その2

 幼いころ、親の都合で俺は父親に、彼女は母親にと、それぞれ引き取られた俺たちは十数年以上も離れて暮らしてきた。

 お互いの成長する姿を確認するすべもなく、肉声を聞くこともなかった。古風で仕事堅気な父親からは携帯電話など持つことは許されず、家の電話を使うと通話履歴から詮索された。

 唯一といえば年に一度、年賀状のやり取りを通じてのみだった。それも互いの親に悟られる恐れのある深い内容も書けなかったため、単なる儀礼的なものに落ち着いてしまったといえる。そしてその細いつながりも、俺が大学に入ってから途絶えた。その頃には妹の存在など丸きり記憶の陰に沈んで思い返すこともなかった。

 

 男所帯で会話も少なく、父の仕事も忙しくなってからはヘルパーを雇い、家事を頼んでいた。そのせいで食事はほとんどひとりで取り、四人掛けのテーブルの広さにも慣れてしまっていた。そんな生活が長かったからか、大学に出てからは一人暮らしをはじめることに決めた。


 新しい場所での生活にも慣れ、一年が経過した頃に変化が訪れた。

 スーパーで買ってきた惣菜でできた夕食を平らげ、一心地ついた時間帯に往来を知らせるチャイムが鳴った。

 珍しいな、と訝しみながら立ち上がり、インターフォン越しに来客に声をかける。

 

『……尚人なおとさんのお宅ですか』

 

 一瞬、なにを訊ねられたのかがわからなかった。それが自分の名前を示すことに気がついたのは一拍を置いてから。

 自分を下の名前で呼ぶほど近しい関係に思い浮かばず、セールスでもなく俺個人に用事がある人間が家を訪ねてくることが珍しかったからだ。

 怪訝に思いながらも、来客を待たせてドアを開けた。


「は……い?」


 思わず語尾に疑問符が混ざる。見知らぬ女性で年齢は同じくらい。まとめた髪が無造作に束ねられ、パンツルックな比較的簡素な出で立ち。大きめのバッグを手に持つところから遠くからやってきたのか、と疑った。

 同時になにか既視感が拭えなかった。忘れるべきでないことを思い出せないような、水底に沈んだものをすくい上げようと躍起になる、そんな心境だった。


「えーっと……どちら様かな」

「……やっと会えた」


 突然彼女の身体はぐらりと傾き、俺の胸に体重を預ける。

 彼女の顔をうずめる姿を見下ろしながら、脳内では疑問符が注がれた炭酸のように浮かんで飽和していった。

 シャツをつかむ震えた手を振り払うこともできず、動きを止めたままの俺を不意に見上げて懇願するような表情を浮かべる。 


「私、光希! 妹の! ……思い出せない?」 

「え……、嘘だろ!」


 驚愕のあまり思わず口にした言葉が当の妹には大層気に入らなかった様子で、いまでも「あそこは名前を呼んで抱きしめるシーンだった」などや「優しく身体を離して頭をなでるべきだ」とダメ出しをされる羽目になった。


 ◇◆


 そんなわけで、彼女は突然、転がり込むように家にやってきて、そのまま居着いてしまったのだ。

 そして困ったことに彼女は女子で、さらに問題だったのは妹だったことだった。

 あまねく一人暮らしの男の部屋を想像しても、その様相が突如私生活に入り込む女子を歓迎するようになっているわけはない。ましてや十数年ぶりに会う妹と共通する話題など存在するわけもない。しばらくは気詰まりな生活が続いていた。

 それに彼女の様子も気がかりだった。

 手持ちの荷物も何日間か泊まり込みで遊びにきた、というよりも帰るつもりもない家から出てきた、という表現がぴったりだった。茶化されていたもののあのときの真に迫った彼女の様子は本当だった。

 踏み込むのは躊躇われたが、さすがに気になって理由を訊ねてみたことがある。何気ない口調を装いながら。


「ところで、母さんはどうしたんだ」

「わたしがいないから今はひとりかな」


 返答は至極さっぱりとしたものだった。もとよりそんな引き算みたいな答えは期待していない。


「家出か?」

「結局、そうなるのかな……そんなつもりはなかったんだけどね」

「なんて言い残してきたんだ?」

「学校辞めて専門学校に行くって言ってきた、まぁやっぱり似たようなものだよね」

「……そうか」


 すこし顔を伏せるようにして、泣き笑う表情を浮かべた彼女。今はそれ以上深く追及する気にはならなかった。

 

 今でも思う。目の前にいる彼女はあのとき別れて過ごすことになった妹なのかどうかを。

 秘密裏に母親と連絡を取り、彼女が本当に家を出たのかも訊いた。あわせて親戚に事情を尋ねてみても彼女の言葉に偽りはなかった。すなわち、妹の光希みつきであることに間違いはなかった。

 

 長い年月を離れた妹は自分の知らない姿と考え方を持っていって、かつて同じ家で過ごしてきた記憶にはほとんど当てはまらなかった。幼いころに泣き声をあげていた少女の姿と結びつけることはできなかった。

 十数年ぶりに顔を合わせた彼女の姿はどこまでも他人で、異性として映った。血の繋がりというものがあるとしたら、はたしてそれはどこから来るのだろう。気になって「血の繋がりって信じるか」そう彼女に訊ねてみると、一瞬考える素振りを見せた。

 

「この世にはここにあることがすべてだと思う」

「なんだそれ」

「過去も未来も、今には関係ない、ってこと。大切なのはどう思うかってことかもね」


 見透かしたような口振りに俺は虚を突かれてしまう。あれで妙に達観した部分がある。


「ナオがわたしのことで気に病む必要はないよ。嫌なら出て行くし」

「そうはいってないだろ」

「じゃあなにかやましい気持ちがあるってこと?」


 茶化すように笑むその姿を見るとどうにも先が継げなくなる。

 結局、追い出すことも、自ら出て行くこともなく妹はそのまま居候を続けていた。



 それからまた一ヶ月。二人でいることにも慣れてきて、家での役割も互いにわかってきた。

 その日は冬の訪れを感じさせる肌寒い一日だった。

 なぜか料理全般が苦手だった光希の代わりに自炊が板についてきた俺は、脳内で鍋物の具を思い描いていた。

 珍しく彼女が父親のことを訊ねてきた。別れてきてから俺がどんな環境にいたのかが気になったらしい。

 

「嫌いではなかったけどな、やっぱり。今思うと、俺もただ反発したかっただけなのかも」

「家事とかは?」

「それはヘルパーの人か、俺がやってた」

「へぇ、実際にいるんだねそんなの」


 勉強は、旅行とかは、と訊いてきた内容に一通り答えつつ、最近は連絡を寄越してない自分に気がつき、近いうちに電話をかけようとも思えるようになっていた。離れていると距離感も変わっていくのだろうか。

 そんな自分の話が一段落したところだった。頃合いを見計らい、母さんとはうまくいってなかったのか、と主語をぼかして俺は訊ねた。

 返答は次のようなものだった。

 

「新しいひとができたみたいだったから出てきた」


 表情を変えず、どら焼きをほおばりながらにべもなく言ってのけた。何度もタイミングを見計らい、やっと聞きつけた内容であるはずなのに、その回答にはあまり納得できなかった。

 そんな表情の俺を見て、彼女は先ほどの言葉に付け足した。


「べつにそれが不満だっていうわけじゃなくてね。なんていうのかなぁ」


 片手で口元を覆って考え込むような仕種を見せ、首をかしげてから小さくうなずいた。


「ふたりのあいだに、わたしは必要ないかな、って思ったの」


 つまり新しい父親になじめなかったということだろうか。俺は訊ねたが、その点については左右に首を振って否定した。


「違うよ。そんなのどうでもいいの」息を咳くように「……お母さんと新しいひとは特別な関係だけど、わたしにとってはなんでもないのよ。それに、長年過ごした家にまったく知らないひとが上がり込んでくるのよ。わたし、そんなの堪えられない」


 食べかけのどら焼きをテーブルに置き、肩を波立たせるようにして話し続ける。それは彼女にしては珍しい感情の露出だった。


「どうして会ったばかりのひとを『お父さん』だなんて呼ばなきゃいけないの? 新しい家族だから? お母さんが好きなひとだから? そんなのわたし知らないよ、いまさらお父さんだなんて、考えられない。わたしには昔、本当のお父さんがいて、ナオがいたの! 苦労もあったけど、お母さんと二人でなんとかやってきたのに、わたしにはずっとずっとお母さんしかいなかったのに……っ!」


 今から思い返すと、光希を意識し始めたのはこの頃だったかもしれない。激情を吐き出しながら泣きじゃくる姿をどうしても放っておけなかった。それでもすこしのためらいが、広げようとした両腕を力なく下ろさせた。

 結局、そんな俺にできたのは小さな頭を力なく撫でることだけだった。


「……意気地なし」


 弱みを見せた女子は優しく包み込むように抱くのがセオリーだと、泣きながら怒って、最後に笑顔でつっけんどんにいわれた言葉がそれだった。


 女心は難しいな、と痛切に感じた出来事だった。

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