プレイヤーロス

ハナモト

第1話 暁の空の下

 空は暁だった。

 秋。涼やかな透き通った空。

 永久凍土を覆い尽くす雪の大地に、これでもかと敷き詰められた雲海。夕方になれば白雲に巨影が落ちて、晴れれば眼下で息づく緑の絨毯。

 まるで生と死の境のようなこの場所は霊峰と呼ばれる高レベルエリア、フジ。


 ムクロは景色を一望できるこの場所が好きだった。同じ場所なのに毎日違う景色はじっと見ているだけでも楽しくて飽きがない。

 お気に入りの場所。思い出の多い場所でもある。他に人影はなくともここでじっと待つのは嫌いではなかった。

 だが――。

 ムクロはその端正な顔に憂いを浮かべ、空を見上げた。思わずローブの淵を掴む。わずかに蒼みがかった瞳に映る景色は、自分の知るものからすっかり様変わりしていた。


 暁が褪せている。小学生の絵でさえもっと温かみがあるだろう。

 これはムクロにとって六年振りに見る灰色の景色。白と黒のコントラストだけが生きた、かつて心因性視覚障害と診断された忌々しい瞳の病。色の抜け落ちた景色はムクロの孤立を際立たせ、自分以外の全てが滅んだ錯覚さえする。

 何で今さらとは思う。が、一方で当然こうなるかという納得もある。昔は過度のストレスが原因だと云われた。なら、今度は。心当たりは十二分にあった。


 空を見上げながらずっと心配ばかりしていた。生きてほしい、黒い予感など外れて健やかに過ごしていてほしい。そんな切々とした願いを抱きながらこの一年間、祈るように佇んでいたのだ。


 だが、駄目だった。


(ああ……、とうとう死んだんだ……)


 自我を得てからずっと感じていた繋がりは、弱った糸が緩やかに引きちぎられるような感触と共に途切れた。

 体の弱い人だったから、ここに来なくなった一年前に覚悟はしていた。本心を誤魔化すようにきっとこのゲームに飽きてしまったのだろうと目を逸らしていても、その実来られないほど病状が悪化し、治療に専念しているのだとわかっていた。

 だから繋がりの途切れた理由なんて考えるまでもなく、理解してしまったのだ。

 プレイヤーである黒坂隼人が、アバタ―のムクロを残して死んでしまった。

 遮二無二叫びたくなるほどの喪失感。指先から血の気が引いていく冷たい感触。この何も考えられなくなるひどいものが死別か。

 これがムクロの勘違いであれば、どれだけ救われるだろう。だがそれを否定しようにも彼を強固に縛り付けていた死の気配を考えれば、淡い期待さえ抱くのは難しい。

 いやそれ以前に、直感的な部分で確信してしまっていた。

 彼は、もういない。


「マスター……黒坂隼人……もう一人の僕……。二十一年、お疲れさま」


 呟いた声は自分でも驚くほど震えていた。声に出してみて、ああ、本当にいなくなってしまったんだと、現実感がじわじわせり上がってくる。

 胸の奥から熱いものが込み上げ、それは一筋の涙となって零れ落ちた。


 ムクロは自分の手を握り、開いた。僅かに漏れる陽の光に手をかざして影を作る。隼人がログインして操作しなければこれぐらいも動けなかったのに、身体がはっきり自分のものになった感覚がある。


「……行かないと」


 涙を拭ったムクロはぽつりと零す。

 心は深い悲しみに囚われたまま、だがここにいてはいけないと頭の芯に囁きかけてくる声がある。帰巣本能のようなものだろうか。プレイヤーを失ったアバターは、“そこ”に行かなければならない。


 ――ジジ、ジジジ


 乱れた電子音。視界に走る砂嵐、いつも見ていた景色が侵蝕されていく。

 消えかけた景色に朝陽が昇る。冷たい真っ白な光が網膜を貫いた。出発の門出とするにはあまりに寒々しく、これが見納めになることを考えるだけで心が軋んだ。


(ここはもっと綺麗な場所だったのに……)


 記憶に焼きついた景色が消える。

 色が欲しい。また、見たい。

 そう願ったとき、ムクロをあざ笑うかのように世界が暗闇に包まれる。咄嗟に伸ばしてしまった手に気づき、ゆっくり降ろした。

 光の介在する余地のない闇だけが残り、なのに自分の身体だけははっきり見える。まるで神に忘れられたような場所だった。


 一瞬ここが目的の場所かと思ったが、すぐに違うとわかった。

 ふいに重力がムクロを絡め取る。闇がさっと引かれた。代わる強い光に堪らず腕で顔を覆い、おそるおそる覗いたそこで、瞬間溺れてしまいそうな情報量に息を詰まらせた。


 景色は“ここ”に来る前と変わらない。眼下に広がる大森林も、足元を覆う雪原も。すっかり陽が昇り――しかし、白と黒のみで構成される褪せた景色さえ、変化はない。


 だが、違うのだ。決定的に、全てが違う。ムクロとして生まれて以来、感じたことのない生命の息吹というものが、そこここから漂い五感を刺激する。

 大きく息を吸いこむ。澄んだ空気の味が口の中に広がった。そして肺の中が空っぽになるまで息を吐き出した。足元の雪をおもむろに拾う。指先に摘まれたわずかな雪は、すぐに形を崩して零れ落ちる。

 風が頬を撫で、想像以上の寒さに思わず体を震わせる。ムクロとしてどころか、隼人の記憶を遡っても知らない大自然。ゲームの世界とは比較にならない。


 寒さとはまったく別のなにかに、ムクロは再び体を震わせた。ようやく手に入れたのだという充足感が胸を占める。この胸の感情に身を任せて、衝動のまま叫びたい誘惑に駆られた。


「――っ!」


 感動に震えるムクロに水をかけたのは、わずかによぎった罪悪感だった。

 そして気が付いてしまった。“ここ”に来てから溢れる感情は、電子(ゲーム)から現実(リアル)へ解放された由来の感動――ではない。ムクロが今感じている生の歓喜は本当なら隼人が抱いていたはずの情動だ。


 ムクロは隼人のコピーだ。いかなる奇跡の産物か到底察することはできないが、ある瞬間に隼人の記憶や情動と共に自我を生じさせたのだ。そのとき埋め込まれた中に、強い生への憧れがあった。六年という月日でとうに摩耗し消失したと思っていた魂の欠片。


 これは、ムクロの感情ではない。隼人の残留思念ともいうべき執着。


 隼人が欲しくて欲しくてたまらなかったものを、彼が死んだのを理由にムクロが手に入れてしまった。

 それを自覚した途端、浮かれきっていた気分が急速に萎んでいく。


「……行こう」


 一歩、二歩。後ずさり、身を翻して歩き出した。その足はすぐに速まり、やがて駆け足になって雪原にいくつもの足跡を残す。

 どこへ行く宛もなかった。ただここに居たくなかったのだ。

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