余裕のヨッちゃん
余裕なんてない。いつもなにかに怯えているだけだ。
これは古い記憶の抽斗の中の話だ。
陽が傾いて、窓の外から見える庭園に咲き誇る花たちも陰りはじめた。
昏い病棟を、橙黄色に照らされて長くなった影を潜めるように浪々と歩いていたときのことであった。
向かい側に車椅子に乗った少年が見えた。小学生くらいの男の子だった。ちょうど窓ガラスを隔ててその奥にある赤い太陽の眩しさのせいで表情が見えづらかったが彼の周りだけまるで時が止まったかのような冷淡さが醸し出されていたように感じた。
やがてすれ違う瞬間にも彼はこちらに目も向けなかった。車椅子の車輪が地面と擦れる音以外に、辺りに物音は息づいていなかった。
鴉でさえ鳴きはしない。風でさえ私たちを嘲らない。
そんな場面の中、降って湧いた空気を読まない一枚の紙が、彼の元から宙を舞って私の足元に落ちてきた。
私は困ったようにそれを拾い上げ、披見した。一番最初に目に飛び込んできた赤々しい数列からするに、それは―――
算数のテストだった。奮励して解いたように見られたが、計算結果にはいくつもの逆さまの「へ」の字が痛々しく刻まれていた。
彼はこのテストの結果を悲観していたのだろうか。私はこれ以上詮索せず、名前だけ確認して彼に返そうとした。
しかしそこに書かれていた名前は明らかに男子のものではなかった。
「はるか」。そこにはそう書かれていたのだ。
とにかく、彼が持っていたものなのだからこれは彼に返さねばならない。振り向きながら彼に呼びかけようとした。でも言葉が口先をつついても出てくることはなかった。
知らない人に声をかけることには慣れていない。私は困惑と焦燥に駆られた。
ゆっくりと遠ざかっていく彼。気づけばその背中を追いかけて肩に手をかけていた。
彼は疑問の符を浮かべながらこちらを見た。私はテストを差し出しながら、「落としたよ」と小声で呟いた。
小さな声だったけどちゃんと伝わったらしく、「ありがとう」と言いながら彼は受け取り、また車輪を前へ駆動しはじめた。
こんなどうでもいい顛末を私は何年経っても覚えている。この邂逅劇は私にとって忘れられないものとなった。読めなかった彼の表情はまだ私の抽斗の中で生きていた。
でも、彼は死んでしまった。先日彼の葬式に出て久しぶりに顔を見た。懐古の念がじわじわと湧いてきたけど、涙はでなかった。
彼は孤独を愛していたから。ようやく彼は一人になれたんだなと思うとふつふつと乾いた笑いが込み上げてきた。
これは悲劇なのか、喜劇なのか。
どっちにしろ、あの妹は許せない。
紺青の青空の下、かつての彼女と同じように私は海岸に立ち尽くしていた。
手に持っているのは一本のペットボトル―――コカコーラ。
私は雲の流れいく姿と太陽の沈んでいく様子を見守っていた。半信半疑の表情でただじっと待つ。そうすれば数時間後には海はオレンジ色に眩く輝いているだろう。
ここが彼女の分岐点だった。だから私は別の道を歩んで行く。その先に成功が約束されているわけではないけれど、不幸の連鎖に陥るよりは何倍もマシだ。
この太陽が沈むには、もう少し時間がかかる。
一つ留意して欲しい。この物語は彼と彼女の回想録だ。起承転結ははっきりしてないし時系列もバラバラになっている。バッドエンドを無理やりハッピーエンドにするためだけに存在しているんだ。きっと理解はできないだろうけど、ぜひとも最後まで読んで彼女の酷さを知ってもらいたい。
そうだ、ここで一つ注意書きでもしておこう。
『この物語はハッピーエンドです。彼女は救われません』
私の名前は
私が中学生のときの話だ。
ある日私は一人の少年を探していた。拾ったテストに書いてあった苗字をあてに病棟を探し回った。もっと効率の良い方法があったと思うけど、幼かった私にはそれが精一杯だった。
割と珍しい苗字だったので彼一人しかその苗字の人物は入院していなかった。―――見つけた。
病室の前にかかっている名札を見て私は嬉々としながら心を弾ませた。探し回った甲斐があったものだ。
私はノックもしないで病室に入り込んだ。少年は、そこにいた。
彼は白いベッドに横たわり、本を片手に窓の外を眺めていた。こちらに気づくと少し驚いたように何回か瞬きをした。
「あれ、珍しい」
彼はそう声を漏らし、本をぱたんと閉じながら不思議そうに私を見つめていた。
「久しぶり。前にも会ったよね」
私はそう言ってベッドの隣にある椅子に腰掛けた。壁に体重を預けてから、一つ欠伸を零した。そんな私の様子を見て彼はこう言った。
「君は面白いね。なんというか、ギャップがある」
私はそれを聞いて軽く頷いた。そう、私はよく同じことを言われるのだ。
外見は一見大人しそうに見えるらしい。でも話してみると意外と図々しいみたい。
一方彼の外見はそのまま内面と言って良いようなものだった。幼い横顔から時折見える真剣な目つき。頭が良さそうだな、というのが第一印象だった。
「それで、何か僕に用?それ以前に君は誰?」
困った。私はなんとなくここに来ただけなのだ。後者には簡単に答えられるけどとりあえず私は言葉を詰まらせるほかなかった。
「えっと―――、私は中村芳栄。ここの院長の娘よ。それで、あなたに用なんだけど―――」
「ああ、なるほど。もしかして、なんとなく来た?」
彼は遮るようにそう言った。的中していて、私は驚いた。
「まあ―――うん、そうなんだけども」
ちょっぴり恥ずかしさが混ざり、私は指先で頬を掻きながら、彼から目線をそらした。
彼は鼻先で嗤うかのように乾いた声を出して私に微笑みかけた。馬鹿にしたようなところを除けばこういう表情は子供らしい一面がよく見えた。
「とても面白いね、君は。さて、特に用がないならなにか話をしよう。眠り込んでしまうような、どうでもいい話が良い」
「じゃあ、あなたの話が聞きたい。もし私が寝てしまったらあなたはつまらない存在ってことね」
「なんだそれ。いい加減で、滅茶苦茶だ」
彼は笑いながらそう言った。それからしばらく俯いてなにか考え、やがて口を開いた。
「僕には一人の妹がいるんだ。彼女と僕の話をしよう」
そう言って彼は閉じていた本を意味もなく開いた。紙が擦れ合う音と共に彼は話を続けた。
「彼女の名前は
彼は顎元に右手をあてて、どこか感慨深そうな表情を作った。
「ハルは元気で活発な子でね、よくここにも遊びにくるよ。でも、いつも行きの途中にある公園で拾ったような木の枝とか葉っぱとか木のみを自慢げに土産としてもってくるから最近は少しまいってるね。
後、頭が悪い。算数のテスト、見ただろう?いつもあんなもんなんだ。
他には―――あ、そうだ―――」
私は不安げに思った。妹のことを語る彼は、なぜか楽しそうではなかった。口調は明るげに繕っているけど、目が冷めていた。私を馬鹿にしているときの方がよっぽど愉しげにしていた。
「―――こんなもんかな。いい暇潰しになったよ。ありがとう」
途中から殆ど聞いてなかった。とりあえず私はうわべだけの返事をした。それから彼に一つ尋ねようとした。
「ねえ、本当は―――」
「あ、噂をすれば。ハルが窓の外に見えたよ」
またもや中断させられてしまった。しかも、その妹が来るとなった。気まずい。今日はもう帰るとしようか。
「じゃ、私は今日は帰るよ。妹によろしく」
踵を返して、私は部屋を出ようと、ドアに手をかけた。そのときだった。力を込めていないのに、勝手にドアが開かれた。
そこには一人の少女が立っていた。首を傾げながら私のことを見ていた。
しまった。鉢合わせた。
私は急いで駆け出し、その場を後にした。背後から、「お兄ちゃん、あの人誰?」などと声が響いてきたけど気にせず逃げ出した。
しばらく走ったところで私は止まり、壁に片手をつき息を切らしながらもう片方の手で膝の皿を強く押し込むようにして項垂れた。
私はいつも、そういうところで怯えてばかりだった。
私は後ろを振り返り、彼の部屋の方向を見た。
なにか、底から這い上がってくるような不穏感に身が震えた。
安上がりな葬儀だった。はじめて着る礼服に身を包み、流るる厳粛な空気を私は正座でじっとやり過ごした。
式中、終始寒蟬のように啜り泣く声が聞こえていた。うざったい泣き声の主はもちろん彼女で、私は静かに、でも強く両拳を握りしめていた。今すぐに彼女の元へ行って思いっきり殴打してやりたかった。「彼を殺したのはお前だ」と叫んでやりたかった。が、流石にそれはしなかった。
最後に彼の死顔を見た。とても安らかな顔つきで、私にはその意味がわかった。
「ああ、やっと一人になれたんだな」
そう小声を零し、彼の元を静かに去った。そのとき私は笑っていたと思う。
葬儀が終わった後、私は彼女の元へ行った。もちろん殴りかかったりはしない。ただ話をするだけだ。
「―――久しぶり。この度はご愁傷様でした」
彼女はまだ泣いていた。まあそれについてとやかくは言わないが、私は気に入らなかった。
「お久しぶりです。中村さん」
掠れた声でそう呼ばれて怖気付いた。変な呼び方するなよ。
私は軽く咳払いをして彼女に尋ねた。
「一つだけ聞いていいかな」
「なんですか」
「彼は、なにかやり残したことがあるのかな。もしあるのなら教えて欲しい」
彼女は突然そんなことを言われて驚きながらも、考え込むように俯いた。また泣くのかと思ったけど、なにか固い意志を持ったように感じた。そして私に訴えた。
「兄はコカコーラ・オレンジをまだ飲んでません。後、海にも行ってません。生前兄は言ってました。コカコーラ・オレンジは海の味だって。きっと海でコーラを飲めばあの味が再現できると思うんです。でも、なにかが足りませんでした」
怒涛の勢いで彼女はよくわからないことを言ってきた。どうでもいいと思って気にしてなかったが、彼女は手に一本のペットボトルを抱えていた。コーラだ。でも黒みが薄くてどこか黄ばんでいた。
「このままじゃ、彼は孤独に旅立ってしまいます。私がなんとかしなきゃいけないんです」
それを聞いて、私はため息をついた。
―――まだ、勘違いしてるのか。
「いろいろ教えてくれてありがとう。疲れていると思うからしっかり休んだ方が良いよ。それじゃ」
私は適当に話を切り上げた。最後に私はいつもより息を多く吸ってこう言った。
「これだけ覚えといて。彼は孤独を愛してる」
彼女はぽかんと疑問符を浮かべた様子だったが、私は気にせず立ち去った。
私は数日後、再び彼の病室へと向かった。先日は妹の乱入があってあまり彼と話せなかったけど、今日こそはあの不穏感の正体を突き止めたい。
学校が終わり、また前回と同じような時間に私は訪れた。
ドアを開けると窓に映る太陽から痛いくらいの煌めきが私に差し込んできた。眩しさから目をパチパチさせながら彼の様子を覗いた。
彼は寝てしまっていた。枕に顔を沈めている彼が私にとってはなんだか意外で逆に笑ってしまった。起こさないように堪えるほど可笑しさで笑いが込み上げてきた。
くずれるように私は床に座りながらベッドの手摺に寄りかかった。どうでもいいことでどっと疲れた私はそのまま瞼を閉じてしまった。私も彼のように、太陽が没するのと同じスピードで意識も沈んでいった。
―――起きて、起きて!
誰かが夢に問いかける。
―――ねえ、お兄ちゃん!
やがて夢空は音を立てて崩れ、真っ白な光に包まれると共に私は目覚め―――
「ねえ、お兄ちゃん。起きてよ!」
私は弾かれたようにがばっと体を起こし上げた。心臓がバクバク言ってるのがよくわかった。
いつのまにか彼の妹が来ていたようだ。ちらりと時計を見ると四時を過ぎていた。
彼女は起きた私を見て、微妙な顔つきになった。
「えっと―――誰?」
私は背の壁に両手をつけた不恰好な状態で言葉を探した。
「私は、そ、そう。彼の友達よ。お見舞いに来たの。名前は中村芳栄といいます」
「えっ友達!?」
彼女がなにに驚いたのかわからない。それよりも私の思考回路がショートしてる。変な喋り方になってしまった。
で、なぜ彼女はこんなにも驚愕の表情をしているのだろうか。なにかおかしなことを言ったか?
「お兄ちゃんに友達なんていたんだ」
そりゃいるだろう。え、いないの?
彼は一体どのくらいの期間入院しているんだ?長さによっては彼女の言葉にも納得できる。
「最近、病院で知り合ったのよ」
「へえ、そうなんだ。―――なんて呼べば良い?」
彼女は戸惑った様子で私にそう言った。私は年上だから話しづらいのかもしれない。
「芳栄でいいよ」
「わかった!芳栄ちゃん」
どうやらその心配は要らなかったようだ。
そうこうしている間に彼が目を覚ました。それを確認した彼女はぱあっと笑顔を見せ彼に言った。
「お兄ちゃん、おはよう」
「ん、ああ。ハルか。来てたのか―――後、君も」
二人の存在に気づいた彼は眠気を振り払うように腕を伸ばし、すくと上半身を起こした。
「はい、これ」
彼女は木の枝や草木など塵芥が詰まったビニール袋を彼に渡した。幼い子供ならではの可愛らしいお見舞い品だ。―――正直貰っても邪魔なだけだと思う。
彼は苦笑いでそれを受け取り、部屋の隅にある棚に追いやった。そして何かを我慢したように身を震わせこう言った。
「ちょっとトイレに行ってくる」
そう言って彼は車椅子に手を伸ばしゆっくりと跨って部屋を出ていった。これはチャンスだと私は思い彼女にいろいろ尋ねることにした。
「ねえ、彼のお話聞かせて貰っても良い?」
そう言うと、彼女は二つ返事で承諾してくれた。
「彼はどのくらい入院してるの?」
「ずっとだよ。お兄ちゃん病気で、でも手術するにはたくさんお金が必要で。お母さんたちが出してくれないから、お婆ちゃんが頑張って入院するためのお金だけは払ってくれてるの」
え?
また、だ。
「え、なんでお母さんたちは払ってくれないの?」
踏み出してはいけない一歩を。
「わかんない。お母さんが言ってた。お兄ちゃんに払うなら私のために使ってくれるって。私は早くお兄ちゃんに良くなってもらいたいと思ってるからお母さんにもそう言ってるんだけどなかなか聞いてくれないの」
歩みたくはないのに。
「それにここに来るのもお母さんに止められちゃうの。私がお兄ちゃんを一人にならないように守ってあげてるのになあ。どうしてお母さんは止めるんだろ。まあこうしてこっそり来てる訳だけど」
あのとき感じた不穏感が。
「お母さんが私を可愛がってる分、私がお兄ちゃんの面倒見ないと」
なにかと鬩ぎ合って、私の背中を押す―――
その瞬間、ガシャ、と大きな衝撃音が後ろで響いた。乱暴に開けられたドアの先に険悪な顔つきの彼がいた。車椅子から身を乗り出すような体勢だった。
「その話は、するんじゃない。止めるんだ、ハル」
「ええ、どうして?」
この空気を全く察しない彼女。無邪気で無知な彼女。使命感に溢れた彼女。
私が感じていた不穏感は最初、彼と彼女の二人に隠れた劣悪な家庭環境からきたものだと思った。でも違った。発していたのは彼女自身だった。鳥肌が立つくらいに彼女の思考は、まるで幼い子供とは思えないくらい歪んでいた。
「ねえ。遥香、ちゃん?自分の言ってること、理解してる?」
私は気持ち悪さを覚えながら彼女に尋ねた。
「うん、わかってるよ。とにかく私がお兄ちゃんを助けなきゃいけないんだよ」
私は恐る恐る彼の方を見た。彼はただ俯いているだけだった。
ため息かどうかもわからない息が口から出ていくのがわかった。嫌な感情に押し潰される感覚だった。
つまり、彼女は―――
「どうしたの、二人とも。ほら、お兄ちゃんも早くこっち来てよ。お兄ちゃん、聞きたいでしょ?私の学校の話」
欲しくもないものを。聞きたくもない話を。自分の立場もわかってないまま彼の気持ちも無視して、躊躇いもせず罪悪感も抱かず、私は良いことをしてるんだと。そう思ってただ自分に酔っているだけの女だった。
彼はとぼとぼとこちらに来て私の袖をくいっと引っ張った。
「辛いだろ。もう帰った方が良い。そして忘れてくれ」
そう小声で言った。
―――ああ、なんて。私は泣き出しそうだった。
彼はとても強い。一番辛いのは彼自身だろうに、それでも私の心配をしてくれた。
私は思い切り彼を横から抱きしめた。彼は戸惑った様子だったけど、すぐに目頭を押さえて、泣いた。
私も大粒の涙を零した。小さな声を上げて強く抱きしめた。
ただ一人、彼女だけは訳のわからなそうにしていた。
「ねえ、どうしちゃったの?」
全部、無視した。そして私たちは二人だけで数十分もの間哀哭していた。今だけは素直な気持ちを涙にしようと固く誓った。
「ありがとう。こんなにも心が空いたのははじめてだ」
泣き終えた後、彼はそう言って微笑んだ。
「あなたは強いね。とても尊敬するよ」
「そんなことないよ。さあ、もう帰った方が良い」
「うん、わかった」
私は車椅子から手を離し涙を拭いて部屋から出ていった。去り際に彼に言った。
「でも、忘れないから」
ドアを閉めて、部屋を後にする。辺りはすっかり暗くなり、蛍光灯の光が不気味に私を照らしていた。
彼女は、この蛍光灯を見てもなにも感じないのだろうか。
そうであって欲しくないと願いながら私は暗く、昏い闇へと消えていった。
その後私は彼の元へは行ってない。そんな日々が三年ほど続いた。
私は中学校を卒業し、高校生になった。そして彼らもまた中学生になった。
雲一つない晴天の青空。私は久しぶりに病院へ訪れた。受験勉強も終わり特に何もすることがなくなったからだ。
エントランスの前の庭園のところで、一人の少女に出会った。私は苦い顔をした。
「あれ、芳栄ちゃん?」
彼女だった。身長は伸び、体格も少し女性らしくなって小綺麗になっていたけど、それは紛れもなく彼女だった。
「久しぶり!今日はなんの用?彼へのお見舞い?」
「いや、別にそういう訳じゃないけど―――」
「彼、ちょっと寂しがってたよ?芳栄ちゃん来なくなっちゃって」
「わかった。彼のところにも寄っていくよ」
「じゃ、私はもう帰るから」
「うん。さよなら」
そう言って彼女は去っていった。彼女がいなくなったことへの安堵よりも私はとても奇妙な違和感を抱いていた。
病院の雰囲気は三年前と変わりなかった。病室の前の名札が撤去されていて少しだけ迷ったけどさほど問題はなかった。
私はドアの前に立ちゆっくりと開いた。彼は私を見て驚くだろうか?
そんなことはなかった。彼は私が入ってきたことを確認すると冷静な横顔で「久しぶり」と言った。
「久しぶり―――驚かないの?」
「窓から君の姿が見えた。伸びたね、身長」
「そっか、見えちゃってたか。あ、遥香ちゃんに会ったよ。なんかすごく変だったけど」
「変?」
「いや、あなたのことを彼って呼んでた」
「ああ、それは―――」
そこで彼は口をつむぎ、言葉を詰まらせた。
「あの後、いろいろあったんだよ」
それ以上詳しいことは彼は離してくれなかった。だからわたしも深く詮索はしなかった。
それから三十分くらい他愛もない世間話や近況についてを話した。短い時間の中だったけど私は十分に楽しめた。彼の笑顔が見れたことがなによりも嬉しかった。
「今日はそろそろ帰るよ。あなたの顔が見れて良かった。近いうちにまた来るよ」
「僕もだよ。じゃあね」
三年前は感じてた黄昏の重い空気や蛍光灯の不気味さは感じられなくなっていた。
私も少しは変わったということだろうか。
あるとき、私は彼に一つの質問をされた。
「広大な海の真ん中に一人取り残されたらどう思う?」
「それは人それぞれじゃない?孤独が嫌いな人もいるし、好きな人もいる。あなたはどっちかって言うと―――後者ね」
「まあ、そうだね。じゃあ、もし孤独な人がいたとして。君はその人に手を差し伸べるかい?」
私はしばらく考え込んだ。それは質問の答えではなくて、もっとべつのことだった。
「もしかして、あなたは一人になりたいの?だとしたら、私は手は差し伸べない」
そう言うと彼は私が好きな笑顔を見せてこう言った。
「うん、そうだね。僕は一人になりたい。僕は孤独が好きなんだ。あ、でも君といるのも十分に楽しいよ。そこは勘違いしないでくれ」
「ああ、わかってるよ」
私は心の奥で思う。もし同じ質問を彼女にしたらどう答えるだろう?
考えるだけ、無駄か。
事件が起こった。それは普段のように病院に行った帰りの出来事だった、
私が交差点を渡ろうとしたときだった。
まず、けたたましいブレーキ音が聞こえた。耳鳴りのようなそれは、私を一瞬硬直させるのには十分だった。
タイヤがアスファルトに擦れながら車体は私に向かって急接近してきた。運転手が驚いてハンドルを滅茶苦茶に切った。まるでドリフトするかのように回転しながら、でも止まることはなく、そのまま私を―――
どん、と衝撃音が轟いた。なにかが潰れる感触があった。
視界が縦に横に揺れながら、私は歩道の方へ吹っ飛ばされた。電柱に左足がぶつかった。不思議と痛みは感じなかったけど―――
遠くでなにかが終わったような悲しみはあった。
二日間の昏睡状態だった。
私が目を覚ましたとき、ベッドの隣で母が寝ていた。それからここが中村病院だということに気がついた。
母に声をかけようとしたが、声が出なかった。それなら揺すり起こそうと思ったが、腕が動かなかった。
ならば一旦は諦めるしかないだろう。そのうち動くようになるだろうと信じ、今はポジティブに考えることにした。
素っ気ない自分に呆れつつ、私は再び目を閉じた。どうしてかこんな逼迫した状況でも、だいぶ落ち着いていられた。
ここは集中治療室だろうか?私は彼の病室以外の場所はあまり立ち入ったことはないのでよくわからなかった。
とりあえずナースコールを押したい。指先をなんとか動かして、やっと手がボタンに届いたところで―――
落とした。
なにをしてるんだ私は。阿呆らしくなってくる。
でも落とした衝撃で、近くにいた看護士の人がこちらに気づいてくれた。
ああ、良かった。
ひとまずの安堵。自分の身体のことはとりあえず閑却して、今はもう少し寝ていたい―――
私が完全に復活するのには半年かかった。特に電柱にぶつけた左足に時間がかかった。事故当時は目も当てられないくらい骨折の具合が酷かったらしい。
やっと入院生活から解放されることに私は嬉々としていたが、その喜びも一気に冷めた。
寝耳に水だった。彼が亡くなった。
私の知らないところで、私のすぐ隣で。
強くて英邁な彼は儚く旅立ってしまった。
それを聞いたとき、堰を切ったように涙が溢れてきた。胸に疼痛が走った。入院期間と同じくらい慟哭していたように感じられた。それほど時間というものは曖昧で、大切なものだということを知った。今更だった。彼に会えなかった三年間で気づくべきだったのだ。
あの妹を早く止めていれば、もっと彼の精神的な負担は軽減されたかもしれない。いろんな後悔が募った。また泣いた。
でも。
彼は孤独を愛していた。彼の幸せはそこにあったのかもしれない。そう考えると希望が持て自然に涙が止まった。
「あの妹のようには私はならない」
それは不撓の決意だった。
丁夜に浮かぶ月が淡く病院を灯していた。それを私は窓から眺めていた。
不穏感に怯えていた余裕のないあの頃の私はもういない。やり残しがないようにするだけだ。
紺青の青空の下、かつての彼女と同じように私は海岸に立ち尽くしていた。
手に持っているのは一本のペットボトル―――コカコーラ。
私は雲の流れいく姿と太陽の沈んでいく様子を見守っていた。半信半疑の表情でただじっと待つ。そうすれば数時間後には海はオレンジ色に眩く輝いているだろう。
ここが彼女の分岐点だった。だから私は別の道を歩んで行く。その先に成功が約束されているわけではないけれど、不幸の連鎖に陥るよりは何倍もマシだ。
この太陽が沈むには、もう少し時間がかかる。
そして、ついに―――
太陽が海に飲み込まれるとき、海面に星が現れた。それらを繋いで正座を作りたくなるくらい心酔するほど惹かれるものがあった。
―――オレンジ・オーシャン。
夕晴の雲に俯瞰されたオレンジ色の海を見て最初に頭に浮かんだ言葉がそれだった。
私は手に持ったペットボトルのキャップに手をかけ、ぐっと力を込めて回した。
プシュ、と炭酸特有の音が手の中で響き渡り、中から白い煙が上がってきた。私は目閉じて口をつけ、喉に流し込むように飲んだ。
潮の匂いと、波たちが作る無窮の煌めき。それからみかんのように赤い太陽の色。全部が混ぜ合わさって私の身体に染みこんでいく。
―――これが、海の味か。
私は裸足で砂浜の上に立った。温まった砂に触れて足元が焼ける。五感全てを使って私は今、海を実感している。
海は、記憶だ。砂浜の砂粒一つ一つに思い出が詰まっているんだ。でもやがてそれらは流されてしまう。それはつまり忘却だ。
ならば私はどんな波にも負けない鉄壁の砂の城を造り上げてみせよう。でも、できればそれは―――
「彼と創りたかったな」
譫言を零して私は砂上に寝転ぶ。全身で熱さを感じて漏れそうになった涙を蒸発させた。
私の横を小さな蟹がさっこさっこと通過していった。どんな生き物も一生懸命生きている。自分に溺れないように、私は生きていこう。
無限に差し込んでくる夕陽のイラジエーションが視界を滲ませる。辺りに吹き込む風は潮の匂いを運んで、鼻の上を掠めた。
どうだろう。ハッピーエンドにはなれたかな?
炭酸はみかんの味 @8ek2d
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