イチゴミルクキャンディ

たかぱし かげる

イチゴミルクキャンディ

 煤けたホームへ蒸気機関車がゆっくりと入ってきた。

 少女の目の前を立派な一等客車が通り過ぎ、二等客車も通り過ぎる。彼女の前で止まったのは、ガタゴトと音をたてる三等客車だった。

 降りてくる客はいない。重たい鞄を持ち上げて、少女は見慣れた町並みを、見納めとばかりに振り返った。背後の丘に、町はいつも通り広がっていた。

 駅員が客車の扉を開いて待っている。どうするべきか少し迷い、少女はちらりと三等の切符を見せながら乗り込んだ。

 三等車の中は想像以上に狭かった。なぜか荷物が、座席や通路にうずたかく積まれている。非道いことに三等車も貨物車も一緒くたなのかもしれない。

 この中に座れる席があるのかと、首を巡らせる。よく見れば荷物に紛れて座る男の乗客がおり、その隣は空いていそうだ。

 荷物の山がガタギシと不吉な音を立て、汽車が動き始めた。車窓の景色もゆっくりとながれ始める。

 鞄を引きずっていき、男に軽く頭を下げてみる。男もうなずき返してくれるところをみると、やはりここは座ってもいい席なのだろう。

 かさばる荷物を足下に押し込み、堅い木だけでできたベンチに腰を落ち着ける。しかしやはり、どうにも座り心地は悪い。

 窓側に座っていたのは、まだ若い男だった。全体的に黒っぽい服を着ている。かぶった帽子のつばを気にしてか、前屈みに座っている。そして膝の上には、手提げサイズのトランクをのせていた。茶色い革の、四角いトランクだ。

 カチリ、カチリと金具を外し、男がそのトランクを開く。中には雑多な小物が乱雑に詰まっていた。何かを探しているのか、手をつっこんでかき雑ぜている。

 興味深げに見つめていると、その視線に気づいたのか男が顔を上げ振り返った。少女が驚き、慌てて目をそらそうとする前に、男は愛想よく顔を綻ばせた。穏やかそうな瞳が見えた。不躾な彼女の視線にも、不快や不審は感じなかったようだ。

 ぱたりと、トランクのふたを閉じる。

「どちらまで」

 愛想の良さを感じさせる声が、慣れた調子で問いかけてきた。

 慣れない汽車で緊張していた少女は、ほっと息をついた。

「えっと、カタストロベレク、です」

 彼は笑顔のまま、うなずいた。

「ああ、カタストロベレクですか。いいところですね」

 天井から吊られた裸電球が、ヂヂチッと音を立てて点いた。同時に窓の外が闇に沈む。ゆがんだ小さいガラスには、二人の姿が映った。

「ええ、あ、いえ、初めて、行くんです。それで、どんな町か、知らなくて」

 おや、と男が首を傾ぐ。

「いえ、あの、祖母を頼って」

 行くところです、と少女は急ぎつけくわえた。足下の大きな荷物には、移り住むための身の回り品が詰め込まれている。

 安っぽい頭上の電球が、頼りなげに瞬いた。

「そうでしたか。カタストロベレクは、平和ないい町ですよ。潮風の香る、美しい港町です。よく港へ大きな白い船が入ってきます。それを眺めているだけで充分に楽しめる」

「そうなんですか」

 少女が相槌を打った。

「あの、行ったことがあるんですね。もしかして、今からも?」

 男はゆるりと首を振る。

「あ、違うんですか。じゃあ、あの、どこへ?」

「さあ。どこまでも。ゆけるところまで」

「えっと」

 少女は終着駅を思い浮かべた。

「じゃあ、イルディア、ですか?」

 男は笑みを浮かべた。

「そうですね」

「お仕事、ですか?」

「少し違います」

 男は照れたように、旅が自分の仕事なのだと言った。

「旅が? じゃあ、旅人ですか」

 少女は驚いた声をあげ、男は穏やかにうなずいた。

 この時代、この世の中、国々を旅して渡るのは。

「なんというか、とても、……大変なお仕事ですね」

 少女が冗談ぽく言い。

「はい、命がけです」

 男は真面目腐った顔で答えた。

 ガタゴトカタコト汽車は進んでいく。外は相変わらず闇に包まれたままだ。

 そこには、少しの光もない。こんな闇を、少女は夜でさえ見たことはない。

「でも、どうして暗いままなんでしょう? あ、その、汽車に乗るの、初めてで、よく知らなくて」

 汽車ってこういうものなんですかと尋ねる少女の語尾は、自信なげに消えた。

 男は、トランクに頬杖をつき、その穏やかな瞳を外へ向ける。

「いえ、そんなことはありません。汽車もトンネルや夜でない限り、こんなに外が暗くなったりはしません」

「じゃあ、どうして……?」

「これは、」

 頬杖をついたまま外から視線を少女へと戻す。

「これは、そうですね。あなたの不安が外に感染っているのでしょう。汽車が町へ着くのを恐れているから、暗いのです」

「わたしが? 町に着くのを恐がってるから?」

 ええ、そうですと男が肯く。

 少女は外の闇を見つめた。ただただ何も見えない真っ黒な塗りつぶしが、景色のあるべきところに陣取っている。

「でも、じゃあ、このまま……」

「ええ。いつまで経っても汽車はどこへも着きませんね」

 それでは困るだろうに、男は少しも気にした風もなく、穏やかに、ごく当たり前にしている。

 少女が恐れているからだと、男は言った。

 堅くて痛い木のベンチ。詰め込まれた荷物。お世辞にも快適だとは言い難い状況だというのに。

 少女は、男がどこへも着かないというのを聞いたとき、戸惑うと同時に、ほっと安堵した。

 ずっとこのままでいたいと、心のどこかが願っている。

 ああ、確かに、わたしは町へ着くのが恐いのだと、少女は思った。

「やっぱり、わたしは、カタストロベレクへ行くのが、恐いみたいです」

 少女が正直に言うと、男は非難するでも咎めるでもなく、静かに頷いた。

「誰であれ、見知らぬところへ行くのは恐いものです」

「それにしたって、これは酷いと思いますけど」

 外の闇へ視線を転じ、少女は苦笑した。「恐くて行きたくないから真っ暗闇」など、自分のことながら、いや、自分のことであるから余計に可笑しい。男も一緒に苦笑した。

「そうですね。でもやはり、殊更不可思議というほどのことではないでしょう。よくあることです」

「よくある、ことですか?」

「よくあることです。旅人などしていると、見知らぬところへ行くことの方が多いですから。正直なはなし、恐くないときの方が少ないです」

 少女は瞳を、興味深げに旅人へ向けた。

「どうして、なにが、こんなにも恐いんでしょう?」

「ただ単純に、わからないことが恐いんです。でもそれは、知らないとか、不案内、などということではなく」

 どうすればいいかわからない。どうなるかわからない。周りの人間にとって日常的なそれが、自分にとっては未知のもの。周りの人間にとっての当たり前が、自分にとっては予測不可能。どうにもこうにも、勝手がわからない。

「そういった、よくわからない事の初体験は、人間、避けたくなるものです。避けるのが無理だとなると、何食わぬ顔をして勝手知ったるとばかりにやってのけようとする」

 顔を顰めつつ、年を取れば取るほどその傾向は強くなるから厄介です、と男は付け加えた。

「わかっているというのは、つまり、安心や安定の基礎なのかもしれません。だからでしょうか、人は自分の慣れた生活に変化が起こるのを嫌がります。たとえ日常に退屈しているという人でも、それとこれとは、どうやら、別問題らしいです」

 少女は、首を傾けながら頷いた。男の言葉は、朧気ながら理解できたものの、実感するに至るには、彼女はまだ若すぎるのだろう。

 だから少女は、問いを重ねた。

「それなら、どうして旅を、旅人をしてるんですか?」

 男は目を細めて笑顔になった。

「安心した、安定のある暮らしとは、素晴らしいものですね」

 答えの代わりに同意を求められ、少女はこっくりと頷いた。

「そう、ですね」

「本当にそれは、とても素晴らしいものですが。変化という流れのない平穏の陰には、どうしても淀みができますから。ときにはかき混ぜてやらないと」

 かき混ぜられることなく放っておかれれば、淀みは溜まりにたまって、そして皆を腐らせる。

「かき混ぜるのが、旅人の仕事です。旅人は、日常を送る人々にとってイレギュラーな存在ですから。思いっきり、かき混ぜてやるのです」

「とても重要なお仕事なんですね」

 少女が本心から言うと、男はまじめくさった顔で「そうなのです」と言う。

「旅は、大変で重要で危険な、そしてちょっぴり楽しい仕事です」

 最後にいたずらっぽく笑った。

「そしてあなたも、これからその大変で重要で危険でちょっぴり楽しいお仕事をしなければならない、というわけですね」

「わたしも、ですか? わたしは、旅人ではないですけど」

「今まさに旅をしているのですから、あなたも立派な旅人です」

 緊張の面持ちをする少女に、男は優しく微笑む。

「カタストロベレクであなたはきっと良い仕事ができるでしょう。最初はお祖母様も変化を嫌うかもしれませんが、なに、お祖母様のためにもなることです。うんとかき混ぜておやりなさい」

「ええ、そうですね。でも」

 少女の不安は簡単になくならないようだった。なかなか決心がつけられない。

 窓の外も変わらぬ暗闇だった。そのことがまた少女を焦らせる。

「ごめんなさい。まだ真っ暗で、これじゃあどこにも行けない、ですよね。これじゃあだめ、ですよね。どうにか、しないと」

「大丈夫です。良いものがあります」

 カチリカチリとトランクのふたを開けて、なにかを探し出す。なかなか見つからないのか、がさがさとやっている。

 少女の視線を感じたのか、少し顔を上げて照れたように言った。

「かき混ぜるのは、得意なんです」

 それからまた、荷物をかき混ぜる。

「ああ、ありました。これです」

 促されて少女がおそるおそる手のひらを差し出す。男がそのうえへ小さな包みをぽんと落とした。ピンクと白のかわいいそれを少女は見つめた。

「イチゴミルクキャンディ?」

「その通り。でも、ただのあめ玉ではありません」

 男が自分のぶんの包みを開き、淡いピンクのあめ玉を口へ放りこむ。

「旅人の必須アイテムです。恐くて恐くて仕方がないときにこれを舐めます。そうすると不思議と平気になるのですよ」

 少女はあめを目の高さにつまみ上げた。どう見てもただのキャンディにしか見えない。

 男にならって包みを開き、口に入れた。

 ミルクの濃い甘みとイチゴのほのかな酸味がふんわり広がる。素朴で懐かしい味だった。

「おいしい、ですね」

「そうでしょう。やはりあめ玉はイチゴミルクに限ります」

 音もなく天井の裸電球が消えた。それと同時に、トンネルを抜けたように窓の外が明るくなった。丘の向こうに青い海が広がり、きらきらと輝いている。

「ほら、カタストロベレクはあなたを歓迎しているようですね」

 男が指さす先、遠い港に白い船が入っていくのが見える。

「到着早々見られるのは、なかなかないことですから」

 駅に近づいた汽車が汽笛を上げる。

 車窓に街並みが流れ、待つほどもなく汽車はガタガタと揺れながらホームへすべり込んだ。危なげに積まれた荷が揺れて、汽車が止まる。

 呆気にとられていた少女は、慌ててベンチの下から荷物を引っぱり出した。

「あの、ありがとうございました」

「こちらこそ、よい道連れが得られて幸いでした。それと、これをひとつ、持っていって下さい」

 差し出されたイチゴミルクキャンディの包みを見て、少女はぎこちなく微笑んだ。

「ありがとう。でもわたしは、大丈夫です」

「違います。言ったでしょう、これは旅人に必須のものだと。あなたも旅人なのですから、ひとつぐらい持っているべきです」

 そう言われ、少女はそれを受け取り、握りしめてにこりと笑った。

「それじゃあ、あの、気をつけて」

「ええ、あなたもよい旅を」

「よい旅を」

 鞄を引きずるようにして少女は歩き出した。三等客車を降り、駅員に求められて切符を見せる。一等客車や二等客車では忙しく人が乗り降りしていたが、三等客車のまわりは忘れ去られたように静かだ。

 ふり返ってみると、男は変わらず荷物に囲まれ座っていた。トランクに頬杖をついて、港のほうをずっと見ている。どんな表情でいるのか、少女からは見えない。

 間もなく、汽笛を鳴らして汽車が動き出した。汽車がホームを抜けるまで、とうとう男は少女を振り向かなかった。

 見送った少女は、人気のなくなったホームで息を吸いこんだ。空気に潮の香りが混ざっている。

 握っていたイチゴミルクキャンディを笑みとともにポケットにしまう。

 少女は重い鞄を両腕で持ち上げると、改札口に向かった。

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イチゴミルクキャンディ たかぱし かげる @takapashied

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