一〇、雲外蒼天

 ……ええと。どうなったんや。あれ? 校庭がなんだか静かになってる。

 体を起こして顔を上げボールの行方を確認しようとしたとき、キャー! という声が聞こえました。歓声ではなく、悲鳴です。なんで? 

「あ、朝井さん、顔面でボールを止めました! しかしだいじょうぶでしょうか、鼻血が出ているように見えますが!」

 雨森さんの実況もあり、ようやくわたしは状況が飲みこめました。ボールはゴールより前方に転がっています。止めたんや、わたし。顔面ブロックで。やった……。

「お、おい! だいじょうぶか!」

 地べたに座るわたしのもとへ、斎藤くんがすぐに駆け寄ってきました。ふと周囲を見回すと、先生方やお母さん、要さん、浅倉さんもこちらへ急いで近付いてきています。

「ああ、うん。だいじょうぶです、なんとか」

 うそです。起き上がったときから、鼻がズキズキめっちゃ痛いです。赤尾先生の言っていた通りですね。手で軽く押さえると、確かに血が出ているのがわかります。

 斎藤くんが心から申し訳なさそうに、

「ごめんな、女子の顔に。……ごめん」

「いいですよ、わざとじゃないんですし」

 わたしはそれだけ答えました。真剣勝負の中でのことですから、斎藤くんを責める気なんてこれっぽっちもありません。今は、もっと大事なことがあります。

 やがて、みんながわたしの周りに集まってきました。お母さんはわりと冷静にティッシュを鼻につめてくれます。赤尾先生はぬれタオルで顔を冷やしてくれました。

 おかげで、数分もすると血は止まってきたようです。

「朝井さん、しばらく座って休んでいなさい」

「そうですね。いのりちゃん、座っとき。先生、この勝負ここでストップして、引き分けという形にしたらどうでしょうか。いのりに無理をさせるのはちょっと……」

「それは……」

 赤尾先生とお母さんがそんな会話を始めたので、

「冗談やないで。ここで終わりなんて、ありえんで。こんくらい、なんともあらへん!」

 わたしは思わず叫んでいました。

「……関西弁?」

 斎藤くんがおどろいたようでした。他のクラスメイトたちにも聞こえているかもしれませんが、気にしていられません。

「お母さん! 最後までやらせてえや! 先生も、おねがいします。指したいんです!」

 わたしが立ち上がり食ってかかると、意外にもお母さんはやさしく言ってくれました。

「いのりちゃん、もうええんよ。今日見てて、将棋習いたいって気持ちはちゃんとお母さんに伝わったで。この後、ちゃんと話そう。それに、お母さん将棋はようわからへんけど、どっちが優勢かくらいは浅倉先生の解説のおかげでわかる。別に白黒はっきりさせんでもええやないの」

「え……」

 わたしは斎藤くんを見ました。斎藤くんはちょっとおびえたような表情になります。

 ああ、斎藤くん自身もこの後で将棋を指せば負けるのがわかっている。みんなの前ではずかしい思いをさせるかも。わたしはそこまでして斎藤くんに勝ちたいんかな? 

 いや、そうじゃない。それは手段であって目的じゃありません。

 そしてお母さんには、将棋を習うことを認めてもらえそうです。目的の一つは果たしたことになります。

 でも、それだけが目的じゃありません。わたしが本当にやりたいことは。

「それでも、最後までやらせてえや。わたし、わたしは……」

 わたしはまっすぐ相手を見ました。お姫様はわたしの視線を受け止めてくれています。

「わたしは、浅倉さんのおかげでここまで指せるようになったって、わかってもらいたいっ。そんで、これからも浅倉さんと指したい。浅倉さんを目指して強くなりたい。浅倉さんはどうなん? やっぱり、これ以上指したないん?」

 自分のことはともかく、他人の意志をどうこうしようなんて、わがままなのかもしれません。でも、それがわたしの本当の気持ちなんです。

 浅倉さんはしばらくだまっていましたが、やがて大きく息を吐くと、

「……斎藤。次、交代してくれないかな」

「へ?」

「朝井さんがどれだけ強くなったか確かめるなら、盤の上が一番でしょ」


「さあ、大変なことになってまいりました! 選手交代です! 斎藤くんに代わって、読み上げ係の浅倉晶さんが将棋で戦うことになりました!」

 実況の雨森さんが興奮気味に叫びました。予想外の展開に、客席もざわざわしています。

「いやいや、やっぱりお姫様が戦うなんておかし……もごもご」

 放送席で文句をつけようとした魚住先生の口を赤尾先生がふさぐのが見えました。

 対局席では、わたしと浅倉さんが向きあっています。浅倉さんは相変わらずのお姫様姿。わたしは砂まみれの体操服で、おまけにティッシュを鼻につめています。この差! 

「浅倉四段、将棋を指す人が途中で交代することなんてあるんですか」

「もちろん、プロの公式戦ではないですよ。でもリレー対局といって、イベントなんかではたまにありますね。将棋って、案外なんでもありなんですよ」

 要さんが雨森さんの問いに笑って答えます。本来読み上げ係だった浅倉さんが対局することになったので、要さんが代わりに読み上げることになりました。これで解説、ソフト操作と合わせて一人三役なので大変なはずが、なんだか楽しそうです。

「朝井さん、お兄ちゃんを気にしてる場合じゃないでしょ」

「おおっと、そうでした。……おねがいします」

「おねがいします」

 おたがい礼をして、対局が再開しました。わたしの六一手目からになります。

状況としては、断然わたしが有利。すみっこにいる玉を守っていた壁はほぼ壊しましたし、縦と斜めから攻めることができる状態です。

 さらに斎藤くんから取った駒も手元にたくさん。あと三〇手あれば問題なく勝てるはず。詰ませ方がいろいろありそうで、悩んでしまうくらいです。

 だけど、相手はわたしよりはるかに強い浅倉さんです。油断せず、確実に息の根を止める。それこそが、将棋を教えてくれた浅倉さんへの恩返しになる気がします。

 わたしは斎藤くんから取った香車きょうしゃで、さらに攻めを手厚くしました。さて、浅倉さんはどう受けるのか。そう考えていたわたしをあざ笑うかのような手を浅倉さんは指してきました。

 受けない! わたしの攻めを無視して、盤の中央から攻めてきた! 

 確かにわたしの玉は最初の場所から動いていませんし、まともに守ってもいません。だからって、自分の守りをそこまでおろそかにするものなんでしょうか。

思わずわたしは浅倉さんの顔を見ようと目線を上げました。

 彼女は、わたしの方など見向きもしていませんでした。初めて指したあのときと同じように、いや、あのときよりずっと鋭い目つきで盤の上をにらんでいます。

わたしは急にはずかしくなりました。

 何をやっとるんや。浅倉さんは、わたしを見ていないようでいて、真剣に向き合ってくれている。それに応えないでどうすんの!

 わたしも再び盤に集中します。浅倉さんはわたしの攻めを止めようともしません。

 とどめを刺したいなら刺しに来い。その代わり、一手でもミスしたらその隙に喉元へかみついて、そのまま喰いちぎってやる。そんな手です。

 ……この迫力に退いたら、負けや。わたしも浅倉さんの攻めを受けず、前へ前へと駒を進めます。

 もう盤以外、何も見えへん。音も聞こえへん。勝つための最短ルートを探すことに頭の回転を全部使って、最速で攻める!

 激しい攻め合いの中で、わたしは浅倉さんに試されているように感じました。どこまでも広くて深くて果てしない世界へ、足を踏み入れる覚悟があるのかって。

浅倉さん自身、どう進んでいくか迷っている最中なんでしょう。お兄さんとの差は広がるばかり。おじいさんは絶対に届かないところへ行ってしまって、ライバルだと思っていた子には猛スピードで引き離された。

 きっと、さびしいんです。だから将棋指しててもなにもいいことない、なんてわたしに言うわけで。

 でもわたしは、今の自分の気持ちのほうを大事にしたい。

 行きたい道を行くんや。転ぶかもしれない。行った先に道が無いかもしれない。もっと安全な道がとなりにあるかもしれない。

 でも、そんなことを気にしてたら一歩も進めへん!

 前を行く人たちが遠すぎてさびしいなら、わたしがすぐにそこまで行く。いっしょに追いつこう、浅倉さん! 

 八九手目、そんな思いをこめて、わたしは敵陣の奥深くへ歩を打ちました。これが今のわたし。浅倉さんに出会って将棋を覚えたわたしの、せいいっぱい。

届いて。届いて届いて届いて届いて届いて……!

 浅倉さんが深く頭を下げたことで、わたしの集中はふいに途切れました。

「負けました」

 小さな声で彼女が言いました。

わたしの肩から一気に力が抜けます。浅倉さんに話したいことは他にも山ほどあります。

 けど、何よりもまず、

「……ありがとうございました」

 わたしも深く深く、礼を返しました。

 客席からは拍手の音、放送席からは「八九手目にて、朝井さんの勝ちとなりました」という要さんの声が聞こえてきます。

 ええと、これからどうするんやったっけ。感想戦ってするんかな……? 

 放心状態でわたしが浅倉さんのほうを向くと、彼女は空を見上げていました。つられて、わたしも空を見ます。

 いつの間にか雲はきれいになくなっていて、一面の青空が広がっています。

 雲外蒼天って、こういうことやったんか。鳥居宗和先生の本に書いてあった言葉を思い出しました。


「宇佐美女流一級、どうぞこちらへ!」

 司会者に紹介され、制服姿の宇佐美さんがてくてく歩いてステージに登場しました。いつも通りニコニコしています。

 三〇〇〇人を超える観客がいる中で、解説の聞き手を務めたり、イベントのアシスタント的な仕事をするわけで、女流棋士も大変です。わたしたちと同じ小学六年生なのに。いや、だからこそ注目されて大きな仕事を任されるんでしょうかね。

「宇佐美さん、緊張してる様子ないなあ。すごい」

 わたしが隣の席に座る晶ちゃんに小声で話しかけると、

「小さいころからいろんな大会でインタビュー受けたりしてるから、なれっこなんだよ。しかも今回は大会の参加者じゃなくて主催者側として出てるし、そっちの方がすごいよ」

 晶ちゃんは背筋を伸ばして宇佐美さんを見つめたままで言いました。

 わたしと晶ちゃんは今、全国で開催される将棋イベントの東京大会に参加しています。プロ棋士同士の公開対局と合わせて小学生向けの将棋大会も開催される国内最大規模の大会で、会場もすごく広いです。そしてこれが、わたしが初めて参加する将棋の大会になります。

 あの合同ホームルームでの対局から半年近く経って、もう季節は秋。

 あれから、いろいろあったんですよ。わたしはバレエの先生に直接あやまりに行き、バレエ教室をやめさせてもらいました。先生が「本当にやりたいことができたのなら、しっかりがんばりなさい」と笑って言ってくれたのは、ありがたいことでした。

 その後、晶ちゃんが通っている道場へわたしも通うことになりました。周りはわたしよりずっと早く将棋を始めた子ばかりで、当然みんな強いです。追いつくためには、みんな以上の努力が必要になってきます。

 「やるならとことんやったれ、いのりちゃん」と言うお母さんのもと、家ではインターネットで対局したり、詰将棋を解いたりしています。

 あ、お父さんとは今でも対局しています。ずっと負けっぱなしだったんですが、この間初めて勝ったんですよ。お父さんがちょっと泣いていたのはないしょです。

 学校では相変わらず昼休みに晶ちゃんと指していますが、ときどき斎藤くんも加わるようになりました。彼はあれ以来、けっこう将棋が楽しくなってきたみたいですね。

 逆に、わたしも晶ちゃんといっしょに男子のサッカーに混じるようになりました。もちろんへたくそなわけですが、学校以外が将棋漬けなものですから、たまに体を動かすと気分転換になるんですよね。

 要さんは、期待の若手棋士として実績をあげています。この間も勝って、八連勝したんですよ。会える機会がなかなかない分、要さんの成績を欠かさずチェックしてますからね、わたし。なんか単なるファンみたいになってますが、単なるファンで終わらないようにせなあかんなあ……。

 わたしがポニーテールをいじりながらそんなことを考えていると、

「それでは、後ほど対局していただくお二方にもご登壇いただきましょう。長船直也八段、そして斯波和臣名人です!」

 司会者の言葉に客席から拍手が起こります。もちろんわたしと晶ちゃんも拍手。

 ステージの左手からは、以前テレビで見た関西のベテラン、長船八段がやってきます。そして右手からは、斯波名人が出てきました。黒い眼鏡をかけた、優しそうなおじさんです。なんだか宇佐美さんと並ぶと、親子に見えます。

 でも、将棋を学ぶうちに、この一見ごく普通の人がおそろしい怪物だということがわたしにもわかってきました。

 中学生でプロになって、二〇年以上トップに君臨し、あらゆる記録を塗り替え続けている存在。その人が今、ステージの上にいる……。

「祈理ちゃん」

 晶ちゃんが突然ささやきかけてきたので、わたしはびっくりしました。

「な、なに?」

「あたし、あそこに行くよ」

 晶ちゃんはステージをまっすぐ見つめたままで言いました。

 この後で始まる大会で勝ち進むと、決勝戦はステージ上で行われます。言葉通りに受け取ると決勝戦まで進むという意味ですが、それだけではないのは言うまでもありません。

「そっか」

 顔がほころぶのが自分でもわかりました。

 晶ちゃんならきっとだいじょうぶ。斯波さんや要さん、宇佐美さんのいるステージに上がれるはず。

「祈理ちゃんはどうする?」

 気がつくと、晶ちゃんがこちらを見ていました。わたしは……。

「晶ちゃんほどはっきりと口にする自信は、まだあらへん。でも、このまま晶ちゃんを追いかけていけば、いずれ目指すことになるよね」

 晶ちゃんは大きな目をさらに大きく開いて「そう」とだけ言いましたが、うれしそうでした。


 対局が始まる直前、わたしは気合を入れるためにトイレで髪を結び直しました。

それから対局エリアに入ると、三〇〇〇人の熱気であふれています。自分の席に向かうと、すでに対局相手が座っていました。わたしより年下らしき男の子です。

 ああ、ちょっと緊張してきた。晶ちゃんはどこだろう……と、いつの間にか晶ちゃんの姿を探そうとしていることに気がついて、途中でやめました。

 わたし自身の対局に向き合わなくてどうするんよ。しっかりせな!

 晶ちゃんはもう、迷いません。わざわざ立ち止まって待ってくれたりもしません。

 だから、追いつきたいならわたしが晶ちゃん以上の速度で走らないとだめです。そんなこと、できるかどうかわかりません。

 それでも、走ります。だって、わたしがそうしたいんですから。

 やがて対局開始の合図があり、わたしを含めた三〇〇〇人の小学生の「おねがいします」の声が会場に響きました。

 わたしは六年生ですからこれが最初で最後の参加ですが、現実的に考えて今の実力では優勝なんてまず不可能。だけど……。

 先手のわたしは歩を手に取りました。もっと強くなるために、今の全力をぶつける! 

パチンと音を立てて、歩が前進しました。

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リボンの棋士 ガール・ミーツ・ゲーム 平河ゆうき @doraman

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