禁忌の獣
春が来て雪解けの水が水車を回し、次いで短い夏が額に汗を運びます。それから、たわわな秋が駆け足で去っていき、ふたたび重い雪に郷のすべてが降り籠められる冬となりました。
わたくしは、変わらず首に銀と翡翠の枷をはめられて御柱に繋がれ、人の罪を受けとめる日々を送っておりました。
降りつむ雪が人の背丈をはるかに超えたころ、この度も冬の祭りをとり行われるために、神殿にワカヒさまがおいでになりました。神官たちによれば、二年続けて同じ方がいらっしゃることはなかなかないということでしたが――わたくしが憶えている限りでも初めてでございました――ワカヒさまは前の年に引きつづいて祭儀の司を務めたいと、御自ら帝に願い出られたのだというお話でした。
「シラユキ、シラユキ。顔を見せておくれ」
以前のようにわたくしのいるひと隅にお顔を出されたワカヒさまは、わたくしの姿を見るやいなや、ハッと凍りつかれました。
おそらくは驚かれたのでしょう。人の齢に直して十六となったわたくしは、夏ごろから急に背が伸びて、胸や腰に肉がつき、随分と形が変わっておりましたから。長かった白い毛も、たてがみ以外の部分が生え変わり短くなってしまいましたから、わたくしが自覚する以上に、見目が違っていたことと思います。
「シラユキ、なのだね……まことに?」
お尋ねになるワカヒさまは、ひどくとまどわれたご様子でした。
わたくしは、そうだと申し上げるかわりに、つめたい絹の袴に頬をこすりつけて、ワカヒさまを見上げました。犬のような尾があれば、うれしげに振ってみせていたかもしれません。
無心の好意を示すわたくしの姿は、お目にどう映ったのでしょうか。かすかな音を立てて唾を飲まれたワカヒさまは、なにか得体のしれないいきものに触ろうとするかのように、こちらへ向けてゆるゆるとお手を伸ばされました。
わたくしは、ただ、笑みをたたえたまま、お顔を見上げておりました。
ワカヒさま、と横合いから鋭い声が飛んだのは、なに故だったのでしょう。叱責するような神官の声を受けて、ワカヒさまは打たれたように身をお震わせになり、たった今夢から覚められたばかりのようなご様子でわたくしをご覧になりました。
そうしてよろめくようにあとじさられると、「禁忌の、…」とちいさくつぶやかれ、パッと身をひるがえされたのです。
わたくしは、意味がわからぬまま、逃げるように遠ざかるお背中を眺めるよりほかにはありませんでした。
さようでございます。おっしゃるとおり、ワカヒさまのようにおかしなそぶりをお見せになる方は、他にもいく人もいらっしゃいました。
このころのわたくしは、時たま、罪を受ける折や、傷を癒すまどろみの間に、奇妙に粘ついた視線を向けられるようになっていたのです。
わたくしは、からだの上を這っていく、果の熟れぐあいを見分するような視線があやういものであることは、感じ取ってはいたのですが、それがなにを意味しているのかまでは、わかってはおりませんでした。わたくしの心は、からだに反して未だ幼く、またそういった事柄の知識も持ち合わせてはいなかったのです。
逃げるように去って行かれたワカヒさまは、けれど翌日またおこしになりました。
「シラユキよ、私は私が恐ろしい」
わたくしは、わたくしのたてがみを梳くワカヒさまを見上げて、ちいさく首を傾げます。
「そなたを恐ろしいと思う、私が恐ろしい……」
ワカヒさまはお嘆きになるご様子を隠されるように、お顔の前に片袖をかざされます。
「私はそなたを、……シラユキ、……っ…」
たてがみを梳く指がすべっていき、銀と翡翠でできた首枷に触れたとたん、ワカヒさまはまたもやうち震えられ、身をひるがえして去ってしまわれました。
次の日も。また次の日も。ワカヒさまは、かつてのように飴をお持ちになったり、香油で脚を揉みほぐそうとなさったりしては、途中でなにかにおびえるように、わたくしを放り出してお逃げになりました。
わたくしは、どうすればよかったのでしょうか。これまでとは打って変わって、わたくしの前でも声をひそめるようになった神官たちの視線が、なにをしていても鋭く突き刺さります。
わたくしはワカヒさまを拒めばよかったのでしょうか。あの時点で、わたくしが、ワカヒさまを拒んでいれば、あるいは……。
暗い夜でございました。青く凍えた星ばかりが輝く、静かな夜でございました。
皆が寝静まる真夜中に、ジャクリジャクリと凍みた雪を踏んで、ワカヒさまがわたくしのもとへ忍んでこられました。
外からかけられた閂が外される音も、扉がきしみ開くちいさな音も、わたくしが眠る一角へと進んでこられる忍んだ足音すらも、はっきりと、この上もなくはっきりと、憶えて……、ああ……。
声をあげることのできぬわたくしに、どうすることができたでしょう。鎖につながれて逃げることもかなわず、混乱することしかできずにいたわたくしに、いったいなにが。
ワカヒさまは、禁忌をお破りになりながら、おっしゃいました。そなたが変わってしまったのが悪いのだ。うつくしく妖しき雪色のからだが、私の罪を誘うのだ。悪しき罪の獣よ、罪深き私のうつくしい獣よ。そなたが私を、獣の罪に落とす――。
さようでございます。皮肉にも、罪を受けとめるべき獣が。人の罪を受けて浄化する、貴いはずのこの身が。最も重く深い罪を作り出すのだと、あの方はおっしゃったのです。
灰色のお方。わたくしは醜いのでしょうか。
――神官たちは、醜いと申します。
それとも、ましろな雪のように、人を惑わすほどうつくしいのでしょうか。
――あの方は、うつくしいとささやかれました。
醜く、うつくしく。貴く、いやしく。清らかで罪深き、悪しき罪に生きる獣。
わたくしは、いったいなんなのでしょう。わたくしのようないきものは、なに故に存在するのでしょうか。考えるほどにわからなくなるばかりで、混乱してまいります。
すべてが終わり、ワカヒさまが去られたあと、打ち捨てられたわたくしは、のろのろと起きあがりました。
開かれたままの扉からは、風に飛ばされた雪が舞い込んでまいります。ついさきほどまで、わたくしを押しつぶしていた熱はすでに消え、しんしんとした寒さが、きしむからだを凍えさせていきます。
はふん。
息を吐けば、凍って白くシャラシャラ鳴りました。
はふん。
声には出せぬ悲しみを乗せれば、吹き込む風にすくわれて天にのぼります。
雲までのぼった想いは、凝ってやがて雫になるでしょう。
雫は、冷えた空を下るうちに、だんだんと雪に変わってまいります。
そうして降りつむ雪は、うつくしかったでしょうか。あの方がおっしゃるように、わたくしの姿に似て、白く、妖しく、郷をつつんだのでしょうか。
ワカヒさまが、その後どうしていらっしゃるのか、わたくしは存じません。禁忌が破られたことは、すぐに神官たちの知るところとなり――わたくしの目とつながる碧玉が、すべてを記録していたのだそうです――わたくしはほどなくこちらへ移されましたから、神官たちの噂に聞くことも、ありませんでした。
灰色のお方、わたくしの告白は、これで終わりです。定められたとおりに、今宵、わたくしを屠られますか? 喉笛を食いちぎり、やわい腹を喰んで、罪深きわたくしをお裁きになるのでしょうか。
涙は、流すやもしれません。きっと、苦しいでしょうから、もがき暴れもするでしょう。
けれど、恐ろしくはありません。だれかに喰われてなくなることも、このまま雪に埋もれることも、わたくしはなんとも感じないのです。
わたくしは、もう、どなたにもお会いしたいとは思いません。だれにもかえりみられずに朽ちてゆくことを、願ってすらいます。
むくろは、いずれ音もなく激しく降りつむ雪が隠してくれるでしょう。きっと、あばらなこの小屋ごと雪が押しつぶして、ましろにやわく、つつみかくしてくれます。
罪屠るお方。わたくしがいなくなったあとも、まだ、あの方がおられる郷に、雪は降っているのでしょうか。豊穣の雪は、わたくしなしでも、郷の上に降るのでしょうか。
わたくしの名はシラユキ。人の罪を糧に雪を呼ぶ、ましろき雪のいきもの。
終生を神と人に捧げられた、
……罪孕む、獣でございます。
神の獣 若生竜夜 @kusfune
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