し、溜め息を吐いた。そして扉を閉めようとしたその時、ボクに影が覆い被さった。今のボクの視界からは、タイヤの少し上くらいまでしか見えない。タクシーのドアが開いた。

 水色の靴を履いた、右足が出てきた。女の人だ。左足。女の人のつま先が、タクシーの方に向いた。出てくる小さな足。包帯が巻かれている足。転ばないようにゆっくりと、出てくる。女の人に支えられながら、松葉杖を使って地面に立つ。そこに駆け寄る男の子。

 それがボクが見た最後の光景だった。

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SIN 雪月風花 @yukizuki

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