蝉時雨と残像
陽介は動揺した。まさかあんなに大事にしていたくろすけを忘れるはずがない。でも周囲にはくろすけを入れていた緑色の虫かごは見当たらなかったし、家に着いてからそれをどこかに置いた記憶も無かった。どこかに落としてきた?いやいや、まさかくろすけに対して俺がそんな間抜けなことするはずがない。陽介は記憶を辿り始めた。原生林からの帰り道で緑の虫かごを見た記憶は……ない。最後にそれを見たのはいつだ?行きの山道では確かに持っていたし、おにぎりを食べている時もあった。そのあと緑の虫かごに触れたのは……オオクワガタを見つけた時だ。そうだ!あの時虫かごを肩から外して、おじいちゃんがいる方へ置いて、空の方の虫かごにオオクワガタを入れたんだ。そうだそうだ、おじいちゃんが緑の虫かごを持っているはず。まさか原生林に置いてくるはずがない。陽介は縁側に行って祖父に声をかけた。
「おじいちゃん、くろすけの虫かごは?」
祖父は陽介の方を見ながら、よく意味がわからないといった表情をしている。
「おじいちゃんに虫かご渡したでしょ?」
「自分で持ってただろ。俺は持ってないぞ」
陽介は体から血の気が引いていくのを感じた。事態を察した祖父の顔も強張った。原生林に置いてきてしまったんだ。明日は東京に帰らなくちゃいけないし、今から原生林に探しに行く時間も体力も残っていなかった。オオクワガタを手に入れてさっきまで喜びの色に染まりきっていた陽介は崖から突き落とされる思いだった。標本には立派なカブトムシとオオクワガタが並び、先生やクラスのみんながそれを見に群がる光景がありありと想像できたのに、大事な双璧の一つがなくなってしまった。しかもそのカブトムシは、陽介が機転を利かせて自分の力で見つけた、過去にないくらい恵まれた容姿を持つとびっきりの個体だったのだ。陽介はその場に立ちすくんで、唇を噛み締めていた。悔しい。さっきまで自分の手の中にあった宝物を、なんでこんな風に失くさなきゃいけないんだ。
「なんで…」
陽介の頭の中は悔しさと怒りの渦で一杯で、自分の口から目の前の祖父に対して発せられている言葉が何を意味しているのか把握する余裕なんてそこには存在しなかった。
「なんで虫かご置いてきちゃったの。あの時おじいちゃんに渡したのに」
感情の高ぶりがそのまま具現化された強い口調は、祖父のことをあからさまに非難していた。悔しさで俯いていた目は、言い放たれたセリフを殴りつけるように祖父のことを睨みつけていた。
祖父は何も言わずタバコを吸いながら遠くの山を見ていた。やがて立ち上がると、台所の方に行って祖母と一言二言会話したあと、再び靴を履いて外に出た。縁側で涙をこらえて悔しがっていた陽介に「家でおとなしくしてな」とだけ声をかけて、どこかへ行ってしまった。
陽介はもう標本などどうでもよくなってしまって、家の中で膝を抱えながら、外の景色をぼんやりと眺めていた。太陽は西に傾き始めていて、山の影がだんだんと伸びてきていた。時折吹く風が縁側に吊るされた風鈴をならした。こんなはずじゃなかったのにな。途中まで期待以上の楽しみを陽介に運んでいた夏休みは、最後に後味の悪いものになってしまった。祖父は一体どこへ行ったんだろう。畑で作業でもしているんだろうか。さっきはあんな言葉を浴びせてしまったが、冷静になれば祖父に非はなく自分が悪かったのは明らかだった。自分の間抜けを祖父のせいにしてしまった罪悪感も陽介に苦い後味をもたらしていた。
「忘れ物してきたんだって?」
部屋を通りかかった祖母が陽介に声をかけた。
「うん…」
「何を忘れてきちゃったの?おじいちゃん、取りに行くって言ってたよ」
「え?」
陽介は驚いた。祖父がまた二川峠に向かっているなんて思いもしなかった。あの往復で2時間かかる上り下りの多い道を今からまた行くことなどありえないと思っていたからだ。陽介は祖母に質問されたことなど忘れて驚いていた。祖母ははっきりとしない陽介に首をかしげるとそのまま行ってしまった。
祖父があの山道を再び一人で進んでいるという事実が、さっきから感じていた罪悪感をより大きいものにした。祖父は最初からくろすけを持って行くことに反対していた。その反対を押し切ってくろすけを連れて行き、不注意で忘れてきてしまったのは、他ならぬ自分だった。祖父はそんな陽介を責めもせず、黙って陽介のために山道を歩いていた。
さっきまで家の中に差し込んでいた日溜まりはいつの間にかなくなっていた。祖父が再び出発してから40分ほど経っていた。陽介は祖父に申し訳ない気持ちで一杯だった。毎朝陽介のために早起きし、陽介が喜ぶことなら惜しまずに時間を使ってくれた。そんな祖父に忘れ物を取りに行かせている自分がとんでもなく卑劣な人間に思えた。
陽介はいてもたってもいられず家を出た。祖父の後を追わなきゃ。陽介は集落を駆け抜け、二川峠へ向かう山道に入った。日没まではまだ時間があったが、太陽は山の影に入っており、日はほとんどあたらなかった。急がなきゃ。陽介は必死だった。小走りで進んでいたが、やがて息が続かなくなると歩き、息が戻るとまた駆け足になってを繰り返した。おじいちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。陽介は、祖父が一人山道を歩いている心情のことを思うと、いたたまれない気持ちになった。縁側で陽介が睨みつけてしまった時、一体何を思っていたんだろう。荒い呼吸に嗚咽が混じる。ごめんなさい。陽介は声をあげて泣きたい気分だった。本当にごめんなさい。額から流れる汗に混じって涙がこぼれた。
陽介は登山道をどんどん進んで行った。蝉の声の中に、昼間は聞こえなかったヒグラシの声があった。見上げると先ほどまで晴れていた空には雲がかかり、周りもどんどん暗くなっているような気がした。今何時なのだろうか。祖父は今どの辺にいるのだろう。陽介は走り疲れて立ち止まり、手を膝について呼吸を整えた。思えば何も持たずに家を飛び出してきてしまった。喉が渇いたが当然水筒も持ってない。陽介は周りを見渡した。この道で合ってるよな…?ずっと一本道だと思っていたが、考えると昼間は祖父の背中ばかり見ていたので、陽介はだんだん自信がなくなってきた。もし祖父と行き違いになっていたらどうしよう。父が言った「山は危険な場所だからな」という言葉が頭に浮かんだ。戻った方が良いだろうか。しかし、ここまで来て戻るのもおかしい気がしたし、この先に祖父がいるであろうことを考えると進むしかなかった。
陽介はまた歩き出した。昼間見た景色を必死で思い出し、自分が正しい道にいることの手がかりを探しながらとぼとぼ歩いた。それまで登りを飛ばしてきたせいか、太ももに少し痺れるような感覚があった。一人で来たことを叱られるだろうか。今頃家で祖母や両親が心配してるだろうか。どこまで行けば原生林に着けるんだっけ。だんだんと陽介が踏み出す足に力がなくなってきた。陽介は不安に襲われた。どこまでも続いている針葉樹林が急に恐ろしいものに思えてきた。陽介はこの広大な山の中で一人ぼっちでいることが怖くなった。圧倒的な空間の中でぽつんと無力な自分がいた。恐怖は一歩を繰り出す度に肥大化し、ついには歩く自信を完全に削り取ってしまった。陽介は立ち止まり、山側の傾斜に身を委ねるように座りこんでしまった。
ひどく喉が渇いていた。遠くでカラスが鳴いた。陽介は自分のことを本当に間抜けだなと思った。後先考えずに家を飛び出し、土地勘の無い山の奥で恐怖と疲れで動けなくなってしまった。戻った方がいいよな。でも少し休もう。どこかに綺麗な湧き水でも無いかな。陽介が立ち止まった場所の谷側はきつい傾斜で、木々の隙間から遠くにある別の山が見えた。一人で随分遠くまで来てしまったな。
その時、谷側の茂みで物音がした。陽介はビクリとした。何かがいるのだろうか。陽介は立ち上がって恐る恐る音のした方を見たが、道から数メートル下に背の低い木が密集していたのが見えただけだった。シカやイノシシが出るというのは祖父の話から知っていたが、遭遇した時はどうしたらいいのだろう。陽介は恐怖でその場から走って逃げようか考えた。陽介が来た方向へ戻ろうとした時、また音がした。今度は音の中に何かの鳴き声が混じっているような気がした。…猫?まさかこんなところに猫がいるはずがないよな。でも確かに何かが鳴いたような気がしたのだ。陽介はふとミケのことが頭に浮かんだ。ミケ…ミケなのか?陽介は試しに「ミケ」と呼びかけてみたが、何の応答もなかった。こんな山の奥に迷い込んでしまったのだろうか。まさかここにいたから家に姿を見せなかったのだろうか。もしそうだったら連れて帰ってあげなきゃ。こんな山奥に一人でいるなんてかわいそうに。陽介は茂みの方まで行って確かめてみたくなった。傾斜はきつかったが、何となく大丈夫な気がした。陽介は近くにあった木に捕まりながら足を伸ばした。
「何をしているんだ!」
登山道の先の方から声がしたので動きを止めた。顔を声がした方へ向けると、30メートルほど先に祖父がいて、小走りで陽介の方へ向かってきていた。祖父は陽介のところまで来ると陽介の腕を掴んだ。
「そこの茂みからミケの声が聞こえたから」
「こんなところにミケはいないよ」
「でもさっき…」
「陽介!」
祖父の大きい声を聞いてはっとした。祖父が真剣な目で自分の目を覗き込んでいるのが見えた。頭の中がドロドロしているような感覚があった。自分は祖父を探しに来ていて、その祖父が今目の前にいるんだという事実がやっと頭の中で焦点を結んだ。陽介は目眩がするような気がしてその場に座り込んだ。祖父は汗でびっしょり濡れた陽介のシャツと陽介の様子を見て、ザックから水筒を取り出して陽介に渡した。陽介はそれを受け取って渇きを潤していたら、残っていたのをほとんど飲み干してしまった。
祖父は肩にかけていた緑の虫かごを無言で陽介に差し出した。あの緑の虫かごだ。陽介がそれを受け取って中を見ると、くろすけが仰向けにひっくり返っており、宙に投げ出された6本の足は微動だにしなかった。
陽介はその虫かごを呆然と見つめていた。やがて目の奥から涙が溢れてきた。すべての視界は涙で滲んでしまい、次から次に溢れてくる涙が頬を伝って噛み締められた唇まで垂れ、喉は情けない嗚咽を漏らした。くろすけが死んでしまったことが悲しいんじゃない。この緑の虫かごのために自分が犯してきた間抜けと罪が、自分の卑劣さと愚かさを浮き彫りにしていた。祖父は何も言わずに陽介のそばに立っていたが、陽介が泣くだけで何もできずにいるのを見ると、虫かごを取って紐を肩にかけてやり、陽介の手を取って集落へ向かって歩き出した。
陽介は歩きながら、自分の手を握っているしわと血管が誇張された手を見ていた。その硬く握られた手から伝わってくる祖父の体温を感じていた。陽介は早く祖父に謝らなくてはとずっと考えていたが、涙と嗚咽が落ち着くまでに随分と時間がかかった。日が今にも沈まんとする時間帯で、雲がオレンジ色に染まっているのが見えた。気がつくと聞こえる蝉の声はヒグラシだけだった。言わなきゃ。今おじいちゃんに謝らなきゃ。
「来年も来いよな」
陽介が口を開きかけたまさにその時、祖父がそう口にした。祖父は歩きながら陽介の方を見るとニコリと不器用な笑みを作った。普段あまり口を開かない祖父からそんなことを言われるのは意外だった。陽介が口にしかけたごめんなさいは出る機会を失ってしまった。
「当たり前じゃん」
陽介はそう返答した。祖父は陽介のことを許してくれるのだろうか。早く謝らなきゃと思っていたが、数時間前の出来事などまるで無かったかのような祖父に陽介はなかなか口を割れなかった。そうして歩いていくうちにだんだんヒグラシの鳴き声が多くなってきた。初めはぽつぽつと聞こえていた鳴き声の密度がだんだん濃くなった。やがてそこらじゅうの木からヒグラシの鳴き声が聞こえるようになり、周囲の空間がヒグラシの大合唱で満ちていた。
「陽介の顔もあと何回見られるかな」
祖父が歩きながらつぶやいた。ヒグラシの鳴き声に紛れて消えてしまいそうな声だった。少しだけ前を歩いていた祖父の表情は分からなかった。何度でも来るに決まってる。これからも変わらずにここで夏を過ごすんだ。そんなこと、当たり前じゃないか。なんでそんなこと言うのだろうと陽介は不思議に思っていた。その祖父の言葉は陽介の意識の中でいつまでも消えずに垂れ下がっていた。陽介の顔もあと何回見られるかな。やがてその言葉は形を変え、質量を増し、陽介に訴えかけた。陽介はその言葉が真に意味することが何なのかをだんだんと理解し始め、それが陽介の中に深く暗い闇の種を作り出した。陽介は急に不安に支配されて、祖父の方を見た。祖父は変わらずに歩みを進めている。陽介はさっき一人の時に感じていた無力感を思い出し、祖父がこのまま消えてしまうんじゃないかという思いに囚われた。陽介は祖父の手を握る力を強めた。
「来年も再来年もその次もその先もずっと来るから!おじいちゃんのところに来るの大好きだから!」
祖父は陽介が突然発した必死な言葉に驚くような表情を見せたが、すぐに穏やかな表情に変わり、優しい微笑みを形どった。
「そうかそうか。そいつは結構だ」
どこまでも連なる針葉樹林の道を、二人は手を取りながら歩いていた。雲を赤く染める夕暮れの光が、少し暗くなった世界に温かい色合いをもたらしていた。競うようにいたるところから声をあげるヒグラシの鳴き声が、山や木々に反射して厚みをもって延々と響いていた。陽介はその視界に祖父が見せた微笑みの残像を見ていた。ずっと待ち焦がれていた、いつまでも続いて欲しいと思うような二人の夏が終わろうとしていた。
大きなカブトムシ 荒河 真 @truearakawa
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