新釈 浦島太郎
淺羽一
新釈 浦島太郎
それは今よりもずいぶんと昔の頃、海沿いの小さな村に暮らす若者の中に浦島(うらしま)太郎(たろう)という名の心の優しい男がいました。
幼い頃に高波で亡くした両親の跡を継ぎ、いつしか立派な漁師となっていた太郎は、その日も朝早くから海で一仕事を済ませ、休憩の為に一人で砂浜を歩いていました。
日の出前の薄暗い世界では、たくさんの音が太郎の耳に飛び込んできました。それは履き古したわらじが湿った砂に跡を残す音だったり、遙か沖から冷たい潮の香りを運んでくる風の音だったり、はたまた細かな泡を散らしながら打ち寄せる波の音だったり、太郎にとって聞き慣れた音の重なりは、いつもと何ら変わる事のない日常そのもので、だけど聞く度にとても心を穏やかにしてくれるものでした。
けれど、いよいよ世界が明るくなり、遂に日が昇ろうかという時でした。不意に太郎の耳に、奇妙な響きが飛び込んできました。そして太郎はすぐさま、それの正体を知りました。
波打ち際の少し手前で、一人の老人が何やらかすれた声を上げながら、足下にいる大きな亀を蹴ったり殴ったり蹴ったり殴ったり。大の男でさえ悠々と背に乗せられそうなほどの海亀は、怪我こそしていなさそうでしたけれど、抵抗する事も逃げる事も出来ないのか、頭と手足を甲羅の中に引っ込めてじっと耐えていました。
太郎はほんの刹那、驚きのあまりに立ち尽くしてしまいました。着ているものこそ太郎と同じ漁師然とした服装ではあったものの、海風の勢いが僅かに増しただけで今にも倒れてしまいそうな細い体と、潮のせいでばさばさに痛んでいる風な白髪をした老人が、鬼気迫る勢いで無抵抗の亀を虐める姿というものは、現実離れしすぎていていっそ奇妙なものでした。
しかし、すぐに我に返った太郎は、慌てて老人に近付いて言いました、「お爺さん、お爺さん。どうしてそんな事をしているのですか。亀が可哀想です、お止しなさい」と。
だけど、老人は止めません。それどころか、太郎の方を振り向く事もしません。どうやら、だいぶと耳が遠くなってしまっているようです。
太郎はもう一度、今度は腹の底から声を張り上げました。「お爺さんっ、お爺さんっ。亀を虐める事はどうぞお止しなさいっ」。
ようやく、硬い甲羅を乱暴に踏みつけていた老人の足が、ぴたりと静止しました。それからやっと太郎を見て、その途端、老人はとても驚いた顔をしました。それはまた、どうしてなのか酷く傷ついている風にも見えました。
太郎は直感的に、きっと何か特別な事情があっての事だろうと思いました。しかし、だからといって亀をいたぶっていい理由にはならないはずだとも考えました。
そこで太郎は何よりもまず、彼らの足下で身を硬くしている亀を「もう大丈夫だ」と撫でてやり、それから老人に向かって尋ねました。「お爺さん、一体どうしたのですか」。
果たして、老人は何言かを答えました。けれど、どうやら彼の歯は綺麗に抜けてしまっているらしく、また吐き出される空気の量も微々たるもので、太郎にはそれをちゃんと聞き取る事が出来ませんでした。
老人はそれでもしばらくの間、辛抱強く不明瞭な言葉を発していましたが、一向に自らの意思が伝わっていない様子に遂に諦めたらしく、やがて最後に太郎にきわめて悲しそうな眼差しを向けると、大きく首を左右に振ってからとぼとぼと、朝焼けに染まる無人の砂浜をおぼつかない足取りで去っていきました。
太郎は相変わらず何が何やら分かっていませんでしたが、ゆっくりと小さくなっていくその背中があまりにも寂しそうで、だけどそれでいてこの世の全てを拒絶しているようでもあって、結局、老人を呼び止めてまでそれ以上の追及をする事は出来ませんでした。
そうしてその場には、呆然とする太郎と、未だに頭を隠し続けている大きな海亀だけが残されました。
しばらくして、老人の姿が完全に見えなくなった頃、太郎は優しい声で亀に話し掛けました。「おい、亀よ。もう大丈夫だから、頭を出しなさい」。
ややあって、焦げ茶色の甲羅の内側から、まずは左右の手足、それから最後にのっぺりとした頭がほとんど音もなくにょきと生えてきました。
亀は夜の海のごとく真っ黒な瞳を緩慢な仕草で動かし、太郎の顔を見つめてきました。うっすらと濡れた二つの眼差しは、普通の亀には見られない不思議な輝きを帯びていました。
突然、亀が口を開きました。「ご親切に、ありがとうございました。あなたに助けて頂けなければ、私は今頃どうなっていたかも分かりません」。
太郎は驚き、絶句しました。まさか、亀が人の言葉を話すとは思ってもいませんでした。
亀は続けます。「どうか、あなた様にお礼を差し上げたいのです。ご迷惑でなければ、どうぞ私と共に、我らが姫のおわします深海の宮殿へといらしては頂けませんでしょうか」。
太郎は断りませんでした。と言うよりも、断る事さえ出来なかったと言った方が正しいでしょう。しかし、その真相がどうであれ、亀は拒否されなかった事ですでに満足だったらしく、変化の乏しい顔をそれでもかすかに和らげて「では、どうぞ私の背中にお乗り下さい」。
あまりと言えば信じられない成り行きに、太郎はずいぶんと長い間、動くどころか笑い返す事すら出来ませんでした。
けれど、そんな彼の態度にもかかわらず、亀はいつまでも忠実に、恩人の前で頭を垂らして己の背中を見せていました。
その健気な姿を眺めている内に、太郎は遅ればせながら、ようやく状況を理解し始めました。するとすぐさま、得体の知れない存在に対する驚愕や不安の隙間から、まだ見ぬ光景への好奇心が芽生えてきました。
亀が話していて、その上、深海の宮殿と言い、そこにはお姫様が住んでいるらしい。最初は小さな双葉に過ぎなかった気持ちは、しかしあっという間に大輪の花を咲かせていて、気付けば太郎は着物の裾をたくし上げ、大きな亀の甲羅にまたがっていました。
「それでは、参ります」
言うやいなや、亀が進み始めました。それも、鈍重なはずの亀にはまるで似つかわしくない軽やかな動きで、太郎はあたかも濡れた坂道を一気に滑り落ちていくように海の中へと入っていきました。
冷たいと、苦しいと感じたのは、ほんの一瞬の事でした。どういう理屈が働いているのか、反射的に目を閉じていた太郎が、けれどまるで息苦しくない事実に、恐る恐る目を開けた時、そこはもうすでに、彼がそれまでに一度も見た事のなかった色鮮やかな海底の世界でした。
果たしていつの間に太陽は昼の明るさを得ていたのかと、色とりどりの魚が鱗を煌めかせながら目の前を優雅に泳いでいく光景の美しさに、思わず頭上を仰いだ太郎でしたが、そこにはいかにも陸の上から薄暗い海面を見下ろしている感じの暗さが広がっているばかりで、生まれて初めて目にした深海は、まるで底一面に光苔を生やしているみたいに、その空間自体が光を放っているようでした。
子供の手の平ほどの大きさをした原色の魚が、無数に集まって群れを成し、巨大な虹色の魚を形作っているかと思えば、ずんぐりとした暗褐色の太った魚が、その体躯に似合わぬ妙に可愛らしい胸びれを巧みに操って水中で舞うかのごとく華麗に泳ぎ、はたまた海蛇よりも細長く海猫よりも白い姿をした奇妙な生き物が、青白い幻想的な光を纏いながら、あたかも太郎達を先導する風に深海の底へと優雅に進んでいき。
時間を忘れて眼前の出来事に心を奪われていた太郎が、次に我に返った時、そこは金銀財宝を張り合わせて作った城よりもさらに素晴らしいと確信出来る、鮮やかな珊瑚と純白に輝く貝殻を見事に重ねて築き上げられた、まさしく深海の宮殿でした。
「ようこそお越し下さいました。此処が、我らの乙姫(おとひめ)様のいらっしゃいます、竜宮城でございます」
足の下にいるはずなのに、まるで耳元で囁かれている風な亀の声を聞きながら、太郎は立派な門をくぐって竜宮城の中へと入っていきました。
そこは、外から見た時よりもさらに絢爛豪華な内装を持つ城で、何よりもその中心で彼を出迎えてくれた乙姫様の美しさと言ったら、太郎の暮らしていた村どころか、いっそ国中の美女と呼ばれる美女を全て集めて、その上に最高級の着物を纏わせたとしても、決して敵わないだろうと一目で確信してしまえるほどでした。
海中の光を受けて艶やかに輝く、うっすらと緑がかった黒色の髪。極上の桜貝を用いた貝細工よりも滑らかな肌。優然と笑みを湛える唇は、薄紅色の珊瑚よりも遙かに気品に満ちていて。何よりもその漆黒の双眸は、真夜中の海に浮かぶ満月のごとき儚さと、それを上回る神々しさを秘めていて。
やがて静かに停止した亀の背から降りて、まるで普段の陸上生活を送っている時と同様に、砂丘めいた踏み心地の海底に降り立った時にはもうすでに、太郎は乙姫の麗姿に魅了されてしまっていました。
「ようこそおいで下さいました。私は此処の主、乙姫と申します」
洗練されたお辞儀を前に、慌ててぎこちない仕草で礼を返しつつ、太郎が「私は浦島太郎と申します」と自己紹介をすると、乙姫はそんな彼の姿にくすりと笑い、それから氷の鈴の音さながらに澄んだ声で「どうぞ、中へとお入り下さい」。
温かな光を灯す真珠に照らされた竜宮城の中は、もう何もかもが太郎の想像を超えていました。
天下の将軍でも住めないだろう繊細ながらも色彩豊かに飾り付けられた大広間では幾匹もの海の生き物が宙を泳ぎながら見事な合唱を披露し、新鮮な魚介類や瑞々しい海藻をふんだんに使った美食は一口ごとに頬を下から押さえなければならないほどで、杯が空になれば乙姫自ら注いでくれる酒はこの世のどこかにあるとされる楽園の果実を思わせる香りを漂わせ、それはそれは夢見心地という言葉でも物足りないくらいの時間でした。
しかしです、しばらくして太郎は唐突に気付きました。この竜宮城には、自分と乙姫を除けば、どうやら他に誰もいないようだと。召使いとしての亀や魚たちはいたとしても、彼らと同じ人の姿をしている者は、ただの一人として。そして亀や魚たちは、乙姫を絶対の忠誠を誓う存在として崇めているからこそ、決して隣りに並ぼうとはしません。
途端に、太郎は何故だか胸の奥が悲しくなるのを感じました。眩いばかりの宴は尚も続いていましたが、どうしてなのかそれまでのような感動を覚える事はありませんでした。
太郎は傍らの乙姫に尋ねました。「あなたは、此処で一人で暮らしているのですか」。
果たして乙姫はかすかに物憂げな眼差しを浮かべると、やや躊躇いがちながらも「はい」と答えました。「私はこの世に生を受けた時からずっと、この城で一人で暮らしております。時折、あなた様のように城を訪れてくれる方はおりましたが、それでも皆、すぐに自身が元いた世界へ帰ってしまわれました」。
太郎は、少しも羨ましいと思いませんでした。代わりに、それはきっと寂しかっただろうと思いました。
いかに美味しい食事があり、どれだけ芳潤な酒があり、どれほど優れた舞踊を愛でられようとも、それを分かち合える者が隣りにいないとすれば、全てはすぐに色褪せて見えてしまう事でしょう。幼い頃に親を失いながらも、純朴な気風の村人達に囲まれ、彼らの息子同然に育てられた太郎にとって、自らの背中に手を回して抱き締められる温もりが、いっそ億万の財宝よりも遙かに心を幸せにしてくれる事は、何よりも明らかな事実でした。
この美しく清らかな姫を、これ以上、孤独の中に置いておく事は出来ないと、太郎は大きな決意を胸に抱えて告げました。「乙姫様、もしもあなたがお許し下さるのなら、これからは私があなたのお側におりましょう」。また、それは太郎にとっての密やかな願望でもありました。
直後に乙姫が浮かべた表情は、他のどんな光景よりも輝かしいものとして太郎の目に飛び込んできました。「まぁ、嬉しい」。だけど、それはすぐさま再び翳りを宿します。「けれど、それは無理でございます」。
「一体どうして」
「私は海の民、そしてあなた様は陸の民。互いに住む世界が違います」
「ならば私は陸を捨てましょう。あなたがいる場所が、私にとっての暮らすべき場所なのです」
そう応える事に太郎は微塵も迷いませんでした。だから彼は真っ直ぐに乙姫の美しい瞳を見つめられました。
乙姫は今度こそ、一点の曇りもない晴れ晴れとした笑みを浮かべました。
「私はこの竜宮城を離れられない定め。幾ら想いを捧げども、その人に去られてしまえば後は一人寂しく暮らすしかない哀れな身。なればこそ、真に誠実な方との出会いをずっと心待ちに致しておりました」
そして乙姫はそっと太郎の手を取り、尋ねました。「あなたは、私との誓いを決して裏切らぬと約束して頂けますか」。
太郎はぎゅっと彼女の手を握り返して頷きました。「勿論です」。
「ならば、此処で私と二人、永久に共に暮らして頂けますか」
「勿論です」
「本当に、嬉しゅうございます」
「ただ、一つだけお願いがあります」
「はい、何なりと」
「最後にもう一度、私を育ててくれた村の者たちにきちんと挨拶をしておきたいのです」
「さすが心お優しき御方。それは至極当然のお望みでしょう」
「では、良いのですか」
「勿論でございます。ただ、私どもの事は話さぬと約束して頂けますか。海の世界の真実は、陸の人々にあまり知られてはならないのです」
「約束します」
「では、どうぞ行ってらっしゃいませ。お迎えは五日後、月が沈んで日が昇る、その前に、海辺に亀を寄越します」
やがて大広間の外に出て、乙姫が優雅な仕草で袖を振ると、どこからともなく太郎を竜宮城へ運んでくれた亀が現れました。
太郎が亀の背に乗ると、また乙姫が彼の手を握ってきました。
「あぁ、再びあなた様に相まみえる時が、今から楽しみでなりません。その時が、私の孤独も終わる時になるのでしょうから」
「乙姫様、あなたと離れている間も、きっと一秒たりともあなたを忘れはしないでしょう」
「でしたら、どうぞこの箱をお持ち下さい。私が傍にいない間、どうかこれを私と想って代わりに大切にしてやって下さい」
乙姫がそう言うと、何も無かった空間に忽然と大きな泡が現れ、そこには朱色の紐で結ばれた黒塗りの箱がありました。
「これは何ですか」
「この箱には竜宮城の秘密がしまわれております」
「そんな大切なもの、私が預かるわけには参りません」
「良いのです。これは、私からあなたへの信頼の証なのです」
「乙姫様」
「あなたが再びこの場所へお戻りになった際、二人でこれを開けたならば、きっと私達は末永く幸せになれましょう」
「分かりました、ならば私もあなたへの信頼に応えましょう」
「ただし、決してお一人でこの蓋をお開けになりませぬように」
「約束します。この紐をほどき、蓋を取る時は、必ずや二人手を取り合っておりましょう」
「あぁ、浦島様。私はあなたをお慕い申し上げております」
そして乙姫は優しく太郎の手を放し、やがて亀は箱を大切そうに抱える太郎を乗せて、陸へと泳いでいきました。
見慣れた岸辺に戻ってきた太郎は、まず中天に上った太陽を懐かしそうに眺め、それから亀に礼を言いました。
「それでは浦島様。五日後の日の出前、こちらにお迎えに上がります」と言い残し、亀は海へと消えていきました。
村に帰った太郎は、普段と変わらぬ人々の生活ぶりに目を細くしながら、とりあえず家に帰って身の回りの品々を整理しました。茅葺きの小さな家で、それほど物が多くない暮らしをしていた太郎でしたが、いざそこを去るとなると一つ一つの品に懐古の情を触発され、なかなかはかどりませんでした。
それでも一日が経ち、二日が過ぎ、三日目を迎える頃になると、いよいよ支度も整い、次に太郎は世話になった村人達に別れの挨拶をしに行きました。
村人達は口々にどうして村を離れるのかと尋ねてきましたが、太郎は決して真実を語らず、しかし嘘を吐く事も出来ずに、ただ「大切な人と共に暮らす事になりました」とだけ言いました。すると、最初の方こそ寂しそうな顔をしていた村人達も、ついには我が子の旅立ちを祝うかのごとく、晴れやかな笑みで彼を送ってくれました。
そうして時間はあっという間に過ぎ、約束の日、太郎は朝の早い漁師の村でさえまだ誰も起きていない内から、海岸へとやって来ていました。荷物は結局、乙姫から預かったあの箱だけでした。
太郎は少し早く来すぎたなと思いつつ、亀が迎えに来るのをじっと待ちました。
けれど、待てども待てども、亀は一向に姿を見せません。星の名残も完全に消え、いつしか空が白み始める頃になっても、やはり亀はまだ現れていませんでした。
徐々に、太郎は不安になってきました。まさか、全ては夢であったのだろうか、もしかして自分は物の怪か何かに化かされただけなのだろうか、そんなはずはないと思いながらも、しかし豪奢な竜宮城と平凡な海辺のあまりの差に、いつしか彼の胸中は嵐にでも襲われたみたいに荒れていました。
太郎は焦りました。自分はひょっとしてとんでもない間違いを犯してしまったのではないかと言う考えを、必死で振り払おうとしました。とは言え、一度でも生まれた疑心はあたかも澱のごとく、頭を激しく振ろうとも、浮かんで心を濁らすだけで、またすぐに底へと溜まっていくばかりでした。
太郎には決定的な何かが必要でした。そしてそれは、ただ一つだけ、彼の腕の中にありました。
艶やかな光沢を放つ黒い箱。だけどそれだけならば、さして珍しくもない代物で。太郎はいけないと分かっていながらも、手を止める事が出来ませんでした。
朱色の紐はいとも容易くほどけました。太郎は一度、そこで動きを止めて海を振り返りました。やはり亀はいません。
太郎はもう迷いませんでした。ほんの一瞬、ちょっと中を覗くだけ、そうしてそこにあるものを見られれば、後はすぐに蓋を閉じて再び元通りに紐を結び直せばいい、太郎にとって重要だったのは、竜宮城の秘密を暴く事ではなく、ただ竜宮城の存在を確かめる事だったのですから。かすかに残っていた、乙姫との約束を破る事に対する罪悪感は、これはむしろ彼女の実在を求める想いの強さ故だと、自らを納得させる事で忘れました。
そして遂に、太郎は両手で静かに箱の蓋を持ち上げました。
その瞬間でした。突如として僅かに空いた箱の隙間から、真っ白な煙が吹き出して、驚いて腰を抜かした太郎ごと、辺り一面を覆ってしまいました。
やがて、今まさに水平線から太陽が顔を出そうとした寸前、突然に吹いた涼やかな海風が不思議な煙を取り払った時、そこにいたのは太郎ではなく、齢百歳を迎えようかという、くすんだ白髪をして歯の抜けた一人の老人でした。箱はもう何処にもありませんでした。
「あぁ、箱を開けられてしまったのですね」
と、そこへ不意に声が生まれました。日の出よりもほんの刹那だけ早く、海から上がってきていた亀でした。
亀は耳の遠い老人にも伝わるように、鈍重な動きで彼の前へと回りました。
「やはり、また駄目でしたか。乙姫様もお気の毒に、今度こそ真に誠実なお相手に巡り会えたかも知れないと、とても喜んでいらしたのに」
それから亀は、驚きと怒りに顔を赤くする老人に、心底から憐れむように「もう少しだけ、乙姫様を信じて待って頂ければ、あなた様は我らの主になれましたのに」と告げ、海へと帰っていこうとしました。
ですが、それよりも先に、老人が立ち上がりました。鈍足の亀と、足の震えた老人では、ほとんど変わりありませんでした。
老人が何言かを叫びながら、亀を蹴りました。おそらく「元に戻せ」と言っているのでしょうが、歯の抜けた口からは奇妙な風音しか生まれておらず、また早々に頭と四肢を甲羅の中へ引っ込めた亀はそれさえも聞いていなさそうでした。
老人は必死の形相で亀を責め続けました。しかし亀は微動だにせず、応える気配もありません。
しかし、その時でした。唐突に、彼らの間に若々しい声が割って入りました。
「お爺さん、お爺さん。亀を虐めるのはお止しなさい」
自身の方こそ激しく殴られたみたいに、老人が動きを停止させました。するのその隙を衝いて、若者がすかさず彼らの間に体を滑り込ませます。
やがて老人が全てを悟り、我に返った頃にはもうすでに遅く、漁師風の若者は足下の亀を不憫そうに撫でていました。
「おい、亀よ。もう大丈夫だぞ」
若者の声をずいぶんと遠くに聞きながら、老人は悄然とその場を立ち去る寸前、確かに甲羅の奥で亀の目がにやりと細められたような気がしました。
〈了〉
新釈 浦島太郎 淺羽一 @Kotoba-Asobi_Com
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