大きなカブトムシ

荒河 真

待ち焦がれていた夏

 天高く昇った太陽から絶え間ない日差しが注がれていた。強度を持った太陽光が畦道と田んぼの緑を鮮やかに輝かせ、地に落ちる短い影とのコントラストを作っていた。川沿いに広がった集落を囲む小高い山は針葉樹の深い緑で覆われ、その向こう側では原色の絵の具をこぼしたような青空と真っ新な白い雲が背景を担当している。四方から何重にも重なって響くアブラゼミの鳴き声と、遠くで流れる清流が発するノイズが少年の耳に届く。虫網を持った少年は、熱気の中で静かに来るべき時を待ち構えていた。ずっとずっと心待ちにしていた夏を、その全身で浴びながら。


 陽介の一家は、お盆休みを利用して父方の祖父母を訪ねていた。祖父母の家は都会から電車を4時間ほど乗り継ぎ、さらに最寄り駅からバスで30分ほど山道を進んだ集落にある。この場所に来るのは毎年のことだったが、小学4年生になる陽介はいつからかここに来ることを待ちわびるようになった。ここには都会にはない山や川があり、そしてその自然の中での遊び方を教えてくれる大好きな祖父がいたからだ。何ヶ月も前から夏休みのことを考えてはそわそわし、夏が来ると両親に訪問の日程のことをひっきりなしに聞いていた。


 今年は夏休みの自由研究として、昆虫標本を提出しようと決めていたから、余計に張り切っていた。


 田んぼの畦道で虫網を構えながら、陽介は狙った獲物がまた姿を表すのを待っていた。オニヤンマは他のトンボとは違い、特定のコースを周回する性質があるからだ。先ほどブーンという羽音を立てて飛んで行った黄色のストライプと大きな緑の目。奴がまたここに姿を現わすはず。

 額からにじみ出た汗が頬を垂れていく。陽介はさっき獲物が来た方向をじっと見つめていた。すると10メートルほど先の田んぼと雑木林の境目になっている部分で、緑の目を持つ飛翔体を視界に捉えた。来る。虫網を握る手に力が入る。オニヤンマは畦道に沿ってこちらに向かってくる。陽介は目を凝らし、飛来コースを見極めた。こちらに気づいて避けたのか、オニヤンマは畦道からそれて田んぼに少し入り込んだコースをとっている。陽介は一度視線を落とし、畦道のぎりぎり端のところでしっかりと足を踏み込んだ。顔を上げると標的はすぐそこだった。届く。陽介は虫網を下から素早く振り上げた。かわされた!?オニヤンマは虫網の手前で急に減速し、空を切る虫網を空中で悠々と見つめているように見えた。まだだ。陽介はすぐさま体の向きを変え、もう一度踏み込んだ。オニヤンマは虫網の軌跡を迂回するように田んぼの方へ回り込む。振り上げられた虫網は空中で急速に方向転換し、オニヤンマを後方から追いかけた。手に力を込める。虫網は速度を増し、その円形の網の入り口がオニヤンマの尾に追いついた。いける。オニヤンマが網の中にすっぽり収まると同時に、陽介は虫網が進む方向を上向きにし、そのまま手首を捻って網を折ることでオニヤンマを網の中に閉じ込めた。


「よっしゃ!」

 思わず声に出した。網の中でブンブン暴れているオニヤンマの羽をつかんで、慎重に外に出す。大物を思った通りに仕留めたことに胸が高鳴った。顔を正面から覗き込む。緑の目はかっこいいのに、近くで見ると顎の部分がどことなくオヤジくさいのがおかしい。陽介はニッと笑って駆け出した。


「早速捕まえてきたよ!オニヤンマ」

 家の隣にある畑で作業をしている祖父を見つけて、陽介は戦果を報告した。

「おーおー、もう捕まえてきたのか。かごに入れときな」

 祖父は陽介をなだめるように言ったが、その顔はどこか嬉しそうだった。

「オニヤンマは何匹捕まえたらいいかな?標本用に」

「一匹で十分だ。そんなでっかいの何匹も捕まえられたらたまらんわ」

「わかった!カブトムシはもう昼間だからいないよね?」

「いないよ。トンボでも捕ってな」

 カブトムシは夜行性で昼間には姿を消すことは分かっていたが、陽介は少し残念そうにした。

「明日の朝カブトムシ捕りに連れてってくれるよね?」

「陽介がちゃんと早起きできたらな」

「起きるよ!4時に起きる!」

「ほう、そんなに早く起こされたらたまらんわ」

「俺は起きれるもん!」

 陽介は任せなさいと言わんばかりに得意げにその場を後にした。ずっと楽しみにしていた夏休みの本番。1秒も無駄にできないんだという思いだった。


 オニヤンマを大きい虫かごに入れ、さて次の獲物を捕りに行こうとした時、陽介はふとミケのことを思い出した。そういえば、祖父母の家に懐いている野良猫の姿をまだ見てないな。野良猫と言っても祖母がもう何年も毎日朝晩餌付けし、ミケと名付けてかわいがっていたので、実質祖父母の猫のようなものだった。陽介が祖父母の家に着いてまだ数時間しか経っていなかったから、きっとどこかに散歩に行っているんだろうと、その時は深く気にすることもなかった。



 布団の中でハッと目が覚めた。いつもと違う部屋。でもそれは陽介が待ち望んでいた部屋でもあった。外はもう明るい。時計を見ると5時半だった。隣では両親がまだ寝息を立てている。陽介は急いでパジャマから着替えた。

 居間に行くとすでに祖父がいて、お茶を飲みながらテレビを見ていた。

「おはよう」

 陽介が小声で言うと、祖父は陽介の方を見て軽く頷いた。表情は「起きたか」と言っているようだ。祖父は必要な時以外はあまり口を開かない。いや、話すのが得意でないと言った方がもしかしたら正しいのかもしれない。

「カブトムシ取りに行くか?」

「うん」

 たったそれだけの会話を交わすと、二人は靴を履き、家を出て庭に停めてある軽トラックに乗り込んだ。こうやって朝にカブトムシを捕りに行くのも毎年のことだった。


 祖父が運転する車は集落を抜けて林道に入り、5分ほど進んで最初のポイントに止まった。車を降りると、朝の涼しさが肌に触れる。湿った草と土から来る森の匂いがした。まだ蝉が鳴き出す前で、遠くから鳥のさえずりが聞こえる。

 祖父は林道からけもの道に入っていく。陽介もその後に続く。ザクザクと落ち葉を踏みながら少し行くと、樹液が垂れてカブトムシが集まる木にたどり着いた。

 その木の周辺では様々な虫が飛び交っていた。アブのような虫からスズメバチまでいる。木の幹の樹液が垂れている部分ではさらに虫の濃度が濃くなる。カナブンや蝶が樹液を求めて集まっていた。

「いないよ」

 木の周辺を少し見回してから祖父がそう言って、来た道を戻り始めた。陽介もついていく。二人は次にするべきことが何かわかっていた。ここは最初のポイントで、もっと期待できる木がまだ2箇所あるのだ。


 また軽トラックに乗り込み、さらに林道を進む。二人の間に会話は無く、軽トラックは所々でこぼこした林道を走っていく。陽介は何か話した方がいいのかなと口を開きかけるのだが、いつも結局何て言えばいいかわからずに口をつぐむのだった。祖父も特に何も言わなかった。しかし、陽介は不思議と居心地の悪さは感じなかったし、多分祖父もそうだったと思う。

 車はかつてキャンプ場だった少し開けた場所に止まった。陽介は勢いよく車から降りると、目的の木に向かって駆け出した。

「いるいる!ミヤマがいるよ!」

 陽介は木にひっついている黒い甲虫を見つけて瞳を輝かせた。祖父は持っていたビニール袋を陽介に渡し、陽介は見つけたミヤマクワガタのオスをその袋に入れた。

 しかし、その木にいるのはどうやらこの一匹だけのようだった。期待していたよりも捕れた数が少なくて、陽介は不満を感じていた。この木は捕れる確率が一番高いポイントだったからだ。昆虫標本のため、この地で捕れる全ての種類のカブトムシとクワガタを捕ることを陽介は目標にしていた。祖父母の家に居られる日数も限られていたから、少しでも多くのカブトムシを見つけたかった。


 陽介は見逃している獲物がいないか、木の周りを注意深く調べたが、いるのはカナブンやハチばかりだった。諦めの悪い陽介は、周りの樹液が垂れてない木もついでに見回した。

「そんなところにはいないよ」

 そう言って車に向かって歩き出した祖父に、諦めて続こうとしたその時、陽介の視界の隅で何かがパッと光ったような気がした。虫が集まっている木の根元の方で、樹皮のおうとつによってポケットのようになっている部分があり、その陰で何かが動いたような気がした。

「待って」

 陽介はかがんで樹皮のポケットを覗き込んだ。いた。カブトムシだ。人の気配を察したのか、奥の方に逃げようとしている。陽介は手を入れてそいつの胴体をつかみ、取り出した。

「すごい!こいつめっちゃでかい!」

 そのカブトムシは、陽介がそれまで見てきたどんなカブトムシよりも大きかった。その表面は一般的なカブトムシの茶色とは一線を画す黒さで、不気味なほどに光沢を放っていた。

「こんなすごいやつ見たことないよ。俺が見つけたんだよ!」

 陽介は興奮を抑えきれない様子で、得意げにカブトムシを祖父に見せた。

「おーおー、すごいすごい。よう見つけたな。大事にしまっとけ」

 そう言って祖父はカブトムシ用に新しいビニール袋をくれた。


 その後行った3つ目のポイントでは収穫は得られなかったが、陽介は自分で見つけたカブトムシのことに夢中だった。帰りの車の中で、さっき自分が諦めずに探したことで見つけることができた大物を愛おしそうに見ていた。自分の機転が結果につながったことがたまらなく嬉しかった。

「くろすけ」

「なんて?」

「こいつ黒いからくろすけって名前にする」

「そうかそうか。そいつは立派なカブトだ。おじいちゃんも見たことないわ」

「うそ?本当に!」

「本当だよ」

 それを聞いてますます陽介の胸は高鳴った。早く帰ってお父さんお母さんに自慢したい。夏休みが明けたらクラスのみんなもびっくりするだろうな。陽介は自然と口元を緩ませていた。それに気づいた祖父も、一緒になって口元を緩ませていた。

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