その日は、昼過ぎから少しばかり俄雨が降った。

 未だすっきりとはしないが辺りに立ち込めた雲は夕方になるにつれて徐々に通り過ぎていったようにも感じる。

 西洋作りの街灯は雨のせいで夜と昼の区別がつかなかったのか途惑うように点滅している。通りの向こうから覗いた夕日は沈まぬままに此方を覗いていた。

「夏の雨は大袈裟だからね」

 雨傘をくるりと回して、振り仰いだ緋桐はたまを手招いた。もう雨は随分前に止んでしまったというのに、彼は傘をさしたままだ。

 こうして、彼と調査と称した散歩に出る様になってから三日経つ。一度、家に戻って旦那様に言わないとと進言したたまに必要ないと言ってのけた緋桐は悪巧みをするような子供の顔をして調査契約を行った日の夜に雨を理由に逗留を促した。

「ねえ、そろそろ帰らないと」

「帰らなくていいよ」

 ぴしゃりと言ってのけた彼は金の瞳を光らせた。

 自分が家に帰らないままでは旦那様が心配するという言葉には緋桐は正治にたまを預かった旨を届けて欲しいと伝えておいたという。幾度繰り返しても帰ってもいいという話にならないあたり、やはり詐欺師だったのではないか――そう考えるのも無理ない話だ。

「あの……捜査って具体的には何をするの?」

 幽霊退治の依頼をしに来たはずなのに、彼と散歩を行うだけの毎日。あまりに理解不能な行動に流石に痺れも切れてくるころだ。

「本当に狐に化かされたみたい……」

 ぼやいたたまは水たまりをぴしゃりと踏みしめる。揺れた水面はあまりの衝撃だったのかたまの顔を映してはいなかった。

「明日になったら本格的に始めようか。

 今日はもう遅いし――それに、雨雲もまだ残っているからね」

 表情は暗い――晴れ間が出ているというのにぽたぽたと雨が降る。それを、狐の嫁入りと呼ぶのだと誰かが言っていた。


 朝になれば、見慣れぬ天井がそこにはある。客間に用意されていた布団はふかふかとしており、実家や病院の固い煎餅布団との違いに驚かされた。

 一先ず階下に下がればぼさぼさとした髪を結わえる事無く机に突っ伏している緋桐が存在する。どうやら、早朝から起きて何かしらの作業を行っていたらしい。

「緋桐さん?」

「んー……うん、おはよう。たまちゃん」

 僅かに頭をあげて、ひらりと手を振った彼へと近づけば、ひとまず風呂に入った後なのだろう。その心地よさでうたた寝をしていたことが分かった。濡れたままの髪を布で拭き上げ、櫛で鮮やかな髪を梳く。適当に近場においてあるリボンで結わえれば美少年の完成だ。

「ありがとう」

 小さく返されたそれに頷けば、玄関から正治がいつも通りの強面で訪れる。だらしがないと緋桐に小言を漏らしながら朝食を用意するのが彼の日課のようだ。

「毎日、こうして緋桐さんのお世話をしているの? 大変ね」

「まあ、それなりに世話にはなっているからな」

 ふい、と顔を逸らした正治にたまは照れてるのね、と小さく笑う。生真面目な彼のことだこの状況居なってからは毎日の緋桐の世話も一つの仕事だと認識しているのだろう。

 ソファに座っていれば日本茶がやってくることをたまは知っている。どうしたことか、この生活にすっかりなじんでいる時分がいることに彼女は不思議と嫌悪感はなかった。

「食事をしたら今日は幽霊退治の調査に出かけようか」

 食事が終われば、彼は英国紳士のように着飾った。ブーツと袴と言った普通の女学生という格好のたまとはあまりに不思議な組み合わせにも思えた。

 街に出れば、たまは「ハイカラね」と何度も繰り返している。最も、ここから数年経てば、緋桐の服装もそうそう違和感を感じるものでもなくなっているだろう――最もここから数年経てば男性は山高帽子にセーラーパンツに細身のステッキを手に街を闊歩し女性はアッパッパ等を纏ってショートカットで赤いルージュを引きながらモダン・ボーイ、モダン・ガールという時代が到来するのだ。

「……そういえばさ、たまちゃんはスカートって履かないの? 興味あるなら1着位買ってあげるけどさ」

「スカートは、その……はしたなくないかしら? 世間様ではパーマも流行っているけれど私は、ちょっとね」

 曖昧な返事を返した自分が居心地悪くて、たまは肩を竦めたまま石畳を見下ろした。流行のファッションに関しての話題は苦手だ。たまは世間の流行に触れる事が無かったからとぼやき、石ころを蹴り飛ばした。

「――……ああ、じゃあ、髪飾りとかはどうかな?」

「髪飾り?」

 突拍子もなく、告げられた言葉にたまは首を傾げる。その言葉に首を傾いだのは正治も同じようだった。髪飾りを贈られる間柄でなければ、彼と自分は依頼者と探偵だ。報酬の関係から調査を共に行っているだけだ。

「たまちゃんは可愛いからね。それに、幽霊退治を一緒に行うんだよ? 妖怪のオレや『特殊』な正治なら兎も角さ、何の耐性もない君が一緒だと危険な目に合うかもしれない」

 裏路地の片隅に存在する店を指さして緋桐は「ね?」と小さく首を傾いだ。彼の言は尤もだ。妖狐のクオーターであるという緋桐と、特殊――特殊な?

「特殊な、って……?」

 不安げに正治を見つめるたまは彼が『妖怪』の類なのだろうかとゆっくりと息を飲む。

 そうだとしたならば問題だ。狐の手の内に転がり込んでしまったことの証明になってしまう。

「あれ、言ってなかったっけ? 正治は簡単に言えば『視える』人だよ」

「視え……?」

 視力がいい、と言う訳ではないのかもしれない。

 帝都の街の中、行き交う人々はそんな会話に何も目を止めやしない。緋桐の言葉に、何の返答も返さぬまま正治は口を閉ざしていた。

「幽霊とか。正治は小さい頃から妖怪とか、そういうの得意でしょ」

「……普通に視えているからな。区別は、つかないが」

 ぼそり、と小さく呟いた正治はその血筋の事を言いたくなかったとでもいう様に顰め面を見せる。

 曰く、彼には幼い頃から幽霊や妖怪と言った幽世(かくりよ)の存在が見えるのだというのだ。日本には古来から陰陽師が存在し、幽世の存在が現世(うつしよ)へ影響を及ぼす事を防いでいた。その正統なる血筋――の分家だと緋桐は正治の紹介を改めて行った。

「オレみたいな紛い物よりさ、正治の方がよっぽどキチンとしてるってことだよ。

 妖狐(オレ)を見たから、たまちゃんはすんなり信じるだろうけどね、こういうのって偽りだなんだって良く言われるそうだよ」

 だから、言わないんじゃないかなと緋桐は傍らで渋い顔をした正治を見上げる。

 小さい頃は、普通に視えていたから何もない所に話しかける事があり、家族以外の周囲の人間からは気味悪がられていたこともあるそうだ。

 区別がつかないという事は、しっかりとその存在が見えているという事だ。陰陽師としての技能を詰め込んだわけではない以上、彼が出来るのは見る事だけだそうだが。

「じゃあ、緋桐さんよりよっぽど幽霊退治なら信頼してもいいってこと?」

「オレは幽霊とそうじゃないものの区別はついてるんだけどな? あと、結構強いよ」

 ふん、と胸を張った彼に正治は「だが、普段は弱い」と付け足した。

 拗ねた様に地団駄を踏んだ子供のような仕草にたまは彼を信頼していいものか、悩ましいと泣き出しそうな空をぼんやりと見上げた。

「……いいの、かしら」


 雲の切れ間から太陽が見える。日傘を差した女性たちの間を擦り抜けて、帝都の街を行く馬車に気を付けながらたま子は慣れた様子で進む緋桐を追いかける。

「たまちゃん、ここだよ」

 帝都の路地の裏、人目を避ける様に存在していた雑貨類を取り扱う商店は西洋街の真ん中にあるはずなのに茫と赤い提灯を垂らしている。妙に違和感を感じる様相だ。我が物顔で入店する緋桐に手招かれるままにたま子が足を踏み入れれば、商店の奥から「いらっしゃい」と軽い声が返ってきた。

「あれま、紛い物のおにいさんが女連れかいな。

 あの陰陽師の血のおにいさんはどうしたの? もう死んだ?」

「まさか! 正治は中々死なないよ」

 軽口を交わした二人の様子に、たまは馴染みの店なのかと小さく首を傾ぐ。

「へえへえ、かわいい女の子じゃないかい、美味しそうな……」

 射干玉を思わす髪を簪で一つに纏めた美しい女は、書物の遊女のようだとたまは思う。

 その彼女が、近寄ってくるまではその感想だけでよかった。

 たまの許へと近寄ってきた彼女が動くとずるりと何かを擦る音がする。

「え、」

 そこにあったのは蛇。女の胴によりしたには蛇の尾が存在していたのだ。怯え竦んで肩を震わせたたまに、店主は「あらま」と小さく笑う。

「お嬢ちゃん、妖怪の世界は馴染みないのかい?」

「え、ええ……」

 こうして妖怪が様々な場所に居るのだと思わなかった。そう呟けば蛇女は楽し気に笑った。この店は妖怪達が利用する場所であるそうだ――普通の人間が訪れることはそうそうないのだと店主は続ける。

「そんで、そんなお嬢ちゃんを連れて何の用だい?」

「髪飾りが欲しくってね。訳アリだよ」

 これがいいな、と彼が手に取ったのは椿の髪飾り。緋桐曰く、それはお守りなのだそうだが……妖怪の店で買ったものにそのような効果があるのかは疑問だ。

 本物かどうかを聞こうにも正治は隣にいない。

 そういえば正治は店内にいないのだな、と振り仰いだ時には買い物も終了していたのか店舗から退出するようにと緋桐に促されたのだが。

「ほら、たまちゃん」

 鮮やかな紅色の椿に少しばかりの装飾が愛らしい。お洒落をしたいのは女性としての素直な欲求だ。こうして、男性にプレゼントされると思えばたまの頬も自然に赤らんだ。

 この際、お守りかどうかなど気にならない程に可愛らしい髪飾りだ。……妖怪の店で購入したものでなければ、だ。

「……緋桐さんって、意外にシュミいいのね」

 実年齢を知った後ではあるが、同年代にしか見えない彼についつい軽口をたたいてしまうのはたまの中に芽生えた気恥ずかしさからか。

 そんな言葉にも楽し気に笑った緋桐は「ハイカラかな?」と冗句を交えてたまを見遣った。

「ハイカラか。ハイカラといえば、エス……えすかれーたー……? とやらがあったな。俺はあれをよく知らないが狐塚は見に行ったと言っていたな」

「まあ文化ですから」

 茶化して告げた緋桐に『妖怪の店』から出て来た二人に何気ない日常会話を続ける正治。先程の蛇女の衝撃から抜け出せないたまは椿の髪飾りを握りしめたまま視線をあちらこちらへとうろつかせた。

「ええと……これ、は、」

「あ、つけておいてね」

 気恥ずかしい、それに、妖怪の店で購入したものだ。

 一寸した戸惑いを感じるのは人間として当たり前じゃないか。

 そう言う事も出来ないままに髪に据え置かれた椿。困り顔のたまに似合うとしどろもどろになりながら返した正治にたまは曖昧に頷いた。

(……思ってもないことが言える人じゃないんでしょうけれど)

 それでも、妖怪の商店に彼がいなかったことは少しばかり裏切り者、と罵ったっていいんじゃないだろうか――そんな気持ちになったのだって仕方がない。

「はいはい、じゃあ調査に向かおうか。

 とりあえずは猫探しからだね。正治、たまちゃん」

「ねこォ?」

 にゃん、と鳴いて見せた狐。

 幽霊退治と何か関係があるのかと問い質したくなる気持ちをぐ、と答えてたまは頬を膨らました。

 今までの事で頬を膨らませることくらい許して欲しい。

「いや……役人からの依頼で先に熟しておいて欲しいんだ」と頬を掻いた彼に、顔に似合わず苦労性なのねと失礼なことを考えながらたまは何とか気持ちを鎮めた。

「そんな目で見ないでよ」

 じとりと見つめるたまに緋桐は何食わぬ顔で笑う。目での抗議は失敗だ。それ所か何か言っても彼は適当に受け流してしまうことだろう。「にゃん」ともう一度鳴いた彼に何かを言う気もなくなってたまは小さく息を吐いた。

「……で、どんな猫ちゃんなんですか?」

「ぶさいく、だそうだ」

「もう一度」

「ぶさいく、だそうだ」

「それで、判ると思うたか!」

 たまは吼えた。冷静な顔をして得てる情報はこれだけだと告げる正治に我慢ならなかったのだ――様々な思いを混ぜ込んで吼えた彼女を行き交う人々は振り仰ぐ。大和撫子、これでは只のはしたない女性になってしまう。

「ほら、たまちゃんどうどう。

 一先ず情報は僕から話すから、こっちへおいで」

 ぶさいく猫だなんて帝都にはたんまり存在しているのにと憤慨するたまを宥めながら緋桐は銀座へ向かおうと馬車を呼ぶ。頬を膨らませるたまは正治を横目で見据えながら唇を尖らせた。

「帝都にぶさいくさんなんて山ほどいるんだもの……。美人猫さんだってたんまりと存在しているもの……。そんなの情報にならないわ」

 自分の依頼をそっちのけでぶさいくな猫を探せなんて堪らない。たまを馬車へと乗せて、気まずいと視線を外へやったままの正治に笑いをこらえて緋桐はたまと向き直った。

「馬車の中だからちゃんと話しをしようね」

 馬の蹄の音と馬車の車輪が回る音がする。拗ねたたまに緋桐は「正治」と傍らの友人へと呼びかける。

「尻尾が二本あって、言葉を喋るぶさいくな猫ってちゃんと言わなきゃ分からないだろう?」

「そっちの方が分かる訳なかろ!」

 またしてもたまは吼えた。さも当然のように妖怪を探す依頼だった時、人間はどんな顔をするべきなのだろうか?

そもそもだ、そもそも妖怪は当たり前のこととして、現世に『存在してはいけない』ものだ。緋桐がその身に流れる血に妖怪というものを孕んでいようとも、蛇の店主が店を営んでいようとも、だ。普通の人間の前には妖怪は存在してはいけないのだ。

 それを言い出してはキリもない。たま自身も幽霊退治を依頼したのだから。

「……それで、なんで妖怪の猫ちゃん何ですか?」

「……いや、何分訳ありな猫でな」

 もごもごと幾度も口の中で繰り返す正治はどう説明したものかと珍しく緋桐へ視線を送っている。

 足を組み窓の外へを視線を投げる彼は正治の視線に気づかぬ儘、茫としている。金の瞳は何処か胡乱だ。

「……あの?」

 いつもの調子なら楽し気に笑って小粋な冗談を交えるであろう彼は小さく舌打ちをひとつ。子供のかんばせには似合わぬ大人びた態度にたまはびくりと肩を揺らした。

「ああ、今日も正しい意味で晴れてはいないからな」

 彼の態度に何かを悟った様に正治は視線を落とす。先程、簪を付けた際に緋桐がたまに持たせた小さな鞄にはびいどろを思わせる粒が入っていた。

「狐塚」

 慣れた手付きでいくつか掴んだ正治が緋桐へとそれを差し出す。たまには一体それが何であるかは分からない――『健康体』であったたまには、薬であることなど、判らない筈なのだ。

「……正治、たまちゃんの前で薬は出さないで」

「お薬……?」

 やっぱり、と呟いたことにも彼女は気付かない。

 正治の掌からすぐにそれを奪って緋桐は何食わぬ顔で笑みを溢した。

「依頼の話をするのだったね。彼女は化け猫ちゃんなんだけどさ、まあ、ブサイクって言われるのは猫の姿だけでさ……その実、千里眼持ちだとか美女に化けるだとか言われているんだ」

 新聞に載っちゃう恥ずかしいお話だと笑う緋桐に普段通りだと安心したたまは僅かに首傾ぐ。今までしおらしい態度だっただけに、突然の豹変に聊かついていけない。

「わ、」

 どう反応するのが正しいのだろうか。恥ずかしいと顔を隠し、ちらりとこちらを伺った狐。その態度に普段の自分なら飛び出して思わず殴りつけているだろう――さあ、どうするべきか。

 答えは、ひとつだった。

「わぁ~、ききたいなぁ~」

「たまちゃん、無理しなくていいよ。ごめんね」

 にたりと笑った緋桐にたまの惑いはバレていた。

 一々演技掛った口調で話すという事には数日間の間に良く理解してたが、真面目でない相手の反応には惑ってしまう。

『真面目な人間が周囲に多かった』からか――それとも。

「狐塚、冗談は止してそろそろ説明してやれ」

「お前が出来ないからって押し付けておいてそれかい?」

 何処か拗ねたように言う緋桐は「美人に化ける化け猫ちゃんって言葉がぴったりだよ」とその言葉をつづけた。

「化け猫……」

「そう、さっきの蛇やオレと一緒。妖怪はどんなところにも存在するんだ。中々に美人に化けるもんだからね。お役人さんが一目惚れ。ううん、事件だ」

 面白おかしく言ってのける緋桐。時代も時代だ。たまは世相に疎いためにあまりその辺りは理解していないが、成金が増え、中流層には民主主義が台頭したこのご時世だ。スキャンダルともとられるネタは大正デモクラシーだなんだかんだと騒がしい時代にあまりにも似つかわしくない。化け猫に惚れた役人だと周囲に流れてしまえば、政府が『妖怪』の存在を見つめたとゴシップにされてしまう。

「つまりは、化け猫に惚れた役人はどうしても彼女を探したい。だが、相手は妖だ。下手にそれが出回れば、妖の存在が世間を騒がせ、統治に響くかもしれない――だからこそ、狐に頼んだ、と」

「娯楽でやってる探偵業だってね、お客さんがいなきゃつまらないでしょ。正治が『持って』来てくれた仕事だし?」

 ちらりと視線をやる緋桐に「借りを返した」とだけ告げる正治。本当に腐れ縁なのかしらんとたまは朝食の準備まで担当する正治と緋桐の関係性を計り知れないと首を傾いだ。

 外見からは分からないが中身だけを見れば年下の男を虐める兄貴分という図式が出来上がっている。そう思えば、このような貸し借り勘定がまかり通る関係も男同士の友情らしくてよいのだろう。

 つまり、正治はパシりなのか、とたまは一人で結論に至るが――「今、よからぬことを考えただろう」

 勘が鋭い青年将校だ。

 ぎろりと睨みつけるその視線にたまは肩を竦め、慌てて馬車の外へと視線を送った。

 往来は賑わい、走り抜けるバスから立ち上った砂埃が何処か擽ったい。たまは到着だと告げる緋桐に手を引かれ馬車をゆっくりと降りた。

 見慣れぬ街は人々でごった返し、愛らしく着飾った女性たちが西洋の傘を開いて語り合う。フルーツパーラーに視線を奪われたたまの手をくいくいと何度も引いて緋桐は困った様に首を傾いだ。

「そんなに行きたい?」

「……いえ、その、そんなことは――」

 行ったことないのだから興味がないわけではない。

 今度はたまが口の中でもごもごと言う番だった。

 曇天に昏く見えた街中を困った様に笑った緋桐に手を引かれ進んでゆく。フルーツパーラーは今度ね、と何となく付け加えられた言葉にたまは小さく頷いた。

「それで、どこへ?」

「……さあ? どこだろうね」


 帽子をかぶり大衆向けの新聞を手に政治がどうだと議論を酌み交わす紳士や学生の間を擦り抜ければ、気づけば路地の中。往来の賑わいとは違った雰囲気を感じさせた。たまはその異様な空気に慣れないと背後をゆったりと歩く正治へと視線を向けた。

 目線はやや下向きに。議論を酌み交わす青年たちとは目を合わせぬように息を殺した青年将校にとって、彼らは異教徒と呼ぶにふさわしいのかもしれなかった。

 どうしたものかと視線をうろつかせるたまはぴたりと緋桐が止まった事に気づく。慌てて一歩下がった彼女の前には古びた活動写真感。木造建築なのであろうか、傾いだ看板が風にばたりばたりと音たてて揺れている。

 周囲に転がった酒瓶をブーツの爪先でつん、と触ってたまはぱちくりと瞬いた。

「ここ――」

 古びているからか、何処かいかがわしい場所に見える。清廉潔白な少女としては頬を赤らめずにはいられないとたまは目線を下げた。

 幻灯機が置かれたこの場所は表通りの人気の場所……なのだが、古びた活動写真館となれば状況が違う。裏にヒッソリと隠れたその場所では女学生にはとても口にできないものの上映が行われているに違いなかった。

 それが、たまの妄想上のものだとしても、緋桐は見逃さない。

「どうしたの? 厭らしい事でも考えた?」

「え!?」

「……やだなぁ、図星? オレ、『君』みたいなのに興味はないよ」

「失礼ね!?」

 含みのある言い方をされ、カチンとくるたまに緋桐はさも当然でしょうという顔をした。

 一方で、その言葉に引っ掛かりを感じた正治が首を傾げたが、緋桐は正治の様子を見て見ぬ振りをしてずんずんと活動写真館の中へと足を進めた。

「ちょ、ちょっと、緋桐さん? 話は終わってないっ!」

 慌てて走り緋桐の許へと飛び込む。ぐん、とたまに腕を引かれれば、小さな緋桐の躰は簡単に傾ぐ。

 頬を赤らめ、眉を寄せて抗議がましい顔をしたたまは「あのねえ」と緋桐に向き直る。

「確かに私、ちょっと体が弱くって内気ですけ……ん? 私、明るく元気な事がとりえで、ええと……」

「それ、誰の話?」

 唇を尖らせ話して居たたまの足がぴたりと止まる。

 緋桐の言葉に何故だか竦んでしまった。彼の煌めく金の瞳が濁って見える――まるで、血の色のような……その感覚にたまの背には何か嫌な気配が流れた。

 ぞ、とした感覚を振り払う様に「やだなあ」と小さく笑う。

「たまちゃん?」

 彼の声は、彼の瞳は全てを見透かすようだから――誰の話、それは、


 明るく元気な事が取り柄で女学校は途中で行かなくなった……。

 大好きな友達がいて、風鈴が……。

 ちりん――


「たま?」

 訝しげに覗きこむ正治の顔が真っ正面にある。小さく首を振り、なんでもないのと囁いたたまの事を緋桐はじっと見つめていた。

 胸の中を擽られる感覚がする。まるで見透かされているかのような瞳が――気持ち悪くて。

「緋桐さん……その目、止めて下さい。怖いんですけど」

「ああ、ごめん。つい」

 見ちゃった、と初めて会った時と同じような人懐っこい子供のような笑みを浮かべる緋桐にたまは居心地の悪さを感じる。彼のその笑顔は嘘が塗り固められたものだと、何となくだが知ってしまったからだろうか。

「狐塚」と嗜める様に呼んだ正治は緋桐の代わりにすまないと小さく頭を下げる。

「あ、あの……正治さんのせいじゃないのよ」

 髪飾りをくれて少しは見直したのに。ああやってすぐにからかうのだから――ひょっとして贈り物をしたはいいけれど、似合っていないとでも言いたいのかしら!

(全く、失礼な人っ!)

 頬を膨らませた少女はずんずんと活動写真館の中を進んでいく。

 先ほどまでの恥じらいも何もかも忘れてしまったように彼女は苛立ったように場を踏み荒らす。緋桐なんて置いていくという様に進むたまに「たーまーちゃーん」と彼の声が聞こえた。

「転ぶよー」と続いた言葉の通り、ずる、とたまの足は縺れた。

「痛いっ! もうっ!!」

「がっ」

 転んだ姿勢から勢いよく起き上った……ものの……今――?

 緋桐の笑い声が聞え、慌てて振り返るたまの目の前では勢いよく後ろに倒れ込んでいる正治。もしかして、とたまの血の気が引いていく。転んだからと手を貸してくれようとしていたのに気付かずに勢いよく起き上がったせいで彼の顎へと攻撃を喰らわせてしまったのだろう。

 そういえば、後頭部が痛い……。

「え、えっ!? 正治さん、大丈夫ですか!?」

「あ、ああ……石頭だな……」

 褒められてるのかしらん、と微妙な気持ちになりながらたまは苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。

 けらけらと笑う緋桐は怒ることも泣くこともできず曖昧な表情を見せる正治が面白いという様に両の手を叩き始める。

「も、もう、緋桐さんの笑い上戸!」

 正治に手を差し伸べたまま、たまは頬を膨らませる。

「ご、ごめんね……面白いなあ……――とか言ってたら、おでましかな?」

 涙を滲ませた金の瞳を揺らす緋桐はゆっくりと顔をあげる。暗がりの奥へと視線を向けた彼につられてたまと正治もそちらへ視線をむけた。

 何かが、歩いてくる音がする。草履がぺたぺた地面を擦る音でなければブーツや靴底がぶつかる音でもない。それでも闇の中に目を凝らせば何か白いものが此方へ向かってくる事だけはわかる。

「……何……?」

 身構えるたまの腕を掴み、庇う様に前へと出る正治。二人に走る緊張は緋桐の許にくる依頼が大概『オカシナモノ』だという共通認識があるからだろうか。

 白い存在はどうやら思ったよりも小さい。人間ではなく、犬よりも小さな――動物だろうか。

 奥から歩いてくる存在へと警戒心を露わにする正治の前をゆっくりと進む緋桐は肩を竦めて小さく笑った。

「うるさいのぉ」

 聞こえた声は、老婆を思わせる。

「やあ、君は相変わらずだね? 元気だったかな?」

 そこに居たのは、ずんぐりむっくりとした、白い猫だった。

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