その3

 それからも彼女との生活はつつがなく続いて今日に至る。不快に思うこともなく、仕事に実直な父親に正当な理由さえひねり出せれば金銭面でも問題はなかった。自慢ではないが、昔から出任せを言うのは得意だった。


 それに彼女に共感した理由がわかってしまったこともある。俺も一人暮らしをはじめたきっかけが似たようなものだったからだ。

 子供の頃、仕事真面目な父親と家にいるのが息苦しくなってしまい、逃げ出すように家を留守にすることが多かった。友人の家に遊びに行ったり、遊べる相手がいない場合は公園や河辺で日が暮れるまで遊んでいた。母親という甘える存在もなく、口を開けば勉強のことしか言えない父親を苦手に感じることが多々あった。

 

 今思えば、父親は息子と付き合う距離を測り損ねていたのだと思う。男手ひとつの教育に苦労も多かっただろう。逃避するような心境で仕事に熱を注いでいったせいか、年を増すにつれて忙しなくしている父親のおかげで生活に苦労はなかったが、反対に会う時間は減っていった。

 しかし子供の頃の俺はそんなことに気づける余裕などなく、毎日家に帰ることが憂鬱でたまらなかった。

 そうして俺は父親から逃げるように地元から離れた学校を選び、一人暮らしを決めたのだ。

 父も俺もお互いに不器用だったのだろう。どちらかが歩み寄れば結果は変わったものになったかもしれない。互いに直視できずにいる理由を探していた。


 だから俺も彼女の気持ちが手に取るようにわかった。似た境遇が寄り添うことで互いの傷を癒したかったのか、彼女と離れることができない心地よさの理由はそこから来ているのだろう。

 

 だが、それなら俺たちの関係は単なる同情でしかないのだった。相手を熱望するこの気持ちは長年機会の得られなかった母性愛に餓えているせいだ。つまり失った時間を取り戻すかのように、実の妹に甘えているのだ、俺は。

 血のつながりに餓えている、俺はそう思っている。いや、必死に思おうとしていた。そうでもしなければ兄妹という関係から一線を越えてしまいそうだった。

 

 そんな自らの意志の弱さを嘆いてると、彼女は決まって今のように身体をすり寄せてくるのだった。擬声付きで。


「そんな小難しく感じることないと思うんだけどにゃー」


 そうやって座ったままの俺の背中によじ登り、右肩に形のよい顎を乗せる。彼女はこの体勢を取るのが好きらしい。人の気苦労を知ってか、いかにも軽い調子で耳元で続ける。


「だいたいナオは自己完結しすぎ。無理やりに理屈を付けて自分を納得させようとしてる。たんなる自己弁護だよそれじゃあさ。あと被害妄想ね」


 小難しく考えるなとおっしゃりつつ、他人の心理形成にまで踏み込んできた。ちなみに通ってないのでもう席を置いているだけだが、彼女は俺より数段上の大学に通っていた。何不自由ない生活はどうにもやる気とは無縁で、中の上くらいの成績で甘んじていた俺とは雲泥の差だ。


「そんなに血のつながりが重要?」

「重要だろ。少なくとも世間体は悪い」

「世間体ってなに? 人道にもとる行為だって後ろ指を指されること? 倫理的というなら一般論でしかないよ。ふつうの状態からかけ離れた行為だというだけでしょ、違う?」


 違わない、とうなずきそうな自分をあわてて抑え、彼女の言葉を反芻する。


「だいたい、近親結婚は認められてない」

「結婚しなければいいんでしょ?」


 あっけらかんと彼女は即座に言い切った。迷いのない強い声だった。


「結婚なんて形がなくてもわたしはこうやっていっしょにいられれば幸せ。ひとの幸せの形をだれかに決められるなんてまっぴらだよ。それに、前も言ったじゃない。『ナオといっしょにいられる時間が一番おいしい』って」


 しかし、あっ、と思い出したように天井を振り仰ぎ「でも駅前のロールケーキには負けるかも」と付け足した。


「それじゃお前はロールケーキを持ってきてくれたら、誰でもほいほいとついていくのか」

「うーん……かも?」


 彼女は目元を細めて悪戯っぽく笑った。

 俺はそんな首元をくすぐるように指でなぞる。彼女は穏やかな悲鳴を上げて身体を引く。そのまま仰向けにころん、と床に寝転がった。

 俺はその隣に同じように寝そべり、彼女と向き合う格好になった。気づいた彼女も身体を向ける。こうして真正面に向かい合うと気恥ずかしい気持ちが沸き上がってくる。


 数十秒のあいだ、互いに目線を交わしていた。

 閉じた時間。わずかに赤みを帯びた頬。

 薄く笑った彼女の唇が小さく動き、ぽつりと口ずさんだ。


「わたしたちの関係って鳥籠みたいだよね」

「鳥籠?」

「そ、鳥籠にいる鳥のようなかんじ」


 彼女の真意が図りかねず、俺は首を傾げた。その様子を見て彼女は小さく笑んだ。


「鳥籠の中の鳥って不自由してそうじゃない。いかにも飼われてますってかんじで。翼を折り畳んで、小さな枝の上を行き交って」


 俺は鳥籠の中に緑色のセキセイインコをイメージした。籠の中には対角線を描くように止まり木が置いてある。そこに止まってインコは餌箱をついばんでいる。

 たしかに餌も寝床も供給してやらなければ生き長らえない鳥たちは翼をなくしたともいえるのかもしれない。


「鳥籠の鳥は自由に飛ぶことができなくなった。でもさ、鳥籠にいる鳥って空がどんなところか知らないんだよね」

「……なるほど」

「あんなにも広い、飛び回ってる仲間たちを夢見ることはないんだ。でもさ、それは人間が勝手に押し付けた考え方かもしれないよね」


 俺はイメージ内のインコにもう一羽を追加した。もう片方は籠の隅で言葉通り羽休めをしていた。存外気持ちよさそうに目を閉じている。

 もし籠をこの部屋にたとえるとすると、この気の抜けた鳥の方が俺なんだろうと自覚する。


「外がどんなところかわからないから案外幸せそうにしているのかもしれない。知らないことが幸せになるかはわからないよな」

「でしょ? 休日のナオみたいに寝てばっかなら、案外幸福かもしれないよね」

「うるせぇ」


 俺は彼女の頭に軽くチョップを入れた。自覚はしたが他人にいわれると納得のできないことはあるものだ。彼女は叩かれた頭を押さえて抗議の声を上げる。

 そんな彼女に向けてひとつため息をついたあと、思うところがあって訊ねてみる。


「さっきの話なんだけど」

「さっき? お夕飯はからあげがいいな」

「いや、それじゃない……っていうか鳥の話から連想させるな」

「えへへ」


 先ほど抱いた小鳥のイメージが晩飯のおかずと結びつけそうになるのをあわてて打ち消す。

 当の本人はといえば、悪びれもせずににこにこと笑顔を浮かべている。そんなことを言っていると動物愛護団体が黙っていない、と俺は忠告する。そしてかぶりを振って無理矢理に話を戻す。


「そうじゃなくてな、鳥籠の話だ。鳥籠の鳥は案外幸せなんじゃないかって」

「ああ、そういうこと? うん、言ったね」

「俺たちは鳥籠にいるわけじゃない。外の世界だって知ってる。そして……」


 そこまでいって言いよどむ。彼女のまっすぐな視線をまともに受けられない。これは現状を打ち崩すような真似だ。

 そうわかっていても俺は訊くべきだと前々から感じていた。たが、言い掛けていた言葉がのどにつまったように出ていかない。

 

 長い間押し黙っていた俺をちらりと見やって、彼女は口を開いた。感情を押しとどめるようにして。


「……ひとは誰彼、狂ってるものだよ」


 彼女は低い声でそう言った。


「ナオがわたしといたくないっていうなら無理強いはしない。でもね、わたしはずっといっしょにいたい。たとえナオが他の人と結婚したとしても、わたしはナオといっしょにいることを選ぶよ。後ろ指を指されても誰かに恨まれても」


 重々しいその告白に、俺は二の句が継げずにいる。「わたしだって考えなかったわけじゃないんだよ」と力なく笑いながら言った。


「……お父さんやナオと別れて、わたしは何度心細く思ったかわからないよ。お母さんは慣れない水商売でお金を稼いでいたけど、酔って帰ってきたお母さんはまるで別人だった。そんな夜はたまらなく怖かった。学校じゃ、お父さんがいないのはわたしひとりだったし、みんなとすこし距離があったように思ったかも」


 俺は押し黙って次の言葉を待った。


「でね、そんなときにふっ、て思い出すの。もやもやしていてよく思い出せないんだけど、泣いていたときにいつも温かい手があったこと。お母さんのともお父さんのとも違った、小さな手」


 その言葉で、片隅にあった記憶を思い出す。

 彼女は覚えていたのだろうか。いつも喧嘩ばかりしていた両親の側で年端もいかない彼女をあやしていたのは俺だった。両親の怒号と喧騒に逃れたいがために、まだ小さな彼女の手を必死に握りしめていた。俺自身もなにかにすがりたかった半面、この小さな手を守りたいと強く感じたことも確かだ。小さな、小さな正義感が彼女の手を繋いでいた。


 彼女が恐る恐る握ってきた手は震えていた。昔とは違う、しかし華奢で繊細な指。その両手は祈るようにして俺の手を包みこみ、目を閉じた。


「あの温もりだけを頼りにわたしはずっと生きてきたの。そしてナオにようやく出会えた。やっともう一度あの手を握られた。その瞬間、わたしは思ったよ。もう二度と離れたくないって」

「……そうか」


 今し方聞いた重みのある話に圧倒されてようやくそれだけを絞り出すことができた。

 崩壊していく家族の中で、ただ俺の影を頼りに生きてきた、そう聞くのは悪い気はしない。まして、俺も無意識に彼女の姿を追っていたのだ。

 切り離された二人。周囲に振り回され、普通の家庭を夢見て。心の残滓を頼りに生きてきた。

 そう考えると先ほど抱いた自分の思惑など吹き飛んでしまった。思わず振り仰ぐようにして天井を眺めた。


「なら、まぁいいかなぁ……」


 俺は視線を泳がせたまま諦観するようにため息をついた。

 それを見た彼女はかすかに笑みを漏らした。


「こんな話を聞いたら話しにくくなったんでしょ、違う?」

「あー、もういい、俺が悪かった」


 にこにこと訊ねてくる彼女に降参して追及を免れる。いずれにせよ旗色が悪いのは否めない。勝てない勝負はしない主義だ。

 だが、不意に彼女は笑顔を崩し、目をそらす。


「さっきはああ言ったけど、やっぱりナオは幸せになってほしいから……。これはあくまでわたしが勝手に思っているだけで、その……」


 繕うようなその言葉にため息をひとつついた。


「このバカ」


 またうつむきはじめた額に向かって俺は中指をはじいた。その瞬間、小気味良い音が部屋に響く。彼女の「いたっ!」という叫びからして勢いが強すぎた気もする。意外と加減が難しい。

 不服そうな表情で俺を見上げるその様子を見て俺は呆れた。


「俺もそうならお前も被害妄想が強い。誰も出ていけなんて言ってないだろ」


 その言葉を聞いた途端、彼女の目が輝いたように見えた。俺はその頭に手を置き、無造作に髪をわしゃわしゃと撫でた。手の下でくすぐったそうに目を閉じる。


「いつまでになるかはわからない。だけどお前といて楽しかったし、今もそれは変わらない。だからまだどこにも行かないで欲しい」


 これが、『今の』俺の答えだ。踏み込めもしない、引くこともできない、中途半端であいまいな。覚悟と呼ぶには弱すぎて、不明瞭。

 それは結局、微妙な距離感で接している今の関係を続けていくということだった。

 案の定、疑いの眼差しで眺めている彼女からはとても良好な答えとはいえなかったようだ。それでも諦めたような吐息を漏らして、


「……煮え切らないなぁ。ま、今はそれで許してあげよっかな」


 そう減らず口を返して微笑みかける彼女は、いつにも増して愛おしく感じた。俺は、この笑顔をあと何度目にすることができるのだろう。

 

 このいびつな関係はいつしか終わりを告げることになるのだろう。糸がすり切れていくように、やがてぷつりと終焉を迎えることになる、漠然とそう思っている。

 もしくはそんなのは俺の想像で、延々とこんな生活が続いていくのかもしれない。

 しかし、やがて崩れ去るからといって、ほかに代替わりが効くものを今の俺たちは持ち合わせていなかった。

 心の隅に空くひび割れから目を背ける手段をまだ知らない。それを埋め合わせるほどの関係にはまだ足りない。

 欲しかったのは、金網のなかの閉塞。

 

 ふっと湧いたその想像に気を取られる前に彼女が距離を詰めてきた。そして囁くような小さな声で問いかけてくる。


「……ねぇ、ナオ?」

「ん?」

「……大好き」


 短くそれだけ言って、彼女は俺に身を埋めるようにして顔を隠した。

 俺は小さく笑って返答の代わりに彼女の背にそっと手を回した。

 以前には踏み切れなかった彼女との距離感。我ながらいまだにぎこちないと思う。

 きっと彼女は内心で文句を溜めているのだと思う。もっと優しく、だとか。それでも今は黙って身を預けてくれていた。


 彼女の告白に対する本当の答えは今は出せそうにない。それはいつになるのかわからない。途中、煮え切らない俺をせっついてはくるだろうが。


 子供の頃に妹と別れることがなければ、俺たちは今こうして互いの温度を感じながら心地よいまどろみに包まれることはなかっただろう。この状況が幸せと映るのかどうかはわからない。ただ俺は信頼して身を寄せてくれる彼女を大事にしたかった。


「……光希」


 久々に名前を呼んだ気がした。

 俺の腕の中で「うん?」とくすぐったそうに返事が聞こえる。


「いっしょにいよう」


 俺はそれだけ言うと、その華奢な身体を抱き寄せた。





 籠の中の鳥が外の世界を知るときを。

 

 今はまだ、遠くに感じていた。

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鳥籠 碧靄 @Bluemist

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