三千文字版

「バニラが目覚めたぞ」


 車から双眼鏡で観察していた俺は、同僚たちに声をかけた。


「まずは第一関門突破というところか」


 俺がため息交じりに言うと、同僚はまだまだこれからだぞと、背中を叩いた。


 バニラは、ここはどこだと辺りを警戒しているようだった。

 俺達にとっては些細な違いしかない森でも、ずっと森で暮らしていた彼女にとっては、大きな違いに感じるのだろう。

 植生はもちろん、住んでいる鳥も違うし、川の形だって、泳いでいる魚だって違う。

 同じ種類の鹿でも、数が多ければまるで違う印象を受けるだろう。


 彼女にはこれから一生、この森で生きていってもらわないといけない。

 これは俺達のエゴかもしれない。俺達は、彼女達を追い詰めた。そして今は、身勝手な方法で彼女達を助けようとしている。



 彼女を眠らせたのは、昨日のことだ。

 正午過ぎ、車を走らせていた俺達は、ようやくバニラを発見した。


「あれがバニラだ」同乗していた動物学者が言った。「彼女なら、きっと条件にあう」

 俺は双眼鏡でバニラを観察した。健康そうな大人のメスだ。多くの候補の中から、彼女に白羽の矢が立ったのだ。


 俺達は数人でバニラに近付き、麻酔銃を撃った。

 彼女はよろめき、俺達から逃げることも出来ずに意識を失った。



 バニラは推定三歳の、メスのベンガルトラだ。

 ベンガルトラは主にインドやネパールに生息しているが、密猟や森林開発により急激にその数を減らしている。俺達はその個体数回復を目指し、長年活動していた。


 今回の計画の第一歩として、俺達はインド北部の森から百五十キロ離れた南部の森へ、一組のオスとメスを連れて行くことにした。

 南部の森には、現在ベンガルトラはいない。しかし、数十年前までは生息していた。ここならバニラも生きていけるだろうと、俺達は考えた。


 北から南へバニラを移し、そこで繁殖してもらう。そうやって生息地域を増やしていく。バニラには酷かもしれないが、彼女達が生き残るためには必要なことだ。



 バニラは早々に新しい環境に順応していた。

 初めは全く知らない土地での狩りに苦労していた。どこから狙えば獲物に見つかりにくいか、どこに追い込めば獲物を捕らえやすいか。バニラは何日もかけて、適した場所を探していた。


 だが数週間もする頃には、バニラはすっかり新しい森に慣れていた。縄張りも定まり、今まで通り狩りができるようになっていた。



 むしろ不安材料は、俺達人間の側にあった。


 この森の近くには、いくつかの部族が村を作って暮らしている。バニラが、そこの家畜を襲わないとも限らないのだ。


 どうしてそんなところにトラを放ったのかと、疑問に思うかもしれない。だがこれは、仕方のないことだ。

 人間は、どこにだっている。動物を増やそうと思ったら、そこがどこであれ、人間との衝突は不可避だ。



 俺達保護団体と国は、部族との交渉も行っていた。

 ベンガルトラに危害を加えないこと、できればここから立ち退いてほしいこと、そのための補償金を支払うことなどを、彼らに伝えてきた。


「どうして我々がどかねばならないのか」と部族の長が反論した。「人間と獣と、どちらが大切なんだ」

「どちらも大切です」俺は柔らかい口調で説いた。「私達は、どちらも守りたいんです」



 交渉が平行線のまま、俺達は次のベンガルトラを連れてきた。推定四歳のオスのベンガルトラ、ソルベだ。


 ソルベとバニラはすぐに出会い、仲良くなった。行動を共にするようになり、何度も交尾の様子が観察された。

 経過は順調だった。このまま二世が誕生すれば、第二関門突破というところだ。



 だが、ついに恐れていた事態が起こってしまった。

 村の家畜が襲われたのだ。残っていた足跡などから、トラの仕業だと思われた。


「どちらも守ると言ったじゃないか!」部族の長は、激昂していた。「我々が生きていくためには、牛が必要なんだ! 牛を襲う獣は、なんであれ許してはおけない!」

「落ち着いてください」俺はなんとかしてなだめようと必死だった。「今後は見張りを増やしますから」


 国から派遣された監視員だけでなく、俺達も見張りに参加することになった。

 麻酔銃を持って、テントに籠る。

「バニラもソルベも来ないでくれよ」

 俺は祈りながら、家畜の番をした。


 その祈りは、全く通じなかった。

 ソルベが毎晩のように村に近付き、俺達はそのたびにクラッカーを鳴らしてソルベを追い払った。

 だが、見張りの数にも限界がある。すべての家畜を常時守ることはできない。ソルベはほんの一瞬の隙をついて、家畜をたびたび襲った。



 俺達と村人達は、何度も集まって話し合った。

「私は、村を守ることを一番に考えている」長が言った。「もしこれからもトラがやって来るようなら、私は容赦なくトラを殺す。我々が生きるためには、それが必要なんだ」

「わかっています。しかし、もう少し待ってください」

 ソルベ達には、他にも食べられる動物がたくさんいるはずだ。この村の家畜にこだわる必要はない。

 俺達が家畜狩りを妨害して、家畜より野生動物を狙った方が効率が良いと学ばせれば、いずれソルベも諦めるに違いない。

 俺は長にそう説明した。


 村人達の中には、説得に応じて、よそへ引っ越していく者達もいた。

 謝る俺達に、彼らは言った。

「私達は、ここでなくても生きていける。でも、トラ達はここでないと、生きていけないのでしょう?」


 しかし、出て行く村人の全員が、俺達に理解を示していたわけではなかった。

 ソルベに家畜を襲われ、仕方なく出て行く者もいた。

「トラなんていない、平和な村だったのに」

 去り際に、恨み節のように彼らは言った。



 バニラに妊娠の兆候が表れたのは、その頃だ。問題は残っているが、俺達はひとまず、祝福を上げた。

 第二世が生まれ、無事育ったら、俺達は次のトラ達を運んでくる計画だった。バニラ、ソルベ、そして子供たち。彼らと新しいトラ達の間に子供を作らせ、繁殖させていく。そうして生息数を増やしていく。


 自分でも、妙なことをしていると思う。

 密猟と開発でトラを追い詰めたのは俺達だ。その俺達が、トラを復活させようと腐心している。

 特に、バニラとソルベにとっては、いい迷惑だろう。言葉の通じない彼女達には、事情を説明することすらできない。


 初めから森林開発なんてしなければよかった……と、言うことはできない。開発は必要だった。

 俺達が生きるためには、資源が必要だ。木を切り倒し、土地を広げなければ、生きていけない。



 ある日、ついにソルベが殺されてしまった。

 我慢できなくなった村人達が森に入り、殺したのだ。


 俺達はソルベの死体を、標本として持ち帰ることにした。


「バニラがいる」


 俺は指差した。バニラが、遠くから俺達を見ていた。


「不安だな」同僚が言った。「子供が生まれたら、獲物を増やさないといけない。そしたら、なるべく楽な獲物を狙うはずだ」

「バニラまで、家畜を襲うと? 今まで一度も、村に近付きすらしなかったのに?」

「だが、ソルベが捕まえてきた獲物の味は、覚えている」


 バニラは俺達に背を向けて歩き出した。

 彼女は今、何を思っているのだろう。動物に感情移入しないようにしている俺だが、この時ばかりは思わずにいられなかった。


 家畜を襲おうと思っているのだろうか。他の獲物を差し置いてまで?

 バニラ、それが本当に必要なのか、よく考えてくれ。

 お前までソルベのようになるな。


 彼のことは忘れて、生きてくれ。

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