第2話 ムクロの生まれた時
黒坂隼人は幼いころから病弱だった。特定の病を患っていたわけではなかったが、一年の半分以上はベッドの中にいる生活を続けていた。入院も一度や二度ではないし、生死を彷徨ったことも少なくない。
目覚めて真っ先に映る染みのない天井。変わり映えのない閑散とした部屋。窓の外のすっかり飽きた庭景色。
隼人の人生というのはそれだけに尽きる。
灰色の人生。あらゆる色は隼人にはくすんで見えて、未来に希望はなかった。
いつだったか、テレビで有名なタレントが、誰にも生まれたことには意味がある、とそんなことを云っていた。大嘘だ。生まれたことに意味があるというのなら、自分がこうしてベッドだけの生活を送るのにどんな意味があるのだろう。
無為に季節が流れた。時間は隼人を置いて過ぎて行く。
そして十三の歳を重ねたその日。点滴の痕が残った青白い細腕は、去年よりも弱々しく見えた。治療するために通院しているはずなのに、日々衰弱しているのだと突きつけられた気がして、棺桶に眠る自分を幻視した。今まで感じたことのない強い恐怖が胸を抉り、身体の震えが止まらなくなった。付き添いで来ていた母と兄が何か云っていた気がするが、よく覚えていない。嘔吐いて病院の床に蹲ったところで隼人の意識は途絶えている。
次に病院のベッドで目覚めたとき、隼人は色を失っていた。心因性視覚障害だった。
無為に流れていた季節さえ、存在感を淡くした。
調子の良い日なら庭を歩くぐらいしていたのに、いよいよベッドから動かなくなった。なにをしても無駄なんだと、すっかり捨て鉢になっていた。
この時期、隼人の記憶はひどく曖昧だ。確か、父が肩を落として母は泣いていた気がするが、確証はない。何にも興味を示さない植物のような生活をしていたのだから、両親がそんなありさまでも不思議ではなかった。
唯一、兄だけは両親と違った気がする。少しでも隼人の興味を引けそうな物をいくつも持ってきた。子供っぽい絵本から使いもしない野球グローブ、分厚い動物図鑑なんてものまであった。いつしか閑散としていた部屋は、足場の踏み場もないほど雑多なもので埋まっていた。どれも隼人の興味は惹かなかった。
二年経ち、家族の介護の甲斐あって隼人はまだ生きていた。生きているだけだった。
近頃では兄が部屋へやってくることも減っていた。忙しくなったのか、諦念が強まったのかまでは知らないが。それでも来るたびに隼人へお土産を持ってくるのは変わらなかった。
その日、兄が持ってきたのはパソコンだった。ディスプレイに表示されたのは、左下が大きく抉れた大陸と右に一つの島。当時名前が売れ始めていたMMORPG〈終の世界にて〉の公式ホームページだった。
兄はゲームを起動し操作を進めていく。すでにインストールは済んでいたらしく、すぐ名前を何にするか聞かれ、答えた。
「……骸」
兄の指が止まる。こちらを見た顔は複雑そうで、しかし確かな悲痛の色があった。
なぜこんな名前を選んだのだろう。ほとんど考えずぽつりと零れ落ちた、骸という名前。自分はすでに死んだも同然という自嘲だったのかもしれない。
兄は何か言いたげだったが、結局そうかと一言だけ返すに留まった。色々押し殺した一言だった。そして登録された名前はカタカナで、〈ムクロ〉。漢字にしなかったのは兄のせめてもの意地だったのかもしれない。
その後も
全ての選択が終わり、そして満足そうな兄に見せられたアバターは、もし隼人が健康ならこんな感じだろうというふうに細部まで作り込まれていた。意志薄弱に見える柔和な顔つきに、あまり運動してなさそうな細身の身体。初期装備ゆえに粗末な服しか着ていなかったが、覗く肌は隼人よりよほど健康的で、ただ瞳だけはわずかに蒼みが混じっていた。
兄がムクロでログインし、ムクロが〈終の孤島〉に降り立った。どうやら街中らしい。何十年、何百年と放置されていたような、植物とコンクリートが一体化した街。しかし縦横に動き回る他のプレイヤーやNPCのおかげで寂れた雰囲気とは無縁の賑やかさが漂っている。
そのままコントローラーを渡されると思っていたのだが、意外にも兄が操作を続けた。あらかじめ行動を決めていたらしくムクロの足取りに迷いはない。やがて兄は他のプレイヤーと合流した。彼らは五人組のパーティーで、装備からしてかなり高レベルのプレイヤーのようだった。兄の知り合いらしい。
そのまま六人の集団となった一行が街を出たところでくるくる回る画面に酔ってしまい、隼人は兄に声を掛けてベッドに横たわった。ベッドの冷たさが心地良かった。すぐにやってきたまどろみに誘われるまま目を瞑る。これまでと同じでゲームに興味はなかったのだ。すぐに隼人は寝入っていた。
兄に揺り起こされたのはそれなりに時間が経ってからだ。どうやら目的の場所に着いたらしく、真っ先に兄の人懐こい笑みが目に入った。
これを見せたかったんだと兄に急かされ、隼人は寝ぼけ眼で画面を見た。
ムクロが立っていたのは山だった。山頂より少し低い。しかし雲すら見下ろす空の世界だった。
霞んでいた視界が明確になるにつれ、胡乱げだった隼人は目を瞠る。
――暁。水平線と混ざり合う鮮やかな光芒が、画面を越えて隼人に差し込んだ。それは熱すらまじえて体を優しく包み、冷え切っていた体に血を通した。ずっと動かなかった感情が揺れ手が震えた。
空には星が煌々と輝いている。まだ夜は強い。しかし確実に光が勢いを増していた。
夜が祓われる、ほんの刹那の景観。
綺麗だった。心が震えた。不覚にも涙すら流し、嗚咽が漏れた。
なんだろう、これは。
胸が裂けるほどに切なくなった、これは。
隼人は己に宿った感情にうまく言葉をつけられなかった。ひたすら柔らかい日差しに見惚れていた。
人工的に作られたただのグラフィック映像なのに。似たような景色ならテレビでだってインターネットでだって、いくらとなくリアルがあったのに。
一体何にそこまでの感動を覚えたのか、隼人はあとになってもわからない。
しかしこのとき、画面越しに見る3D映像は本物以上に本物だった。
懐かしい“色”があった。
これが黒坂隼人の――そして、その記憶を引き継ぐムクロの起源。プレイヤーの分身でしかないアバターのムクロが、ムクロとしての意識を得た始めての瞬間だった。
プレイヤーロス ハナモト @hanamoto
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