二十年越しの約束

御手紙 葉

二十年越しの約束

 僕は正月に実家に帰り、久しぶりに川の方へと車を走らせていた。そこから見える景色は本当に懐かしく、住宅街ができていて随分と変わってしまったけれど、その空気や雰囲気にはあまり差異はないように感じられた。古びた老舗の看板などが目に入ってくると、それだけで心の奥底に高揚感がふつふつと湧き上がってくるのを感じたのだ。

 そうして川へとやって来ると、車はほとんど止まっていなくて、辺りには静かな川のせせらぎが響いていた。僕は車から降り、まず大きく息を吸い込んだ。そこに漂う空気は本当に新鮮で、体の隅々まで行き渡ると、生き返った心地がしたのだ、

 ほっとして視線を川原に向けると、透き通った水がどこまでも下流へと行き過ぎていった。それは僕の心に流れる気紛れな考えと同じで、絶えず消えてはまた舞い込んでくる。僕はそうしてずっと眺め続けていたけれど、そこでふと小腹が空いたことに気付いた。

 すぐに弁当を持ってきたことを思い出して、車の助手席からポーチを取り出した。そして、その中からサンドイッチを抜き出す。ロールパンにレタスとハム、チーズを挟んだ、簡単なものだった。僕はそれを石段に腰かけて、ゆっくりと味わうようにして食べ続けた。

 そうやって川原を眺めていると、子供時代にそこで遊んだ時のことを思い出した。ここら辺には友達がいなかったのだけれど、よく川原で遊んでいると老人が相手をしてくれることがあった。今でも覚えているのは、スーパーボールを投げ合って遊んでいたところ、それがどこかへ飛んでしまって、行方知れずになったことがあった。

 二人で探し続けたけれど、結局見つからなかった。あの時は老人の優しい言葉が暖かくて、それほど気に留めなかったのを覚えている。彼はもう当然死んでしまっただろうけれど、それでも、この川でたまに釣りをしては豪快な笑い声を上げているに違いなかった。

 僕が笑みを零してパンを頬張っていると、そこでふと、ワン、と大きな犬の声が聞こえた。びっくりして振り向くと、なかなか大きな体をした柴犬が息を切らせて、こちらをじっと見つめていた。

 僕は首輪もないその犬を見て、誰かに飼われている訳ではないんだな、とすぐに悟った。そっとパンからハムを抜き出して、彼に投げた。犬はそれに被り付くと、すぐに咀嚼し始める。

 随分と人懐っこい犬だった。僕に寄ってきて、掌を舐めたりする。全然怖がっている様子がなく、ぶんぶんと尻尾を振って、嬉しそうにしていた。

「よし、もう一個やろう」

 僕はそう言って、もう一個のサンドイッチからハムを抜き出してから、彼にあげた。

 そこで彼がもう一度、「ワン」と吠えた。

「なんだ? 僕に何か言おうとしてるのか?」

 僕が笑いながらそう言うと、犬がそこで突然歩き出した。僕はなんだろう、とポーチを置き、何気なく立ち上がった。犬が何度も吠えて、僕は遊び半分でその後を追ったけれど、そこでその林の前へと辿り着き、犬が茂みの中へと屈み込んだ。

「何やってるんだ?」

 僕がそう声を掛けると、犬がくるりと振り返って、口に何かを咥えていた。僕は彼がこちらまで近寄ってくるのを見守って、そして彼が足元に置いたそれを見て、目を瞠った。

「あ、これは……」

 もう泥まみれになって黒ずんでいるけれど、僕にはわかった。これはあのスーパーボールかもしれない。拾って泥を消すと、そこに三つの星が浮かび上がったのがわかった。

 僕は本当に我を忘れて、そのスーパーボールに見入ってしまった。まさか、今になってこのボールを見つけることができるなんて、信じられなかった。

 確かにそれは僕が失くした、思い出の品だったのだ。僕はスーパーボールを握って犬に見せてやろうと振り向いたけれど、そこでさらに声を失った。

 すぐ目の前で息を切らしていたあの犬は、もう姿を消していた。周囲の茂みにも、川原の砂利道にも、堤防の上にも、全くその影はなかった。

 僕はすぐにその辺りを探してみたけれど、その大きな姿は影も形もなく、生物の気配さえなかった。僕は呆然としばらくそこに突っ立っていたけれど、そのボールを再び見て、胸に何か深い感情が降り積もり、予感となり、全身に広がっていくのを感じた。

 これはもしかして、あのおじいさんが僕に返してくれたのか?

 彼の言葉が頭を過った。よし坊主、俺が必ずボールを見つけてやるからな……確かにおじいさんは僕との約束を果たし、今、こうしてボールを届けてくれたのだ。

 少し目の奥が熱くなりかけたけれど、僕はすぐに微笑んで、ライトバンへと近づいていく。先程犬と遊んだ段差からポーチを拾うと、僕は小さな声で「ありがとう」と見えない影へと向かって、想いを言葉にし、伝えた。

 新しい年が始まったばかりの、ほんのちっぽけな、でも不思議と温かい、奇跡だった。


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