笑う犬

鯖みそ

笑う犬

少女が叫んだ。

「お願いです!お願いです!誰かこの犬を飼ってください!」

男が尤めた。恰幅な男だった、黒いスーツに身を包み、金の装飾が施された奇妙な仕掛けの腕時計を巻いていた。

「いや、それは駄目だよ、君。それは犬じゃない」

「これは犬です」

「違うだろう」

「犬なんですよ」

少女は、犬の桃色に薄く血の管が張り巡らされた耳に、そっと触れた。

「ほら、これでいずれ鳴きますよ」

少女は犬に触れる。

「いや、しかし……それは犬なのか」

「ええ、犬ですよ」

「ちっとも鳴かないじゃないか」

少女は捲し立てる、唾を飛ばしながら、男を激した。

「この薄情もの!いずれお前は地獄へ落ちるぞ!神が見ていらっしゃる!同情こそが、愛だ!憐れみこそ、全てだ!私は弱いものを救うのだ!これは犬だ!」

「待つのかね」

男は嘆息し、少女を宥めすかした。

「待ちますよ、私はいつか救われるのだから」

「善良こそ、悪徳だ。そうは思わないかね」

「お前らの生産様式では、弱者を排斥する!お前たちが、奪ったのは信仰心だけではない!」

「他に何か」

「救済だ!お前たちがそれを奪ったのだ!私は解き放たれる、審美的、倫理的実存を乗り越え、アブラハムの落とし胤、イサクを殺害することを厭わない!」

「そうか、だからこそ……」

男は得心した。

「お前たちは、いずれ罪を償わなくてはならない!姦通を犯した者は、その器を奪い取られるだろう!その刹那、お前たちは気づく!死こそが、至上の悦びであったと言うべきほどの、責め苦に喘ぎ、救いは永劫訪れることはない」

少女は哄笑した。あるいは、障りに苦しむ不具の、不気味な女だった。生きている間、女は髪を切らないのだろう、醜悪に汚れた縮れ毛と、夥しい虱が彼女の顔にも匿われ、赤い斑の血溜まりが吹き出ている。

「敬虔なものだ。こうすれば救済が訪れるとでもいうのかね」

「私は神を裏切ったことなど一度もない」

「それは結構。もう行くよ」

「お前には最上の苦しみが訪れるであろう!」

「最後に一つよろしいかね」

「何だ」

「君は自殺した」

男は去った。


長い沈黙。


少女はなおも犬を撫でつづけた。

彼女は偏執した、いやに媚びた目を犬に向けながら、黄色い歯の端を剥き出しにして笑った。

犬の左半身は既に失われ、太陽の下に、グロテスクな肉の本質が曝し当てられていた。

だらしなく垂れ下がり、発色がかった犬の舌と、白色に濁った瞳の片割れ。

犬は死骸だった。





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