第8話 「自分」

 無我夢中で走った。

体力には自信のあったのだが、

病み上がりなため息が追いつかなかった。

 それでも拓海は走った。

道には誰もいなかったが、

誰かに見られていたような気がする。

息を切らしながら家へとたどり着く。

 ふとガレージに目を向け、自分の家の車を確認した。

家に母さんがいる。

 この状態で家に入るのはマズイ。

拓海は呼吸を落ち着かせるため家のガレージの中で

荷物を置いて休憩する。

走っている時より走り終えた時の方が

熱がこもるのではないか。

止まらない汗を流しながら、

誰もいないシンしたガレージの中に入り、

息を整える。

火照った体を壁にもたれかけ、喉に引っかかっているものを少しずつ押し戻していく。

 ため息を吐き出し、体全体で疲れを表すかのように脱力していく。


 逃げてばかりだ‥


 不意に口から漏れた言葉が不思議と反響して耳に

戻っていく。

 田山達を連れ戻す事をせず、キャプテンのくせに

部活はサボって、奇妙な貯金箱には自分を馬鹿に

されたように感じキレてしまった。

 こんな自分が嫌になる。

本当は自分はキャプテンの器なんかじゃない。

ただバスケを他のみんなより早く始めただけだ。

ミニバスの経験というだけで選ばれた俺に

チームをまとめるなんて初めからできないんだ。

 いっそ自分の中にある禍々しい箱を開けてしまい

身を委ねたらどれほど楽になるだろうか、

だがまだ拓海に残された理性は

もたれていた壁から体を離し、立ち上がる。

 そして、何事もなかったように家のドアの鍵を

開けて中に入る。

リビングから「お帰り」と、

いつもの声が聞こえた。

 ただいま。

素っ気なく、気負いなく機械的に返事をする。

 いつものように手を洗って自分の部屋に向かう。

その途中に階段下まで顔を出した母がいた。


「今日部活はどうしたの〜?」


「なんか体がダルかったから止めといた」


 そっか、病み上がりだもんね。

そう言ってリビングに戻っていた母は

部活をサボった事など微塵も考えていないようだ。

 でも、これから休む時は何て言えば良いのかな。

そんな考えは拓海を置いて先に進んでいた。


 自分の部屋に戻った拓海は乱雑にカバンを置き、

ベッドに体を預ける。

 今日は運動していないため妙に頭が冴えていた。

でも疲労は身近にいるようだ。

 そいつの距離の近さがこの上なく疎ましかった。

夜に眠れなくなるかもしれないが寝よう。

 今は

まぶたの重さを感じながら必死に

小さな波の音を探す。

眠りが深くになるにつれ音は大きくなり、

決められたリズムと高さで波は音を立てる。

 ようやく波の音を鼓膜が捉え、寝る準備が整うが

波の音をかき消す音が割って入ってきた。

 階段の下から母が誰かを呼んでいる。

 おそらく自分を呼んでいるのだろう。

寝ぼけて浮遊感に支配された頭では考えは、

ぼんやりとするが電源は、まだ入っていた。

 母の元へと向かう道中から聞こえていた泣き声で

母の頼み事の内容は分かっていた。


 少しの間、叶恵の事を見といてちょうだい。


 察していた依頼を受けて、拓海はいつものように

ガラガラと鳴るオモチャを持って叶恵をあやす。

だが叶恵は泣き止まなかった。

それどころか叶恵は激しさを増しながら泣いていく。

 拓海は懸命にガラガラを振るが効果は無かった。

キッチンから「抱っこしてあげて!」

と慌ただしく晩御飯の準備をしている母が言う。

 だけど拓海は、ひたすらガラガラを振る。

 なれど叶恵は変わらず一層激しく泣き声をあげる。

 何が気に食わないのか、しばらくしても泣き止まない叶恵は涙を流して耳障りな金切り声を出し続けた。

 しびれを切らした母さんがキッチンから出てきて

泣いている叶恵を慣れた手つきで持ち上げ、

抱きしめる。

 叶恵をゆりかごのように揺らしながら

母さんはキッとこちらに目を向けた。

 「お兄ちゃんになるんだからしっかりしてよ」

穏やかな母のイラつきを含めた言葉は鋭く尖っていた。言葉は何にも刺さらず、空気に消えていった。





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不器用な譲歩貯金 中田 乾 @J0422

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