これが本当の幻想居酒屋

野方幸作

ある居酒屋の話

「場末感のある居酒屋ほど実はアタリなんじゃないか」

そんな疑問を持った人は割と一定数世の中にいるのではないかと思う。

実際私もそのうちの1人であった。

そしてこれから述べようとするのは私がそうした幻想に囚われた末に味わった、辛酸にまつわる話である。


私は当時、下関市民だった。

下関駅から唐戸に伸びる道に豊前田という繁華街がある。

今でこそ寂れた通りという印象だが、駅前のロータリーにいた年配のタクシー運転手の語るところによるとそれこそ2000年代初頭までは人でごった返し、タクシーすら満足に通行できないほどに栄えた、中国地方有数の繁華街だったらしい。

それが今こうして人通りもまばらな、緩やかな滅亡に向かう、地方都市の商店街の様な有様を呈すに至ったかの経緯が全く私には分からない。

曰く北九州は小倉に客を持っていかれたとの話だが、ほんの10年やそこらでここまで衰退するのだろうか。

大方、長州藩士の末端士族らしい殿様商売でもふっかけたら客が逃げたというのが事の真相ではなかろうかと私は考えた。

先に断っておくが、このとき私は就職に伴い、生まれ育った故郷を離れ、二年以上に渡る下関への監禁生活を余儀なくされており、口を開けば二言目には下関、ひいては山口県に対する悪口が口から漏れるという風土病ホームシックに罹患していた。

別段山口県を憎く思っているわけではない。

というより今にして思えば山口県は面白い地域だったと思う。

山口県は自然が豊かであり、風光明媚である。

決して人の手の入らない未開の地という意味の言葉を濁した表現ではなく、私の率直な感想である。

秋吉台と秋芳洞、美祢の山々、山陰本線の仙崎から下関の間に望む対馬海峡、山陽本線から望む瀬戸内の海。

角島はなんだかミーちゃんハーちゃんな感じがして夏には行かなかったが、真冬に萩の海も併せて見に行ったし、湯田や川棚の温泉地も足を運んだ。

そういえば現地にいる間にやまぐち号にも乗ったっけ。

今だからこそ悔いるのだが、私は山口県の離島に行ってみたかった。

蓋井島や、見島。確か北九州の六連島にも汽船が出ていたな。

私は転勤により山口県を離れるまでついに見島牛なる地域の特産物を口にすることはなかった。

今にしてみれば随分惜しいことをしたものだ。


閑話休題。

ふと豊前田をふらついていると、一軒の居酒屋が目に止まった。

特に名前らしいものは見つからない。表に出た赤提灯が居酒屋だと名乗る他はさっぱり分からない。

私の中で何かが弾けた。

ここだ。

私の第六感が告げる。

がらりと戸を開け中に入る。

随分狭い店だ。

カウンター席だけで、人が奥に1人動くので精一杯のスペースしかない。

おまけにカウンターの奥に人影はない。

さらに客もいない。いや、いた。

1人日本酒らしいものをあおる赤ら顔のじいさんがいた。

そのじいさんが私の姿を認めにこりとして口を開いた。

「いらっしゃい」

なんとなく、嫌な予感がした。

カウンターの奥から人が出て来てくれないかと願ったが、不思議とこういう時の私の悪い勘は良く当たる。

いそいそとじいさんがカウンターの奥に回った。

なんてこった、客だと思ってた呑んだくれのじいさんがまさかの店員だ。

というか1人しかいないということはもしや店主なのだろうか。


「何にする?」

すいません間違えましたと言って、回れ右して店を出ようと思った。

早くも帰りたいという感想しか出てこないが、いざ体験してみないことには本質が分からない。

私は実践主義者だと、自分に強く言い聞かせて席に着く。

ひとまずビールを一杯頼む。

作り置きで悪いね、と店主はイカの酢味噌和えを冷蔵庫から取り出す。

いやいやそんなと私はその小鉢を受け取る。

酢味噌和えはそれなりに旨かった。


若いけど今は何をしてるんだいと店主が聞く。

今はごく普通の会社員をしています、と私は答えた。

実家はこっちなのかと聞くので生まれも育ちも全く違うけど就職して今は山口にいると答える。

若いのはいいことだけど無茶は駄目だよと店主は私に助言をくれた。

仕事の話だろうかと思っていたがどうやら違うらしい。

「若い内はなんでもできると思っててね。ビールの栓なんて歯で抜いてたんだ。もう前歯が欠けちまってね」

店主は私に欠けた歯を見せてくれた。

確かに私は非文明人じみた思考をしていたが、しかしいくらなんでも、若いからって歯で栓を抜こうとは思い至らない。

ますます嫌な予感が確信に変わる。


曖昧にしてその場を流そうとして、ふと店を見回すと壁には油絵が何枚もかかっていることに気付いた。

これは親父さんが描かれたんですかと話題を振ってみる。

ああ、全部趣味でねえと店主は語る。

ほうほうと相槌を打つが、私は内心、どのタイミングで店を出ようか算段を立てていた。


昔はここは寿司屋でねと唐突に店主が語り出した。

これがそうなんだけどと写真を一枚差し出した。

見た感じ10年から20年くらい前の印象を受ける写真だった。

満席のカウンターに、2人の板前が寿司を握る絵面だ。

こっちが俺だよと店主が指を差す。

へえと私はまたも、ただ、今度は素直に相槌を打つ。

「だけど今は手が震えてね、もう寿司が握れなくて、居酒屋にしているけどね」と説明を捕捉する。

「手が震えて」?

引っかかりを覚えながら、なんとなく触れない方がいい気がして私はそれ以上そこに触れなかった。


「今は人も来ないからああして焼酎を二合ずつ、二本用意して、アレが空になったら店を閉めるんだ」

そう言って店主は元いたカウンターの端を指差す。

アレ焼酎だったのか。

ここで気付いたが、店主の赤ら顔はどうにも元から酒焼けしているらしかった。

確信がついに赤信号に変わる。


「次は何を飲む?」

いつの間にかビールが空になっていた。

ひとまず日本酒を一杯頂こうと思い至り、注文する。

「熱燗かい?」

「いや、冷で」

すると店主はロックでいいかと聞いてくる。

日本酒をロックで呑むというのは前代未聞だ。

いやいや、冷でと私が言うと、冷で呑む人は初めて見ると店主は心底驚いたような声を上げた。

劣化が激しくなるにもかかわらず、日本酒を常温保存しているのだろうか。

そもそも銘柄はなんだろうか。

まあいい。なるようになれだ。

常温でもいいですと私が告げると、はいはいと店主は答える。

ぬうっと下から出た店主の手に握られた「まる」の1リットルパックをみて私は激しい落胆を覚えた。

ちびちびと味のしない安酒を流し込みながらこんなことなら大人しく熱燗にしておけばよかったかなと思う。


「そういえば何か音楽は聞くのかい?」

とまたもや店主が話題を振ってくる。

「俺は専らロックでねえ」

と壁に掛けてあるギターを取り出しながらSpeak Softly Loveをおもむろに店主が熱唱しだす。

「僕は基本的にJ-POPばかりですね」と当たり障りのない答えを返したつもりだったが、店主は首を傾げる。

「J-POPってなんだ?」

これはさすがに予想外だった。

私もそこまで今時の音楽に詳しいわけではないし、J-POPとは何かなんて概念的な説明を求められても出来るはずがない。

流行りのアーティスト名を答えようにもあまり知らないし、店主が知ってる可能性が極めて低い、まさに難問だった。

答えに窮して、ひとまずダークダックスと答えるが、ああ、弾けねえなと返ってくる。


話題に詰まったところで店主が、冷凍庫に入れたグラスを使ったビールを飲んでみたくはないかと尋ねて来た。

まだ日本酒を飲んでいる最中なのだが、と思いつつ興味には抗えず、つい気になると答えた。

出されたグラスは少しばかり凍りついており、確かに普通の冷蔵庫に入れたジョッキよりも味が際立っていた。

美味いですねと言うと店主は満足気に笑う。

空いたグラスを店主に渡すとそのまま洗い始めた。

そしてまた冷凍庫に格納した。

私もよく見ていなかったので何とも言えないが、店主よ、お主今洗剤使ったか?

水洗いだけだったような気がしたんだが・・・・・・

まあ、ちゃんと見ていなかったので確証はないので追求はよそうと思った。


「それにしても貴方、いい目をしてる」

店主がまたもおもむろに話題を振ってくる。

「俺ね、商売柄人の目を見りゃ分かるんだ。いい人かどうか。君はずっと俺と目を逸らさずに話をするね。いい人だよあなた」

そこで私ははっとした。

帰りたい一心でずっと意図的に伏し目がちにしていたのを咎められているのか?

いや、違う。

本気で言ってるぞこの店主。

何か人柄がどうとか店主が言っていたがよく覚えていない。

取り敢えず、本当にあんたは商売長いのか?という疑問が生じ、赤信号が3つくらい灯った。

もはやここまで来ると数え役満だ。


「まる」を何とかかんとか喉に流し込むと、1人盛り上がる店主を尻目に腕時計を見やり、先約があるのでと私は席を立つことにした。

また来てね、絶対来てねと店主が念を押した。

「ええ、是非に」

全くもってアテにならない自分の第六感を呪いながら、守るつもりの一切ない口約束を交わす。

そうして私は店を出た。


それから数ヶ月後、ふと気になって現地に足を運んでみると赤提灯が無くなり、店の入り口は固く閉ざされ、空き店舗の文字がかかっていた。

知っている店が商売を畳んでしまうと、心なしか何かしらの郷愁にかられるものだが、私の感想は「さもありなん」という一言で終わってしまったのだった。


人間は失敗し、反省する生き物である。

しかし不思議なもので、私は今でも何故かたまにふらっと思うのである。

「場末感のある居酒屋ほど実はアタリなんじゃないか」と。

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