最終話 檻の鍵
「良ければいつでも……。私の準備はできてる。もちろん今日でなくてもいいが」
ヴィダルはあまり深刻な顔にならないよう意識しながらカイにそう告げた。
カイは頷く。鳶(とび)色の瞳から生まれた、まっすぐな視線がヴィダルをとらえた。
ヴィダルはまだ夢の中にいるような気分だ。百年間待ち続けたこの時を、まだ実感できないでいる。待ち続けたと言っても、それを楽しみにしていたわけではない。かといって望まなかったと言えば、それも嘘になる。
ただカイの最初の望み、レダを守っていくという願いを壊したくなかった。それを目標に生きてきたからだ。例えそれが様々な絶望を携えていたとしても。
「すぐに始めよう。だけどその前にルシアに話したいことがある」
カイはヴィダルの顔を見たあと、次にルシアに顔を向けてそう言った。少しの間、空間に沈黙が生まれる。
「……私は席を外そう」
何かを察したヴィダルはドアへ向かうが、カイはその腕を掴んで呼び止めた。
「ここに居ていい」
ヴィダルは不思議そうな顔でカイを見つめたが言葉を返すこともなく、大人しく足を止める。
穏やかで冷たい朝の風が、不格好な窓から吹き抜けていった。緊張を
カイはその冷たい風を飲み込むと、ルシアに向けて静かに口を開いた。
「俺は百年前に怪我をしたヴィダルを助けた。それが元で彼の母さんと契約を結ぶことになった。俺は頼んだんだ。ドラゴンがもう人間を食べないようにして欲しいって」
ルシアはカイが何を言いたいのかわからなかったが、これが自分が聞く彼の最後の言葉になるのだと、両耳に全神経を集中させた。
「ヴィダルの母さんはレダにドラゴンが近づけないよう壁を……結界を張ってくれた」
その時ヴィダルは目を見開いて息を飲んだ。
カイが目の前にした2つの選択肢。
苦しい選択となりそれは心の牢獄になる。即ち檻。カイはルシアのように檻に囚われていた。どちらを開けたとしても苦しみを渡される。考えても正解は誰にもわからない。
だがカイはこの瞬間についにその檻を開けた。しかし、その2つの答え以外の鍵を彼が見つけ出したことを、ヴィダルはこのとき理解した。
カイは少し申し訳なさそうに、ヴィダルの顔を横目で見る。
ヴィダルはその視線を受け頷く。無表情に見えたその顔に明か暗かの線引きがあるとすれば、限りなく境界に近い明だった。
「俺は制約でこの壁を超えられなくなった。壁からすごく遠くにいくこともできくなった。これが俺とヴィダルの母さんが執り行った契約だよ」
ルシアは少しの間カイの言葉を頭で反芻していた。続いて「はて?」という言葉がルシアのその頭を支配する。直後、何かをやり遂げたような満足そうな顔でヴィダルと見つめ合っているカイに、やっとのことで問いかける。
「よくわかったわ、カイ。でもその話は、あなた話せないって前に言ってなかったかしら……? 」
「俺が俺以外の人間に契約の内容を話すことは禁じられてる。それは契約違反になるから……」
「じゃあどうして?」
「契約違反になると契約が破棄されるから」
カイのその言葉のあと、地震のように世界が揺れ始めた。ルシアは小さな悲鳴を上げると、思わず石畳の壁に身を預ける。
カイはその揺れに動じることもなく、壁に立て掛けてあった斧で思い切りルシアの檻を叩いた。かの青白い閃光が走ることはなく、錆び付いた檻の格子はいとも簡単に破壊された。
ルシアはその様子を驚いてただ眺めていた。驚きすぎて声も出ない。
「出てこいよ、ルシア」
カイが右手を差し出してルシアを待っている。手のひらにできているマメ、所々にある薄い傷跡、適度に日に焼けたしなやかな腕。見慣れたはずのそれは、いつもより鮮明に目に映る。そこには鉄格子がない。それに、どうやら望めば触れられるらしい。
ルシアの体は震えた。腰が抜けてそこにへたりこんでも、壁にひっついたままそこを動けずにいる。
カイは檻の中へ一歩、踏み込んだ。一瞬で空気が変わったのがわかった。そこはもうレダの中。だがカイは負傷することもなく歩みを進めることができる。ルシアのとなりでカイは彼女に視線を合わせるように腰を下ろした。そこから檻の外を眺める。
暗いじめじめした石畳の壁の世界。真ん中に開いた出口から見えるのは、明るい光が差し込む無様な部屋。いくら時間や天気が変わろうとも代わり映えのしない、つまらない景色。部屋の窓を閉めればそこも真っ暗に終わる。カイはその景色から目を反らすことなくルシアの背中にそっと手を置く。改めてルシアの絶望を知る、地獄がこんなに近くにあったとは知らなかった。
カイは戸惑うルシアを抱き抱えた。驚くほど軽い。食べ物だけではない、外の空気も、希望も、美しい今朝の空も、何も体に入っていないからこんなに軽いんだとカイは思った。
ゆっくりと檻の外へ出る。ルシアは縮こまって、目だけをキョロキョロと動かした。ヴィダルが開けてくれたドアを潜ったとき、二人の顔に柔らかな光が差す。ルシアは息を飲んだあと、ぎゅっと目を閉じた。同時に、カイの服を小さく掴む指にも力が入る。
「ルシア、見ろよ」
ルシアが目を恐る恐る開けると、まず目に入ったのはたくさんの緑だった。檻の中で聞いていた、木の葉が風に揺れる音、今はすぐ近くで聞こえる。それに、その様子が目で確認できる。次に見上げたのは空。こんなにも広かった。見渡す限りの青空に終わりは見えない。白い雲が何かに引っ張られたように、薄く長く伸びている。
「自分で立てるわ」
そう言ってルシアはカイから離れると、地面に足をつけた。柔らかな草を踏んだ瞬間、足元から一気に冷たい風が吹き抜け、心を濡らした。風に香りがある。じめじめとしたかび臭い匂いではない。新鮮な空気、緑の香りだ。
「夢みたい」
ルシアの2つの瞳から、真珠のような大粒の涙が頬を伝った。彼女は緑の地面に体を横たえる。目を閉じて世界の音に耳を傾けた。
・
ヴィダルは元々壁があった方を眺めていた。もうそこに障害物はなく、緑の木々が広々と続いている。すぐそばには古城も見える。
「盲点だった、こんなやり方が残されていたことを気付けなかったとは」
ヴィダルは小さくウィンクをするとカイに微笑んだ。
「ごめん。お前の母さんに悪いことした」
「そんなこと誰も気にしてないさ。それに、時には他人の事を気にしないで自分のやりたいようにするのもいいと思う、君ならば」
この期に及んで母のことを気にしていたことを、実に彼らしいとヴィダルは思った。母の全ての力を注いで交わした契約を一方的な理由で取り止めにしたのだから、後ろめたいと思う気持ちがまた彼を苦しめるかもしれないことを、ヴィダルは懸念した。誰もそんなこと気にしちゃいないのに。自分ですら、このやり方を見つけ出したカイに感謝しているくらいだ。
「ヴィダル。始めてくれ」
カイの声に我にかえったヴィダルは、その身を本来の姿へと戻した。カイは一気に空気の温度が上昇するのを肌で感じ取る。
ヴィダルが二、三回翼をはばたかせたあと、カイは彼の言葉を受け取った。
――レダの国をここではない所へ移動させる。環境はほぼ同じに、ドラゴンや危険のない世界だ。過去に君が私の命を救ってくれたことを制約の一部にしたかったが、それはもう母が使ってしまった。私は君が死んだあと、君の魂を譲り受けたい。いいか?
「いいよ」
カイは何の疑いもなく頷く。その表情には悩みも戸惑いもなく、ただヴィダルへの信頼の色だけが浮かんでいる。
――ルシアを連れて国に入るといい。間もなく移動を始める。急げ。
カイはその言葉を聞き、眉をしかめた。ヴィダルの言っている意味がわからなかったのだ。
――故郷の国で最期を迎えることがそんなに不思議なことか?
カイは悩む間もなく答えた。
「俺はここから離れない。一緒に死んで欲しいって言ったはずだぞ。それに俺の故郷は、ずっとこの森だ」
ヴィダルはしばらくの間カイを見つめたままだった。二人はお互いに目を反らさなかった。
――わかった。彼女は?
その言葉を聞いたカイがルシアの方へ駆け寄ると、彼女は大地に身体を横たえたまま、いつの間にか眠っていた。顔が草の露で濡れている。
「ルシア起きて」
カイがルシアの肩を少し揺らすと、彼女はすぐに目を覚ました。
「……ごめんなさい、思わず寝てしまったみたい」
すぐに身体を起き上がらせたルシアは、まだぼやける目をこする。
思わず寝るとはどんな心理状態なんだろうと、またひとつ彼女の魅力を知る。
日の光の下で見るルシアは、いっそう美しく見えた。白い肌が緑の大地によく映えている。
「レダが動く。国に戻りたくないか? 今なら間に合う」
ルシアは小さな咳払いをした。
「あのねカイ、私は檻の中でずっと考えていたことがあったのよ」
「……なに?」
「もし
段々と小さくなる声に、思わずカイは体を近づけた。ルシアの青い瞳に自分の顔が映っている。
「それなら俺も。言うかどうかは決めてなかったけど……今決めた、先に話していいか?」
ルシアは予想外の言葉に固まっていた。自分の台詞しか考えていなかったので彼への返答が思い付かない。黙っているルシアを見て、肯定ととらえたカイは言葉を続けた。
「君が好きだよ。たぶん初めて会ったときから。出来れば死ぬときまで一緒にいたい」
ルシアの言葉は出てこないままだ。代わりに涙が溢れた。その涙には、驚きと嬉しさと幸せが少しずつ入っている。
「ここに、俺と残ると言って欲しい」
カイは自分が言った言葉に、自分自身が一番驚いていた。それは確かに真実の気持ちだったが、自分がこんなに抑えがきかない人間だとは思っていなかったからだ。
「もちろん、ここに残るわ。あなたが居ればどこでも幸せだもの。たとえば檻の中でもね」
笑顔で自分を見上げるルシアを、これまで以上に愛しいと感じる。
「生きていてよかったって思ったのはこれが初めて。あなたが今話してくれたこと、私があなたに言いたかったことと同じなの」
ルシアが幸せだと言ってくれたことが、カイにはどんな言葉よりも素晴らしく嬉しい詞に思えた。自分がルシアの幸せを奪ってしまったことをずっと考えていたからだ。最後に彼女を少しでも幸せにすることができたなら、もうあとは"ほとんど"いらないのだ。
「……まいったな」
カイは顔を赤くすると照れ隠しに頭を掻いて目をそらしたが、その視線の先に呆れた顔(カイにはそう見えた)のヴィダルがこちらに冷たい視線を向けていることに気づき、飛び上がった。もちろん、"ほとんど"にはヴィダルは含まれていない。
「ここにいて」
そう言い残すとカイは転がるようにヴィダルの元へと走った。
――私の存在を忘れていたな。
カイはありありと動揺の色を浮かべた表情で答えた。
「お、お前のこと忘れた時なんて一瞬もないぜ」
――ハハ。 で、どうするんだ?
「俺達、ここに残るんだ。残りの時間を三人で過ごそう」
ヴィダルの紅い瞳が燃え上がった。
さらにカイの周りの気温が上昇し、一瞬だけ炎の渦がカイとヴィダルを取り囲んだように見えた。
――わかった。それでは、契約成立だ。
・
卵と粉を混ぜた菓子を作った後で、使われた深い器が洗われる事を忘れられキッチンに放置されている。一番初めにその存在に気が付いたのはヴィダルだった。
「おい、すぐに洗わないと取れなくなるといつも……」
そう言いかけてやめた。木桶に入った水にその器を浸したとき、その汚れが自分の心の中にもあったことをふと思い出した。
それは、自分が母にカイとの契約の話を聞いた時から、ずっと心にこびりついていた。カチカチに固まって、撫でたくらいでは簡単に取ることもできない。たまにその存在を忘れることがあったとしても、手触りの悪さにすぐに思い出す。たったひとつの救いは、この汚れからたまに甘い香りが流れてくること、それはなかなか悪くなかった。
今はもう、ない。その汚れがどれほどの重さを持っていたのか知らないが、心がとてつもなく軽く感じ、今までより若干高く飛べるようになったくらいだ。だが同時に、少し寂しくもあった。汚れという言葉で表すには、少し汚れていなさ過ぎたのかもしれない。
カイの家のすぐ近くに生えているリンゴの木の下に座り、ルシアは空を見上げている。彼女はこの場所をすぐに気に入った。カイはこのすっぱい実しかつけない木をあまり有難く思ってはいなかったが、ルシアはそうではなかった。
特に何も世話をしていないと彼は言っている。にも関わらず、惜しげもなく大きな実をたわわに実らせる。毎日だって食べても飽きない。こんなに素敵なことが外の世界にあるのだということに驚きを隠せなかった。
あのときルシアが死を覚悟したのは難しい事ではなかった。もちろん長く生きすぎたという事実も要因にはあったことにはあったが、もっと大きな理由は違うところにあった。
自分は城に生まれた者であり、行く行くは国を治める立場にあった。そうなる前にその権利を失ってしまったとはいえ、あの頃の自分にはそんな自覚すらもっていなかった。ただフワフワと毎日を過ごしていただけだ。カイに出会ってから、そのことを無性に恥ずかしく思った。自分は、森のはずれにこのような仕事をしている少年がいたことさえ知らなかったのだから。
レダを守ろうとしたカイを尊いと思い、ヴィダルの言うとおりにすることが一番いいことなのだと悟った。そのための代償の一部が自分の死だとしても、何も後悔はないと、心からそう思ったのだった。
・
ヴィダルの母との契約を破棄したことにより、あと少しの寿命がさらに短くなったことを、カイは本能的に理解していた。きっとヴィダル自身もそう長くはないだろう。
ここにいる3人の誰もが、現在何の
――あと少しだけでもいいから……。
だが、それを口にするものは一人もいなかった。
・
深夜、何度も寝返りを打つカイをヴィダルは気にしている。静かに、音をたてないようにカイはベッドを抜け出し庭に出た。
満月だった。眺めていると吸い込まれそうに感じる。周りの風の音が一切聞こえてこないほどに、美しかった。
「眠れないのか」
後ろからヴィダルの声がして、カイは驚いて振り返る。
「ごめん、起こしちまったか」
ヴィダルは優しく微笑んで、首を横に振った。
「俺、この命が終わった後も、お前とルシアに会えるかな」
「会えるさ」
悩む様子もなく断言するヴィダルの横顔を、カイは見つめる。
「私が君の魂を持っていくからな」
「持っていく? どこへだよ」
ヴィダルは吹き出して笑った。
「あの世」
「……は?」
カイはヴィダルと契約を執り行ったときに、自分の魂を代償として彼に捧げたことを思い出した。
「お前どんだけ俺の事好きなんだよ」
「君の魂が気に入ったんだ。次はもっと近くで、もっと長く君と過ごしたい。それに」
ヴィダルは人差し指を鋭く立ててカイの鼻先を指した。
「君が他人に
「……ペットじゃないっての」
ヴィダルは面白そうに笑うと、両手のひらを上に向けて続ける。
「人間の魂はその肉体よりも特別美味いらしいぞ。それに食べれば魔力も格段に上がるとさ。まあ、私は食べないが……。とりあえず君の魂はキノコのスープ味だろう」
「いつか絶対殴る」
・
それから数日後の月の輝く夜、ほぼ同時に3つの魂が天に
静かに旅立った命の行く先は、夜だというのに美しく、そして明るかった。
(おわり)
2つの檻 lussekatt @lil
★で称える
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