ずっと夏が続けばいいのにな

 陽介は縁側に腰掛けている祖父の手元を食い入るように見つめていた。祖父は道具入れから注射器を取り出し、小さな褐色の瓶に入っている液体を充填した。それから針を上向きにして注射器をポンポンと弾き、空中に向かってゆっくりとピストンを押し出す。針の先端から透明な液体が数滴サラサラと垂れた。それを見届けると一旦注射器を横に置き、隣にあった虫かごから昨日陽介が到着して一番に捕まえたオニヤンマを取り出した。

 オニヤンマは弱っているように見えたが、まだ生きていた。足を空中でバタバタさせては止まってを繰り返している。祖父はオニヤンマの羽を持つ手を左手に持ち替えると、右手で注射器を持ち、オニヤンマの腹部に躊躇なく針を刺した。針が刺さるとオニヤンマは足をバタつかせ、大きく頭を上下させてもがいているように見えたが、祖父がピストンを押して液体を注入した瞬間、動きのパターンが全く異るものになった。足は左右いっぱいに開かれ、動く速度が遅くなり、それぞれの足をゆっくり回しているようだった。顎も大きく開かれたままだった。そして足が動く速度がだんだんゆっくりになっていき、やがて動かなくなった。

「その薬なに?何を注射したの?」

「アルコール。お酒だよ」

「じゃあオニヤンマは酔っ払ってるだけなの?」

 祖父は標本用の箱にピンでオニヤンマを固定しだした。

「もう死んじゃったよ。この注射をしないと内臓が腐る」

 もう死んじゃったよ。その言葉を聞いた陽介は少し動揺した。虫かごで飼っていて死んでしまったオニヤンマは過去に見たことがあったが、こんな風に死ぬ虫を見たのは初めてだった。

「やってみるか?」

 突然聞かれて、陽介は躊躇した。祖父は虫かごから今朝捕ったミヤマクワガタを取り出している。

「え、俺はいいよ。可哀想だし」

 祖父は陽介の方を見た。

「虫かごに入れてたらいずれ死ぬんだよ。いや、入れてなくてもいずれ死ぬんだよ」

 祖父の言うことはもっともだった。それに自分の自由研究だという思いもあった。陽介は意を決してミヤマクワガタを受け取った。

「どうすればいいの?」

「腹に刺して、2目盛分注射する」

 ミヤマクワガタは陽介の手で暴れていた。腹の両脇を掴んでいる人差し指と親指を、足を使って必死にどかそうとする力が伝わってきた。右手に注射器を持つ。心臓の鼓動が大きくなる。陽介は怖かったが、覚悟を決めると、針をミヤマクワガタの腹に刺した。

「浅い」

 隣で祖父が言った。針を奥まで入れると「そうだ」と言うのが聞こえた。ミヤマクワガタは針を刺しても抵抗が強くなることはなかった。陽介は少し安心して、ピストンを押し込んだが、その直後に驚いてミヤマクワガタを離しかけた。液体を注入した瞬間、まるで違う生き物になったかのように手に伝わる感触が変わったのだ。ミヤマクワガタは一瞬電撃が走ったかのように全ての足とハサミ状の顎を硬直させ、それからは時間の流れが遅くなったかのような緩慢な動きになり、やがてオニヤンマと同じようにだんだんと停止状態へと近づいていった。陽介は尽きてゆく一つの命の感触を自分の指の先で感じていた。気がつくと手が震えていた。

「初めてにしては上手だな」

 動揺している陽介を知ってか知らずか、祖父は陽気にそう言うと、ミヤマクワガタを箱に固定し始めた。陽介は今自分の手の中でポッと蒸発していった命のことを考えていた。さっきまで自分の指にチクリと痛みをもたらしていた源はもう無いんだ。

「ショックか?」

 祖父はぼーっとしている陽介に話しかけた。

「いや、なんというか…、簡単に死んじゃうんだなって思って」

 日は大分高くなり、セミがひっきりなしに鳴いていた。祖父はミヤマクワガタをピンで留め終わり、オニヤンマとミヤマクワガタが収まった箱を少し遠くから眺めてバランスを確認していた。

「そういうものだよ」

 陽介は祖父から発せられた言葉の意味がすぐにつかめなくて、祖父の方を見た。

「どんな生き物もあっけなく死んじまうもんだよ。こいつはどうする?」

 祖父は今朝陽介が捕った立派なカブトムシが入った虫かごを持って言った。

「くろすけはダメ。まだ殺さない。飼うからダメ」

 陽介は必死に否定したが、いつかくろすけも殺さなきゃいけない時が来るのかと考えると寂しい思いがした。


「お、早速作ってるねえ」父が縁側に来て言った。

「お父さん今起きてきたの?もう10時だよ?」

「いやいや、ちょっと前から起きてたよ。収穫はどうだ?」

「あ、お父さんこれ見て!木の根元に隠れているのを俺が見つけたんだよ。めちゃくちゃでかいカブトムシ」

「本当だ。立派なカブトムシだな。すごいな陽介」

 陽介は褒められて得意げだった。

「でも陽介、今のところミヤマクワガタとカブトムシだけか。これだと全種類制覇は難しいかもな」

「本当に明後日帰るの?もっと居ようよ」

 祖父母の家にいる時間はいつも短く感じた。1週間でも2週間でも居たいのに、都心に帰る日があっという間に来て、陽介は毎年のように駄々をこねた。

「ダメだよ。お父さんもお母さんも仕事が始まるから」

「じゃあ先帰ってていいよ。俺、後から一人で帰れるから」

 父は今年もこれかと困ったような表情をした。

「陽介みたいなのをいつまでも面倒見きれんわ」隣にいた祖父が笑いながら言った。

「えー。大丈夫だよ。もう小4だし」

「ダメだよ!とにかく、昆虫採集は明日捕れた分までな。蝶とかトンボならまだたくさん捕れるだろ」

 父の言葉に陽介は不満そうな顔を向けた。標本用に準備した箱がカブトムシやクワガタで一杯になるのを楽しみにしてたのに。

「陽介、明日二川峠に行くか?」

 祖父の突然の提案の意味がよくわからずに陽介は「え?」と聞きかえした。

「そういえば陽介はまだ二川峠行ったことなかったか。懐かしいな。お父さんも陽介くらいの時によく連れてってもらったよ」

「”にかわとうげ”には何があるの?」

「この近くから二川峠に続く登山道があって、その途中に綺麗な原生林があるんだ。この辺じゃ出て来ない昆虫もたくさんいるんだよ。オオクワガタとか」

「うそ!オオクワガタがいるの?行く!絶対行く!おじいちゃん連れてって!」

「俺明日ふもとで用事があるんだけど、任せちゃって大丈夫、お父さん?」

「陽介がちゃんと言うことを聞くならな」

 幼い子供に言うかのような祖父の口調に陽介はムッとした。

「子供扱いしないでよ。大丈夫に決まってるじゃん」

「おうおう、そいつは頼もしいわ」

「陽介、山は危険な場所だからな。おじいちゃんの言うことを聞いて、絶対勝手な行動はするなよ」

 陽介はわかってるよと返事をしたが、頭の中はもうすでに明日のことが楽しみで仕方がなかった。絶対にオオクワガタを見つけてやると心に誓っていた。



 その日の夜、陽介と両親は庭で花火をした。祖父は縁側でタバコを吸いながらその様子を眺めていた。

 街灯は一応あるものの、普段陽介たちが暮らしている都心とは比べものにならない暗さと静けさだった。山や森は暗闇に包まれ、昼間は涼しげな音に感じる川の音も夜に聞くとなんとなく怖い音に聞こえた。

 庭の中央に置かれた噴き出し型の花火に父が火をつけ、駆け足で戻ってきた。火が導火線を最後まで辿ると、けたたましい音とともに火花の噴水が上がった。バチバチと火花が上がっている間は周りが少し明るくなって、両親が花火を見つめる恍惚とした表情もよくわかった。

「いいね。東京じゃ家の前でこんなことできないもんね」母がつぶやいた。

 父の身長くらいの高さまで噴き上がっていた花火は、しばらくするとだんだん低くなり、ある大きさまで小さくなるとパッと止まり、あたりはまた暗闇になった。父が次の花火を点火しに向かう。

「お母さんもここに来るの好き?」

 陽介は義理の父母の家に泊まるのはどういう気持ちなんだろうと聞いてみた。次の花火は噴水上に噴き出す火花に混じって、赤や緑の火玉が時折太い軌跡を残しながら飛んでいた。

「好きだよ。自然の中でのんびりできるし、おじいちゃんおばあちゃんもよくしてくれるし」

「大自然の中もずっといると不便に感じちゃうんだよね」父が横から口を挟んだ。

 父はこの家で18歳まで過ごしたと以前言っていた。陽介はいつまでも居たいと思っていたが、ずっと居ると都会が恋しくなったりするのだろうか。

「おじいちゃんって昔からあんなに早起きなの?」

 父は陽介の質問を聞いてぷっと少し噴き出した。

「まさか。陽介が来ている時だけだよ。おじいちゃんも陽介が来るからって張り切ってるんだよ」

 その返答は陽介にとって意外だった。てっきりいつも早起きしていると思っていたからだ。陽介はなんだか嬉しいような恥ずかしいような、むず痒い思いがした。この会話がギリギリ届かないところにいる祖父を横目でチラリと見てみると、さっきと変わらぬ表情でタバコを吸っていた。


 噴き出し型の花火を全て終えると、手持ちの花火をやった。線香花火を誰が最後まで持たせられるか競争するのが毎年の恒例だった。

「そういえば、今年はまだミケちゃんの姿見てないなあ」

 母が花火を見つめながら思い出したことを口にした。陽介もそういえばと思い、何か知っているかなと期待して父の方を見た。

「ミケはね、もう来なくなっちゃったんだって。2ヶ月くらい前から。他の家に懐いたのかもねって言ってたよ」

「そうなんだ。残念だね。どこの家に行ったかは知ってるの?」

 父はパチパチと小さな火花を放っている線香花火を見ながら、小さく首を横に振った。3人は中心のロウソクを囲むようにかがんでおり、オレンジ色の淡くて揺らぐ光がそれぞれの顔を照らしていた。線香花火から立つ煙の匂いが鼻を刺激する。陽介が持っていた花火は、オレンジ色の球体を地面に落として尽き果てた。新しい線香花火を手に取ってロウソクへかざす。ロウソクの周りには羽アリのような虫が集まっていた。花火の先端に火がつくと、炎が段々と登っていき、やがてドロドロの球体を象って次々と細かい火花を周囲に放ち始めた。

 今朝は巨大なカブトムシを捕って、それから標本を作って、冷たい川に入って遊んで、縁側でスイカも食べた。陽介はその日に起こったことを思い出していた。ずっとずっと楽しみにしていた夏休みは、いざ始まるとあっという間に終わってしまうんだ。線香花火があげる火花が段々小さくなっていく。明日は二川峠に行って、明後日にはもう帰るのか。陽介が無意識にため息をつくのと同時に、線香花火が息絶えた。


 ずっと夏が続けばいいのにな。


 縁側の方をちらりと見ると、祖父はいつの間にか姿を消していた。明日も楽しいことがたくさんあるといいな。空を見上げると、雲の切れ間から都会ではちっとも見えない星が瞬いていた。

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