ぽてぽてと短い肢で歩み寄ってきた猫は、猫と呼ぶには余りにずんぐりむっくりとしていた。

 大きな鼻と球体と譬えてもいいようなまん丸とした体。猫と言うよりかこれは――豚だ。

 二股に分かれた尻尾が猫らしさを感じさせるが、目つきの悪さと鼻のでかさがその印象を薄れさせる。長い尻尾を二本持った真っ白な豚がそこには存在していた。

(ぶ、ぶさいく……)

 口から出かかった言葉を飲み込んでたまは視線を逸らす。先程、言葉を喋っていた。

 言葉を……?

「ね、ねねねねねねね?」

「たま?」

 正治と猫。

 緋桐と猫。

 交互に見直しても、猫の姿は変わらない。「なんじゃ、その小娘は」と大欠伸を漏らした豚のような猫にたまの表情は更に引き攣った。

「ね、ねねっ」

「そうじゃ、わしは猫じゃよ。豚なんかじゃありゃあせん」

 豚でないことを驚いている訳じゃない。確かに第一印象は豚だが――でっぷりと太った様子がかわいいという言葉を発してあげれない自分が切なささえも感じるが、そうではない。

 猫が。

 猫が、喋ったのだ。

「ね、猫が、しゃ、喋っっっ!?」

 外見に気取られている場合じゃない。猫は、普通に意思疎通を行ってきている。

 指さし、思わず竦んで後退するたまに緋桐は首を傾ぐ。怪奇現状だ。狐のクオーターとか、陰陽師とか、蛇女とか、そういった事からすれば些細なことかもしれないが自分の『まともな人間回路』は未だ麻痺していなかった。

「そりゃあ、喋るわいな……」

 困り顔の猫にたまは絶句した。

「猫が喋る事位あるだろう?」

(あるわけないでしょ! 妖怪『目付き悪い』め! まともだって信じてたのにっ)

 たまの中にある正治は案外まともという幻想ががらがらと音を立てて崩れていく。

 乱雑に置かれた埃だらけの椅子にへたりこみたまは頭を抱えた。……妖怪の世界では猫は普通に喋るし、狐は意地悪で……ああ、なんてことだろう。

 埃だらけの古びた写真館。映像を映し出す事はない廃墟と化したその場所で猫は大欠伸を漏らし緋桐を見上げていた。

「その嬢ちゃんは『こちら側』の癖に胃弱じゃの。吃驚病で死んでしまうんでないかい」

「吃驚病なんてものがあればね」

 びっくり病なんて謎の奇病の話に花を咲かせ始めた猫と狐。

 不憫に思ったのか、そっと肩を叩いてくれた正治の表情は、いつもより優しく感じられた。

「……それで、こんな場所まで何の用じゃ? 八月朔日の坊の事はよぉく知っておるがの。

 吃驚病のお嬢ちゃんは何じゃ? 見たところ、わしに会わせるために連れて来たんじゃあないじゃろうに」

 二股の尻尾をゆらゆらと揺らしたでっぷりと太った猫は首を傾ぐ。

 埃をある程度払って、懐から使い古された風呂敷を取り出した正治はたまをそちらに座る様に促し、猫の様子を見つめている。

「こちらはたま。幽霊退治の依頼人だ」

「奇抜な依頼人じゃの」

 くあ、と大欠伸を見せた猫はその瞳に爛々とした色を乗せる。

 含みある言い回しで緋桐を見上げた彼女――きっと、前説明通り彼女なのだろう――は短い前足で頭をかしかしと掻いた。

「わしは雪洞。可愛いかわいいお猫様じゃの」

 ふりふりと尻尾を揺らした豚猫。たまはこの猫が猫語で喋って居てくれたらここまで驚くことはなかったのにと頭を抱えた。

 ……猫語とは何なのか、彼女はよく知らないが。

「それで、何用かの。狐塚」

「ああ。君さぁ、政友会のオッサンのこと口説いた訳? 例のお役所から探されてるけどさ」

 床に無遠慮に座り帽子を膝の上へと置いた緋桐は困ったような顔で頬を掻いた。

 例のお役所と言うのが正治へと依頼を出したところなのだろう。緋桐と正治と過ごすようになってから政府には『例のお役所』と呼ばれる場所があり、妖怪たちと深い関係性にあるのだという。政友会のオッサンを口説いた結果が役所からの捜索命令と言うのは何ともおかしな話だ。

「……そうじゃの。適当に遊んだだけじゃ」

 詰まらなさそうに雪洞は言う。その言葉に困った様に緋桐は大きな息を吐き出した。

「適当されても困るんだけどさぁ」

「狐塚がわしで困るなら楽しいわいなぁ。紛い物(おもちゃ)遊びは楽しむもんじゃ」

 雪洞はちら、とたまを見遣る。その視線にたまと正治は顔を見合わせ小さく首を傾いだ。

 玩具遊び……自分は雪洞にとって『緋桐』の玩具に思われているのだろうか。

「奇妙なお客人を玩具にするのは可哀そうじゃろうて」

「遊んでるわけじゃないさ」

 猫の言葉に引っ掛かりを感じるのは自分だけではないと思いたい。たまが首を捻れば正治も同じようにじろりとたまを見つめてくる。

 上から下まで、まるで値踏みするような視線は緋桐が向けて来たものにも似ていた。

「……な、なんですか?」

「いや、普通だ」

「そ、それ、馬鹿にしてるんですか……」

 女の子なんですが、と唇を尖らせたたまに正治は慌てたように顔をあげ「すまない」とごにょごにょと呟く。

 外見は十分大人びているが、こう言った所は初心な青年らしい。寧ろ、緋桐の方が『女性慣れ』している雰囲気を感じさせるのかもしれないが――謝られた以上、気にするのは野暮な話だ。

「余計なことは言わないでくれよ。大福餅」

「のう、狐。猫にお願いをするときは小馬鹿にするもんじゃないぞ」

 凄んだ猫に緋桐は悪いねと小さく笑う。大福餅の呼び名は雪洞の外見にぴったりだった。

 欠伸を噛み殺す猫の背をぽんぽんと叩いて何事かを耳元で囁く緋桐に猫は「なーお」と鳴いて見せた。

「ん、で、適当に遊んだだけだっていう役人はどうする? 雪洞はあっちに帰ったって言うかい?」

「そうじゃなあ……どうしたもんか」

 向き直った緋桐に雪洞はわざとらしく首を傾ぐ。

 尻尾をたしりと揺らした彼女はぱちぱちとわざとらしく瞬いて、その姿を美しい女性へと変えた。

「わし、美しいからのぅ」

 ――確かに、美人だった。

 腰まで垂らしたのは長い黒髪。瞳は猫の頃と同じく、鮮やかな水晶を思わせた。縁取った睫は長く、着崩された着物からわかる体のラインは柳の様に靭やかだ。

「化けると『人』が変わるよね」

「猫が変わるんじゃよ」

 わざと残していたのか二股の尻尾がゆれている。化け猫と漸く同じ目線になったたまは女性としての敗北を感じた様に胸元に手を当て、大きく息を吐き出した。

「あ、あの……」

 猫でないなら、会話だってできる。

 ゆっくりと息を吐き出しながら声を発したたまの視線はあちらこちらに揺れ動く。

「雪洞さんは、適当にお役人さんと遊んだ? だけ、なんですか……?」

「妖怪と人間は生きる時計が違うわいね」

 ぴしゃり、と言ってのけた雪洞にたまは「時計」と小さく呟いた。

「オレの外見と君の時間がずれていると感じてくれたら簡単じゃないかな、たまちゃん」

 幼い緋桐の外見に、たまは何となく頷く。

 妖怪は長く生きるのだという――それこそ、本物の妖怪であれば華やかな平安の世界で陰陽師たちと過ごしたものもいることだろう。緋桐の様な4分の1では影響も少ないのだろうが雪洞は本物の妖怪だ。何時から生きているのか……それを、時計の針の動きが違うのだと彼女は譬えた。

「わしは狐塚の所の『お嬢』とは違うわいね」

「ばあさんのことは言わないでくれないかな」

 困った様に笑った緋桐はたまに「オレのおばあさんは本物のお狐なんだ」とだけ告げた。

 雪洞は緋桐の祖母が幽世からひょこりと顔を出し、人間と出会い恋に落ちた事を物語の様にたまに言って聞かせた。

「初耳だな」と呟く正治は興味深そうに彼女の話を聞いている。狐と人間の恋は、儚いままで終わる事無く無事に成就し、半分だけ狐の力を受け継いだ子供を産み落とす――そうして、その娘から生まれ落ちたのが緋桐だというのだ。

「じゃ、じゃあ、雪洞さんだってお役人さんと上手くいって、子供ができて、その……幸せに」

 ぼそぼそと呟くたまに雪洞は冷たく「上手くいくことが多い訳なかろうに」と発した。

 冷たい一瞥にたまは小さく息を飲む。それは、良く分かっていた。

 お役人による片恋の相手探し。相手が妖怪であることを知っているのに探してしまった――その彼の気持ちはどうなるのか。

 恋に恋する乙女、たま。ぎゅ、と掌に力を込めて「でも、好き合ってるなら……」と声を震わせる。

「まあ、たまちゃん。妖怪にもいろいろあるんだよ」

 宥める様に笑った緋桐の言葉に雪洞は小さく欠伸を漏らす。その仕草さえも何処か色香を感じさせるのだから頭の固い役人が彼女に揺れた気持ちも理解できる。

「妖怪以外にもいろいろあるじゃろうて。八月朔日の坊が六月一日のお嬢が持つはずの刀を持って居るのも色々の内じゃ」

 雪洞の言葉に、表情を凍らせたのは正治だった。

 あまり触れて欲しい所ではなかったのだろうか、腰に下げた刃に触れて、正治は表情を凍らせる。

「『くさか』のお嬢……?」

「ああ、六月一日っていうのは正治の家の本家に当たるおうちだよ。お嬢って言うのはそこの跡取り娘だね」

 聞きなれない名前に首を傾げたたまへと緋桐は解説する。

 六月一日家という由緒正しき陰陽師――本家は不幸にも男児に恵まれず、強い力を持っていた跡取り娘は男児として育てられていた経歴がある。

 それはこのご時世なればよく聞く話であった。跡取りに恵まれなければ、養子をとるか婿取りを行い家を存続させていく。陰陽師の家ともなれば、婿や養子を選ぶのにも難しいという事か、それ故の待望の男児を頂く分家に『家宝』を授けたというのは何もおかしくはない。

「本家に生まれたのがお嬢で分家に生まれたのは望まれた男児となれば、そうもなるわいね。

 ……そういえば、何処かの女郎蜘蛛の一族もそんな話を聞いたことがあるのぅ」

「女郎蜘蛛の話は知らんが、本家のお嬢を護るのも分家の役目だと聞いている。

 その為の力として霊刀を頂くのは何も可笑しな事ではないだろう。いや、寧ろ……」

 意地悪く言う雪洞に正治は唇を引き結ぶ。何処か言い辛いかのように彼は視線をうろつかせ、緋桐をちらりと見やった。

 困ったときは狐頼りとでもいうように正治は「狐塚」と小さく呼ぶ。

「……まあ、ほら。本家のお嬢――『ていちゃん』は霊刀なんて必要ない位に強いからね」

 助け舟を出したと言う風でもなく、何気なく緋桐は付け加えた。

 誰にだって事情はあるのよね、とたまは僅かに納得し、美しい女の姿をした妖怪をじっと見つめた。

「でも……その、どうするの? お役人さん、探してるんでしょう?」

 話が脱線し続けたが、たまは自分の目的を思い出したという様に三人へと向き直る。

 一人は『色恋に首を突っ込むのも野暮だ』と言う様に眉を顰め、

 一人は『わしゃ何も知らんわいね』と言う様に子供のようにふい、と視線を逸らした。

 そして、残る一人はと言えば、

「ああ、それね。雪洞はお役人の事好きなの?」

 直球を投げ入れることを厭わず悪戯っ子の様に笑って見せたのだった。

 緋桐さん、と呼んだ声は僅かに震えた。このご時世だ。お家の事情で結婚相手も選べない、このご時世に惚れた腫れたで話をするのは野暮も野暮。

「惚れた腫れたで共に居られる関係でないと雪洞は言っただろう」

「人間同士ならお家の都合もあるだろうけど、オレ達は妖怪だし?」

 慌てて口を挟んだ正治にも緋桐は何もおかしくはないと小さく首を傾いだ。

 この状態の彼に何を言っても伝わらないと理解しているのか頭を抱えた正治は大きく息を吐き出す。

「……時計が、生きている時間が違うと言っていただろう」

 妖怪がお家事情に縛られないとするならば――命の長さは理由にならないのか。

 雪洞は長きを生きたことで普通の猫より妖怪へと変化した。その彼女はたまや正治が想像する以上に長きを過ごし、長きを生きる事となるだろう。

「もし、雪洞さんがお役人さんのことを、す、好き……でも。

 夫婦になっても、その……何時かは死に別れてしまうんでしょう?」

「そうだね、きっとその時は来るだろうね」

 妖怪と人間である以上は、そうなるのは当たり前だと緋桐は大きく頷いた。

 その悲恋に胸ときめかすのはあくまで物語の中だけだ。袴をぎゅ、と握ったたまは胸中の思いをどう言葉にしたものかと正治をちらりと見つめた。

「お前は、どういいたいんだ? 狐塚」

「オレは雪洞次第だと思ってる。どうせ、お役人は勝手だよ。

 妖怪は長い時間を生きていかなきゃいけない。人間はすぐに心移りするだろうけれどね」

 妖怪と人間の違いは外見や住む場所だけではないのだと緋桐は言った。

 長く生きる妖怪は、人間が一生のうちに感じる心の変化をゆっくりと刻んでいく。

 役人の青年が今、雪洞に熱を上げたとして、明日には忘れてしまうかもしれない。

 それでも、雪洞は彼のことを百年は思い続けることができるだろうと緋桐は言った。それ程に妖怪は長きを生き、心の揺らぎを少なく過ごしている。執念深い、と付け加える彼に雪洞は大きく頷いた。

「ここでわしがあやつと結ばれたとて、所詮はわしは妖怪じゃ。

 あやつの気まぐれにわしが振り回されてやる道理はありゃあせん」

「……雪洞さんは、悲しい片思いのまま、ってこと?」

 たまの言葉へと、「乙女なことを」と雪洞は小さく笑った。

「人間なんてそんなもんじゃ。何時かは大事な相手だって忘れてしまう。

 大切な友の事も、何時の日か情を酌み交わした相手のこともじゃ」

 尻尾がゆらりと揺れる。暗がりを照らした灯りの下で雪洞は『猫』のように笑って見せた。

「――一晩でいいんじゃ。わしに時間をおくれ。全く、人間はわしを惑わせる」


 活動写真館を後にしたたまは妖怪と人間の違いを改めて考えていた。

 正治と自分は『普通の人間』で、緋桐は4分の1が妖怪の血を含んでいる。

 雪洞の言った『時計』を感じることがない自分たちが彼女の気持ちを大きく揺らがせたのは、あまりに無遠慮だったのではないかと思ってならない。

「たまちゃん、何考えてる?」

 屋敷について、正治が茶の準備をしている最中に緋桐は何気なく問いかけた。

 彼にとっては当たり前の妖怪と人間の違いは、たまにとっては新しい世界であり、全く知らなかったものだった。

「ねえ、緋桐さん。妖怪のこと……教えてもらってもいい?」

「君は、そうやって危ない橋を渡るのが好きなんだね」

 からりと笑った緋桐は困った様に肩を竦める。

 霊力のある正治が妖怪について学ぶのとは大きく違う――たまは、普通なのだ。

「オレが妖怪について教えてあげるのは簡単だよ。

 雪洞の事、オレの事、正治の家の事……でもさ、それを知ったってたまちゃんは何もできない」

「何も」

 何処か、突き放すかのようなニュアンスを含んだ言葉にたまは唇をきゅっと引き結んだ。

 こういう時の緋桐の目がたまは嫌いだ。全てを見透かす様な色をしているから、何も言う事が出来なくなる。

「たまちゃんは優しくて頑張り屋だから、雪洞の為に何かできないかって思ってるのかもしれないね。

 でもさ、今のたまちゃんには何かをすることはできないだろうからね。雪洞の答えを待とうよ」

 ね、と笑った緋桐にたまは首をふるりと振った。

 何もできないから、待って居ろ――自分たちが、彼女の心を揺さぶったのに?

 そう思えば、ハイと頷くことができなくて、たまは唇をぎゅ、と引き結ぶ。髪にしっかりとつけていた椿の髪飾りを勢いよく机の上に置いてゆっくりと立ち上がった。

「緋桐さんの冷血漢」

 たまちゃん、と制止する声を振り払い勢いよく屋敷を後にする。

 夜の帝都の風が冷たかろうが、銀座が遠かろうが関係ない。

 雪洞が一人で悩んでいるのだ。親身になって話を聞いて、彼女の力になってやりたい。

 あの美しい女は、一人で泣いているのだろうか。

 不細工な猫だと知っている役人は今宵も彼女のことを思っているのだろうか。

 まるで、文学のような美しい恋物語が、たまの脳内では組み立てられていく――恋は、無常なものだから。

 人々の間を擦り抜けて、走るたまを誰もが気に留めることはない。

 未だ灯りの消えぬ帝都の街を行く馬車は夜会に向かうのか何処か楽し気だ。

 誰の目にも見えていないかのように、走りながら雪洞の居た活動写真館へ向かうたまの足は『いつも』よりも軽く感じた。

(わたし、こんなに走れたの――?)

 どうしてか、自由に足が動く感覚が妙に心地よい。

 身体が羽の様にふわりと浮いているようにも感じられた。

 土を踏みしめ、帝都の街を奔るたまは背後に奇妙な違和感を感じ始める。

 周囲の灯りが次第に暗くなり、今まで明るかった筈の背後も暗闇に囲まれ始める。

(……あれ?)

 暗がりに手を伸ばせば、目の前を塞ぐ何かがそこにはある。

 ぺたぺたと触れれば固い壁のようなものがあることにたまは気付いた。

 戻るにも灯りは消えて、目の前には壁がある。少し横に進んでみようかとゆっくりと歩き出せば、その向こうには茫と輝く提燈が存在していた。

 帝都の街には余りにも不似合な提燈の回廊は赤い鳥居の下で続いている。

「こんなところ、」

 銀座へ向かう道に会ったかしらと小さく呟くたまは不安を感じ頭へと触れた。

 勢いよく机に叩きつけてしまった緋桐からの贈り物。お守りの役割を持っていたと思われるそれ。

(きっと、お守りがないから変な物に化かされたんだわ……)

 暗がりからの不安に息を飲みこみ、緋桐さんと名を呼ぼうと息を吸う。

 ふと脳裏に過ったのは彼が告げた言葉だった。

『――たまちゃんは何もできない』

 心の奥底から、何かがこみ上げる。

 助けを呼んではいけない気がしてたまはゆっくりと灯りの方へと歩き出した。

 灯りがある方向に行けば、きっと誰かがいる。そう思えば、緋桐がいなくったって自分にも何かできるのだという根拠のない自信が湧き上がってきた。

「大丈夫」

 正治がいなくったって、自分は可愛い箱入り娘ではないのだから。

「大丈夫よ」

 緋桐がいなくったって、妖怪に化かされたとしてもきっと、彼らは話せばどうにかなるはずだ。

 次第に近づく灯りに心が落ち着く。そうだ、人間は話し合えば何とかなるはずだ。

 聞こえた笛の音、微かな太鼓の音。灯りはゆらりゆらりと誘う様に揺れている。

 その最中、たまの眼前でふわりふわりと幾つもの焔が揺れていた。

「ッ、」

 それは青白く何かを燃やしたものだった。まるで花の様にその焔を散らし、たまが訪れたことを歓迎するように無数が点いて消えてを繰り返す。

 勢いよくへたり込み、背後を見遣れど、その向こうに来た道は存在していなかった。

 ガチガチガチと何処からか、大きな音が聞こえる。

 まるで何かをぶつけたかのような。

 ガチガチガチ……。

(……何……?)

 赤い鳥居の向こう、白い何かが見える。

 ガチガチ、

 絶えず音鳴らすそれは、その白いものから聞こえるのだとたまはしっかりと認識した。

「ひ、」

 その白いものが――人間の骸骨だという事を認識したのも、その瞬間であっただろうか。

 巨大な骸骨が鳥居に手をかけ、歯を大きく鳴らしていた。空洞となった肋骨が風に揺らされ悲し気に鳴いている。

 息を飲みこんだたまは、巨大なそれに気付かれることが無いようにゆっくりと下がろうとして『壁』に背を付けた。

「え……?」

 今まで、そこには壁が無かった筈なのに。

 言葉は出てこなかった。

 髑髏はしっかりと『たまのことを見つめていた』のだから。

 周囲に茫と焔が浮かび上がる。瞳が入っていたはずの空洞はたまのことを見下ろしている。

(あれは、何? 妖怪? ……なんの妖怪?)

 脳は混乱していた。目の前にいるものが、何か――それを理解できないままにたまは緋桐さんと小さく名前を呼ぶ。

 骸骨の腕はゆっくりとたまへと伸ばされる。

 捕まればどこかに連れていかれてしまうのだろうか?

 臓腑の詰まらない巨大な髑髏はその手で自分を握りつぶしてしまうのだろうか?

 徐々に血の気が引いてくる感覚がする。下がろうにも後ろには道はなく、目の前には骸骨と妙な焔が存在している。

「緋桐さん、」

 呼べど、愛らしく笑う狐はそこにはいない。

「正治さん」

 不愛想な顔をした青年将校もここにはいない。


 ――私が、悪かったんだわ。

 無遠慮に口を挟もうとしたのは自分の方だった。

 ――私が、悪かった。

 お守りだと、普通の自分が妖怪の世界に足を踏み入れることは危険だと言われていたのに。

 どうして髪飾りをはずしてしまったのか。

 どうして、彼の言う事を聞けなかったのか。

 じわりと涙が滲みだす。じりじりと近づく掌から逃げる様に背を壁へとぴたりとつけてたまは「緋桐さん」と呼んだ。


「女の子の夜歩きは危険だよ。簡単にあの世にご招待だ」

 茫と浮かび上がった青白い焔は先程までのものとは違う。

 青白く、何処か美しいそれを狐火と呼ぶのだとどこかで聞いた気がした。

 金の結った髪に細い手足、意地の悪い言葉はもう聞きなれたもので。

「緋桐さん」と彼を呼んで顔を上げれば、そこにあったのは深い紅色の瞳だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

涼風に鳴る幽かの怪―探偵 狐塚緋桐 せな @aya00k

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ