Our house
高梨來
Our house
これさ、俺から言ってもいいのかわかんないんだけど。
いかにも『らしい』遠慮がちな前置きと共に、隣り合うように腰を下ろしたカウンター席の片側から春馬が告げてくれたのは、こんな一言だ。
「前に話した時さ、周くん言ってたよ。『俺の家族は忍だけでいい』って」
「……そっか」
力なく漏らした言葉を前に、ぎこちなく揺らされたまなざしがすうっとこちらを通り過ぎるのを肌で感じる。
――ちゃんと言ってくれればいいのに、そんな大事なこと。
それでも、あえて口にしないでいてくれるのが周なのを知っていた。負担になるだろうからとか、なんとか言って。もう何年もずっといっしょにいるのに、時折ひどく気まずそうに口を噤んでは後悔したかのようなそぶりを見せる遠慮がちなあの態度はいつまで経っても変わらない。
「……らしいよね、なんか。すごい想像つく」
苦笑い混じりに答えれば、ほんの少しばかりの戸惑いを隠せない表情が、淡い暖色の明かりの下でぼんやりと滲む。
「でもなんか安心した。ちょううれしい」
生ハムとプチトマトにオリーブの実を乗せたカナッペへと手をのばしながら、忍は続ける。
「春馬くんになら話していいやって思えたってことだよね、そんなのうれしいに決まってんじゃん。すごいほっとする」
一匙ばかりの嫉妬心が湧かないかと問われれば、答えはもちろんノーではないけれど。それでも。
「ありがと、なんか」
遠慮がちに答えながら、ワイシャツの襟首から覗く喉がごくり、とかすかに動くさまをぼうっと眺める。
「俺のせりふでしょ、それ」
ぎこちなく笑いかけるようにしながら答えれば、まくりあげたワイシャツのカフスのあたりを、そわそわとどこか落ち着かない様子で指先でさすりながら告げられるのはこんな一言だ。
「なんて言えばいいんだろ――言ったあと、ちょっと自分でも戸惑ってるみたいな顔してて。きっとさ、自分でも口にする気なかったんだろなって。自分でもちょっと驚いたみたいな感じで、すぐ謝られたんだけど」
ますます『らしい』としか言えない態度がありありとまぶたの裏に浮かぶようで、思わず感嘆のため息がちいさく漏れる。
「……困っちゃうよね、ほんと」
カウンター席の窓越し、どこか乱雑なカリグラフィーでガラスへと描かれたメニュー越しに行き交ういくつもの影をぼんやりと見過ごしながら、吐き捨てるようにぽそりと優しく忍は答える。
「もう何年もずっと一緒にいんのにさ。ほんと、いまさらばかみたいにかわいくて」
ガラス越しにちらりとのぞき込んだ二対のまなざしは、おだやかさだけを溶かしこんだ、飾り気なんてひとかけらも感じさせない温もりに満ちあふれている。
「きょう大丈夫なんだっけ? つぐみちゃん」
グラスのふちに飾られた串切りのライムの皮をなぞりながらひとたび『パートナー』の名を出せば、どこかこわばっていたかのように見えた顔つきは途端にゆるむ。
「……実家帰ってて。ゆっくりしてきてねって」
「九ヶ月だっけ」
「うん」
こうして隣にいてくれる彼が、新しい命を授かったパートナーを気遣うように、以前よりもずっと自分のための時間をセーブした日々を過ごしていることをちゃんと知っている。それなのに、こんな風に特別に時間を作ってくれたことの意味あいだって。
「一時期ちょっとどうかなって感じだったけど、もうだいぶ落ち着いて。なんかね、最近ちょこちょこ夢にも出てくるんだって。なんかぼやっとした感じで顔とかはちゃんと見えないらしいんだけど、俺とつぐみちゃんのことかわりばんこにじいっと見て、すごい笑ってくれるんだって」
まぶしげに瞳を細めてみせる姿には、いままで知り得なかった新しい顔がちらりと垣間見える。
もうすぐ会える――新しい命に。
「お父さんなんだね、もう」
「……ほんとになれんのかなって思うけど」
弱気な口ぶりで告げられる言葉へと、かぶせるように答えを返す。
「生まれたら抱っこさせてよ、いいよね?」
「そりゃまあ」
はにかんだような笑顔を前に、ゆるやかにまぶたを細めることで答えてみせる。
「俺がお父さん二号ですよーって教えていい? ほら、小鳥の雛の刷り込み的に」
「それはちょっと」
力なく答えながら、少し緩めたネクタイの裾に手をやるすっかり見慣れた仕草を前に、そっとぬるい息を吐き出す。
幸せだ、と思うのはいつだって、こんな瞬間だった。
誰かと比べたりなんてしなくたっていい。不自由さを嘆いたり、自分たちのことを殊更に卑下したりする必要なんて、ひとかけらもありやしない。
こうしてたおやかなぬくもりを分かち合える相手がすぐそばにいてくれることを、こんなにも確かな、何よりも信じられるものがきちんとそばにあることを、自分たちはちゃんと知っている。
「春馬くんはさ、どっちならいいなとかってあんの?」
「んー……」
深刻そうな顔で首を傾げながら、ぽつりと漏らされる返答はこうだ。
「正直男がいっかなってのは思ったけど―なんていうか、いまになっちゃうとどっちでもいっかなって。産み分けみたいなのってあるじゃん? そういうのも別に、否定したいわけじゃないけど」
「どっちにしろびっくりするくらいかわいいのは確定だし?」
「まぁ、」
照れ隠しめいた様子でわずかに首をすくめるようにして告げられる言葉に、さわさわと音も立てずに心を揺さぶられていくのにただ身を任せる。
「ただーいまー」
いくぶんかの上機嫌に煽られるような形でほんの少しだけよろめきながら階段を駆け上がり、すっかり手の中に馴染んでこっくりとやわらかな飴色になったキーケースから取り出した鍵を回し、重い鉄扉を開く。
廊下の奥にぼんやりと見えるリビングからは煌々と明かりが漏れているのに、いつものお迎えも、「おかえり」の声も聞こえない。
帰宅前に電車の中から送ったLINEにはちゃんと返事ももらっていたし、なにか事情があって手が放せないだけならいいのだけれど――。
「周、帰ったよ」
ほんの少しだけの気がかりを胸にすたすたと廊下を進み、リビングの扉へと手を掛ける。途端に視界に飛び込んでくるのは、音量を控えめに絞ったラジオを流したまま、ソファの上でタオルケットにくるまっておだやかに眠りに就くパートナーの姿だ。
「……あまね」
起こさないように。気遣いながら、うんとボリュームを落としたささやき声を漏らす。胸の上には、仕事の資料らしい付箋のたくさんはみ出した業界誌とボールペン。
待たせていたのだろうか。自分にはさんざん「風邪を引くからソファで寝るな」だなんて言うくせに。
意地を張ったようないつものあの口ぶりを思い出しながら、無防備にはみ出した肩やつま先を覆うように大判のブランケットをかけなおし、指先でそっと、おだやかなぬくもりに触れる。
こんな風に過ごせるようになるだなんて思うよりもずっと昔、幾度となく目にしてきた周の姿を、いまでも時折忍は思い起こすことがある。
真夜中にふいに目を覚ました時。先に目覚めて、こちらをじっと見つめてくれていた時――そんな時の周はいつも、帰る場所をなくした子どもみたいな酷く無防備で息苦しげな、思い詰めたような表情をしていた。
長い長い時間の積み重ねの中で、少しずつだけれど確かに周は変わった。それが自分の『おかげ』だなんて大それたことは、忍は少しも思わない。ふたりでいるために、こんな自分なんかを受け入れてくれるために、周は自分を変えた、変わろうとした、きっとそれだけだ。
もういまの周は、忍が初めて出会った頃の周とは違う。あの頃からずっと、いま目の前にいてくれる周のことが好きだった。周だってそのことを、誰よりも知ってくれている。
それでも――だからこそ、思うのだ。忍が『あの頃』の自分にはもう決して戻れないように、忍が好きになった『周』にはもう二度と会えないのだと。
少しも悲しいことなんかじゃないのに、こんな風に時折どうしようもなく寂しくなるのはなぜだろうかなんて、きっと一生かかってもわからない。
「あまね、」
少し汗ばんで額に張り付いた前髪をゆっくりと指先で払う仕草に合わせて、伏せた睫毛がかすかに震える。
「――しのぶ」
ぱち、ぱち、といつもよりも控え目な重たげなまばたきと共に、寝起きのざらついて掠れた声が鼓膜を震わせてくれる。
「おはよう周、さっき帰ったよ」
「ごめん……寝てた」
「いいから、謝んないでよ?」
少し寝癖のついた頭をぽんぽんと、やわらかになぞりながら忍は答える。
「ごめんね、待たせて。怖い夢見なかった?」
「だいじょうぶ……」
くぐもったささやき声と共にブランケットから差し出された掌をぎゅうっと握りしめるようにすれば、言葉なんかじゃ言い尽くせないおだやかさは肌をつたってみるみるうちに伝わる。
「きょうね、春馬くんといっぱい話したよ。つぐみちゃん元気だって。一時期ちょっと心配だったけどもうだいぶ落ち着いてるって。赤ちゃん出てくる夢、いっぱい見んだって」
「そっか」
「先にお風呂入って着替えてくるから、それからまた聞いてもらっていい? ちょっとだけ待ってくれる?」
「……いいに決まってんじゃん」
くぐもって掠れた声に、ひたひたとせり上がるような安らぎが押し寄せてくるのに身を任せる。
周のお父さんとお母さん、周を生んでくれてありがとう。
周に出会わせてくれて、ほんとうにありがとう。
あなたたちが誰よりも周の幸せを願ってくれていることを、きっと周自身がいちばん知ってくれています。
どうか心配しないでください。周はちゃんと幸せです。いまこうしていることが、この毎日が何よりも確かなものだとそう信じてくれています。
俺が周を心から愛しているから、周が俺を愛してくれているからです。
だからもう、なにも恐れないでください。いつかあなたたちに会うことが赦される時が来れば、真っ先にそのことをちゃんと伝えます。
「どした?」
少しだけ熱くなったまぶたにぐっと力を込めるようにすれば、うんとゆっくりのまばたきと共に、淡くくすぶったささやき声が耳をくすぐる。
「うんとねえ、」
おどけたように首を傾げながら、ぽつりと落とす言葉はこうだ。
「なんでもなく――ないんだけど。まぁ。ちょっとだけ待ってて? あとで話すから、ちゃんと」
忍がなによりもいちばん大好きなやわらかな笑顔は、言葉よりもうんと確かな答えをそうっと手渡してくれる。
ほんの一瞬だけまぶたを閉じたその時、浮かび上がる優しい色のことを思う。きっとそれは、周が見てくれているのと同じ――ふたりでたどり着いた『居場所』を照らし出してくれる、おだやかなぬくもりだけで満ちた灯りの色をしている。
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