炭酸はみかんの味
@8ek2d
炭酸はみかんの味
甘酸っぱくて、しょっぱくて。
いろいろなものが混ざったそのコップには、たくさんの感情や思い出も詰まっていた。
悲しい、とだけじゃ表せないなにかが頭の中をかき回して、視界が絡まる。
ぐちゃぐちゃになったそれを解こうとすればするほど、悲壮が襲ってくる。
狭いキッチンにひとつだけのコップ。どうにか飲み込もうとするけれども、嗚咽が漏れそうになってしまう。そんな孤独の夜を、蛍光灯の無機質な光はただ暗く照らしていた。
ある言葉を思い出す。
―――孤独は、誰もいないわけじゃない。僕がいるんだ。少なくとも、自分はそこに存在してるんだ。
脳内でその言葉が反響して、気づけば涙は止まり拳をぐっと強く握りしめていた。
「私は、認められなければいけない」
言い聞かせるように独り言をつぶやいて、それからゆっくりと息を吐きながら瞼を閉じた。
口の中に残った味を再び噛みしめる。
この味なのかな。思い出は、これなのかな。
彼が知っているのは、もう誰も知り得ないこの味で合ってるかな?
コカコーラ・オレンジが自販機から姿を消した。
そのことに気がついたときには、
はじめはただなんとなく残念だなとか、いつから?といった感想しか頭になかった。
実際、最後に飲んだのは数週間前だし、それより前も特に愛飲していたわけではないのだが。
それからふと思い出した。そういえば、その数週間前のときに二本くらいストックしておいたんだっけ。
はじめからそんなものはなかったんだと言わんばかりにすっかりコカコーラ・ゼロに置きかわっているその光景を見ると、あのときの自分が馬鹿らしくなった。
たまたま飲んで、そのときにちょっと美味しくて。それで 何本も買っちゃってさ。
あーあ、自分が嫌になってくる。心の中で呆れたようにため息をついた。
―――美味しかったら製造終了しないっての。
一応気になって、ポケットから携帯を取り出して、アマゾンで検索をかけてみた。
「コカ・コーラ オレンジ 五〇〇ミリリットル ×二十四」―――現在お取り扱いしておりません。
案の定、コカコーラ・オレンジはもうどこにもなかった。アマゾンに売ってないんなら、もう日本中の自販機を巡っても売ってないだろう。
置きかえられたコカコーラ・ゼロが遥香を嘲笑うように見下ろす。もう絶対買わないと心に決めた。
ん?アマゾンの説明欄をよく見てみたら、「期間限定」と書いてあるぞ?
―――ああ、なんだ。私の味覚は正しいじゃないか。
それにレビューもなかなかに高評価だった。なんだか自分に自信が湧いてきた。
ほうら。コカコーラ・ゼロもばつが悪い顔をしている。ざまあみろ。
そのとき、手元から重たいバイブレーションの振動が伝わってきた。それと同時に、一気に現実に引き戻された。
気がついたら、もう五分も道端の自販機の前で立ち尽くしていた。恥ずかしくなって、思わず辺りを見渡した。幸い、人はいなかった。
携帯の通知欄に目をやると、そこには一件のメール。
彼からだ、と遥香は思った。何故なら今どきラインじゃなくわざわざイーメールを使うのは彼ぐらいしかいないからだ。
実際にメールは彼からのものだった。通知欄にはこう表示されていた。
「ハル、テストはどうだった?」
それを見て、思わず口元が緩む。ああ、やってやったぞと心の中ではガッツポーズでもしながら叫びたかったけど、現実には「そこそこ。まあ赤点はないと思う。ちゃんと返ってきたら、今度見せてあげるね」と返信した。ピロン、と可愛らしい送信音が鳴る。この音は彼と会話している実感が得られるのでわりと気に入っている。
数十秒もしないうちに、またバイブレーションが鳴り響いた。「わかった。期待してる」と返信がきた。
今度は声に出して、遥香は笑った。スキップ混じりの足取りで、家へと向かった。
家に着くと、そのまま倒れこむようにリビングのソファに突っ伏した。
連日のテストのせいで、とても寝不足だ。今日はもうなにもしないでこのまま眠ってしまおうかな?なにかしようという気分にはとてもじゃないけどなれない。
ソファの生地に全身が飲みこまれる。体が沈んでいくとともに意識も薄まっていった。
あ、そうだ。
けれどもひとつ思い当たったことによって、急に意識を覚醒させてすくと起き上がった。
遥香は狭いキッチンの中にある、冷蔵庫へと向かった。
棚に重なったガラス製のコップからひとつを取り出して、冷蔵庫の取っ手を軽く引いた。
漂ってきた冷気が意外に寒くて少し身が震えたが、そんなことは特に気にせず冷蔵庫の奥の方を探した。
あった。
麦茶ポットのさらに奥。オレンジ色のラベルを纏った二本の黒いペットボトル。
一応賞味期限を確認してみた。うん、大丈夫だ。
コカコーラ・オレンジ。遥香の食美学の象徴だ。
力をこめて、キャップを捻った。プシュ、と炭酸特有の芯のある弾けるような音と共に辺りに少しだけみかんの香りが匂い立った。
続けて氷を数個取り出して、絡み合うようにコップにコーラを注いだ。普通のコーラより色が薄くて赤みを帯びた色だった。
しばらく炭酸の泡がぽつぽつと弾ける様子を見ていたが、それにも飽きたのでついにコップを手に取って喉に流し込んだ。
一気に呷ったせいで、咳き込んでしまいそうになった。口の中がぶわっと膨らむような、他の炭酸飲料にはないコーラ特有のあの感覚だ。なんとか吐き戻さずには済んだけど危なかった。油断はしないようにしよう。
味を楽しむ余裕は全くなかったので今度はゆっくりと舌に染み込ませるように飲んだ。
これだこれだ。この味だ。
べつに数ヶ月ぶりに飲んだわけでもないのに懐かしい気分に浸された。数週間前の出来ごとが、もう何年も前のことのように感じた。
オレンジとコーラの二種類の甘さが舌の痺れと共に体に染み込む。それで自分の疲労を思い出した。ついさっきまでなにもする気が起きなかったのに、今はすっかりコーラの虜だ。
それからは調子良く残りを飲み干し、また注ぎ直して飲み干す―――その繰り返しでやがてペットボトル一本分を空にしてしまった。
噯気に気をつけながら、天井を見上げた。
そこにあるのは一本の古びた蛍光灯。それが漏らす光はいつも哀しく見えて、子供の頃からなんだか苦手だった。まるで夜の病棟をあやしく照らす非常口のような、あの寂寥感を支配されるような―――
まあ、それもあくまで子供の頃の話に過ぎない。今でも好きにはなれないが、トラウマになっているわけではない。
舌に残った余韻が脳内に響いて、だんだんと瞼が重たくなってくる。このままキッチンで寝落ちしてはまずいと思い、眠気を振り払ってとりあえず歯を磨くことにした。コーラを飲んでそのまま寝た日の次の朝の状況を考えたら、ぞっとした。おかげで洗面所まで行くだけの動力にはなった。
手短にそれは済ませて、次のことを考えた。
もう本当になにもする気が起きない。晩ご飯も風呂も着替えも済ませてないけど、いったいどうしようか。
風呂は、絶対入るべきだ。晩ご飯は―――うん、最悪必要ない。というか、食欲もない。
両親は仕事で忙しいため、まだしばらくは帰ってこない。じゃあ、自分でなんとかするしかない。
まずは風呂に入ろう。そうとなれば最初に歯を磨いたのは失敗だったか。いや、もういい。とにかく寝てしまう前にやることを終わらせてしまわないと。
身につけていた制服を適当に脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。風呂自体はタイマーで勝手に沸かすようにしているので問題はなかった。
軽く体を洗った後、豪快に湯船に浸かる。思ったより熱かったが、数秒もたたないうちに慣れた。
でも、すぐに気づいた。それは失敗だったと。もうどうしようもなく諦めるしかないということを。
疲弊しきった体が湯に溶け込むに連れて、意識も次第に薄まっていったのだ。
死ぬかと思った。逝く、一歩手前だった。
溺れそうになったところで目が覚めた。お湯を吸い込んでしまいひどく噎せ返った。
眠気なんか一気に覚めるほどげほげほと咳上がり、やがて落ち着いてもしばらくは持久走を走った後のような呼吸困難に陥った。
涙目のまま給湯器の液晶に表示された時計を見た。
午後十時。三時間ぐらい寝ていたようだ。今更になってお湯もぬるくなっていることに気づいた。なんとも呆れるような九死に一生だった。
徐に体を起こし、風呂を出た。そそくさとパジャマに着替えてそのままベッドへ直行し、ふて寝した。親はまだ帰ってきてなかった。
今度は安心して、意識を無に帰した。
ところが、うとうとしはじめて少したった後、遥香はまた起こされた。今度はリビングの方から聞こえてきたバイブレーションと着信音のせいだった。
不思議と叩き起こされても、不快感はなかった。いや、不思議ではない。
―――この着信音は。
「彼からだ」
いつのまにかそう呟いて、リビングへと歩み出していた。自分でも女子の原動力というのはつくづく疑問に思ってしまう。
眠気でぼやけた視界を手で擦り、細目で携帯を覗き込むように見た。
「ハル、明日は来れるかい?」
彼は遥香が死闘を繰り広げているのも気にせず―――彼からしたら知る由もないが―――こんなメールを送りつけてきた。でも、心が温まっていくような感覚がした。
「うん。ちょうど行こうと考えてたとこ。放課後に行くよ。テストの結果楽しみにしててね」
遥香はそう返信をした。ちょうどというのは嘘だけど、馬鹿正直に「死ぬところだった」と送ってもややこしくなるだけだ。
そのまま携帯にロックをかけ近くにあった充電器に繋いでベッドへと戻っていった。
遥香は横になり、ぎゅっと丸くなるような体勢で今度こその眠りについた。
次の日、放課後を告げるチャイムが鳴ると早々と校門を出て、途中でスーパーに寄ってからある場所へと向かった。
数十分ほど歩くと見えてきた、白い大きな建物。
モダンで明るめなデザインになっていて、エントランスの前にはいろんな花で艶やかに飾られた庭園が広がっていた。
―――中村総合病院。
彼が入院している病院だ。彼は小さい頃から体が弱く、この病院とは長年の付き合いだ。
遥香はもう慣れきった日常のように受付で手続きを済ませ、面会者カードを首からぶらんと垂らしながら彼の部屋へと向かった。
見慣れた廊下の光景。今なら目を瞑りながらでも彼の部屋へたどり着ける自信がある。
遥香は彼との時間が好きだった。なんか、安心できるというか、素の自分を出していられるというか――――――
表現に困るけれど、とにかくここは落ち着ける場所だ。
気づけば、彼の部屋の目の前だ。昔は名札がかかってたけど今は個人情報云々で取り外されている。
遥香はドアを三回ノックしてから、ゆっくりと開いた。二回じゃなくて、三回だ。二回だとトイレのノックになってしまうことを最近知った。
「やあ、ハル。待ってたよ」
そこに広がっていたのはまるで絵に描いたような病室の風景だった。彼の横顔が見える。もう何年も見続けてきた横顔だ。見た目はやや幼く見えるけど、眼差しだけはどこか達観していて。優しくこちらに視線を向ける彼も、この一室を描くパーツの一つだ。
不謹慎だけど、彼には病室が一番似合うと思う。白いベッドに静かに座って、窓の外をじっと眺めてる。手には本を持っていて、静寂の空間の中、彼はただ一人。
遥香の彼に対してのイメージは、そんなものだった。
「ん。果物持ってきたよ」
遥香はスーパーで買ったみかんをビニール袋から取り出して彼に差し出した。「ありがとう」と彼は受け取りしばらくはみかんを見つめていた。まるで美術品でも鑑賞するかのようにいろんな角度から見入っていた。
「後でいただくよ。ちょうどみかんが食べたいと思ってたんだ」
「それは良かった」
「それで、テストはどうだった?」
「あ、そうだった。」
遥香は思い出して、慌てて鞄の中から答案用紙を取り出した。とりあえず点数の良かった英語を一番上に重ねて彼に渡した。
赤く書き綴られた数列たちを彼は一つ一つ確認していく。妙な緊張感が遥香を襲った。
うん、と彼は軽く頷くと小さな笑みを浮かべて言った。
「なかなかじゃないかな」
良かった。とりあえずは合格だ。前回のテストはたまったもんじゃなくて呆れられてしまったから今回は良くやったと思う。遥香は嬉しくて声を弾ませた。
それから遥香たちはそれぞれ学校での話、病院での話をした。遥香はなにげない日常的な話が好きだった。彼は一般的な高校生活を送っていない。だから学校の話をすれば喜ぶと思った。
時間も忘れていたが、ふと時計が目に入った。面会時間も残りわずかになっていた。
そろそろ時間だから、となかなか言い出せない遥香を察したのか彼は会話が途切れたところでみかんを一つ手に取って「次もみかんを持ってきて欲しい」と言った。
「うん、わかった。期待しててね」
遥香はそう言い残して部屋を後にした。帰っていく遥香を、彼は最後まで見つめていた。
あれから一週間も経たないうちに遥香は再び病院へ訪れていた。今度は彼に連絡はしていない。突然行って驚かせてみたくなったからだ。
まあ、連絡をしないで行くのは今回がはじめてなわけではない。ちなみに結果は全部微妙な反応。遥香がいきなり部屋に入ってきても特に驚きもしないで「やあ、ハル」とか言ってくるのでつまらなかった。
―――いや、言い訳だ。
うん。そんなのは全部言い訳で、言い訳にもなってない言い訳をとりあえず作っておきたかっただけに過ぎない。
ちょっと自己嫌悪になりながら遥香は病室のドアを開けた。
そこにはいつも通りの空間。いつも通りの横顔。彼はこちらを見て、平然と言う。
「やあ、ハル」
「こんにちは、お兄ちゃん」
おや、眉が動いた。どうやら平然は装えなかったようだ。
今回、はじめて彼の横顔を壊せた。
「ハルが僕のことを兄と呼ぶなんて久しぶりだね」
遥香は椅子に腰掛けながらこう言った。
「なんとなく、いつもと違うことがしたかったんだよ」
そうして遥香はビニール袋を鞄の中から取り出した。
中には一本のペットボトルが入っていた。それはオレンジ色のラベルを纏った黒と夕焼けを混ぜ合わせたような色―――
「コカコーラ・オレンジ?」
「うん。みかんを持ってきて欲しいって言ってたでしょ?前に飲んだらなかなか美味しかったから持ってきたよ」
「へえ、意外だね」
「病人でも炭酸ぐらい飲めるでしょ?」
「うん。ありがたく頂くよ」
そう言って彼は少し力をこめてキャップを捻った。プシュ、という音が辺りに響いた。
太陽が、黒い海で泡を吹いていた。海がしょっぱいのと同じように炭酸もぴりっとする。ただそこにみかんの味がするだけだ。
「オレンジ・オーシャン?」
そんなことを考えていると、思わず声に出してしまった。ちょっぴり恥ずかしい。
「なるほど。海とコーラは似てるって言うの?」
構わず彼はそんなことを言ってきた。返答に困っていると彼はペットボトルを一口飲んで、天井を見上げて言った。
「僕は海に行ったことはないけど、確かにこれは海の味だね」
遥香は何も言わずに彼を見つめていた。
「海は広い。広すぎて、ある意味孤独だ」
「孤独?」
「広大な海の真ん中に一人取り残されたらどう思う?」
彼は遥香の目を見て言った。でも彼の瞳はどこか心細かった。
「さあ。考えてみたこともなかった。でもきっと、それは寂しいことだと思う」
彼は続きを促すように軽く頷き、またペットボトルに口をつけた。
遥香は語り続ける。
「なら、救わなきゃ。手を差し伸べなきゃ。海に一人取り残されるなんてシチュエーションなかなかないと思うけど、もしそれが起こったのならその人はきっとなにか事情があったんだよ。一人になりたがる理由が」
いつのまにか、遥香は高揚していた。心の底から湧いてくる感情を、彼にぶつけたくなった。
「ねえ、海の真ん中っていうのはただの誇張の比喩でしょ?なら希望はあるじゃない。深い深い心の鍵がかかっているのなら、開けてあげるべきなんだよ」
ペットボトルの中身が残り少しになったところで、言葉が喉につかえた。急に身が震えはじめて、声が掠れた。
「―――もしかして、あなたは一人になりたいの?」
彼は俯いて、しばらくの静寂が訪れた。決まりの悪そうに口ごもらせていたけど、息をゆっくりはいてからようやく言葉にした。
「べつにそういうわけじゃないよ。試すようなことを言って悪かった。でもね、ハル。これは君のことでもあるんだ。そこをわかって欲しい」
窓の外から入ってきた風が彼の横顔を撫でた。心細かったその目には壊れたようになにも宿っていなかった。
「そろそろ僕は、いなくなる」
衝撃だった。とてもとても無気力な衝撃だった。彼の言葉の意味は瞭然で、けれども予想もしてなくて、でもどこかでわかっていたのかもしれなくて―――
思考が絡まる。現実味がなくて気持ちの整理ができなかった。「あっそうなんだ」なんて返事もできてしまったけど、それはしなかった。
遥香がなにか言う前に彼が口を開いた。
「でもね、これだけは覚えておいて欲しい」
彼は話を続ける。
「孤独は、誰もいないわけじゃない。僕がいるんだ。少なくとも、自分はそこに存在してるんだ」
彼は遥香に微笑みかけて、優しい目を見せた。
「僕はそう思って生きている」
でもその目は寂寥さからか、目線を下にそらして―――
「だけどもうその生き方も終わりだ。だから君に残しておこうと思う」
そして彼はペットボトルの最後の一口を呷った。その味を噛み締めながら彼は深く息をはいた。
「さあ、面会時間もそろそろだ。ハル、もううちに帰るんだ」
遥香は茫然としながら時計を見た。確かに面会時間は残り迫っていた。
彼はいつもの横顔で最後にこう言った。
「さよなら」
―――さよなら?
なんだよ、それ。
突き放さないでよ。自分がこうして一人になる寂しさを消しているのに、向こうから否定しないでよ。
時計の針が、終了時刻を跨いだ。遥香はふわりと立ち上がって、去り際に言い放った。
「もう一度、持ってくる。今度は二人で飲もう」
彼からの返答はなかった。
コカコーラ・オレンジが自販機から姿を消した。
そのことに気がついたときにはもう遅かった。どうしようもなく絶望だった。
コーラを手に入れる方法はもうない。もちろん店では売ってないし、ネットで検索をかけても取り扱っていなかった。でも途方にくれている時間はない。どうにかして手に入れるしかないのだ。
まず、遥香はSNSや掲示板で呼びかけた。「コカコーラ・オレンジを持っている人がいたら連絡してください」って。
だけどそんな変な呼びかけに応じる人はいなく、遥香の努力はネットの波に流された。
ならばもう残された道は一つしかない。
「自分で作ってしまおう」
思い当たった遥香の行動は早かった。とりあえず家の冷蔵庫に入ってた普通のコカコーラとオレンジュースを混ぜ合わせてみた。
結果は駄目だった。酸っぱすぎて飲めたもんじゃない。こんなんじゃ彼の死因がコレになりそうだ。
その後もコーラとオレンジの比率を変えたりといろいろ模索したけど、どれもあの味にはたどり着けなかった。
疲労がたまって、遥香は一度ベッドに横になった。体勢を丸くして、脳を意識に集中させた。
少女は回顧する。彼との思い出を。コーラの味を。
炭酸はみかんの味だった。当たり前なんだけど、とても重要なことに感じた。そしてある光景が脳裏によぎった。
これは―――海?
潮風の匂いに夕晴の空が橙に光っている映像が浮かび上がった。
―――そうだ、これだ!
なにかが心の奥から湧き上がってきて、急に意識が覚醒した。勢い良く起き上がってキッチンへと急いだ。
余ったコーラとオレンジジュースを冷蔵庫から引っ張り出して、直ぐにコップに注いだ。目を閉じてさっきの景色を思い浮かべながらゆっくりと混ぜ合わせた。
できたものをがばっと飲み干した。それは気持ち良く舌から身体へと染み込んでいった。
しかし―――
「違う、これじゃない」
まだなにかが違う。今までより一番良いものが作れたと思うけど、それでもまだ足りなかった。
込み上がる悔しさを噛み殺して、ある決心をした。なんの根拠もなくて馬鹿げてるけど、これが最後のチャンスだと思う。
「実際に行ってみるしかない」
遥香は強く拳を握った。
次の休み日。青空の下、遥香は自転車をこいで坂を一気に駆け下りていた。それは海へと続く道だった。
彼はあの味を海の味だと言った。ならば実際に行ってみれば良い。風に乗って前へ前へとペダルを押しながら遥香は期待した。
家から一時間くらいで海に着いた。久しぶりに自転車に乗ったので不安なところもあったけどそれは杞憂だった。
太陽はまだ遥香の真上を佇んでいた。ジリジリと暑い光が矢のように降り注いでいた。
自転車を背に体重を預けて、右腕で目元を覆いながら匂いを嗅いでみた。
ただ単純な潮風の香り。よくわからないけど、これはきっと彼の知っている味じゃない。まだ足りていないんだ。
遥香は辺りを見回した。見つけた一台の自販機。遥香は駆け寄り、オレンジジュースを探した。
百二十円で売っていたものを買い、もう一度匂いを嗅ぎながら口をつけた。
みかんの甘さが口の中に広がる。ほんのりとした酸味が舌を刺激し、心が落ち着いた。
でも、その落ち着きは安らぎではなかった。
虚しかった。
本当はどこかで気づいていた。結局のところ味の再現なんてできやしないことに。
ただ彼を孤独から救いたかっただけだった。でも彼に拒絶され、自棄になってしまった。この海に来たことも半ばやけくそで、自分のアイデンティティを失うのが怖かっただけだ。
彼はどうして自分を見捨てたんだ?
ああ、もう誰も彼のことを――――――
「救えないよ」
砂上で落胆する遥香を、太陽は嘲弄するように見下していた。
この太陽が沈むには、もう少し時間がかかる。
不幸の連鎖は続く。バッドエンドというのはどうしようもなく悲壮に溢れているんだ。
最初に注意書きでもしていれば良い。「この物語はバッドエンドです。誰も救われません」って。そうすれば最初から期待なんてしないんだよ。
今朝、彼の訃報が届いた。呆気なかった。タイムオーバーだった。私は一人涕泣していた。いつまでも涙は枯れず、なにもかもぐしゃぐしゃになった。
最後まで遥香は無駄だった。泣きじゃぐりながらキッチンでコーラとオレンジジュースを混ぜ合わせ続けていた。壊れたように。もはや滑稽だった。
いつまでも鎖に縛られて、踠いて踠いて。でも溺れていく―――
『この物語はバッドエンドです。彼女は救われません』
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