鳥籠

碧靄

その1

 俺の隣には彼女がいた。

 そして彼女の隣には俺がいる。



 このことはもう自明の理のようにふたりの中で共通項となっていた。この部屋でどちらかが欠けている時間があれば違和感を感じるほどになっていた。

 俺が急用で家を出払っていたとき、ひとりで時間を過ごしていた彼女は「アルデンテのパスタを目前にして、家にソースがないことに気づいたときみたい」と例えたことがあった。

 彼女の好きなものはどうやらラーメンのたぐいではなかったらしい。休み中に三食とも食べ歩きに付き合わせたのは失敗だったと見られる。

 そうやって先週末の出来事について悔やむ俺を、彼女はやんわりと弁護した。そういうことじゃないんだけどな、と一言添えながら。


「それはそれでいいの。わたしはどんな食べ物よりいっしょにいる時間が一番おいしいんだから」

「じゃあ今晩はお前が作るか? 夕飯」

「それは許可できませんー」


 枕のような大きさを誇る、犬のぬいぐるみを胸に抱えてごろごろと転がりながらそう答えた。抱きかかえられたぬいぐるみの首は締まっており、こちらに哀願するような視線が向けられる。

 寝るときのベッドも一人用だったのをより大きいものに買い換えた。前のベッドでは、朝方降りたとき床下に落ちている彼女を踏みつけた経緯があったからだ。

 ならばと床に布団を敷こうとすると「夜掴まるものがないと不安」と困った顔を浮かべられた。それこそ締められ続けているぬいぐるみの出番だと思うのだが、朝起きたときにはいなくなっていることが多いらしい。

 十中八九彼女が寝台の上から弾き出した結果によるものだと思うのだが、口に出せば次に弾かれるのは自分の頭なので多くは語らない。


 そんなベッドの上から睥睨するような視線を寄越す彼女は労働力とは無縁の姿でくつろぎきっている。


「この年頃なら花嫁修業とやらをするもんじゃないのか?」


堪えかねず俺が訊ねると、彼女はふるふると首を振った。


「しないしない。最近のコなんてそんなのお母さんに全部任せるって言ってる。結婚してから頑張るんだってさ。仲良くなる口実にも使えて一挙両得」

「お前はせめて役割分担という言葉を覚えるべきだな」

「わたし、くつろぐ。あなた、働く。綺麗な形じゃない。これこそ適材適所」


 さっきから四字熟語で返されるのはなにかに影響を受けたのだろうか。


「俺に服従の精神があったら考えなくもない」


 もちろんこうした不服の声の申し立ては届くこともない。ほかの場面で役立っていないというわけでもないので黙っておく。買い物とか買い出しとか買い置きとか。さすがに女子というかショッピングの体裁をなしていれば動きはする。

 その机と仲良くなっている姿にだいたい、と俺は前置き、


「結婚したら姑がいるだろ。よく嫌がらせしてくるらしいじゃん。ほら棚の上の埃を、指でふき取って……」


 そういって机の埃を指でぬぐって息で吹くジェスチャーを披露した。

 そんな俺の動きを不思議そうに見ていた彼女は、堪えきれずに吹き出した。


「あはははは! そんなのいつの話? 今のお母さんなんてみんな優しいよ、実の子の方がけなされるんじゃない」

「そうかなぁ」

「うん、ナオは住んでる時代が古すぎ」

「うるせぇ、ひとつしか違わないだろ」


 彼女はベッドの上で心底おかしそうに笑い転げている。

 嫁のやることに逐一口を出し、味付けが濃いだの薄いだの、掃除のやり方に難癖をつける姑という存在は過去に置き去りにあったのだろうか。掃除機もサイクロンを内蔵する現代はハイテク化が加速している。

 ハイテクって言葉も古いよ、と笑う最中の彼女からツッコミが入る。ひとしきり指さし笑い終えたあと、彼女は息を整え、頬に手を添えて天井を仰いだ。


「でもそうだねぇ、手作りの料理には興味あるな」

「得意料理は冷や奴と豪語するやつがか」

「失礼な。目玉焼きくらいならお手のものよ」

「お前にとって手を使えばすべて手料理か」

「卵を割る機械があったら出番はないかもね」


 手料理というならそれくらいは入り口ほどに捉えてほしいのだが。そこからわかるように台所に立つのは俺の仕事だ。

 同居する女性がいれば自然と期待する手づくりの料理は単なる男の妄想に過ぎないと断定するような口調でいわれた。


「でもさ、やっぱ会社から帰った夫に『おかえりなさい、あ・な・た』って出迎えるのはあこがれるかも」


 俺はそれを聞いて思わず吹き出した。


「それこそいつの時代だよ。『お風呂ですか、それともお食事ですか』って言ってくれるのか」

「ついでに『それとも……わたし?』って付け加えるかな」


 それも定番の文句だが、考えてみれば帰ってきてそんな余裕があるのが不思議なくらいだ。仕事のストレスと空腹感と戦いながら及ぶものではないと働く身になってよくわかった。体力が有り余っているなら仕事で使ってこいといわれるのが現代社会の図なのかもしれない。

 俺が昔の日本男児と現在の恐妻家を比較していると、彼女はベッドの上で身じろぎをした。そちらに思わず目をやると、その目にはいざなうような光をたたえている。

 妖しい雰囲気をまといながら彼女はささやくように問いかけてくる。


「で、ナオはどうなのよ」

「……どうって、なにがだよ」

「んーん。ただねぇ、いつなのかなぁって……」


 彼女はベッドの上でするすると白いワンピースのスカートを引き上げ、ひけらかすように白い足を見せつける。露わになった細い足にしなだれるようにして上半身の体重を預けていく。それに呼応するように柔らなふくらみが形を変えていった。

 肌の白さは同色のワンピースに溶け込むかのようだった。俺はその雪のような一帯の白色に目を離せずにいた。


「ほら」


 俺の目線を浴びながら彼女は得意げに微笑んだ。


「興味は、あるんでしょ?」


 その言葉に俺は苦い笑みを浮かべた。

 テーブルに手を突いて立ち上がると、彼女が座っているベッドに乗り込む。二人分の体重を受けてベッドがぎしぎしと窮屈そうに音を立てる。

 壁にもたれて座っていた彼女の肩をつかんでふんわりと引き倒し、後ろに倒れ込むようにして仰向けに横たわらせた。俺はそれを見て頭の左右に手を置く。向き合って俺を上にして跨がるような姿勢になった。姿勢を変えるとベッドが小さくきしんで抗議の声を上げる。


 部屋の中は互いの吐息の音が聞こえそうなほどに静かだった。

 すぐ目の前には力を抜いて、身をゆだねるような体勢で寝たままになっている彼女の姿がある。緩やかな弧を描く鼻筋。その下に薄紅色の唇が薄く光沢を持っていた。

 着崩れたワンピースの隙間からは鎖骨と胸元が薄く覗いた。石けんの甘い臭いがほのかに香る。俺からも同じ臭いを嗅いでいるんだろうか。

 細められた目蓋の奥。潤んだ瞳が俺の姿を捉えて離さない。その目に取り憑かれるようにして気持ちが引き寄せられていく。


「ねぇ?」


 俺の頬をさするように彼女の手が伸びてくる。こそばゆい感覚に思わず背筋が伸びる。

 そんな俺の一連の動作を彼女は慈しむように目を細めて見ていた。身内びいきを抜きにして整った顔立ちを持つ彼女は綺麗だった。


 すぐにでも触れられる距離感に彼女の肢体がある。互いの吐息が聞こえるほど近くに彼女の顔はある。このまま倒れ込むようにして彼女を抱くことができたら――そんな眠っていた気持ちがあったのは事実だ。

 だからこそ俺は精一杯の理性を総動員して、突き放すように手に力を入れて起き上がった。そうしてベッドの反対側へ飛び退くようにして距離を取った。


 すこしばかりの自己嫌悪を拳に握って、いたたまれなくなって彼女に背を向けた。


「……フフ、今日はいいところまでいったんだけどな」


 ゆっくりと背後を振り向くと、彼女はすでに身体を持ち上げて座っていた。一時前と同じように足を曲げて膝に寄りかかっている。

 彼女はくすくす、と口に手を当てて笑っている。侮蔑するような調子ではなく、やっぱりね、と声が聞こえてきそうな悪戯っぽい仕種。


「あとなにが足りないのかなぁ、清楚な感じじゃなくて、もっとマニアックな服の方がいい?」

「……うるせえ」

「きゃーこわい」


 小さな抵抗に、手元にあったぬいぐるみを盾にするように構えて、そこに身を隠す。ただ、その表情には楽しそうな笑みが続いている。

 ぬいぐるみの両腕をもてあそびながら、彼女は小さく吐息を漏らした。


「こんなところだけ奥手なんだからねぇ」

「……無理だよ、俺には」


 ほかを当たってくれ、と手のひらを何度か払う。俺はベッドの縁に足を下ろして、やれやれ、とため息をついた。

 窓の外に目線を移すと、夕暮れ時が近づいているようだった。日が落ちてきているのが床に落ちた橙色の光でわかった。


「あんまり気に病まないでよ」


 ふと、背後からふわりと首に手を回される。彼女は身を預けるようにして俺の背にもたれ掛かってきた。彼女の体重を背に受けたが、不思議と重さは感じない。


「わたしじゃ物足りない? それとも、やっぱり」


 幾分かトーンを落とした声が残念そうに。


「わたしがだから?」


 その言葉に、一瞬答えが詰まった。


「……両方だな」

「それは嘘。少なくともさっき半分は本気だったでしょ」


 せめてもの抵抗に反論してみたが、切り捨てるようにそう言われた。さすがに四六時中いっしょにいるとたいがいのことはお見通しらしい。

 あからさまなため息をつきながら彼女は気にしたふうもなく言う。


「わたしはぜんぜん気にしないのになぁ」

「そういうわけにもいかないだろ」


 意に介することのないその声音に俺は苦笑した。さすがに血のつながった妹と関係を持つというのは、先ほどのことがあったとはいえ抵抗がある。


「だってわたしたち、他人みたいなものでしょ」


 言葉の裏に寂しさを滲ませて、言った。


 彼女のその気持ちを、否定も肯定もできずにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る