抑止力としての文学と文化。恐怖の消し方 2,720文字

 2017/11/09 18:47


 恐怖について


 恐怖のほとんどは誤解から生じる。予期せぬ未来、良しとしない未来を想像し、それを脳内で恐怖という分類に整理する。それは経験による学習によって成立する分類である。「こう考えると、こういう失敗があり得るだろう」と、そういった心配や恐怖という想像の能力が無ければ、知性の発展はなかっただろう。なぜ人に恐怖という情動が現れたのかというと、恐怖という想像が無ければ、発展や向上や安心な精神は保たれない事を学習してきたからである。


 恐怖が無い世界というのは、知性がない世界、あるいは恐怖を克服した世界の二つである。生命は常に進歩を欲する。停滞を良しとしない。暇を嫌う。進み続ける事を本能的に欲する。進歩による安定や安心を望むという事は、生命活動そのものが、学習という機能を有しているために、その欲望は知性をもった生命の宿命であるといえる。「明日食べるために、備蓄をしよう、励ましあって生きるために恋をしよう、危険な事は早めに察知して逃げよう、恐怖に陥らないように解釈を変えよう」といった普段の生活の全てが、学習の成果であり、個人のもつ感情である。それらの感情という学習成果は、恐怖の源である悪人や罪人や嫌な人や厄災が現れたからこその、精神の発展と工夫によるものである。悪が無ければ善を磨くことはできない。そしてそういった罪人や、秩序を乱すものの抑止力として、自治の精神や協力が固く結ばれていくのである。その恐怖の抑止として、人類が見つけた文化、それは哲学、文学、物語といったもの。それらが感情の支えの役割として機能してきたのである。


 さて、恐怖は誤解から生じるという仮説を掘り下げていく。その恐怖を漠然と自然現象のように、「取り返しのつかないもの、変えることができないもの、拭い去れない宿命であって考えても無駄なもの、だから恐怖を受け入れるしかないのだ」という風に捉えると、ただ恐怖は恐怖として心に刻まれたままになってしまう。このような考えは、非常な苦しみを生み、さらなる苦悩へ作用してしまう。「苦悩は苦悩であってしかるべき、恐怖は恐怖であってしかるべき」という思考に馴れてしまうのである。それもスムーズに、息をするように心配ばかりをし、いとも簡単に心を恐怖に差し出す精神が出来上がる。


 では、苦悩の連鎖から抜け出し、恐怖を乗り越えるに相応しい、論理的な説得力のある心の作法とは、どういうものがあり得るのか、と考える。


 私はその恐怖を見つめることにした。なぜ私はそれが恐ろしいのか。いつの間に、その恐怖は私にとって恐怖となったのか。と考えると、そのほとんどが誤解から生じているのである。その恐怖の対象が私に何をするわけでもない、何をしたわけでもないのに、私は多くの誤解を頭に浮かばせるのである。不快な言葉をかけられたとする、その解釈を苦しいと感じたとする。その私が受け取った言葉に対して、私の頭が解答を探し始める。自分にとって、あらゆる角度から、最も苦しい解釈を探す行為が苦しみを生み出していることに気づくのである。つまり誤解を導くのである。「自分が苦悩に陥るしかない解釈」を、誰が正解だと認めるだろうか。私は認めたくない。だからこそ苦しむのである。解釈を変えたい、しかし不安はぬぐえないと思い込んでいる。その板挟みの状態が苦しみなのである。


 恐怖から脱したい時、どうすればいいか。原因を見つめることである。その苦しみの「原因となった言葉は、間違いなく苦しいものだ」この解答は果たして真実だろうか、誤りだろうか、と問うのである。結論を言うと、「誤解が正しかった事など、人生で一度もない」のである。誤解は誤った解釈をした結果であって、その誤解が正しいということなど有り得ない。誤解から始まった恐怖が、正しい解釈を導くはずがないのである。


 では誤解した結果が、いつ私に訪れるのか。最悪のシナリオが私に降りかかるのは一体いつなのか。いつまでたっても想像上の誤解の世界は、私の前に表れないどころか、目に見えない誤った解釈が、まるで目の前にあるように誤解し、縛られるだけなのである。


 誤解は過去と未来の事象を想像する過程の、仮のひとつの可能性としての世界なのである。不安というのは、「理想の苦しみ」を目指す行為であり、解釈を変えない限り、苦しみの連鎖に没頭してしまうのである。


 自分を苦しめるだけに生まれた想像の解釈、それを誤解というのである。「かもしれない」という解釈は、ほとんどが誤解なのである。間違っているかもしれない、怒られるかもしれない、言っても無駄かもしれない、と自己を制御するのは利口であるが、「かもしれない地獄」にいると、次に訪れるのは「違いない地獄」である。間違っているに違いない、怒られるに違いない、言っても無駄に違いない。と、その地獄の思考に苦しむのである。

 

 私は、人間を取り巻く恐怖は、解釈によって克服できるに違いないと思っている。「かもしれない地獄」「違いない地獄」を「かもしれない天国」「違いない天国」に解釈すれば恐怖は克服できるのだと、気づいたからである。


 私は正しいのかもしれない、褒められるかもしれない、言ったら伝わるかもしれない、私を傷つけたその人は実は尊敬できる素晴らしい人間なのかもしれない、いや愛すべき人間に違いない、と解釈を変換したほうが、よっぽど気が楽なのである。それが恐怖と不安と苦悩から、一歩前に進む、正しい誤解ではないだろうか。


 苦しくてしょうがないという状態がある。それは誤解によってたどり着いた苦悩の世界なのである。その地獄から抜け出せないかもしれない、と思う事が誤解なのである。想像ができる限りにおいて、その解釈は変える事ができる。結果が成立し、正しい解釈ができるのは、今を重ね、実際にその恐怖の事態に遭遇し、対面し、経験しなければ解釈することが、そもそも出来ない。そもそも何も起きていない、解釈を変えようとしないで、原因を遠ざけて恐怖に苦しむのは、まったく不合理かつ不健康である。絵空事の恐怖を懸命に描いているのは自分なのだ。それをまた懸命に上書きできるのは誰か。


 無暗に恐怖にぶつかっていくことが正しいということではなく、正しく恐れようとし、その恐れによって苦しむ理由を、再度見つめることが重要なのである。恐怖を避けるな、ということではなく、誤解を誤解と認める事から始めるのである。そして自分が誤解された時、自分が他者を誤解した時、その解釈が苦しい時、それを改めて正解へ導けるのは、間違える事ができる生命だけである。


投稿 2017/11/09 20:14

追記 2017/11/09 22:41

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