思考実験

脳内会議 小説疑心論VS肯定論 10,537文字

 まず、エッセイなら何を書いてもよいわけではなく、もちろん小説という仮想世界を物語るときも、何を書いてもよいというわけでもない。日常のコミュニケーションの言葉、ひとつひとつにも同じことが言える。ああ、言わなければよかったと、表現を変えればよかったと、言葉のやり取りの世界には、そういった、見えないパワーが生まれてしまう。一生忘れることのない勇気づけられるパワーをもつ言葉もあれば、取り消すことができない悲しいパワーをもつ言葉というのもある。それは発声のない、紙に書かれた文章においても、そのたった一行の力も同様に見えないパワーをもつ。パワーとは古くは言霊というが、それに含まれるものは、権威、野望、宣伝、打診、自慢、誘導、説得など、あらゆる属性を持っているということである。


 つまり、言葉による影響力のパワーを考えて、発言しなければならないということである。発言、発表という行為には責任が生じるのである。あの人は誰も傷つけないわ、という人物がいたとしよう。しかしその心の内側では煮えたぎった本音を抱えているかもしれないのである。そういう人物は素直とか誠実とか呼ばれたりする。当たり障りない事を言うように決心した結果、何も語らないように生きているのである。が、それは自分の発言の責任を負いたくはない、という弱さや諦めのようなものも含んでいると思われる。逆に、言いたい事をまるっと言ってしまう人がいる。そういう人も素直、誠実の評価を与えられることがある。


 生きにくさを考えた時、さて、我慢をせず思ったことを何から何まで、法令の範囲内で、はきはきと、よく発表する人生がいいか、または、我慢に我慢を重ね、言わぬが吉と、指摘されたくないと、あいつはこじらせた人物だと言われないように、黙って生きるのがいいか。もちろんバランス感覚が重要なことは承知である。しかし時に、刹那的感情を抑えきれず、無意識に発言してしまうのが人間であるのだ。人間は、取り消すことができない社会的不適合な言葉を使ってしまうのである。発する言葉の選択の気質というのは、生まれ持った人柄によって決まることではない。今、ここで、何を喋るかの選択は今しかできないのである。結果は未来にあるのではなく、今にあるのだ。今、ここでしか結果というものを受け取れないのである。結果を求めるあまり、堂々と恥もなく喋り続ける人間が作られる。結果を恐れるあまりに、何も言えない状態の人間が作られる。


 しかし、間違っていても、後悔したとしても、やはり言ったほうがいい。と私は思いたいのである。私はあらゆる発言や表現に寛容でありたい。その中で、私という人物が表現した言葉にも寛容であってしかるべき、いや、もっと言えば、まず第一の友人であるべきである。発言から批判が生まれる、その批判をさらに批判する、その過程で衰退や進歩が繰り返される。何かを感じること、何かを考えること、何かを表現することでしか、前に進むことはできない。たとえ戻る事になっても、遠回りであっても、真実らしいものを見つけるには、それを繰り返すしかないのである。


 脳内にはあらゆる情報がある。あらゆる人格が存在している。その核として私がいる。

 以下の二人の会話は小説の必要性、物語の必要性の議論を脳内会議から抽出したものである。



 ★


 A「結局小説というのは記号の組み合わせでしかないのだから、同じ組み合わせならば、より古典的、哲学的、エッセイや論文や思考そのものについて語りつくした作品の方が、価値が高いのは言うまでもない。主義主張や思想を物語を通して伝える意図はわかるが、それは近代文学の型と商業的都合によってあらわされた虚構にすぎないのであって、優れた思想を得たいならば思想家の言葉を直に読むほうが有益であり、せっかく哲学の講義や主義の構造も明確に整理されている今日において、あえて物語という舞台を選び、また物語という遠まわしの啓蒙を行うのは果たして合理的、効率的、現実的なのだろうか、と問わざるを得ない。このような物語廃止論的な提案を極論だと君は言うが、実は君も気づいているはずだ。それらを読んでもためにはならない、作り話である、と」


 B「しかし面白さを求め、娯楽をもとめる、私の時間の使い方に文句を言われても困る。それはもっと哲学書、古典を学んだほうがいいのはわかっている。重要ではない事に没頭する自分を情けなく思ったりもする。しかし私はそれをしたくないのだ。例えばそういう状況におかれたら勉強を始めるだろう。本当に困った事態になったら、そういった信仰や主義や専門書や啓発的文書には自然にたどり着くであろう。その間、適度な欲を満たす漫画等、ベストセラーなどを読み漁る時間を使おうが、その平和な時間を私がどう過ごそうが、まったく自由ではないか。学びへの態度は自然発生して初めて意味があるものになると、そう思わないか。君は人生において、漫画を読む時間がまったくの無駄だと、そう言うのか」


 A「と君のおっしゃる通りであるが、しかしあえて言いたいのは、そのような心の隙間を埋める作業を果たして、充実というだろうか。人類的進歩、繋いできた鎖を、見ないふりをして、より簡単で明確で痛快な物語に酔うのは、虚構に酔いしれるのは、ドラッグ、アルコール、そのような依存と相違ないのではなかろうか」


 B「つまり教養を身につけろと言うのだろう君は、しかしだ、教養なんてものが食えるのかい、仲間や友達が増えるのかい。そういった小難しい心理や分析なんてのは、まったく面白みがないんだよ。君だってわかっているだろう。君は当初そのような、専門用語だらけの世界を、珍獣を見るような目で警戒し、避けてきたであろう、私は今その位置にいるのだ。君はその現在の誠実な教師的立場に立とうとしているが、その偉そうな立場にたどり着いて、何が変わった、何が得られた。そうさ、学ぼうが学ばまいが、結局君が物心ついた時に全て決まっていたのさ。情動、人格、才能は全て決まっていた、そして何も変わっていない。ただ年をとって、知っている熟語と概念が増え、記号処理が多様になっただけだ、捉え方の枝が分岐しただけだ。それだけのことだ。それだけで、根っこの部分はまったく変わっちゃいないのさ。そんなら、勉強の意味はあるかね。君は最初から、学ばなくても、今とまったく同じ感情を備えていたはずだ。いやむしろ、当時の無垢な少年的な思考の方がより優れていたといってもいいだろう。実際そうだろう。この会話がいい例じゃないか。物語性っていうのは結局やりとりのことなんだ、世界とのやりとり、それだけ。主人公と世界の現象、そして物質との関係性の確認作業、それが物語なんだ。このやりとり、あえて私という人格が君に反論している。そう、人間だれしも、心の中にあらゆる人格を秘めているのさ。ああでもないこうでもないってね。最初に思いついた直線的感情と、それにブレーキをかける人格、その二つ三つの役割を心に備えているんだよ。安全装置としてね。それがいわゆる物語さ。つまり自分の心のうちでの葛藤を記号化すると、自然と会話形式になるのさ。それを記述しているにすぎない。その行為を記述された心のうちの声と声のぶつかりを、君は物語を、これでもまだ否定できるのかい。教科書の方が大事だと、本当にそう思うのか。私は違うね。虚構こそ真実だと思うね。いや真実なんて適当な概念なんかじゃ計り知れない。理想を記号化して何が悪い」


 A「それが甘えだと言うのさ。君は理想に費やした時間、妄想にふけっている時間、何も生産せず、ただ消費のみに徹して、評論する。そして面白い面白くないと、ただ分別作業に没頭し、妄想のシンボルを現実に重ね合わせる。そして現実に絶望する。もっと理想を求める。そこで何か見落としているとも知らずに。理想妄想のユートピアに、君はそこに住もうとさえしている。君はその理想郷の事ばかりで、自分の事をまったく無視して、ただ感動を分け与えられることを望む贅沢な物乞い男なのだ。哀れだ。哀れで仕方がない。自己確立を物語に求めるだって、そんなバカな、虚構によって捻じ曲げられた現実の模倣に、どう人格が鍛えられるというのか。怪奇だファンタジーだ、この主人公は私だ、とその他者に自己形成をまかせた徹底ぶりはなんだ。それは全てを諦めた証拠ではないか。君は自分の言葉をもっていない。君が今から言う言葉は全て作られたものだ、伝授されたものだ」


 B「そう、私が生み出す言葉群はすべて、何かの影響で生み出されたものだ。影響からしか、人は行動にうつせない。影響されなければ行動はありえない。まったく君にも当てはまる話だ。私は物語から多くを学び、虚構の世界の美しさ、その強調され脚色された輪郭や色合いが大好きなのだ。ほれぼれするのだ。無意味だって、そんなものはこの世界では聞き飽きたね。君は生きることさえ無意味といいかねない。そうさ、私はいずれ灰になり宇宙のチリとなるのさ。その無意味さ空虚さを埋める、虚構の世界に没頭する、それを君は逃避だという。時間の無駄だという、まったく別の教養を身につけろという。同じじゃないかそれは。情報を受け取って、さまざまな感情を得る点において、それはまったく同じことだ。情報の質なんてのは、それこそ虚構なのさ。より高尚な表現、学びがあったとしたら、いずれ出会うことになるのさ、それが教科書、論文、講義か漫画か小説か落語か新聞か、その違いしかないのさ。君は早くその高尚な哲学を手にして、手にしたところで、一体誰と何を競い、その教養自慢や勉強の意義を流布して、私に押し付けてなんになる。君が本当に知恵者ならば、私を説き伏せてほしいものだね。だってそうだろう。そのような強い言葉で、勉強意欲が無いものを罵倒して、その言葉を私に、世間にそのまま提示して、本当に世界の意識が変革すると思っているのか。君の言葉こそ空虚で作り物で、諦めを含んでいるとしか思えないね」


 A「いや、君は気づいているね。君が読もうとしているその面白おかしい漫画が、まったく意味のないものだと。その物語の面白さの源泉は学びから生じたものであると、君は知っているだろう。まさか知らないとは言わせない。その著者がどれほど学んできたかを、君は知っている。知っていながらなお、その原点を見つめようとせず、ただ演出された感動を場面ごとに記憶するだけで、また次の快楽薬をもとめるのだ。次の話を求め続ける。解釈を深めない。浅い場所で、浜辺で綺麗な貝殻だけを拾い満足して帰っていくのだ。君は一生潜ろうとはしないだろう。その海の底にある未知の発見を見過ごし、それをよしとして死んでいくのだ。それを永遠続けていく。それは学びを受け取っているようで、実はまったく観察していない、諦めた人間なのだ」


 B「では物語を読むなというのか、一生触れてはいけない毒物だというのか。精神をむしばむ寄生虫だとでもいうのか。いいじゃないか、どうやって創作に触れようが。では提示してほしいね。学びとは何か、何に触れたら高尚な人物になれるかをね」


 A「私が言いたいのは、観察の意図を明確に、目的を持ち、深く注意深く見つめる精神を持て、といいたいのだ。すべての物語の書を捨てよ、読むな、触れるなとは言っていない。君に気づけと言っているのだ。情報を選別しろと、そして自己を見つめよと」


 B「だから見つめることは、どのような物語にだってできるだろう、と言っている」


 A「いつどこで誰がどのように何をした、とそれらに名詞動詞を付け加え形容する文化が、なんのためになるのか、その型に当てはめて、虚構の世界を描いて何になる。その時間は有益かね。人類の役に立つのかね。50年100年5000年10000年という歳月を乗り越える価値が付与されるとは到底思えない。君が金を払ってきた創作物に、それを未来に託せるのか。それを問いているのだ。君が答えを出さなくてはならない。君には説明する責任がある」


 B「驚いたな。私に責任があると、人類には責任があると。より高尚な進歩のみを目指して、学ぶべきであると、なんて真面目な奴なんだろうね。うっとりするよ。君がそのような未来の心配をしているとは思ってもみなかったね。だったら私に責任がある理由を教えて欲しいものだ。小市民の私の、ただの消費者である者の責任とやらを。そんなものはない。ああ、諦めともなんとでも言うがいいさ。私はこの位置と役割に甘んじて生きる覚悟があるのさ。私に生産者となれ、真の生産者となれ、知恵を絞れ、知恵を生み出せ、と言うのだろう君は」


 A「君のその諦めの悪さは誰に習ったものだ。どこかの物語の、惰性で生きている人物の言葉を借りているのだろう。それが毒だと言っているのだ。それは反面教師にするべきなのだ。その物語が言いたかったことは、諦めの人格を受け入れるようにとは書いていなかっただろう。君はその毒を受け取り、また逃げるのだ。無駄な時間だ。自己を見つめる時間を、その毒に費やしてしまった。君に責任がある理由は、ここが物語の世界だからだ。私たちは人格を与えられた当事者だからだ。著者によって生み出された、君という人格、諦めの人格、惰性の人格、その対峙者としての私。君はその自堕落な理論を完全に私に提示する責任がある。その逃げの理論に対して私は抗体をもたねばならない。その誘惑に弱い、物語に逃げ込む君に対して抵抗しなければならない。君にはその役割を請け負う責任がある。さあ私を打ち負かせ。物語が好きなら、その必要性を君が私に教えるのだ」


 B「では私の立場がこの物語の人物で、その役割は君の反論役という事情を受け入れよう。ある物語の場合、ここでいちいちメタ発言をするな、などと反論するものだが、この世界観の中では受け入れるとしよう。しかしだ、私に諦め役をしろと言われた瞬間、私の負けは決まっているね。正義は明らかにそちらにあるように見えて仕方がない。いつの間に諦め役になったかしらないがね。じゃあいい事を教えてやろう。何百と聞き飽きた言葉だ。もちろん物語からの受け売りの言葉さ、争いはやめよう。これさ。まったくいい言葉だと思わないか。無根拠に聞こえるって、適当に議論を先延ばした無責任な理論だって、そうは言わせないね。大切な時に大切な言葉を適切に使う。その学びが今発揮されたのさ、どうだ、この花畑的な平和論に君は、さらに火をつけようというのかい。違うだろう。物語ってのは円満に解決するのが最善なのさ。何百何千という物語が、円満に解決をしている。それはなぜか。それは争ってほしくないからさ、心を汲みあってほしいからさ。な、物語の役割ってのは何回も何回も同じ教訓を別の形で、別の語り口で、別の世界で別の人物が、なお平和に円満な結末に向かおうとする事にあるのさ。それが答えさ。それが人類の学びってやつさ。それが自然なことなのさ。物語はその、君のいう学びの鎖をちゃんと繋いでいるのさ。どうだい、君だって最初は私に問いかけただけじゃないか、なぜ優劣をつける。君は気づいているはずだ、なんて言ってるけど、君もこの争いの無益さにちゃんと気づいているのさ。君も物語的手法を用いて私を説得しているだろう、浜辺の貝殻を集めて、海の深さを知らないままでいいのかと、君は私に言った。確かに言った。説得や説明や議論において物語性というのは必須なんだよ、その例えをいくつも共有できるのは、名作が生み出した概念のおかげじゃないか」


 A「しかし腑に落ちないのだ。君が争いを避けることはわかる。その君の円満理論も受け入れよう。いわば遊びなのだ。その遊びの時間にいつまでも浸かり切る事が正義なのかどうか。物語遊びを誰もが楽しむことは、その自由は少なからず認めよう。ただ、先に進むべきなのではないかと、物語の変革を、私は望んでいるのかもしれない」


 B「やけに大人しくなったな。私の円満理論が効いているらしい。語尾にらしい、を使うあたり、もう勝敗は見えたな。やはり物語は自由に楽しむべきで、とやかく文学論を振り回す必要はないのさ。遊びに異議を申し立てるのは野暮ってもんさ。笑いたくて何が悪い。偉業を残せなくて何が悪い。とうてい君には語りつくせない分野だったということだろう。文学の変革、学びの変革ってのは天才に任せておけばいいこと。我々には及ばない世界があるってことだ。そう、人間は天才平凡非凡問わず、日々発見を繰り返さずにはいられないのさ。発見、再発見、新発見ってね。発見する遊びだよ人生は。うまく諦めなきゃ、今に病気になっちまうぜ。何が高尚だよ。何が理念だよ。君はせいぜい国家に尻尾をふって付いていく犬でしかないんだよ。同じ犬なら賢い噛み犬より、諦めた従順な犬でありたいね」


 A「しかしだ、その犬の立場を自覚したとして、その居心地の悪さ、どうにもつまらない、何か噛みつきたくて仕方がない、という気持ちも、君にはわかるだろう。果たして物語の未来は、私たちが理解する物語の構造は、そんな遊びの範疇でおさめていていいのだろうか。私は違う気がするのだ。その物語が重要な裏のテーマを含んでいたとしよう、しかしそれをこっそり汲み取る事が正義なのかね、はっきり言葉として言葉の研究を続けるべきだと、私は思うのだ」


 B「君が小説を苦手とするのはわかった。語っているようでまるで語っていない、都合よく設置された物と人物、そして都合の良い展開、その察しの文化がどうにも回りくどくて嫌なんだろう。いいものだよ、作者に誘導されて仮想の世界を一緒に歩くってのは。まるで本物だ。その景色が見えるようだ。いや実際に見てみたい、触れてみたい、会ってみたい、友達になりたい、こうありたい、あってほしい、そう思わせる力が小説にはあるね。間違いなく小説は素晴らしい仮想体験だよ。もちろん私だって空想遊びに飽きることはある。物語から離れる事はある。その時は君の言うように、重要な事は何かと思案しながら、現実と向き合っているのさ。その世界と向き合う時、どこかで物語からのメッセージを心の支柱にしているのさ。物語ってのは小説だけにとどまらない、君も知っているように、物語の性質はあらゆる場所に潜んでいるのさ。例えば誰かの話を思い出そうとする。その時の記憶は、物語的に君の脳に焼き付いているはずだ。いつでも思い出せるような大切な記憶は物語の性質をもって、君の記憶に宿っている。つまり誰がいつどこで何を言って、それを見て聞いてどう共感したかをセットにして君は記憶している。それを具体化し、組み立てられたのが物語なのさ。最初に君は所詮小説は記号を組み合わせたものといったね、たしかに構造的にはそうだろう。しかしその構造を眺めたところで何になる。記号はちゃんと意味をもって、適切に論理的に意味をもって並べられるものだ。ただAAABABBAなどと記号を乱雑にならべたものと同一だとは思わないね。物語はそのような無機質な構造分類をされるようなものじゃない。私小説だ探偵小説だと振り分けるのは結構なこと。ただ構造化しただけじゃあ本質は見つけられないと思うよ。まあ私は本質は何かを提示することはしないけどね。語りたくもない。だって私は犬だからね。楽しむべき時に楽しむ。つまらなければ触らない。私は素直な態度でちゃんと好奇心を発揮している。君はそれを待て、考えろというがね。人はなぜ遊ぶのか、そういうのを考えるのは個人のペースにまかせるべきなんだよ。私は今その段階ではない。君は個人で勝手に遊びを止めて意味を考えていればいい。順番なんだよ。君は考える順番に来ている。私はまったくそのようなことには興味がない。ただ、今だけは特に考えたくはない。そのような気分、というだけだ。哲学書ならその辺においといてくれ、末期がんになったら読むかもしれない。一生読まないかもしれない。それでいいじゃないか。心配性をこじらせるとやっかいだぞ。精神的潔癖症は、まあ君の個性として、大事にしたまえ」


 A「自由が勝利するのか。最初に小言を言いだした私が間違っていると。どちらかが真実に気づき、成長し、あるいは敗北して負けるという、そのテンプレートに従えというのか。この物語は私の、向上心を折って結末を迎えるというのか。それはあまりに型にはまりすぎている。進歩がない。それを問うているのだ。心に描く物語は、円満に終わるほかないのか。実にもったいないと思わないか。真実の追求から逃れ、本当に君は円満に争いの火を消しただけで満足なのか。私を諭すよう、君にその役割と責任を与えたのは私であるが、なぜ私が悪者的に対比的に、自由対変革の構図で言いくるめられなければならない。そう、物語はある程度の緊張の緩和が生まれれば収束するという、誤魔化しな部分をもっている。私の向上心を折る事で、うまく物語として、まとまっていたのに、まだ続けるのかと、君は言うのだろう。しかし実際、大切なのは答えをないがしろにする事じゃなく、完全につきとめようとする姿勢にあるのではないか。まだそれが結論として落ち着いたとは思えない。余韻を残してあとは自由に想像させる、だって、そんなものは読み飽きた。ここで完全に決着をつけてみせようではないか。私は火をくべるぞ。小説を考える時間、虚構を練る時間、果たしてそれは有意義か、必要か、計算された感動に没頭する精神に断固として異を唱えよう」


 B「完全にこじらせているな。どうやら自分が小説形式の人物になってしまったことが気に入らないのだろう。君が突き止めるのは自由に勝手にするがいい。私を巻き込まないでくれ。君は形式的な結末に納得がいかないというが、仕方のないことだ。ここで永遠、論じあっても埒が明かない。君は過去から未来へのつながりを重視しているというから、あえて言うが。終わりも意識しなければならないんだよ。終わらせる責任が君にはあるのさ。この論議を開催したのは君なのだからね。終わらせ方はいくつか数えるほどしかない。君が当初の疑問の解答を出すか、取り下げるか、先送りするか、まあ私のアドバイスとしては諦めて先送りする勇気をもつことだね」


 A「当初の疑問、それは真実をぼかした遠まわしな欲望の捌け口的な虚構物語よりも、そのようなものを見る時間があるのなら、徹底して真実を研究する学術書を読むべきではないか、ということ。論点は、個人の時間の使い方、自由と未来への責任、動機付けの心理、物語の有益性、生産性と合理性の話に発展した。ひとつの議論が様々な視点を生み出した。これはやはり、脳内の思索において、君のいうように、仮の議論を行ってこそ生まれた論点であろう。ゆえに多用な視点を得るために、相手の考えを想像するという点においては、物語の有益性を認めよう。疑問を取り下げることはしない。解答などというのは、ある視点からの真実であり、いくつもの側面をもっている。そう、真実は突き止めるのではなく、それを追い求める姿勢にあるのだ。その確認を最後にしなければならない」


 B「じゃあそれでいいな。一応君も議論のかいがあって、真実と側面の存在に気づいたじゃないか。先送りでいいな。もう疲れたよ」


 A「ああ。我々は結局、作者の思考の力のスタミナによって維持される虚構の存在なのだからな。後は作者も勝手に自分の時間で真実を組み立てるさ。では」


 ★


 さて、小説において、登場人物に何かを語らせるという文化は、ある種照れ隠しな本音の表現の仕方なのではないかと思う。AさんBさんという、仮想のやりとりの中で生まれた理念や責任を登場人物に押し付けて当事者のように演じさせ語らせる、という構図が生まれる。自己の矛盾を登場人物に投影させ、訴える手法としての小説。あるいは自己の発露の宣伝、文化の宣伝、世界の美しさの宣伝、その共有、小説に含まれたメッセージは多様である。


 なぜ物語を書くのか、小説を書くのか、それは、人は発表せずにはいられない性質をもっているからである。どこかに自己表現の発表の場を求めて止まないのである。何かを発見し、発表したい。あらゆる人物の行動に作家性を見つけられるのである。

 持て余した時間の寂しさを埋める伝道師、それが作家なのではないか。


(2017/10/23 19:35)


【追記】

 AさんBさんの、それぞれの言い分を分けると

 Aの発言は古典主義・アンチロマン・啓蒙主義

 Bはロマン主義・耽美主義・楽観主義

 という感じだろうか。


 この記事を書いて以来、物語の必要性について、再度自分の中で脳内会議をしていたが、ついにその解答を見つけられた。あくまで私の結論である。

 物語とは、「作家が主人公や仮想世界を借りて、思考実験する哲学文化」ではないか、ということ。

 どのような物語であっても、「哲学」が存在するということである。

 言い換えれば、過去の教訓を伝達しあう文化、ということである。

 つまり、物語、小説は人類の精神の啓蒙活動として、大いに意味がある、と脳内会議を繰り返した結果、そういった結論を見つけた。

 恋愛だろうが、ラブコメだろうが、ハーレムだろうが、ロボットものだろうが、そこからあらゆる哲学的テーマを見つけることができるのである。

 物語は時代を写す鏡なのだ。


 PS

 とうとう、この記事は一万文字を超えてしまった。

「であるである」「なのだなのだ」と、書いてしまうと、断定的で偉そうな印象を与えてしまうが、これは申し訳ないとしか言いようがない。敬語になったり断定口調になったりと、私の文体が定まらないのは、体調やテーマによって思考の語尾が変わるからだと思われる。「よし偉そうな事を書くぞ」と思ったら自然にデアル人間になってしまうのだ。こういう言い訳を書くのも、あまり美しくないのであるが、内向的な私は特に、どんどん恥をかいて、さらけ出しながら、学ぶべきなのではないかと、そう思うのである。


(2017/10/31 18:40)



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