家族の風景

 ほんのわずかなその一瞬、とてもおだやかな夢を見ていた――気がしたのだけれど。



 うっすらと耳に届いたのは鍵の開く音と、聞き慣れた「ただいま」の声。ああ、もうそんな時間か。そうだ、ついさっき連絡をもらったのに。

 ゆっくりと近づく足音がぱたりと止まると、まどろみのふちへと、あたたかな掌がそうっと降りてくる。

「あまね」

 いつもよりもうんとボリュームをしぼった、鼓膜を震わせるようなやわらかな声、かすかに触れる指先からつたうぬくもり。

 このおだやかさを知っている。もうずっと昔に手放したはずの、手に入るはずなんてないものだとそう思っていた。そのはずなのに。

「しのぶ……?」

 ぐらりともやのかかったままの思考を揺り起こすようにしながら、くぐもった視界にピントをあわせるように数度のまばたきをして瞳を細める。

「ただいま、周」

「――おかえり」

 自分でもびっくりするような、ざらついて掠れたくぐもった声に思わず苦笑いでも漏らしたくなれば、いつもどおりのあのたおやかなぬくもりだけを溶かしたかのような笑顔がそうっとかぶせられる。

「ね、怖い夢見なかった?」

 そうっとこちらへと差し伸ばされたおおきな掌は、子どもを宥めるようなやわらかさで、すこし寝癖のついた髪をやわらかになぞってくれる。

「……だいじょうぶ」

 もうとっくの昔に子どもなんかじゃないのに―こんな風に子ども扱いされることが少しもいやじゃない自分にあきれてしまう。


 赦せるようになったのがいつからだったかなんて、もう思い出せない。

 固く閉じた結び目のように誰にも明け渡せないと思っていた、心の内にあるわだかまりのひとつひとつがゆるやかにほどけていったその瞬間を、いまでもはっきりとおぼえている。

 こわばって震えた指先をそっと差し出すたび、余すことのないぬくもりだけを携えた掌は、優しくそれを握り返してくれる。そうやって幾度となく、確かなものを周へと手渡してくれたのが忍だった。


 自分を赦せなくたっていい、何度だって間違えてもいい、信じていい、ここにいてもいい、忍を好きでいてもいい。

 息がつまるようなぬくもりに照らされるのを感じながら、繰り返し繰り返し、終わることのないあまやかな夢を見続けている。

「また後で話したいことあるから、待っててくれる?」

「うん」

 重ね合った指先からつたうぬくもりは、何よりも得難い安らぎを手渡してくれる。




 つけっぱなしのラジオから聞こえるおしゃべりとシャワーの水音、その両方が混ざり合ったすこしだけ曇ったやわらかな音色に耳を澄ませているそのうちに、頭の片隅をぼんやりと横切るようにいつか見たはずの光景がよぎっていく。ああこれは――ほんの少し前、一瞬だけ見た夢だ。きっと。

 唇をゆるく噛みしめるようにしたまま、そうっとまぶたを閉じる。途端にありありと、懐かしい景色がよみがえる。



 日が暮れるまでめいっぱい遊んだあとは、鉛をいれられたみたいにぐったりと身体が重い。

 つけっぱなしのテレビから漏れ聞こえるタレントたちのはしゃぐ声と両親の話し声はまどろみに捕らわれた意識をますますゆるやかに絡め取っていくばかりだ。

 ソファに沈み込んだ身体はぐにゃりと重くて、くらげかなにかのような軟体動物にでもなったみたいに不確かだ。ぴったり閉じた重いまぶたは接着剤で貼り付けられたみたいで、ちらつく光と物音は確かに感じているのに、一歩も身動きがとれそうにない。

 こんなところで寝ていたらきっと叱られる――だらしないだとかなんとか言って。両親はどうやらおしゃべりに夢中らしく、こちらに気づいていないのが幸いだった。

 早く起きないと、いまのうちに――何度だってそう思うのに、弛緩しきった身体には少しも力なんて入らない。

 起きないと、起きないと――しきりに言い聞かせるそのうち、よく見知った影がふいに目の前へと覆い被さる。

「周」

 いつも聞くそれよりは、幾分かやわらかな響きが鼓膜をくすぐる。

 だめでしょこんなところで寝ちゃ、風邪ひくわよ。

 疲れてるんだろ、無理に起こしちゃかわいそうだ。

 タオルケット越しにそうっと揺さぶりをかける母親を制するのは、父の声だ。

 ふいに、身体が宙に浮くような心許なさを味わう――抱き抱えてくれたのだと、とろとろと重い意識の波を漂いながら気づく。

 すっかり重くなったな。

 そりゃそうよ、もう二年生なんだから。

 いくつまでこうしてやれるんだろうな。

 ゆらゆらと揺さぶられながら聞こえる会話は、普段家の中で耳にするそれとはどこか違う、やわらかな親密さをまとっているかのように聞こえるのが不思議だった。


 お父さんお母さん、こないだ背の順で並んだ時、前にいた子をふたり抜かしたよ。

 幅跳びの記録が二センチ伸びたよ。

 それと給食の時、残さず食べて偉いねって教壇の前でほめられたよ。

 いっつも全然聞いてくんないじゃん。ふたりでばっか喋ってないでちゃんと聞いてよ、今度話すから。

 ゆらゆらと揺さぶられたまま階段を一段一段上っていきながら、ぽそりぽそりと言葉を漏らす。浮かび上がる言葉はみんな、たちまちに泡みたいにはじけて消えていってしまうのがもどかしいばかりだけれど。


 ずさり、と音を立てるようにしてベッドの上に横たえられると、おおきな掌は蓑虫みたいにこちらをくるんだブランケットをはがすと、くしゃくしゃになった毛布を丁寧にかけなおしてくれる。

「おやすみ、周」

 指先がすうっと滑らかに、髪の上をなぞる。うんとちいさな子どもを宥めるみたいなそんな仕草が、いつもならはずかしいなと思うはずなのに、少しもいやじゃない。

 おやすみなさい。

 喉がふさがって言葉にならないから、胸の奥でだけぼそりと淡くささやく。

 ありがとう、おやすみなさい。またあした。目を覚ましたらちゃんと話すから、お願いだからちゃんと待っていて。

 とろとろとやわらかに沈み込んでいく意識をそうっと手放していくようにしながら、祈りをこめるみたいに、布団の中に潜り込ませた指先をゆるやかに握りしめる。



「……なあんだ」

 遠ざかっていく光景を前に、力なくぽつりと息を吐くようにそう呟く。

 なんだ、そんなこと。どうして、いまさら。

 ああ、きっと――忍がいてくれたからだ、そのおかげだ。すとん、と胸に落ちていく感情に気づいた途端、胸を焼かれるような息苦しさといとおしさがありありと迫ってくるのに気づく。

 ひどくありふれて、あっけなくて――だからこそ思い出すことなんてあるはずもないと思っていた、とうの昔に忘れたはずの光景だった。

 いまよりもずっと昔、当たり前のように守られていた、そんな時代が自分にだってあったのだ。

 そこにいつしか『居場所』を見つけられなくなっていたのは、彼らのせいなんかじゃない。すべてはみんな、必要がないと切り捨てた自分のせいだ。

 どんな時間にだって戻ることは出来ない。それでいい、それで構わない。それでもただひとつ、言えることがあるのだとすれば――子どもだった自分を守ってくれたあの場所にはもう二度と帰れなくなった。ただそれだけだ。そんなこと、とっくの昔に知っていた、そのはずなのに。

「なあんだ」

 大きく口を開けるようにして、もう一度だけぽつりとそうつぶやく。力ない声とともに、胸にぽたりと落ちた一滴のしみがじわじわと広がっていくのにただ身を任せる。

 それでもいまの周には、忍がいてくれる―周にはもう、忍しかいない。それでも構わないと、忍は確かにそう言ってくれた。


 少しだけ熱くなったまぶたにぐっと力を込めるようにしながら、ふかぶかと息を吐き出す。

 ひとまず顔でも洗っておかないと。ちゃんと笑って迎えてやれるように、いつも忍がそうしてくれるのと同じように、曇りなんてひとかけらもないとっておきの顔で「おかえり」が言えるように。

 ――気づかないふりをしてくれていることくらい、知っているけれど。




「写真見してもらったんだよ、つぐみちゃんの」

 寄り添いあって座ったソファの片側から、うんとやわらかに告げられるのはこんな一言だ。

「お腹、もうすっかり大きくなってて。なんかすごいよねえっていまさらみたいに思って。やっぱさ、何度も会って知ってるはずなのにどっかしら違うんだよね。ちゃんともう『お母さん』の顔なんだなって感じして。春馬くんもそうなんだけどさ」

 安心してね、ヌードとかじゃないから。わざとらしく付け足すように告げられた言葉を、頼りない苦笑いでやり過ごす。

「生まれたら会いに行かせてねって、ずっと言ってて。赤ちゃんのうちにさ、『パパですよ~』って繰り返し言ってたら信じてくんないかな? ほら、小鳥の雛の刷り込みみたいにさ。やっぱ生まれたばっかの時じゃないと意味ないのかな?」

「嫌われんぞ、あんま調子乗ってたら」

「そっかなぁ?」

 けらけらと笑いながら、ビールの缶の滴の少しだけ残った冷えた指先をそうっと絡められる。

「お父さんたくさんいたほうがきっと楽しいじゃん。周もいっしょになろうよ、お父さん二号と三号」

「……遠慮しとく」

 ぼそりと力なく答えながら、ぬるい吐息をゆるやかに吐き出す。

「おまえそんな好きだったっけ、子ども」

「さぁー?」

 どことなく遠慮がちに投げかけた問いを前に、いつも通りのあの、屈託なんてみじんも感じさせない口ぶりで返されるのはこんな一言だ。

「別にそんなでもないと思うけど、春馬くんとつぐみちゃんとこの子だと思うとやっぱねえ。ぜったいかわいいって決まってんじゃん?」

「まぁ――、」

 あれだけ優しくて相手を思いやれる両親の元に生まれてくる子どもだなんて、きっととびっきりのいい子に育つことくらいわかるのだし。

「春馬くんさ、やっぱいろいろ心配なこともたくさんあるけど、でもすっごい幸せだって、いまもこの先もきっと幸せだって、そう言ってて。なんかなあ、すっごいいいなあって思って」

 まぶしげに瞳を細めるようにしながら、忍は答える。

「おんなじなんだなって思ったんだよね。俺もさ、いまがいちばん幸せだよ。これからだって、ずっとそうだよって言ってて」

「忍――、」

 かすかに潤ませた瞳でじいっとこちらを見つめながら、告げられる言葉はこうだ。

「ねえ、周は?」

「……決まってんだろ」

 吐き捨てるように答えれば、せがむようにぎゅっときつく、絡ませた指の力を強められる。

「ちゃんと聞かせてくんないとわかんないじゃん。ね?」

 重ね合った指先は、ぎこちなく震えている。

 ぐっと深く息を呑むようにしたのち、きっぱりと告げる言葉はこうだ。

「いまが一番幸せだよ、誰かさんのおかげで」

 戻りたいだなんてみじんも思わない。『いま』があれば、その一瞬一瞬を繋いだ先にあるはずの未来が共にあればいい。

 ふたりでならきっと『それ』を見つけられるはずだと、愚直なまでにそう信じているから。

「……そっかぁ」

 アルコールのせい――だけなんかじゃない、きっと。

 微かに赤らんだ顔をじいっとこちらへ向けて、少しだけこわばった肩を、こてん、と静かに肩をすり寄せるようにしながら忍は答える。

「おんなじなんだね、ほんとに」

 混じりけなんてかけらも感じさせないまっすぐな言葉に、するりと胸の内を射抜かれるような心地よさを味わう。


 どれだけこの日々を積み重ねていけばこれが『日常』に、『人生』に、夢やまぼろしなんかじゃない、何よりも確かなものだと信じられるようになるんだろう。

 不安に駆られる度、足が竦む度、そのひとつひとつにきちんと向き合おうとしてくれたのが忍だった。

 かわしあうまなざしが、無防備に差し出される指先が、曇りなんてみじんも感じさせない掛け値なしの笑顔が――そのひとつひとつはいつだって、周を何よりもつなぎ止めてくれる『いま』をくれた。

 すべてを返せなくたっていい、なにもかもに応えることなんて出来なくたっていい。こうして隣にいられれば、ただそれだけでいい―忍にしか出来ないやり方でずっと、忍だけが周を誰よりもいちばんに赦してくれたから、それを知っている。


「だったらさ、もっかいしとこっか? 乾杯」

「おう」

 促されるまま、少しへこんだビールの缶同士をぶつけ合い、ゆるやかな笑みを交わす。


 終わりのない幸福のありかを照らし合うようにしながら、またこうして、ありふれた夜は過ぎていく。


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