幸運のお守り

 背中のザックと接触している部分が汗でべっとり湿っているのを感じる。登りは緩やかだったが、それでもずっと歩いていると息も上がってくる。周りが鬱蒼とした針葉樹林で、直射日光がほとんど届かないことが救いだった。こんな山の中でもセミは休みなく鳴いていて、自分たちの物音以外に聞こえるのはセミの声ばっかりだ。前を行く祖父は虫網の柄の部分で時折登山道にはみ出ている雑草を叩きながら、黙々と歩いていく。たまに振り返って「ちゃんとついてきてるか」と陽介に声をかけた。歩き始めて40分ほど経っており、陽介は内心疲れを感じていたが、全く息を上げずに平然と進む祖父を見ると弱音を吐く気にはなれなかった。

 肩にかけている二つの小さい虫かごが歩くたびにカタカタ音を立てる。そのうちの一つに入っているくろすけの様子を見る。やっぱりくろすけを入れてきたのは失敗だったかな。出発前、早朝にいつものポイントで捕ったノコギリクワガタとくろすけが家の大きい虫かごの中で喧嘩していた。そのままにしておくと、二川峠に行っている間にどっちかが死んでバラバラになってしまうような気がして、陽介はくろすけを小さい虫かごに入れて一緒に二川峠に連れて行くことにした。祖父は「そんなもん置いていけ」と言ったが、くろすけがお守りとして幸運をもたらしてくれるような気がして、結局連れてきてしまった。くろすけは虫かごの中であまり動かなかったが、しっかりとカゴを掴んでいた。あと数時間だけ頑張ってくれ。そしてオオクワガタを見つけるために力を貸してくれ。陽介はくろすけの方を見ながら心の中で祈った。


 歩き出して1時間ほど経ったところに、木で作られた椅子とテーブルがあった。祖父はそこで立ち止まると「休憩」と言ってベンチに座った。陽介もふうと一息ついて座った。

「ここからはすぐだから。今のうちにおにぎり食べてしまいな」

 陽介は目的地が近いという想定外のニュースを聞いて喜んだ。早く行きたい気持ちもあったが、お腹も空いていたので、祖母が作ってくれたおにぎりを取り出して食べた。おにぎりは塩気が効いていて汗をかいた後にちょうど良かったし、水筒の水はまだ冷たくて陽介の喉を潤した。祖父もいつの間にかおにぎりを持ってもぐもぐ食べている。相変わらず二人の間に会話という会話はなかった。もし知らない人がこの光景を見たら仲が悪いのかと思うかもしれない。しかし陽介にとってはこれが当たり前のことだったし、別にこのままでいいかなと思っていた。


 おにぎりを食べ終えると、二人はまた歩き出した。歩き始めてすぐ分岐点があり、二川峠方面と標識が指し示す道ではない方に進んだ。緩やかな下りの道だったが、周りに目をむけると進むにつれてだんだんと景色が変わっていくのが手に取るようにわかった。樹木の葉は針葉樹の暗い緑から、日光を透過させて鮮やかな黄緑に光っている広葉樹の葉に変化していった。木々は苔の生えた大きな幹を持ち、その幹がぐねりと大きい曲線を描いて、その周りを蔦が螺旋を形どりながら取り巻いていた。やがて水の流れる音が聞こえてきた。この先に川が流れているのだろう。その川の音が大きくなる頃には、辺りはすっかり違う世界になっていた。次々と現れる大樹と透き通った木々の葉、それから少し湿った空気が陽介をお伽話の中に居るかのような気分にさせた。


 陽介はその不思議な空気にあっけらかんとしていたが、ふと祖父がせわしなく辺りを見回していることに気がついた。何かを探しているのだろうか、歩きながら周りの木々に鋭い視線を向けている。やがて祖父は立ち止まり、谷側にある木をじっと見据えた。

「ここで待っとれ」

 祖父はそう言うと、道を外れて谷の方へ5メートルほど下り、さっきまで見ていた木の所まで行った。根元の辺りを注意深く見ながら、木の周りを一周した。一度かがんで樹皮を触っていたが、手応えが無かったのかそのまま陽介の方に戻ってきた。

「いない」

 それだけ言って祖父はまた歩き出した。思い返せば、この場所に来て一体何をするのか具体的な説明は無かったが、祖父の様子を見ているとやるべきことは最初から決まっているみたいだった。陽介も黙って祖父の後をついていった。

 祖父は同じ調子で次々と木々を調べていった。5本だか6本目だかの木を調べている時に、祖父が声をあげた。

「陽介、こっちへ来てみな」

 まさか本当に見つかったのか?陽介は半信半疑で祖父がいる木へ駆け寄った。その木は陽介の腰くらいの高さで幹が二つに分かれていた。祖父は二つの幹の間を指差している。覗いてみると、一部の樹皮が剥げてポケットができている。その奥まったところに目を凝らすと、陽介はハッと息を止めて血が湧き上がってくるような感覚を覚えた。漆黒に光る物体を視界に捉えたからだ。指を入れようとしたが狭くて入らない。陽介は近くに落ちていた枝を拾い、樹皮の隙間に挿して獲物を掻き出すように刺激した。それはなかなか姿を現さなかったが、しつこく枝で刺激すると、外の方に這い出てきた。ああ、本当に見つけたんだ。夏休みに入ってから毎日のように図鑑を見ていたから間違いない。先端の方で二つに別れたハサミ。がっしりと寸胴な胴体。オオクワガタだ。

「すげえ、本当にいるんだ。初めて見た」

 陽介はオオクワガタを掴んで、近くでじっくり見た。いつかは捕まえたいと思っていたが、まさかこの夏に実現するとは思ってなかったし、標本にだってオオクワガタを含めるつもりはなかったから、予期せぬ吉報だった。さっきから陽介の心臓はドキドキと音をあげている。

「逃げないうちにしまっとけ」

 祖父に言われて、慌てて肩にかけていた二つの虫かごを外して置き、空だった方の虫かごにオオクワガタを入れた。これで標本には巨大で立派なカブトムシと、オオクワガタが鎮座することになる。クラスのみんなはきっと仰天して羨ましがるだろうな。見つけられて本当に良かった。明日帰らなきゃいけないことは残念だけど、忘れられない夏休みになったな。


 陽介は帰りの山道でずっと夢見心地だった。道中で何度も何度もかごの中のオオクワガタを見ては、自分が本当にこの珍しい昆虫を捕まえられたという事実を確認していた。祖父も心なしか、無事にオオクワガタが見つかってホッとしているように見えた。


 陽介と祖父が集落まで戻ってきた時には午後2時を回っていた。原生林までは往復で2時間くらいだったろうか。その日も夏らしい天気で、集落まできて開けた場所に出ると、降り注ぐ日光の量が途端に多くなり、夏の真っ只中にいることを思い出させた。山の向こうには入道雲が出ている。陽介はまるで山や雲や空が陽介の収穫を祝福してくれているかのような気分になった。


 家では祖母がひとりだった。ふもとに行っている父と母は夕方まで帰ってこないと言っていた。オオクワガタを見たらなんて言うだろうか。祖父は縁側に腰掛けてタバコを吸っていた。陽介は大きい虫かごのところに行き、捕ってきたオオクワガタを入れた。


 陽介は改めてその姿を観察した。ノコギリクワガタと喧嘩するようだったら早めに注射しないといけないな。虫かごの中には他にもクワガタのメスや数種類のトンボが入っていた。


 その時陽介は何か違和感を覚えた。そこにあるべき何かが足りないような気がした。ん、くろすけ?そういえばくろすけが入った虫かごはどこにやったっけ。

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