終章 エピローグとプロローグ

 照り付ける太陽が、コンクリートの上に蜃気楼のような揺らめきを見せる。楽しげな歓声と派手な水音がプールの水面に反響していた。

「うひゃーっ!」

 夏休み真っ只中の市営プールは、午前中から子供達で賑わっていた。思い思いの場所で戯れるグループの外、プール脇の休憩スペースに一人の少年が佇んでいる。肌に汗の玉が浮かび、彼がここまで水の中に全く入っていない事を物語っていた。

「……」

 どこかぼんやりした表情で、真っ青な空を見上げる。

『夕立が有る。それ以外は一日晴天……』

 額を流れる汗を全く気にせず、少年は無表情に遠くに浮かぶ千切れ雲を視線で追っていた。

「ひゅーっ!」

 派手な水音と共に、一人の少女がプールサイドに浮かび上がる。腕の力でタイミング良く上半身を持ち上げると、膝を掛けてプールから上がろうとした。

 そちらに視線を動かした少年は、一呼吸置いて、声を掛ける。

「おい」

 喧騒にかき消されそうな小さな声だが、何故かプールサイドの少女に確りと届いた。

「え?」

 一息に立ち上がろうとしていた少女が、動きを止める。その眼前を、はしゃいだ低学年のグループが駆け抜け、プールへと飛び込んだ。

 監視員が飛び込んだ少年達に発した注意を促すホイッスルを背に、少女はプールサイドに立ち上がる。肉付きの良い健康的なボディが、濃紺のワンピース水着に、ぷにっとした張り詰めた曲線を描き出した。

 怒られている一団を横目に、少女は自分に声を掛けた少年へと足を向ける。

「あーちゃん、今あたしに声掛けたよね?」

「ああ」

「なんでさ?」

 あーちゃんと呼ばれた少年は、胡坐に成りながらぽつりと答えた。

「あのまま上がっていたら、ぶつかって尻餅をつく。その時、手首を捻って捻挫する。痛そうだったから、止めた」

「いやいや、そーなるかどーかは解んないじゃん」

「解る。後先、どうなるか、識った上で変える事が出来るから」

 淡々とした、だが、有無を言わせない表情で少年は断言する。少女は多少疑った表情をしながら少年の横に並んで座った。

「たしかに、言ってた事がホントになったりするけどさ」

 一瞬迷った後、子犬が全身の水を振り払うような仕草で頭を振り、髪の水滴を盛大に振りまく。飛び散った雫が少年やコンクリートに降り注ぎ、ほのかに塩素の匂いが漂った。少年は突然、降り注いだ雫に全く動じない。しばらく少年を見やった後、少女はふんぎりを付ける様に勢い良く頷いた。

「むぅ……ま、いいや。あたしがネンザするのを無しにしてくれたみたいだし」

 少女の言葉に、少年は小さく首を振る。

「違う。捻挫するのは先頭を走っていた年少者。のんちゃんに頭から衝突。尻餅を付いた拍子に、手首を挫いて泣く事になる」

「え? んじゃ、あたしはどーなるの?」

「質量差で年少者を弾き飛ばし、無傷」

「しつりょうさって……なっ、なんかムカつくぅ!」

 己の体型を微妙に気にしていたらしい少女が、少年の頬を左右から摘んで引っ張る。

「低学年と高学年で、質量差有る事が、むかつく?」

 少年は引っ張られた頬のまま、不明瞭な問いを投げかけた。

「さっきの子が低学年なのは解るけど!……ん? なんで疑問系なの?」

 つまんでいた指先を離して、少女が小首を傾げる。少年は自分の頬をぷにぷにと両手で軽く押した。

「質量差で転倒しなかった事を気にしているようだから、捻挫、もしくは尻餅を付いてみたかったのかと思って」

「あたしが?」

「そう」

 少年の澄んだ瞳をまじまじと見て、少女は訝しげな声をあげる。

「どうやって?」

「先程の場面を同時刻から再現。低学年でなく、同学年もしくは、より質量の有る存在が突っ込んでくれば……」

「それは、『もし~だったら?』って話でしょ」

 少年の話が仮定形だと理解し、少女はげんなりとした表情を浮べた。

「いや、『そうして』欲しかったのか? と尋ねてる」

「えっと……、やり直しできるって話?」

 少女は、どこか信じられないという顔でおずおずと問い掛ける。少年はコクリと頷いた。

「うん」

「さっきの低学年の子が、上級生とか、大きな男の子とかに成るって事?」

「そう。ただ、そういった固有対象の変更は今まで試した事は無い。けど、これまでの事象を総合的に鑑みて、可能」

 少年の説明を理解しようと、眉根を寄せ反芻していた少女が何かに気付いた表情を浮べる。

「あー、それ、タイムがなんたらってやつだっ! なんか、前の時間に戻って失敗やり直すってアニメ、夏休みロードショーで見たっ んじゃさ、やってみてよ」

 疑いよりも、ホラ吹きをやり込めたい一心で、少女が言い放つ。少年は一瞬虚空を見上げた後、淡々と訂正した。

「そのアニメと同じ結果に成らない。のんちゃんには改変前の情報、記憶が存在しないから、変わった事が解らない。水から上がって此方に来ようとした時、高学年の男子に突き飛ばされて尻餅を付き、手首を挫いて痛い思いをするだけ。損だと、思う」

 それじゃホントか嘘かわかんないじゃん、と言って少女は澄み切った青空を見上げる。陽光が横顔に濃い陰影を描き出し、どこか寂しげな雰囲気を漂わせた。

「あのさ、それってお父さんを……」

 少女が独り言のように呟いた言葉の総てを、少年は正確に理解する。そして、それが可能である事を少女に伝えようとした。

「……」

 どうすれば良いかを、浮かんだ映像の中から模索する。出来る、という単純な一言と共に、瞬時に把握した最良の選択変更を、彼は発する事が出来なかった。

 それまで自分の中で起こった事が無い現象に困惑し、少年は驚愕した。

 何故説明出来なかったのか、を分析し即断する。選択した結果もたらされる些細な変化、たった一つの違い。

 彼が彼女と逢う事が無い、という結果が原因。

『何故?』

 総てを総括把握できる少年が、初めての想定外な事態に困惑する。表情こそ淡々としたまま、少年は己自身に混乱した。それが感情に起因する事だと、今の彼には判別出来ない。もちろん、総てを睥睨する者には、それがどういった事か、何がもたらした結果か、手に取るように理解できたであろう。

「ええと、うんっ! いっそさ」

 少女は少年の変化に気付かないまま、口篭った『本当に成って欲しかった事』に踏ん切りを付けると、悪戯な笑みを浮べる。

「もっと凄いものに成ったり出来ない? それなら、変わった後に解らなくてもすっごく得した感じだし」

「凄いもの?」

 少女に問い掛けられ、少年は内面分析を中断した。

「そーだなー……」

 少女は一瞬考え込むと、何かに思い当たったのか笑みを浮べてポーズをつける。

「吸血鬼!」

 マントをさばく仕草を真似しながら、少年の顔を覗き込んだ。

「吸血鬼……ヴァンパイア、高位から下位まで種族分類複数、伝説文献により、差異が多数存在……」

 情報誌でも読み上げているように、虚空を見詰めながら少年は独り言を呟く。

「漫画で読んだけど、なんか、すっごくカッコイイ感じだし!」

 それに、すっごく冷静で感情とか無いって書いてあったから、と言い掛け、少女は再び口ごもった。

「比較的強者である事は事実。だけど、複数の弱点が存在する。それは良いの?」

 自己検索の結果を、少年は問い掛ける。

「ニンニク嫌いとか、そういう弱点無しで!」

「それでは、ヴァンパイアの範疇を外れてしまう。存在を規定する為には、必要な要素」

「えー、そーなの」

 一瞬考え込むと、少年は代案を出す。

「ダンピール、ヴァンパイアと人間のハーフなら、ある程度の差異が付けられる。偏差が大きいから、大幅な修正可能。ただ、弱点という要素を減らす分、特性も減少する」

「んじゃ、こーもりに成ったり、とか変身しなくてイイや。でも、貴族とかカッコイイのは残して」

「真祖、ダンピールの最上級化は……可能」

 ダンピールを真祖とするにはどうするか? を模索し、少年はそうなる状況を把握した。それが可能であり、現状に最も近い状況改変で済む事が、彼の反応を微妙に遅らせる。

「でさ、あーちゃんはどーする? だん……おんなじ吸血鬼に成る?」

「え?」

 少女の屈託無い発言が、少年を驚かせた。

「自己改変、考えた事も無かった」

「あたしみたいに、なりたいものとか、無いの?」

 問い掛けに、少年は心底戸惑い、迷う。永遠ともいえる時間、少女にとっては、一呼吸の間、少年は自問自答を延々繰り返し、漸く確証を得た。

「僕は……きっと、普通になりたい」

 真顔のまま語った一言に、少女は納得した笑みを浮べる。

「そっか、それもアリだよね」

 集団で飛び込んだ派手な水音が響き、苛立ったホイッスルがこだました。一瞬、視線を動かした少女が、少年に視線を戻す。

「んじゃ、あたしは吸血鬼に、あーちゃんは普通に、さ、変身させて!」

「うん、あの……」

 普段とは違う、微量の頼りなさが含まれた言葉に、少女は訝しげな表情になった。

「え? 何? やっぱできない?」

「違う」

「じゃ、何なの?」

 少年は、戸惑った表情で、口を開く。

「存在が変化しても、嫌いにならない?」

「は?」

 少女はポカンと口を開く。俯いて一呼吸間を置くと、少年に屈託無い笑顔を見せた。

「ふつーだろうがなんだろうが、あたしはあーちゃん好きだよ! あーちゃんはどうなの?」

「その感情を持っていると、今日始めて理解した」

「もっとふつーに言いなよ」

 少女に促され、少年は初めて自分の感情に頬を染めながら、言葉をつむいだ。

「のんちゃんの事、好き、です」

「知ってた」

「え?」

 照れ隠しなのか、少年のほっぺを指先で引っ張りながら少女は晴れやかな笑みをみせる。

「じゃ、変身やってみてよ」

「ああ、補足。存在しないものを存在定義する事になるから、付属して

。それは良い?」

「何か良くわかんないけど、面白そうだからそれでいいや」

「うん」

 深く考えずに言い放った少女の笑顔を見、少年は目を閉じる。彼女の望むままに。ありのままの世界を、総てが望んだ


「ジワワワッ」


「おわっ!」

 プールサイドの用具室に止まっていたアブラゼミが突然けたたましく鳴き出し、荒宇土を驚かせた。全身を覆っていた水滴は、炎天下、既に乾ききり、汗の雫に変っている。

「しっかし、あいつ本当にプール好きだったんだな」

 自己確認するように、呟いた。夏休み真っ只中の市営プールは、結構な賑わいをみせ、楽しげなさざめきが其処ココで湧き上がっている。

 眼前のプールサイドに、黒髪の少女が浮かび上がった。片膝を上げ、軽やかに立ち上がる。

歩みだそうとした瞬間、プールサイドに走り込んで来た少年を、流れるような身のこなしでかわすと、軽く頭を掴んだ。

「水際は滑りやすく危険だ。転倒して怪我したらどうする」

 軽く掴まれている筈なのに、身動き取れない低学年の少年は、驚きながら頷こうとする。

「気をつけたまえ」

 捨て台詞のように言い置くと、少女は掴んでいた手を離し、休んでいた荒宇土の方に向かってきた。

「ふう……」

 横に座り込みながら、少女は軽く髪をかき上げる。

「お前、本当にプール好きなのな」

「え? ……そ、そんなにはしゃいでるように見えた?」

 おどおどした気弱な表情で、少女は荒宇土を上目遣いに見た。

「いや、それが悪いって訳じゃ無くてな」

 先程少年をたしなめた有無を言わさない表情から、一転した気弱な表情に、荒宇土は困った顔をする。

「さっき、走ってた奴をキッチリ叱ってたじゃん。いつもと全然違って、ビックリした」

「え、あ、あの、すっきりした気分で上がった直後だったから、勢いで、その」

「なー、のんちゃん。普段からあのくらいで、いーと思うぜ?」

「え?」

 体育座りで縮こまっている少女、惟知香を眩しげに見やりながら、荒宇土は続けた。

「勉強だって運動だって出来るし、なんつーか、もっと自信を持てよ」

「そうだけど、でも、あたしみたいな、その……」

 俯きながら言いよどんだ惟知香に、荒宇土は慌てて小さく声を掛ける。

「真祖だとか何とか、気にすんなよ! 俺達と何も変らないんだからっ」

「あ、あの、それは気にして、ないよ。父様から受け継いだ力は、誇りに思うし、大切なものだから」

 首を振って否定する少女に、少年はいささか拍子抜けした表情を浮べた。

「え? あ、そう。じゃ、何が原因なんだよ」

「それは……今のあたしって、似合わないっていうか、それっぽくないというか……」

 少女は顔を赤らめながら、体育座りした膝を両腕で抱きしめ、全身丸くなる。

 俯いて黙りこんだ少女の反応に、荒宇土はようやく真意を悟った。

「あ、えっと」

 肉付きの良い健康的な体に、ぷにっとした二の腕。むっちりした太ももに、既に将来性を感じさせるなだらかな胸元のふくらみ。太っている、というより未来に向けてエネルギーを溜め込んでいるといった方が相応しい、張り詰めた姿が其処に有った。

 荒宇土が眩しく感じていた容姿が、彼女にとってのコンプレックスだったと解り、どう声を掛けてよいか困惑する。

 しばらく迷った後、少年は辺りを見渡し、多少潜めた声をあげた。

「その、今のおどおどしてる方が、それっぽくないと思う。見た目とかじゃなくてさ」

「そう、かな?」

「さっきの確りしたのんちゃん、カッコ良かったぞ。それに、今だって十分、その……」

 荒宇土は言いよどむ。やや上目遣いに待っている惟知香に気付き、決心したかのように言い放った。

「か、可愛いと、思うぜ」

「うそ?」

「本気、綺麗だし、泳いでる時や、さっきのキッパリしたトコとか、えっと、みりょく的だと思うし。なんていうか、エ、エロカッコ良い!」

 精一杯の語彙で少女を褒めようと、耳まで赤くしながら続けた荒宇土に気付き、惟知香も頬を赤く染める。

「エロかっこよ……その言い方凄く恥ずかしいよ」

「あ、ごめん」

「でも、ありがとう。あーちゃんにそう言われると、凄く、元気でた気がする」

 気恥ずかしさからか、二人の間に沈黙が流れた。セミの鳴き声とプールではしゃぐ少年達のさざめきが、間を埋めるように、耳に届く。

 体育座りのまま、組んだ両手をもじもじ動かしていた少女が、躊躇いがちに声を掛けた。

「あの、あーちゃん」

「ん?」

「えっと、あたしが本当に格好良い真祖に成れたら、あの……好きになって、くれるかな?」

 何かを決心した惟知香を見て、荒宇土は言葉に詰まる。

 内心の返答は単純で、一言『ずっと好きだったよ』と言うだけで済んだ。

 だが、自信を持てない少女の精一杯の決心を、少年は大切に思いやる。

「うん! もちろん!」

 にっこり笑いながら、返答した。

「じゃ、約束だよ」

 可愛らしい小指を突き出した惟知香に、荒宇土は真剣な表情をする。

「ゆびきりじゃ、いくらでも無しに出来るから、もっとちゃんとしたのにしようぜ。確か、吸血鬼の力に、そういったのが有るんだろ?」

「え? ……あ、真祖の『契約』のこと?」

「それ」

 少女は頬を染めながら、一瞬躊躇した。周囲に視線を巡らし、二人を誰も気にしていないと確かめると、おずおずと頷いた。

「あの、やった事無いから、どんな事起こるか解んないよ?」

「いきなり死んじゃうとか?」

「そんな事は無いと思うけど。あたしの魔力は父様に劣るから、ギアス、契約の縛りを成立させるのに、何か贄、代償みたいなものが発生するかも……」

「契約なんだから、破らなきゃ問題無いんだろ?」

「えっと、そう、だね」

 惟知香は、はにかんだ様に笑うと、荒宇土にそっと肩を寄せる。

 驚いて体を硬くする少年に、真祖のダンピールは必死に作った重々しい声を掛けた。

「動かないで。魔法の力が足らない分、接触で補う」

「お、おう」

 目をつぶって、と惟知香に促され、荒宇土はギュッと目をつぶる。

 こつん、という軽い感触と共に、惟知香の額が荒宇土のおでこに触れた。さっきまでプールに入っていた為か、ひんやりとした心地良い感触が荒宇土の額に広がる。

 小さく何事かを呟いた後、惟知香は先程行った問いを、荒宇土に向け硬い言葉で再び繰り返した。

「うん――」

 少年の返答が、蝉時雨にかき消される。

 夏の喧騒に溶け込んだ真剣な返答は、少女にだけは、しっかりと届いていた。

 二人が、ひと夏の思い出を心に秘める間も、変化した最初の世界は、認識される度、加速度的に拡大し、増大し、人間が認知する現在・過去・未来を彩色し直す。

 総意は総てにおいて充足し、新しい真理の有り様を当然のごとく受け入れた。

 抜けるような夏の青空はどこまでも高く、遠景に浮かぶ入道雲は、夏の情景を変らず映し出している。


 そして、総てが定められた。


―― 了 ――

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