六章 ポッと出の奴が先導
「はー、世界消失、ねぇ……。うん、大体の事情は了解した」
腕組みした中山が小さく頷く。背後の窓から見える夜空に、大小様々な魔法陣が浮かび上がり、バラバラに明滅しているのが見て取れた。
そこそこの広さが有るリビング(学習部屋)だが、一人を寝かせ4人がひしめくと流石に手狭な感が有る。
「で、ココには例の御札だかが貼って有るんだね?」
「うむ。重大事が起こった際、身の守りに使えるから、と言われて貰ってきたものだ。護法と厄事遮断の結界符らしい。アレが出現したのを見て、慌てて部屋に貼ったのだが」
間に合った、というか元々この部屋は不可侵協定仲裁者用だから、それなりの結界が施して有った様だ、とさくらが答えた。
全員、リビング代わりの学習部屋に集まっている。終焉を司る魔法円が出現して一時間程経過したが、現状、外界に大きな変化は無い。
瓜生の傷は完全に塞がっていた。裂けたブレザーの合間から白い肌が見え、大きな裂傷の痕が、赤みとなって残っているのが見て取れる。惟知香が瓜生の腹と背中側双方を調べ、問題無いか確かめた。いつもの口調に戻った中山が、ショックで気を失っているだけだろう、と付け加える。
「さて、ようやっとインターバルタイムというか、話を聞ける状況が整ったね。事情の事情を知らない私に語って聞かせてくれなさい!」
経緯を聞きたがった中山が、全員から話を聞き出していった。荒宇土が保健室で聞いた話を含め、これまでの情報を要約し、口に出して整理していく。
未だ横になったままの瓜生を除き、皆から聞き終えると、最後に何故自分がココに居るかを打ち明けた。
「は? んじゃ、お前って、ホントに俺の護衛役だったの?」
「そうでーす。ま、私も事前潜入して入学終了まで近接警護せよっていう、要請と言う名の命令のみで、何がどーなってるか、の具体的な話は聞いてなかったんだけどさ」
惟知香が持ってきたコーヒーを飲みながら、中山はあっけらかんとした笑みを浮かべる。
「その子……さくらちゃんと繋がり有るトコが、多分、私の出向先でね。こういった事態に絡んで出てくる厄介なモノ対応の研修中に、臨時で駆り出されたワケ」
「臨時……」
中山は、組織云々の名前を意図的に出さなかったが、荒宇土は何となく警察とか公的なものなのだろうな、と察した。
「学生として潜入しても違和感無い年齢ってコト。候補は他にも居たっぽいけど、護衛任務って事で私が選出されたの。基礎課程は修了してるし。ホントなら、学園内での護衛任務引継ぎ終わったら、そのまま撤収はいサヨナラの筈だったんだよ。んだけど、いきなり内部の怪しいトコ調べろって言う追加ミッション発生してさ。調査+一応アラドに目を配るって任務に成った途端に、倍プッシュのミッションアップデートでイベントリが大混乱ですよ」
そんなワケで、私はスパイで大作戦したり24時間以内に冤罪一転大逆転で国のTOPとっ捕まえたり戦国時代にタイムスリップして現代兵器無双とかやらかす方が得意なので、魔法円どうすれば良いか、なんて知識無いからサッパリ解らん! と、清々しい表情で言い放った。
「君、それなりの立ち位置だったら、外部との連絡手段とか持ってないのか?」
惟知香の問いに、中山の表情に困った成分が含まれる。
「そりゃ、普通よりちょっと繋がり易い携帯とか有るけどさ。完全に遮断されてるんだよね。ノイズが聞けるだけ。多分、外部と連絡を取る手段は、どんなものでも弾かれるんだと思う」
「何故そう思う?」
「あのさ、これだけ目立ちやすいイルミネーション点灯してるのに、報道含めヘリも野次馬も誰一人集まって無いじゃん。いくら田舎の学校とはいえ、流石に有り得ないでしょ? どうやってるかは知らんけど、不可視の札とかと同じような術が使われてるんだと思うね」
浮かび上がった複数の魔法円をイルミネーション呼ばわりしつつ、中山は肩をすくめた。
「外部からの救援は無いと思った方がいいよ。推察すると、かなり後手後手に回ってるようじゃん。恐らく、相手は万全な状態で作戦発動してる。横からちゃちゃ入れられないよう、手は打ってあると見るべきだね。内部の人間だけで、何とかするしかないって事さ」
「つってもなぁ……」
悲観的な話を平然と言ってのける中山に、荒宇土は嘆息した。
「中で無事なのって、俺達だけじゃないのか?」
「そうだろうねー。やっこさん、成功を確信してたし」
ため息を付きながら、マグカップのコーヒーを一気に飲み干す。
「……でさ」
「はい?」
「今日って、金曜日だっけ?」
「いや、違うと思うけど」
中山は通路に面したキッチンへ視線を向け、鼻先をひくつかせた。気付いた惟知香が、得心いった表情を浮かべる。
「ああ、カレーの匂いだ。彼との約束だったのでな、中辛カレーを用意してある。作り置きしておこうと思って、かなり多めに作ったのだが、幸いしたな」
皆も食べるだろう? そう言いながら、惟知香はキッチンで食事の仕度を始めた。
「おいおい、悠長にメシ食っても大丈夫かよ?」
荒宇土の問いに、惟知香は鍋を暖める手を止め、キッチンから居間を覗きながら言う。
「食べながらでも話は出来る。お腹を減らして思考が鈍るより、きっちり栄養を取って、建設的な話し合いをすべきだろう。拙速も有りだが、打つ手も策も無いまま動くのは、愚の骨頂だ。何より……」
言葉を切って、さくらを見た。化け猫ニートは、いつもの指定席に座って文庫本に顔をうずめながら、視線も寄越さず話を継ぐ。
「例の呪法陣、えっと、魔法陣の事だが、万全の状態で発動させたのなら、即目的達成している筈。カレーの辛さを云々する余裕も無く、うち等はこの世界ごと消去済みであろう。だが、発動したのに存在している。さっきの話で出た空ウド、学園長に何らかの目的が有ると見るべき。それが果たされるまでは、大丈夫だと思う。何より、うちにピリピリが来て無い以上、切羽詰ってない証拠、コレッ!」
「と、言う訳だ。さ、心置きなく中辛カレーを味わうが良い」
言いながら、盛り付けたカレーを手際良く配膳していった。既に準備していたのか、ボウルに山盛りのサラダも持ってくる。小皿配りを任された荒宇土が、ふと手を止めた。
「惟知香、皿一枚多くないか?」
「うん? きっちり5枚、人数分有るだろう」
「いや、気絶したままの瓜生は、食わないだろ」
お冷を注ぐ手を止めず、惟知香が答える。
「何を言う。彼女はさっきから意識を取り戻しているぞ」
言われて、荒宇土は思わず学習部屋の隅に寝かされたままの瓜生に視線を向けた。
凝視された途端、ブランケットが掛けられた瓜生の肩が一瞬ピクリと動く。強張った顔面の閉じた瞳が何かを耐える様にピクピクしていた。
積み上げられたさくらの文庫本のタイトルを微笑と共に頷いて見ていた中山も、エセ眠り姫に視線を向ける。しばし眺めた後、荒宇土に向かって小首を傾げた。
「……何故に寝た振り?」
「俺に聞くなよ。なんか、起きるタイミング外したとか」
「いやいや、普通に血が足りないから食いモンもってこいーとか言って起きればいいじゃん」
「何だそりゃ。つか、人見知りとか、そういう方向性だろ?」
「あのさ、人見知りが緊迫した場面で颯爽と会話に割り込み『時間稼ぎ有難う!』なんて、次回に続きそうな山場セリフ決めれると思う?」
中山がそう言った瞬間、仰向けに寝ていた瓜生がビクッと痙攣すると、すさまじく棒読みな『ううーん』と言う寝言を残し、壁に向かって寝返りをうつ。二人に背を向けた瓜生を見て、中山は悟ったような表情を浮かべたが、口に出したのは困惑のみだった。
「えぇ……」
「あ、アレが原因? なんで?」
素で疑問符を浮かべた荒宇土に、中山は嗜めるような表情を見せる。
声を出さず口元で「めっ!」というジェスチャーをした後、小声で耳打ちした。
「ゴイスーな呪文で確実に倒して『アタシ超格好イイ!』と思ったら、相手ノーダメご覧の有様っていう、やってもうた状態を、ドヤ顔対象の私達に見られたんだよ? しかも役立たずのまま担がれて舞台退場なんて、生放送コント番組並みな状況終了ダメだこりゃ、を食らったんだから、そりゃぁ気絶したくもなるわ」
さして小さくも無い声、かつ、話すうちに興が乗ってどんどん大きくなる中山の声に、瓜生に掛けられたブランケットは小刻みに震えだす。話が進むにつれ、振動は大きくなっていき、話し終わった瞬間、虚空目掛け跳ね飛ばされた。
「違っげーしっ! 回復系魔法は痛みまでとらねーから、自力で耐えなきゃ仕方ないっつーか、歯食いしばってて動けなかっただけだから!」
瓜生は上半身引き起こし、中山に食って掛かる。真っ赤に成った瓜生の顔を見て、中山は可愛そうな者を見る笑みを浮かべながら手で制した。
「あーごめんねー、私、呪文とかに疎くてさー。そんな事情だとは知らなかったわー」
「おい、もうその辺で勘弁してさしあげろ」
中山を、荒宇土が沈痛な表情で制止する。惟知香はお冷を注ぐ手を止めると瓜生の前に屈み込んで、再度傷口を確かめた。
「ん、その元気なら大丈夫だな。君もカレーを食べるだろう?」
「え……あ、う、うん」
瓜生に向かい、確認するように言う。金髪縦ロールの少女は、頬を赤らめながら、俯いて小さく肯定した。
「ダメだこりゃ、な心の傷口はケアしなくて良いのか?」
「!?」
さくらが文庫本を眺めたまま淡々と言い放つ。
「おぉいっ! これ以上話をややこしくするなっ!」
荒宇土が制止する中、耳まで真っ赤に成った瓜生は、ふにゃっだかひにゃっだか言う小さな悲鳴をあげブランケットを引っ掴むと、頭から引っ被って丸くなった。
「……意外とシビアな現場だったんだね」
感心したような中山の声に、荒宇土は平坦な顔で首を振る。
「笑顔の絶えないアットホームな職場ですから」
「それ、完全にブラック求人常套句だから」
中山の補足をスルーして、惟知香が仕切りなおした。
「まぁ、冗談はこのくらいにして、食事にしよう。折角のカレーが冷めてしまう。瓜生君には、色々と聞きたい事も有るしな」
サッパリした促しに、全員いそいそと食卓に付く。最後に、ブランケットからモジモジ顔を出した瓜生が、ぎこちなく座ると、思い思いの表現で『いただきます』を言い、夕食が始まった。
全員無言で食べ進めていたが、味談義にはじまり、徐々に会話が広がっていく。
「ほぉ、肉とシーフード両方いっぺんに入れないのか?」
「家は基本、肉だったな。イカやエビ入ってるやつは、自宅じゃ食った事無いわ」
「具材に隠し味、ルーのとろみ、千差万別様々なタイプを味わえるのが、カレーの良いところでゴザイマスよ」
「イカは最高にそそる香りで、うち等を惑わす悪鬼羅刹では有るが、成り上がったうちは平然と食せるので食ってやるー!」
他愛の無い会話の中、瓜生は一人全力でカレーを掻き込んでいた。余程気に入ったのか、周囲を気にせず黙々と食べ進め、誰よりも速く完食する。やや遅れて食べ終わった惟知香が、お代わりに行こうとして、瓜生の皿が空に成っているのに気付いた。
「おかわりはどうだ?」
「え? あ、うん、下さい」
気付いた惟知香が差し出した手に、瓜生はやや俯きながら空に成った皿を預けた。二つの皿を持った惟知香がキッチンに向かうと、お代わり希望者が続き、列を成す。
「ちょっと待ちたまえ」
慣れた手付きで炊飯器から御飯をよそうと、手早くルーをかけていく。最初の一皿を、一番最後に並んだ荒宇土に渡した。
「君、瓜生君にこれを渡してやってくれ」
「おう」
バケツリレー形式でカレーを渡された荒宇土が、瓜生に手渡す。
「……ありがと」
瓜生の謝意に手を振って応えると、荒宇土は自分の皿を受け取りに戻った。他の面々とぶつからないよう、部屋の入り口で皆をやり過ごす。さくらがカレーを持って小走りに部屋へと入り、いつもの笑顔を浮かべた中山が後に続く。キッチンに戻った荒宇土に、惟知香が無慈悲な宣告を淡々と告げた。
「炊いておいた御飯が尽きた」
「マジか?」
「流石にこの人数では、お代わり分まで賄いきれん」
本気で残念そうな顔を浮かべた荒宇土を見て、惟知香が慌てて付け加えた。
「ああ、一応、冷凍ストックで良ければ有るのだが。レンチンすれば、直ぐだ」
「それ是非今直ぐ」
微妙に切羽詰った感を出す荒宇土を見て、惟知香が苦笑しながら冷凍庫からラップされた米を二つ分取り出す。レンジに入れ加熱し終わると、自分と荒宇土の皿に移し、軽くほぐしてルーを掛けた。調味料の置かれた場所から、明らかに辛味倍増の元と思しき、真っ赤な粉が詰まった小瓶を片手に、部屋へと戻る。
「君も使ってみるか?」
「断固として断る。強調表現の意味を深くかみ締めろ」
皆、二人が戻るまで食べずに待っていた。惟知香は持ってきた辛味増強スパイスを、当然のようにルー目掛けどさどさ振り掛ける。
「誰か使うか?」
中山が躊躇い無く受け取り、同じ位大量に投下した。さくらと荒宇土は絶対に相容れない何かを見る目付きで、明らかに赤みの増したカレーを眺める。
二人はほぼ同時に真っ赤なルーを口に運んだ。湯気と共に、一瞬刺激臭が漂う。
「うむ、コレでないとな!」
「おっ、これはこれで有りアリッ!」
笑みを浮かべながら、先程よりも速いペースで食べ進めた。辛い辛いと言いつつ、時折お冷を口に運びながらも、食べるペースに変わりが無い。様子を見ていた瓜生が、小瓶に恐る恐る手を出した。
「アタシも、入れてみよっかな……」
パサパサと軽く掛け入れ、入念にルーと撹拌し、ライス多めで口に運ぶ。
「っ!?」
一口入れた瞬間、瓜生の顔色が変わった。大慌てで咀嚼するとお冷に手を伸ばし、一息にあおる。
「かっらーーっ! ってか何コレッ、辛過ぎだしっ、何で平気なワケっ!?」
涙目の金髪少女に、惟知香と中山は、きょとんとした顔をした。
「辛いよ? それがオイシイんじゃん」
「うむ、この刺激を楽しむのがカレーではないか」
当然のように言い放つと、二人は再びカレーを口に頬張る。
「大丈夫、こいつ等が特別なだけだ」
信じられないモノを見たような表情の瓜生に、荒宇土が首を振った。気にせず、そのまま食事を開始した荒宇土を見て、瓜生も何かを悟った表情に成る。自分のルーを満遍無く混ぜ、耐えられる辛さに収めると、残りを平らげた。
「さて、本題に入ろうか?」
皆があらかた食べ終えた頃を見計らい、一足先に食べ終えた惟知香が話を切り出した。
「瓜生藤花、君は何者で、何を知っている?」
お冷を飲み干した瓜生が、ポケットから古びた黒い手帳を差し出す。
「コレ読んで」
「? これは……ヘイワード君の手帳か」
受け取った惟知香がページをめくり、驚いた顔をした。瓜生はお冷を注ぎながら、名前を聞いて淡々と呟く。
「ふぅん、彼、そんな名前だったんだ」
「君、まさか……」
険しくなった真祖ダンピールの顔を見て、金髪縦ロールは肩をすくめた。
「言っとくけど、アタシが行った時は既にあのザマだったかんね。好事探索の占星魔法に示された場所に辿り着いて、人に見られる前に手帳見つけて立ち去っただけだし」
「何故、手帳を?」
「あの部屋で、アタシに必要そうなものといえばアレくらいだったから。中を読んだ今なら言えるけど、あのタイミングでアレがアンタらに渡ってたら、もっとややこしい状態に成ってたわ。確実にね」
最後に残ったサラダを口に運びながら、瓜生は平然と言い放つ。含みの有る言い方に、荒宇土が惟知香の肩越しに手帳を覗き込んだ。
「で、何が書いてある?」
手帳のページをびっしり埋め尽くした几帳面な字と、会話した時と同じ位修飾に凝った文章の羅列が飛び込んできて、荒宇土は内容の判読を即座に諦める。惟知香は、手帳から目を離さず答えた。
「パッと見たところ、ここまでは私達が今持ち寄った情報と同じ内容が推察されている」
「すまん、コレそんなアッサリ読める文章じゃないと思うんだが?」
「慣れの問題だ」
すまして答えると、惟知香は結構なスピードで読み進めていく。荒宇土は、もっと手軽な解決策を選んだ。
「で、瓜生。何が書いてあった?」
「アイツの正体と目的がもたらす結果についての考察。どんな手段を使ったのか知らないけど、彼、結構イイ線いってたわ」
瓜生の返答に、荒宇土は思慮深い表情を浮かべる。
「てコトは、お前も正体知ってるのか?」
「もちろん」
そう言って、瓜生は微妙に居住まいを正した。
「あの男は、多層分岐した別世界からの来訪者。アラードを手に掛け、彼の立場を使い、魔道錬金と科学の融合を極限まで追求した。そして、その成果を用い、アタシの居た世界を消失させたのよ。入れ替わりに気付いてたアタシは、アイツが何してるのかを、密かに探ったの。結局、大まかな推測が立ったときには、手遅れだったけどね。アイツが初めての消失魔法で掛かりきりになってる間に、アタシは魔道実験の最終データを記憶魔法で全部頭に叩き込み、ぶっつけ本番で位相転移、別世界への自己転移をやったの。で、近似世界に潜伏しながらデータを解読し、機会を伺った。その転移先の世界も、アイツが消失させたせいで何度か引っ越す羽目に成ったけどね。この世界も、あらかじめ行き来して緊急転移先として仕込みをしといたうちの一つ。ココに生徒として潜り込めてるのも、事前準備のオカゲ」
「なるほど。元々呪文特化した世界だったから、瞬間移動の呪文なんて高度なものが使えるように成ったのだな」
感心する惟知香に、瓜生は投げやりな笑みを返す。
「確かに魔道関係はココや近似世界より遥かに優れてたけど、別世界への移動魔法なんて無かったわ。アタシがコイツをからかいに行った時、バスルームで見せたような場所移動の跳躍魔法は有ったけど。位相転移なんて言葉、アイツの研究で始めて見たっつーの。呪文発動への方程式は何とか理解できたけど、何故その解を導く最初の一歩を規定できたかが、サッパリ解んない。なんつーか、元々出来る技の最適手段を魔法の範疇で模索したって感じ?」
「ふむ、夢の会話と符合するな」
思案げな惟知香の横から、中山が右手を上げた。
「はいはーい、アラードって?」
二、三度瞬きした瓜生は、うっすら頬を染め、視線を逸らした。
「アタシの……彼、よ」
「恋人だったんだ」
荒宇土と中山が、思わず顔を見合わせる。開いた文庫本の影から視線だけ覗かせていたさくらは、明らかに狼狽して文庫本の盾に顔をうずめた。
「成りすましってコトは、魔法か何かで変装してたのか?」
「変装の必要すら無かったわ。多重に存在する近似世界から来訪した、アラード自身だったから。外見は全く同じ。アタシが違うと気付けたのは、以前、好き嫌いの話を聞いてたお陰」
「話に聞く、ちょっとだけ違う世界の同一人物ってやつか……ん?」
荒宇土の脳裏に、バスルームで瓜生と有った時の会話が過ぎる。別れ際、彼女は自分の事をアラードと呼んだような……。
「他人事ねぇ。アンタ自身の話でも有るのよ?」
お冷を片手に、微妙なジト目で瓜生が言い放つ。
「まさか」
「そっ、この世界におけるアラードがアンタ、御崎荒宇土よ。同時に、アイツでも有るってワケ」
中山は片眉を跳ね上げつつ納得したように頷き、さくらと惟知香はポカンと口を開けた。
「では、あの学園長と彼は同一人物という事か?」
「全く同じってワケじゃないわ。あくまでそれぞれの世界において相当する固体ってだけ。つか、ココアラードはかなりズレてるよね。外見違うのは兎も角、魔道系の素養は全く無いし」
使えないわね、という素っ気無い瓜生の発言で、荒宇土は微妙に情けない顔となった。
「いや、一般人に何を求めてんだよ。つか、待てよ。何か知らんが極秘に警護される位なんだから、俺すら知らない凄い能力が」
「無いでーっす。パンピーだから全力で守ってくれなさいって命令だったし。単に都合良かったから放り込んだだけ……」
中山のきっぱりした一言に、荒宇土はガックリ項垂れる。
「……って聞いたんだけど、ココまで来ると何らかの作為を否定できないね」
「さくい?」
中山は、立ち上がると、据え置きのイスに腰掛けながら平手で外を指し示した。
「だってさ、さっきエンカウントした時の反応見ると、表でエレクトリカルパレード絶賛開催中の奴はアラドに対して何か含みを持ってんだよ? 幾ら同じ自分とはいえ、単なるパンピーなら、絶対やり遂げたい一大事業を途中で中断してまで、ちょっかい出して来ないっしょ?」
「ふむ、一理有るな。瓜生の意見は?」
「アタシに聞かれても解んないわよ。んでも、他の世界は何のためらいも無く、アッサリ消失させてたわよ。そこの世界にもアラードは居たけど」
接触は無かったみたい、と言いながら透き通る金髪の乱れた部分を手櫛で整える。皆の食器を片付けた惟知香が、キッチンでコーヒーを沸かし始めた。戻りしな、山盛りの菓子盆を持ってくる。
中山はイスの上で器用に胡坐をかくと、組んだ足の上で両手を揃え、スカートを抑えるように置いた。
「とりあえず、交渉か時間稼ぎの材料にアラドを使えそうっていうのは解った。んでさ、結局このイルミネーション祭りをストップさせるには、どーしたら良いワケ?」
言われた荒宇土は、頼りなげに首を傾げた。
「保健室の件を話したろ。なんか、プログラムの上書きがどうとか」
「そりゃ多分、魔法陣の書き換えって事」
菓子盆に盛られた一口チョコに手を伸ばしつつ瓜生が言う。惟知香は湯気の立つコーヒーを運んできた。
「出来るのか?」
「発動しっぱなの魔法陣なら意味有るわ。弄くられたら対象の魔法が中断しちゃう。コレだけ大規模な魔術連鎖なら、石造りの建物で言うキーストーンがわやに成ったら、総て止まっちゃうでしょーね」
「んじゃ、その魔法陣さえ見つけりゃ何とか成るんだな?」
「見つけるも何も、場所は解るわよ。学校の屋上、アンタ達の教室の真上よ。魔力感知で返って来る魔力量が一番高いから、間違いないわ」
言われた途端、荒宇土は微妙に素の表情で惟知香を見やる。
「ちょいとのぶのぶさん。確か、『魔法陣は、隠蔽されてる可能性も有るから抜かり無く調べてた』って仰ってましたよね?」
「私は抜かり無く調べたぞ。あのタイミングで、それらしき痕跡は確認出来なかった。恐らくはヘイワード君の魔法陣が干渉して、発見を妨げたのだろう。不幸な偶然が重なったな」
澄まして言う惟知香に、ジト目の瓜生が言い放った。
「いやいやいや、全っ然干渉してない。つか、発動前な上に、あらゆる意味での発見を妨げる不可視符でカバーされてたから、魔力感知使えなきゃ、ほぼ見付からないわよ。屋上の半分位は、魔法陣に占領されてるから、かなり手狭だった筈だけどね。ま、結構な呪符が貼られてたから、素人に発見出来なくても無理ないかも」
瓜生の指摘に、惟知香はさり気無い風を装ってそっぽを向く。
「昼間の屋上主導権争いは、そのせいか……」
ヘイワードと昼寝したい猫達の場所争いを思い出し、荒宇土は妙に納得した。あのタイミングでは気に成らなかったが、屋上スペースの出入り口近くに偏って書かれていた魔法陣のサイズ、日のあたっている広々した奥のスペースに行かず、同じ場所へ執着した猫達の妙な密集具合は不自然過ぎる。
指摘されるまで全く気に成らなかったが、指摘された今は掌を返したように、違和感が理解できた。これは、魔道的に影響回避した瓜生に、場の不自然さを指摘された結果、不可視符の呪縛から開放されたという事だろう。
とにかく、原因となる魔法陣の場所は解った。ならば。
「なら、後は簡単だな。屋上までダッシュで行って、邪魔される前に魔法陣を書き換えれば終了って訳だ!」
喜色ばんだ荒宇土を制して、思案げな表情の中山が先程とは全く違うトーンで質問する。
「一つ聞きたい。相手が書き換え直したらどうなる?」
「そりゃ、元通りに発動するわよ。継続魔法陣なんだから」
「結局、偽アラドを何とかしないと、どうしようもない、という事じゃないか?」
「そーいっちゃえばそーだけど、魔法陣に関してなら書き換えが妥当だっつーの。物理的に消すってのも有りだけど、継続詠唱中の魔法陣は電気で言う漏電みたいな魔力反射受けちゃうの。安全に消去するなら、アタシが時間掛けて法陣構文調べなきゃムリだって!」
瓜生は不満げな顔で、口にほおり込んだ一口チョコのアーモンドを音高く噛み砕いた。
「その書き換えだが、素人でも可能か? ああ、この場合、専門家のレクチャーを受けた、と仮定して、だ」
「構文の書き換えはムリ。猫殺しの呪文をチョコ増やしの呪文に書き換えとかは、ぜってームリ。んだけど、猫殺しの呪文を犬殺しに変えるとかなら、場合によっては何とかって感じ」
「場合とは?」
「魔法陣の構文って、結局は言霊、言語なの。『コレ は ペン です』のペンを書き換えてパンにしたいと思っても、単語としてのペンを指し示す該当箇所が解んないと、どうしようもないでしょ」
「書かれた言語による、という事か」
「該当箇所を発見できればの話ね。ああ、もちろん、名詞とか拾える単語だけだよ。~~~犬~~~だったら、~~~に触らず犬を猫にすれば、一応発動対象が猫になるって話。発動部分の構文は触っちゃ駄目。下手すりゃ漏魔フィードバックで死ぬるから」
大量の砂糖とタップリのミルクでカップから溢れそうなコーヒーを器用にすすりつつ、瓜生は返答する。中山も、何も入れないままのコーヒーに口をつけ一息入れた。
「なら、ココに居る面々に書き換えのコツをレクチャーしてくれ。現状、魔法陣とやらのツボを心得てるのはアンタだけだ。運良く辿り着いた誰かが、土壇場で何とか出来るかもしれん。可能性は多い方がいい」
「わーったわよ。何か書くもの無い?」
言われた瓜生は、惟知香からペンとノートを借りると、手早く図形を描き、法陣の説明を始める。さくらですら、文庫本をしまって説明に聞き入る中、中山は惟知香に何事か尋ねると、部屋を出て行こうとした。
「おいおい、言いだしっぺが聞かなくてどーする?」
たしなめる荒宇土に、普段と違う引き締まった表情で答える。
「私の仕事は少しでも多く戦力を送り込み、可能性を上げる事。その為に、無いよりはマシ、の状態を作りたい。……んじゃ、ちょっくら行ってくんねー」
最後だけ、何時もと変らない朗らかな笑顔を見せると、直ぐ戻る、と言い残し中山は部屋を後にした。
荒宇土は中山の後姿を見送ると、熱心に説明する瓜生の図面に向き直った。
三十分程して、瓜生の説明が終了する間際に中山は部屋へと戻ってくる。その間も、瓜生は図に示した修正出来そうな箇所を幾つか例を挙げて説明すると元に、失敗した際のリスクを念押ししていた。
「大体こんな感じ。後は、書き換えに使えそうなモン探さないと」
「どんなものが必要だ? 特殊な何かが要るのか?」
惟知香の問いに、瓜生はチョコを食べながら答える。
「うんにゃ、ふつーのチョークで十分。学校の教室辺りで借りてくれば良いんじゃね?」
「ふむ、ならば道々入手するとしよう」
マグカップのコーヒーを一息にあおると、惟知香はショッピングにでも出掛けるかのように、軽い口調で言い放った。
「では諸君、そろそろ出掛けるとしようか」
「あ、コレ貰ってってイイ?」
言いながら、瓜生が盛られていた一口チョコを大量に鷲づかみする。
「お、おい、作戦みたいなものは考えなくて良いのか?」
荒宇土の問いに、中山が笑みを浮かべながら肩を叩く。
「素人がいらん事考えたって無駄ムダァ。兎に角、一人でも多く魔法陣とやらが有る場所に辿り着いて、書き換えすりゃOKだよ。途中何か有ったら、『ココは私に任せて先に行け』をやればいい感じに盛り上がるし」
「いや、盛り上がりを優先してどうする」
皆が立ち上がり、玄関へと向かうのを見て、荒宇土もそれに続いた。ふと見ると、流し台に汚れたままの食器が山積みに成っている。
「ありゃ、話してる間に洗っときゃ良かったな」
「うん? ああ、解っていたが手をつけなかった。戻ってから洗えば良いからな」
惟知香は、ふと、何か思い付いた顔をした。
「そうだ、トリフチョコの逸品が有ったのを忘れていた。皆、後で味見といこう。折角だから、挽いた後飲み頃まで置いてある、とっておきのコーヒーも沸かすぞ」
チョコ、という単語に瓜生とさくらが目を輝かせ、中山がニヤニヤしつつ荒宇土に聞く。
「これはフラグ立てって認識でイイのかな?」
「それを言うならお前の『ココは~』云々発言も十分そうだと思うんだが」
荒宇土のツッコミに、マアマアとなだめる素振りを見せながら、中山は軽やかに言い放つ。
「んじゃ、さくっと世界を救って、おいしいコーヒーを堪能するとしよっか!」
異口同音の賛同を受けると、先頭に立って通路へ出た。皆も後へ続き、最後に出た惟知香が部屋の鍵を掛ける。
カシャン、という普段と変らない筈の施錠音が、荒宇土にはやけに響いて聞こえた。
中山はどこから持ってきたのか、濃緑色のバックパックを片手に、玄関先に立てかけてあった木製モップを二本手に取る。一本を荒宇土に投げ渡し、軽い口調で言い放つ。
「悪いけど一本持っといてね。おっと、心得か揺ぎ無い自信が有るなら、アラドが使ってもイイよ」
「何に……って武器、だよな、やっぱ」
手渡された棒を荒宇土はマジマジと見た。細めだが、根元に包帯状の布が幅広く、厚く巻き付けて有り、確りと握れる。モップ部分は取り除かれ、削って槍のように尖らせてあった。先端には、何か舗装用タールのようなものでコーティングされている。
「使うなら叩いちゃ駄目だよ。基本、真っ直ぐ突き刺す専用。根元掌で持って押し込む形でドンッ、あ、体重載せるの忘れないで」
横から説明を聞いていた瓜生が、半笑いで首を突っ込む。
「うっわ、任侠映画の鉄砲玉っぽくね?」
「失礼な! どこぞの冒険ヤロウ並みに有り合せのモンで何とかしたのにっ。コレはドスじゃなくて槍、ランサーでございますよっ! 格調高い名前も付けてあるのにっ」
「な、名前?」
「一撃必殺の願いを込めて、『るにぐんぐ』に『るまどいれふ』。あ、表記はひらがな表記でシクヨロ! 決まりだから」
ドヤ顔で言い放つ中山に、荒宇土は平坦な顔で言った。
「うん、解ったから、そろそろ行かないか?」
「ハイハイ、アラドは不真面目に真面目な事する醍醐味を解ってませんなー」
したり顔で言い放つ中山の背後から、黙っていたさくらが顔を覗かせ手を上げる。
「そんな事より、ドラマ冒険ヤロウのテーマ口ずさんでみ? と聞いた時、殆どの場合チーム特攻ヤロウのテーマをやっちゃう件について」
「それな!」
「頼む、パンピーな俺をこれ以上テンパらせる行為は、止めてくれなさい」
目を輝かせた中山を、荒宇土は頭を抱えながら制止しつつ、階段へと促した。
***** ******* *****
「マジか……」「うーわー、キモッ」「ふむ、成る程な」「ところで、何故軍師たるうちまで前線勤務をせねば成らん?」
「だーかーらー、皆もちょっと声を下げる。あと、興味本位でぞろぞろ来ないっ! それと、軍師つったって後世の人間が勝手に分類してるだけだから、軍師と言われる人が前線出ても問題無いのっ」
中山が精一杯の小声で注意を促す。全員、植え込みの陰、しゃがみこむ中山の背後で押し合い圧し合いしつつ、驚いた顔で正面を見据えていた。
寮から学校までの道は瓜生を連れ帰った時と同じく、何事も起こらず移動できた。先導する中山が遮蔽物で身を隠しつつ、中腰で小走りに移動していく。校舎に有る一番大きな生徒昇降口まで後一歩の所で突然立ち止まると、俊敏な動きで手近なツツジの植え込みに身を隠した。
中山は息を殺して振り返ると、荒宇土を指差し、そのまま一本指を立てた後、手招きのゼスチャーを見せる。
「俺を呼んでるのか?」
荒宇土は中山の動きを真似、中腰でなるべく静かに植え込みまで移動した。横にしゃがみ込むと、中山が視線を前に向けたまま、小声で尋ねる。
「アラド、目立たない入り口って、他に知らない? アレと一々やり合ってたら、時間掛かってしょうがないし」
視線の先に顔を向け、荒宇土は思わず押し殺した悲鳴を漏らした。所々欠損した死体が、ぎこちなくヨタ付きながら、昇降口の前で蠢いている。不定期に行ったり来たりしながらも、決して入り口を離れようとはしない。腐敗した肉体と対照的な真新しいブレザーが、荒宇土に嫌な想像をかき立てた。
「まさか、アレ、ココの生徒だったんじゃ?」
「しらないわよ。仮にそうだとしても、どのみち既に元生徒だし。気にしなくてイイよ」
「マジか……」
荒宇土の呻きに被さるように、ゾロゾロついてきた皆の端的な感想と疑問が漏れ聞こえる。
全員にツッコミを入れた後、中山は固い調子で先程の問いを繰り返した。
「で、誰か、他に入り口もしくは他者から確認され難い侵入ポイントは知らない?」
言われた惟知香が、考え込む。
「ふむ、校舎裏、用具室が有る付近に昇降口が有ったな。後は、角の廊下辺りの窓はどうだ? 割って入る事に成るので、多少音が問題だが、人目には付き辛いと思う」
「あー、体育用具置き場の脇って、アレの出現ポイントが設定されてるんだよねー。その場に居なくても、沸いてくる危険性が有る。あと、窓割って入るのは良いけど、ココの窓枠って外からだと結構高いよ? 踏み段とか無いと、手早く入れないと思う」
動く死体を指し示しつつ、中山が駄目出しした。
「ぱっきんちゃんかねこまたちゃんの呪文とかで何とか出来ない?」
「うちは呪法とかは使えない。解呪符等補助系の符は幾つか有るが、攻めには使えん」
さくらがふるふると首を振り、瓜生も不満げに口をへの字にする。
「瓜生だっつの。魔法ってのは詠唱に時間掛かるんだから、そんなポンポン唱えられないわよ。大体、アタシの魔力だって上限有るし」
小声の抗議に、荒宇土は訝しげな表情を浮かべた。
「だけどさ、お前が魔法使った時、結構短時間で撃ってなかったか?」
「アレは特別、ウラ技込みよ」
そう言って瓜生は微妙に得意げな顔をする。
「アタシの髪の毛は呪文保持の力を付与してあんの。予め詠唱して、発動保持状態にしといたから、即撃ち出来たってワケ。あの場でアタシが唱えたのは、威力強化の呪文で、磁壊炎弾は、髪の毛に保持して有ったのを開放しただけよ」
「ああナルホド、縦ロール解けるのは呪文使ったからか」
「そゆこと。準備に時間掛かるから、お手軽に使えないけどさ」
微妙にドヤ顔のまま、瓜生は中山に向き直った。
「んなコト言うなら、アンタだってまだ魔法品持ってるでしょ。なんか魔力感じんのよ」
言われた中山は一瞬キョトンとした後、何かに気付いた顔をする。
「え? ……ああ、そりゃ多分このブレザー。支給された時、他者認識を偏向する効果がどうとか言ってたから。あ、それと対下級魔族・アンデッド用護法付与云々も言われたような」
「へぇ、結構よいものじゃない、ソレ。つか、正にアレぶっ倒すのに最適な装備じゃん」
「だーかーらー、可能な限り隠密行動して、目的地まで一気に到達したいって言ってるのデスヨ」
何事かを考えていた惟知香が、音を立てずに手を打った。
「ふむ、要求を満たす通路に、一つ思い至った」
「ドコだよ。俺も昼間の散策で散々学園マップ見たけど、人目に付き辛い場所って、無かったと思うぞ?」
荒宇土のツッコミに、惟知香は曰く有りげな笑みを浮かべる。
「まあ一緒に来たまえ。人目に付かず、用具室まで行かずに入れる入り口が有る」
惟知香は有無を言わせず、俊敏な身のこなしで、音も立てず歩き出した。
校舎裏手に回って直ぐ、金属製の大きな扉の前で立ち止まる。
「コレって」
「うむ、学食や園内スーパー用の、搬入口だ。通常は入れないよう鍵が掛けられている」
言いながら、惟知香はカードキーを取り出すと、開錠装置に差し込み暗証番号を入力した。
ピッという電子音と共に、ロック解除の文字が液晶画面へ表示される。
「ちょいと、のぶさん、何故お前がそんなものを持っている?」
「私は調停仲裁者補佐だぞ。緊急事態対応の為、学園のマスターキーを支給されているのだ」
「いや、俺そんなもん貰ってないんだけど」
「ふむ、信用度の差、かな?」
惟知香はすまし顔で答え、カードキーを持ったままの片手をひらめかせた。
「では、行くとしようか」
軽い軋み音と共に扉を開くと、入ろうとする惟知香を押し留め、中山が先に立つ。真っ暗な通路に、避難誘導灯の薄い明かりが足元を照らす。
辛うじて通路が解る程度の視界に、中山は一瞬思案したが、バックパックからマグライトを取り出し、明かりを付けた。腰から下の辺りに下げて持ち、足元を照らす。
空のケースや、ダンボールの山積みされた通路を、道なりに進んでいった。
「このまま調理室を抜けて、学食へ出よう。後は、通路を一直線に進んで階段を上がれば目的地到着だ」
惟知香の案に、中山が頷きで返す。搬入通路はしんと静まり返り、くぐもった足音のみが小さく反響した。ややあって、明かりの漏れる押し開きの扉に辿り着く。中山は扉の窓から中の様子を伺った。室内は蛍光灯が付きっぱなしで、整理された調理器具が棚の上に置かれているのが見える。
「調理室だ」
小声で説明する惟知香にマグライトを消しながら応えると、中山が扉を押し開いた。静まり返った室内に、軋み音がやけに大きく反響し、瓜生がヒッと押し殺した悲鳴を上げる。素早い動作で室内を見渡すと、中山はそっと足を踏み入れた。何の気配も無い室内に、小さく息を吐くと全員に入ってくるよう促す。多少緊張が解れたのか、瓜生が軽口を叩いた。
「おー、なんかゾンビ映画のワンシーンみたい」
「『ゾンビと思った? 残念っ悪魔ちゃんでした~』のパート3に、こんなシーン有ったな」
「あ、あの大ヒット映画、こっちの世界も有ったんだ?」
「いや、カルト的人気映画、の範疇だと思うが」
「嘘っ!? うちじゃパート10越えまで行って、最後は宇宙でゾンビが……」
「ちょっと待て」
間欠泉のように盛り上がっていた瓜生とさくらに、険しい顔の中山が割って入る。騒ぎ過ぎて怒られたと思った二人は肩をすくめた。
「そうじゃない。うるさいのは良くないがまだいい。それより、映画で、こんなシーン有ったのか?」
ふるふると首を縦に振る二人を見て、中山は渋い顔を見せる。
「どうした、中山?」
「けれん味ダイスキーな奴が、こんな有る有るシチュエーションほっとくと思う?」
言った瞬間、全員の耳に気圧が変化したような圧迫感が襲い、背後と前方で重々しい音が響く。調理場の端、作り付けの棚が有った壁に、黒々とした穴がぽっかりと開いていた。
「だよねー」
苦笑いに似た諦め混じりの表情で、中山は口の端を歪める。
穴の奥から、特定ホラー映画特有の、長く尾を引く呻き声が大量に反響しながら近付いてきた。坑道か洞窟染みた穴の壁を見て、荒宇土が困惑した声を上げた。
「てか、あんな所にどーやって奥行きの有る穴が開いたんだ? 壁の向こうは校庭だろう?」
「魔法に決まってんじゃん。ゾンビ満載洞窟かなんかの入り口を、調理室の壁に直結させたんでしょ。アイツならその位出来るわよっ!」
瓜生の返答に荒宇土が答える間も無く、中山が振り返る。
「兎に角ダッシュで食堂から廊下へ抜けよう。ゾンビだなんだのカテゴリーなら、歩くの遅いだろうし!」
言い捨てた中山が、先陣を切って厨房から食堂へ繋がる通路へ飛び込んだ。皆も慌てて後を追う。背後では反響していた呻き声が間近で聞こえ始めていた。皆よりやや遅れて荒宇土も続く。駆けていた惟知香の黒髪が突然眼前に迫り、荒宇土は急停止した。
「おい、どうしたん……」
食器受け渡し口フロアで、全員が立ち止まっている。
「メルド……」
小さく舌打ちした中山が、何事か吐き捨てた。
「め、める?」
「ああ、フランス語の罵りだ。映画『公共迷路ぐるぐる』の登場人物が、罠に気付いた時、使っていたな」
荒宇土の疑問に、惟知香が平然と答える。惟知香の表情と背後に広がる食堂の光景を見比べ、荒宇土はぽかんと口を開けた。
「なんだよコレ」
学生食堂のフロア一面から、動く死体がもぞもぞと湧き出している。みっしり敷き詰められたように成っているゾンビの群れが、ストップモーションじみた、ぎこちない動きで、床フロアに手を掛け全身を現そうとしていた。腐敗した腕がイスに当たって床を擦り、耳障りな引きずる音を立てる。何匹かは既に立ち上がり、緩々した動きで、こちらへ迫ろうとしていた。
「これか、これが『団体様のおつきだぁ』というやつか?」
さくらが眠たげな目を輝かせ言い放つ。中山は一瞬遠い目をして口元を歪めた。
「ふるいは有ると思ったけど、こうも早いとはなぁ……」
一人呟くと、さばさばした表情で皆に振り返る。
「さ、取りあえずみんな廊下へダッシュで抜けてっ! あっと、きんぱつちゃん」
「瓜生だってっ! なんなのよ?」
「ポッケのチョコ一つちょうだい。それとさ……」
中山が瓜生の耳元に口を寄せ、何事かを囁く。瓜生は一瞬眉をひそめたが、直ぐ、何かを理解した表情を浮かべた。
「わーった、生き残んなさいよっ!」
「もち、故にフラグは立てない」
中山は曰く有りげな笑みを浮かべると、全員を急きたてる。
「ほら、ちゃっちゃと進むっ! それと真祖ちゃん、アラドは大丈夫だけど、魔法陣弄れる人一人は、何とか辿り着けるよう努力してね」
「む、心得た。皆、先を急ぐとしよう」
妙にリーダーシップを感じさせる中山に、惟知香もただただ頷き、先頭に立って出口目掛け駆け出した。
全員、後を追って走り出す。中山に声を掛けようとした荒宇土も、釣られて後を追った。
「中山……」
荒宇土が走りながら振り返る。飄々とした少女は、モップを本物の槍のごとく華麗に取り回すと、剣舞の型か芝居のような見栄えするポーズをきめた。一呼吸置くと、何事も無かったかのように、素っ気無くモップを床に落とす。半身の姿勢を取り直すと、一番傍まで寄っていたゾンビの腹に右手で思い切り掌打を打ち込んだ。瞬間、中山のブレザー全体が緑色に薄く輝く。打ち込まれた動死体は、粉々に成って吹き飛ぶと周囲のゾンビに降り掛かった。仲間の破片を浴びた死体は、突然動きを止めると、全身が崩れ、灰がちりじりに成るように、粉となって霧消した。
「は?」
モップ使わんのかい、と、思わず疑問系の表情を浮かべた荒宇土を、中山は横目で一瞬見やる。眼鏡越しにニヤリと笑みを浮かべると、横合いから迫っていた一体の側頭部を流れるような回し蹴りで吹き飛ばした。
「こっちの方が得意なんだよねー」
言いながら右後ろの一体に対し体を横に預けると、肩口から体当たりし肘撃ちで空中に跳ね上げる。
「君、何をしている? 行くぞ」
先に廊下へ出た惟知香が、荒宇土を促した。
「あ、ああ」
一瞬躊躇した後、踏ん切りを付けた様に駆け出す。学食から飛び出す瞬間、荒宇土はもう一度振り返った。中山の居た辺りに大量の死体が幾重にも群がり、中は窺い知れない。荒宇土は奥歯を強く噛みしめると、惟知香達を追って再び駆け出した。
***** ******* *****
「つか、なんだこの状態は」
駆け出して三分と経たずに、荒宇土はげんなりした顔で愚痴をこぼした。
「私に聞くなっ。目的達成に障害は付き物だろう? 我慢したまえ」
言いながら、惟知香は派手な水しぶきを上げて両手をごしごし洗い続ける。
普段、五分と掛からずに行き来出来る筈の廊下は、どこぞのファンタジー世界における迷宮と同じ位、面倒な存在と成り果てていた。
走り出して直ぐ、渡り廊下の角に、どっきり染みたポーズで動く死体が待ち構えており、お化け屋敷の脅かし役の如く両手を挙げてみせる。恐怖より汚いものへの嫌悪感で瓜生が悲鳴を上げ、焦った顔の惟知香が、思い切り両手を突き出し、ゾンビの胸元を押した。
途端、凄まじいスピードでゾンビが吹き飛ばされる。ぐずぐずの体が勢いそのままに後ろの階段にぶち当たり、形容し難いぺしゃっという音が響く。ゾンビの腐った体は、階段のキャンバスに油絵の具を厚塗りしたかのように、平たくこびり付いていた。
素手の惟知香を見て、荒宇土は一人納得した表情を見せる。
「あ、うん、何とか成りそうだな」
当の本人は心底嫌そうな顔で、両掌を上に向けて周囲を見渡した。
「あわわわわ、ちょ、ぐにっと感にぺしゃっと感でぶしゅっと吹き出したのが手のひらにぴちゃっとして洗わなきゃー」
思う様取り乱した惟知香から十歩ほど距離を取った瓜生が、平坦な顔でツッコミを入れる。
「つかアンタ、モノホンの真祖ヴァンパイアなんでしょ? あのばっちいのが疫病系列の攻撃付加能力持ってたって、完全抵抗可能でしょーに」
手近な洗い場の水道に駆け寄りながら、惟知香が精一杯威厳を保って答えた。
「私はハーフだが、もちろん完全抵抗可能だ。しかし、衛生観念の問題は話が別だっ。てか、やだっヌメヌメがにゃーっと」
「いや、単に腐れキモいだけっしょ?」
備え付けの石鹸を用い、必死に両手を洗い続ける。何度も石鹸を塗りたくりながら、暫く洗い続け、皆が呆れ返る頃に漸く洗うのをやめた。
「ふむ、いささか不満が残るが時間も無いしな。この辺りで切り上げるとしよう。さぁ、先を急ぐぞ!」
引き締まった表情で、全員を促す。
「あ、はい」
突っ込みを入れる間も無く、全員後に従い目的地を目指した。
階段を駆け上がり、そして――。
しゃがみ込んだ荒宇土が、項垂れたまま口を開く。
「いや、毎回ゾンビを『嫌ボーン突き出し』で、尽くやっつけてくれるのは良いんだけどさ」
「頼まれたからな。当然だろう――ゴシゴシ――」
掌で石鹸をもみくちゃにしながら惟知香がニヒルな顔を見せる。荒宇土は久々に大声でツッコミを入れた。
「倒すたんびに手近な水道にダッシュして手を洗わなくてもいーだろっ!」
「ばか者っ! 歯磨きでも、食後直ぐにやらねば意味が無いと言うではないか。手洗いだってぶちゃっとした直後にやらないとあぅぁ感触が手に……」
腐敗してガスが詰まった死体を思い切り押し込んだ感触が蘇ったのか、情けない表情で必死に両手を洗い出す。
「文句が有るなら、君らが『るにぐんぐ』だかでゾンビを退ければよかろう!」
「あ、俺が預かってるの『るまどいれふ』なんで、ちょっと無理っすわ。サーセン」
「軍師は考え事が有るので、忙しいのだ」
「はぁ? アタシはスペルキャスターでランサーじゃないんですけど!」
「コイツラ……」
微妙に声のトーンが裏返った惟知香を、荒宇土が慌ててとりなした。
「ま、まぁ、目的地まで階段一階分だ。流石にもう出ないだろ? 後は俺等の教室前抜けて直ぐだ」
恐る恐る掌の臭いを確かめていた惟知香が、表情を改める。
「本当だな、信じたぞ! 嘘だったら今後カレーは激辛オンリーだからな!」
「いや、絶対ってワケじゃ」
「やめてのぶちかそれうちがしぬる」
荒宇土に確証は無かったが、幸い教室前までは問題なく移動できた。先に見える階段に向かおうとして、ふと、惟知香が足を止める。
「おっと、忘れるところだった。チョークが必要だったな」
教室の前に戻り、入り口で中の様子を伺った。問題無いと確かめたのか、引き戸をそっと開く。途端、瘴気でも立ち上ったかのように空気が揺らいだ。
怪訝な表情を浮かべた瓜生が、大声で制止する。
「入んな! 死ぬぞっ」
中に入ろうとした足を浮かせたまま、惟知香は急停止した。そのまま片足で後ろへと器用なジャンプを見せる。
「な、何事だ?」
恐る恐る中を覗き込んだ瓜生が、室内を見渡した。教室の中全体に赤黒い筋が網の目のように張り巡らされている。良く見ると、筋に見えたものは、細かい文字がびっしり書き連ねてあった。
「うっわ、エゲツなっ。これ中に居る生き物から魔力を吸い取る檻みたいなモンだわ。人間が入ったら、あっという間に魔力吸い尽くされて干からびちゃうレベル」
「私は真祖だ。多少吸引されても……」
「そーね、あわわ、とか言うくらいは持つかもね」
「むぅ」
「檻?」
「そっ、魔法陣の起動魔力どーやってんのかと思ったら、こんな仕組みが有ったとはね。ほら、見てみな」
瓜生が指差す先、机の下そこここに猫が何匹も固まっている。目を伏せ、丸くなったまま動こうとしない。
「良く解んないけど、アレって化け猫なんでしょ? 多分、人より魔力絶対量が多いから、便利使いされちゃったんだわ。吸い尽くすギリギリで抑えて、魔力回復する度に継続して吸収するよう仕組んで有るっぽい。絶対出られないよう、対象封印の呪文も付加されてるし」
覗き込んだ荒宇土が、机の下に丸くなっている黒と茶色の猫を見つける。黒猫が薄く片目を開け、か細い声で鳴き声を上げた。
「お、おい、さくら、ありゃクーやちゃちゃ達じゃないか?」
さくらを振り返った荒宇土の表情に驚きが走る。
さくらの頭に、丸みを帯びた耳が飛び出していた。普段眠たげな両目が見開かれ、虚空を凝視している。ブレザーのスカートから太く灰褐色の尻尾が跳ね上がっていた。
「なんだこりゃ、突然ネコ耳が……」
「ああ、何かピンときた証拠だ。以前見た事が有る」
荒宇土に惟知香が説明する間に、さくらの頬が痙攣するかのようにヒク付き、いつもの眠たげな視線に戻る。
「あー、ふんふん、へー……」
「お、おい、大丈夫か? さくら」
一人呟くさくらに、荒宇土が気遣わしげな声を掛けた。
「うむ、軍師は所用が出来たゆえ、屋上へは三人で行ってくれなさい」
普段と変らない調子で、そう告げる。
「所用ってお前」
「ぱっきん巨乳、室内の呪法成立文、あの中で外へ出られないようにしている箇所を教えろ」
「え? あ、ああ、あっこからその辺までの、明滅が他とずれてるトコ」
有無を言わさないさくらに気圧され、訂正無しに瓜生が答えた。
「ちょっと待てさくら、まさか中に入るつもりか?」
「うちの力は、この程度の呪法に吸い尽されん。それに、おかぁさんにあいつ等の事を頼まれたからな。是非も無しなのだ」
制止する間も無く、さくらは教室内に入る。平然とした様子で、教壇に向かうと、チョークを二、三本手に取り、惟知香目掛け投げ渡した。
「というわけで、ココはうちに任せて先に行け」
「お、おい、さくら」
焦った惟知香の声を聞くと、さくらの丸い耳がピクッっと動く。
「そうそう、じゅーだいはっぴょー。のぶのぶ、聞くが良い」
「な、なんだ」
「お前の心に秘めた殿方って、コレ」
言いながら、平坦な顔で荒宇土を指差す。
「で、ぽちゃスキーよ、お前の甘酸っぱい青春の一ページこと、ぱっつん処女太り系スク水が、ソレ」
惟知香に指先の向きを変えた。
『は?』
荒宇土、惟知香、瓜生、それぞれがそれぞれの疑問系な表情を浮かべる。
「では、後は任せた。ああ、晩ごはんは素敵にステーキでしくよろー」
言い捨てると、さくらは後手で扉を閉めた。
「さて、軍師らしからぬ仕事をするか」
一段増した魔力の圧迫感を涼しい顔で受け流すと、教えてもらった魔法陣に歩み寄る。この期に及んで映像効果でも狙ったせいか、さくらの歩みは特撮映画の巨大怪獣が見得タップリに登場する時のような、遅々としたものだった。その踏み出す足一歩毎に、さくらの全身が豹変していく。ブレザーが姿を消し、二足歩行する人と山猫が入り混じったような姿をみせた。
「うむ、やはりこの格好は他者に見せられぬな」
立ち止まった時には、山猫ですらない、野獣じみた外観に変貌を遂げている。
軽く前屈姿勢を取ると、伸び上がるようにして右腕を振り払った。
鋭い笛のような乾いた音色が教室の壁に反響する。同時に、赤黒く明滅していた壁の呪文に白い筋が四本走り、弾けるような音と共に壁もろとも抉られた。扉を覆っていた暗褐色の輝きが消え、立ち込めていた圧迫感が消失する。
黒色と茶色の猫がよろめきながら扉に駆け寄り、引き戸を必死に引っかいた。空けた隙間に鼻先を突っ込み潜り抜けると、表から長く尾を引く鳴き声をあげる。うずくまっていた猫達が一斉に起き上がり、我先に扉から抜け出していった。
「ヘイタンソガイ サスガ グンシ」
黒々としたバケモノが、くぐもった唸り声をあげると、振り向きながら左腕を大きく振り払う。
壁から天井、教壇の黒板まで白い爪痕が走り、深々と引き裂いた。壁全体に明滅していた魔法陣が唐突に消え去り、普段の教室へ戻っていく。破壊した痕跡すら元通りに成って行くのを見届けると、黒い野獣が瞬時に普段のさくらへ変化した。崩れ落ちるようにへたり込むと、手をついたまま大きくため息をつく。
「だから肉体労働は嫌なのだ……腹減った」
げんなりしたさくらの呟きに、人が入ってくる足音が被さった。顔を上げたさくらの視線の先に、狐耳の少女が写る。
「は?」
さくらの見守る中、狐耳の少女は、片手のポットを自分の机に置くと、カップうどんを二つ、慣れた手付きで準備し始めた。手早くお湯を注ぐと、一つをさくらの鼻先に突き出す。
箸と共に渡されたさくらは、三分経ってないうどんを強引にがっついた。
「仕事の後の一杯、効くだろう」
きっちり待って揚げを咥えた狐耳の少女が、訳知り顔の笑みを浮かべる。開いていた扉から様子を伺っていた沢山の猫が飛び込み、さくらの周囲に群がった。
魔力を失っているせいで人化出来ず、猫の姿のまま喉を鳴らす仲間達を見て、さくらははにかんだ笑みを浮かべる。
「仕事ではなく、約束だからな」
空に成ったカップが床に落ちて乾いた音を立てた。一匹の山猫が沢山の猫の間に入り、互いに顔を擦り付け、喉を鳴らす。
狐耳の少女は満足げな頷きで見届けると、カップうどんのおかわりに取り掛かった。
――数分前――
鼻先で閉じられた引き戸の前で、三人は困惑していた。
「は? とのがた? 心に秘めた? 何事?」
金髪の少女は困惑して閉じたアルミサッシの引き戸と、少年と真祖のダンピールを交互に見る。二人の表情は、瓜生以上に混乱していた。
「え? 君が、彼……あーちゃん?」
「は? なん、だと? つかその呼び方なんか覚えが……あぁっ! の、のんちゃん?」
顔を見合わせた二人は、しばし硬直し、腕組みした瓜生がイライラし始めた頃合いに成ってようやく愕然とした表情を浮かべる。
「君が」「お前が」『あの時のあの子だったの!?』「か!?」
一部ハモッた後、顔を赤らめ互いに視線を逸らした。
「いーから、さっさと行くわよっ!」
瓜生に促され、二人は慌てて階段へ向け走り出す。が、階段の踊り場辺りで、どちらとも無くスローダウンして立ち止まった。
「その、お久しぶりです、お元気でしたか?」
「いやそのこちらこそ、元気そうで何よりです」
モジモジした惟知香に、おずおずと荒宇土が返す。悟った瓜生は頭を抱えつつ宣言した。
「あーもー解った好きにしろ!」
言い捨てると、少し階段を下り、端の方に腰掛ける。膝に腕を置き頬杖付いた視線の先を、色とりどりの猫が駆けて行くのが見えた。何故だか解らないが、思わず失笑してしまう。
階上の二人は気付かず互いに言葉を捜していた。
「まさか、こんな形で再会するとはな」
「お、おう、言われるまで、気付かなかったけどな」
「仕方あるまい。今の私は過去と違い、高い女子力を誇っているからな。見違えるのも当然だ。正直に言って良いぞ。男子の理想を体現しているこの姿に、君も内心、ぐっと来ているであろう?」
「女子力……ま、まぁ、確かにそうだけどさ。個人的には、そう……、あと4kg位むっちりの方が……」
「なんだ、その含みの有る言い方。……ちょっと待て。君、今何と言った?」
「へ?」
きょとんとする荒宇土に、惟知香は眉間に険しい皺を作って詰め寄ってくる。
「確か瓜生君は、あと5キロ太ったらストライクだったな? で、私は4キロという話だが、その1キログラムの差はなんだっ!?」
「え? いやその」
突然自分の名前が出て、怪訝な顔で瓜生は振り向いた。が、詰め寄っている惟知香の剣幕を見て、そ知らぬ顔で向き直る。眼前の廊下を、ポットとカップ麺を抱えた狐耳の少女が小走りに掛けて行くのを見て、怪訝な顔に疑問符が追加された。惟知香と荒宇土は気付かず、キログラム単位での認識の差異について言い争っている。
「千グラムだぞ? ゼロが3つも並ぶのだ! 彼女と私にそこまで差が有ると言うのかっ!?」
「いやそういった差じゃなくてな、グラビアモデルとグラビアアイドルの違いというか、海外肉食系モデル体型と日本のアイドル体型の違いというか。あっそうだ、外観に合ってるかどうかが問題であって……」
焦って妙な説明をする荒宇土に、惟知香のボルテージはどんどん上がっていく。
「むぅっ! 大体、君、何年振りかで会ってみれば、特定体重マイスターに成っているとか、聞いてないぞ!」
「だから俺の嗜好を珍妙な例えで表現するなっ!」
口にほおり込んだチョコを噛み砕きながら、瓜生はぼんやりと考えた。
『つか、心に秘めた云々なヤツの好みに1キロ分近いんだから、本来喜ぶべきなんじゃね?』
平坦な表情で口をモグモグさせている間も、子供じみた言い争いは続いている。
次のチョコに手を伸ばそうか思案していた時、突然、周囲の空気に圧迫感を感じ、瓜生は辺りを見渡した。
「……うっわ、マジか」
各所に展開されている魔法陣の魔力が、唐突に高まりを見せている。膨大な魔力のフィードバックは、魔法陣が起動準備した証だった。
「おーい、そこのバカップル、痴話ゲンカしてる時間はもう無いんですけどっ。魔法陣が動き出したっつーのっ!」
「そんな事はどうでもいいっ! 先ずは彼の性癖を矯正する事が先決だっ! それと、バカップルではないっ」
「あ、いや、うん、俺の性癖矯正とバカップル云々への抗議は置いといて、世界が消滅したらそれどころじゃ無いから、とりあえず屋上へいこう、なっ?」
目的を見失った惟知香と対照的に、即座に素に戻った荒宇土が真祖ダンピールをなだめる。
可愛らしい表情でむくれたままの惟知香は、不承不承頷きを返した。
「世界消失など私の千グラムに比べたらどうでも良いが、この際キッチリ時間を取る必要が有るな。先ずは事態を収拾した後、この件は改めて討議するとしよう」
不満げな表情のままだったが、惟知香は先に立って屋上へ駆け出す。
「お、おいっ」
「わぉ、ちょっと待ってよっ」
極端から極端へ動く真祖に二人は唖然としたが、直ぐに慌てて後を追った。
階段の踊り場一回分駆け上がった先、屋上への出入り口に真っ先に到達した惟知香は、躍動感溢れる動きで躊躇無く扉を開け放った。
「
「おーいのぶさーん、妙な所で冷静さを失わないでー。意外とヤバイ状況なんだぞー」
未だ振り切った引きずり方をしている惟知香に、平坦な顔で荒宇土が突っ込む。
眼前の屋上に、赤黒く明滅する魔法陣が浮かび上がっていた。ヘイワードが書いたと思しき白いチョークの魔法陣の奥に、それを凌駕するサイズで禍々しい色合いを見せている。のたくった文字は明滅に合わせ、稲妻の放電じみた火花を散らしていた。
魔法陣の前に立っていた『荒宇土』が振り向く。待ち合わせで先に来ていた友人が、遅れて来た仲間を見つけたように、肩越しに片手を掲げ、笑顔で振ってみせる。
戸口から顔を覗かせた瓜生が顔色を変えた。
「ちょっ! 魔法陣発動してるじゃないっ! どーして何も起こってないのよっ!?」
「そりゃ、僕の疑問が解消されてないからさ」
瓜生の疑問に荒宇土の声が答える。声の先、屋上中央に浮かび上がった巨大な方円の中心で、荒宇土と同じ顔をした異世界人は瓜生を見て肩をすくめた。
「うーん、君が居なけりゃ発動状態で維持するなんて面倒やらなくて済んだんだけどね。魔力供給源が一つ潰れたんで、万一を考えて、さっき総ての魔法陣を起動しました。後は、僕が発動しようと思ったら、連鎖して呪文が詠唱され、総て終わります。そんなこんなで世界の消失が確定した後で悪いんだけど、質問に答えてくれるかな?」
「な、確定ってっ!? そんな簡単にやっちゃって良い事じゃないわよっ! この世界が消失したら、総ての世界が無くなった事に成るんでしょっ? 何言ってんのアンタッ」
あっけらかんと言い放ったアラードに、瓜生が色をなして詰め寄る。
「元々、ちょっとした疑問を問い質す時間が欲しかったから、ここまでほっておいたんだよ。今更文句を付けられてもなぁ」
荒宇土と同じ顔の男は、軽い調子で苦笑いを浮かべた。瓜生の顔に、鋭い陰が差す。
「アンタはあの時も、そんな軽い調子で……アラードを……」
「? 君の世界におけるボクの事かい? 確かに消したけど、無関係の君に怒られるような話じゃ無いでしょ?」
心外そうなアラードの声に、険しい表情の惟知香が言い放った。
「彼女は、アラードの恋人だったのだぞ!」
「は?」
「ちょっ! アンタッ」
きょとんとしたアラードは、一呼吸置いて笑みを浮かべて首を振る。
「あははははっそう言う事かっ、無い無いっ、ボクが消した彼とそこの彼女は付き合ってなんかないよ。彼の総てを『観た』ボクが言うから間違い無い」
「軽く言われて、にわかに信じる事が出来ると思……」
言われた惟知香が疑惑を口にしつつ瓜生に視線を移し、言い終わらない内に平坦な表情に成った。
瓜生が紅潮した顔で俯いている。
「あ、その、事実なのか?」
小声で問う惟知香に、瓜生は小さく頷いた後、真っ赤な顔でまくし立てた。
「ちっげーしっ! いつか絶対告ろうと思ってたしっ! すれば多分成立してたんだから、問題無いんだしっ!!」
「あ、うん、可能性は無限大……じゃなくて、間違い無く成立したと思いマス」
勢いに押された荒宇土は、引き攣った顔で肯定する。
「どーかなー。絶対とは言わないけど、無理だったと思うよ?」
贔屓じゃないスポーツチームの勝ち負けを予想する位の軽さで、アラードが評した。
「ちょ、おまっ」
「何故、そう言い切れる?」
慌てる荒宇土と対照的に、真剣な表情に戻った惟知香がアラードを問い質す。
「ん? 多層世界ってのは帯域、近似値の織り成すグラデーションなんだよ。些細な変化が有っても、最終的に総体は同じような結果に収束する。朝食はパンの人が、朝、偶々米食したって日常の生活に変化は起きないでしょ? 仮に彼女が告白して、偶々彼が受け入れたとしても、その後の経過中に、本来起こる筈だった結果に収束するんだ。要は、ごめんなさい、って結果にね?」
微笑しつつトドメを刺したアラードに、真っ赤な顔の瓜生が涙目で怒りをぶつけた。
「ふっざけんなよっ! そんなの、そんなの……バカーッ!!」
瓜生の手が翻り、アラードに何かを投げつける。大量の一口チョコがアラード目掛け降り注いだ。直撃する瞬間、何かにブロックされたように、殆ど弾き返される。最後の一つ二つが、アラードの膝に当たり、足元に転がった。
「世界は可能性を内包しない。もしかしたら、はその帯域に存在するものには絶対与えられない。可能性は、奇跡に等しい積み重ねが成り立った時、帯域の最も先鋭化された場所で初めて開花するんだ」
絶望的に優しく、圧倒的に酷薄な表情で、アラードは言い放つ。
「イロイロ理解してるっぽいお前が、何で世界を消失させるとか言うんだ? そんな事する理由が、サッパリ解らんぞ」
憤りより困惑を深めた荒宇土が問い質す。アラードは片眉を跳ね上げると、唐突に表情を消した。
「今、だからこんな風に説明する気にも成る。魔法と、元々備わっていた能力で、多層化する世界を極限まで削り捨て、再び溢れ出さない様、フタをして消し去った。四六時中続くクソ五月蝿い喧騒の囁きも幾重にも重なって目の前に浮かび上がる煩わしいビジョンも、ようやく我慢出来るレベルに落ち着いた。そうでなければ」
そうでなければ、君達の前に現れるなど、到底出来なかったよ。そう言って、アラードは自嘲気味の笑みを浮かべる。
「荒宇土君、君と会った時だって魔法による幻影の僕が対応してるんだよ? あの時はまだ、幾つか分岐する世界が残ってたからね。まともに話す気にすら成らなかった」
「は? げんえい?」
肩をすくめて見せる自分と同じ姿をした異界からの来訪者に、荒宇土は唖然とした。横で腕組みしながら聞いていた惟知香が口を開く。
「ふむ、なにやら世界が複数有ると都合が悪い、というように聞こえたが」
「わるいね」
アラードの表情に凄惨な笑みが浮かび、瓜生と荒宇土は息を呑んだ。
「クソみたいな世界の総てを幾つも幾つも幾つも幾つも起きていようが寝ていようが常に見聞きさせられるんだ。そんなうざったい存在が消えようが無くなろうが、何も感じないね」
やってられっか! そう、感情を込めて吐き捨てる。
「……異世界、いや、平行世界総てを垣間見る事が出来るというのか?」
険しい表情の惟知香が、確認するように呟いた。
「垣間見る? 違うね。音も匂いも生き物の雑多な感情も、裏も表も何もかも。その場の状況がつぶさに理解出来るんだ。総てが勝手に解ってしまうんだ。一つだけでなく、重なり合ってる世界総てが同時にねっ」
アラードはその状況を思い出したのか、引き攣った表情を浮かべ頭を抱える。
取り乱したアラードを見た惟知香が、荒宇土に視線を向け、小声で促した。
「コイツの注意はひき付けておく。その間に、魔法陣の必要箇所を瓜生君と見つけ、隙を見て書き換えてくれ」
「お、おう」
一キログラムの差異に執着していた事等おくびにも出さず、真剣な表情で指示を出した惟知香に、荒宇土はただただ頷いて応える。
「お、おい、瓜生、魔法陣、書き換える場所ってのを教えてくれ」
「は? あ、うん」
荒宇土の耳打ちに我に返った瓜生が頷き、涙目を掌でこすると、浮かび上がった赤黒い文字に視線を向けた。やや有って、困惑して呟く。
「え、あ……あわ、解んない」
「は? いや、解んないって」
小声で問い質す荒宇土に、怒りと困惑が入り混じった表情を向けた。
「使われてる言葉、アタシが知らない言語なのよっ! おまけに魔法構文自体、アタシが使ってるタイプじゃないっ」
「マジか」
「多分、こっちの世界で使われてる地域言語だと思うけど……」
再び涙目に成りながら、瓜生が口を真一文字に結んで、何かを堪える。
「おいおいおい、どーすりゃいいんだ」
密かに取り乱した二人を背に、惟知香は異世界人との対話を続けていた。
「言わんとするところは解った。この世界総ての情報、いや、この世界も含む、多層分岐した世界総ての情報が、一括して君に注ぎ込まれる、という訳か。なるほど、消し去りたい、と思う気持ちも首肯出来る理由だな」
腕組みしつつ真摯な表情で頷く惟知香に、そうだろう? と、アラードの感極まった声が被さる。
「何かに集中すりゃ、一時的に意識の外に置ける。いや、情報はなだれ込んでるが、自分がそれを知覚していない、と勘違い出来る。文字を読む事が唯一自分を保つ術だった」
楔形文字に出会った時、本当に嬉しかった、と、どこか懐かしむような表情をみせた。
「まるで見てきたように言うな。いや、体感しているから、当然か」
「いや、見たのさ。象形も文様も、絵文字も。見て触り読みふけった。実際にその場に居たのだから」
惟知香が訝しげに首を傾げる。
「居た?」
表情を消し去った異世界人は、碑文でも読むかのように淡々と続けた。
「僕は何度も死に、私は何度も元の知識を持ったまま誕生した。余が悲観して命を絶っても、直ぐ意識を持った赤子として目を開ける。場所や立場は違うが、必ず、以前と似たような名を持って。ああ、意識というモノを意識出来ない生物だった時から、そうだった。そして、情報の深淵に人知れず溺れていく」
能面の表情に、絶望と落胆がありありと浮かび上がる。やや有って、落ち込んでいた表情に生気が蘇った。
「だが、幾度も繰り返された人生の中で、初めて光明を見た。没頭すべく読んでいた小説に書かれた活字、平行世界という定義が、自分の抱えていた難題にヒントをくれた。もし、自分を溺れさせる塵の塊が、平行世界の情報だとしたら? だとすれば、自分の知らない映像の内容も納得だ。そして転機が訪れた」
狂喜に満ちた歪んだ笑顔で、アラードは両手を大きく広げた。
「寝起きに不意打ちで、二歩足で立って歩くトカゲの映像が浮かんだ。意地汚く食い散らかした獣の骨を手に取り、髄まで食らおうと岩を叩いた途端、乾いた音が響く。ソイツは驚き、肉がこびり付いた太い骨と岩肌をキョロキョロ見比べた。おっかなびっくりで同じ事を繰り返す。再び響いた音に、口を開けてざらつく鳴き声を上げると、大喜びで何度も岩を叩き、耳障りな歓声と乱打される骨の音が延々繰り返された。耐えられなかったね。トカゲが原人染みた行動を取るのも、甲高い骨の音も。その頃には、そういったゴミから意識を逸らす方法を幾つか持ってたんだが、イライラが最高潮に達してて、試そうともしなかった」
異世界人の芝居染みた自分語りが、否定出来ない真実味を帯びて皆を沈黙させる。血走った目に、皮肉で強張った口元が滔々と語り続けた。
「で、つい、子供染みた反応をしちゃったのさ。意味も無く耳を押さえ、『消え失せろっ!』って、狂人のように叫んだ。……そしたら、ね」
それまでの発狂したような表情に、一瞬、聖職者を思わせる達観した穏やかさが浮かぶ。
「消えたんだ。その醜悪な生き物の独演会が。即座に、ふっと、唐突に。恐らくは、それが進んでいった結果、進化した先の世界が折り重なった塵の塊も、まとめて消え去った。呆然としたよ。一瞬、初めて、重荷がほんの一掬い減るのを体感したんだから。そして、自己探求が始まった」
「自己探求?」
「世界が消せるんだ。他にも色々出来たって可笑しくないだろう? だから、パルプ雑誌で読んだ様々な『出来そうな事』を片っ端から試し、自分が本気で望めば、殆どの事が実現可能だと解った。世界の取捨選択も、起こった出来事を見た上で巻き戻し、起こる事態を改変する事も。浮かんだビジョンの場所を訪れる事も出来るんだ。集中と神経のすり減らしが必要だがね。一度生まれたての地球に興味本位で行ってみて、即死しちゃったのはマイッタよ。ま、直ぐ生まれ変わったから、いいんだけどさ」
「まるで、全能の者といった趣だな」
惟知香の顔に、微妙な嫌悪感が浮かんだ。言われたアラードは、即座に否定する。
「いや、それは違う。全能だったら、当の昔に総てを消失させてるか、折り重なる情報の深淵を気にせず生活出来るようにしてるさ。ビジョンを押し止める事は不可能だった。実際、一度は試みたんだ。トカゲ人間の世界が消せるなら、他も出来るだろうと。まとめて消えるよう願い、確かにそれは叶った。だが、次の瞬間、総て再生されていた。元通りに。多少違う分岐が増え、澱が増加しただけだった。何故、トカゲは消えて、人の世界は再生するのか? 考えた挙句、仕方無しに記憶に残っているトカゲの世界を一から順に辿って行った。いやぁ、地獄だった」
心底げんなりした表情で、自称全能一歩手前の男がガックリ肩を落とす。
「記憶に残る大元に辿り着いた時、ようやく察しが付いた。その、トカゲがヒトとしてこの世界で繁栄する道のりは、非常に薄い可能性に立脚してると。殆どの世界で堕ちてくる空の石っころが一つ、偶々堕ちなかったという、折り重なる深淵の中、ホンの一滴の状況が発生した場合においてのみ、成立するのだと。同時に、何故、消した世界が元通りに成るか、も理解できた。分岐した世界同士が、互いに再分岐する事であっという間に補い合う、有る意味、修復しあっているんだとね。ガッカリしたよ、その時は」
悲嘆にくれた表情で、アラードは呻く。
「だが、収穫も有った。折り重なる深淵を比較すべく垣間見ていた時、その世界にも自分が居る事に気付いた。ちょっとした驚きだったね」
「自分が居る事が驚き? 何故だ?」
「色々試していた時、五分前に戻れるかやってみた。簡単に戻れたが、そこに五分前の自分は居なかった。人の尺度で言う、時間をどれだけ遡っても、そのタイミングでの『同じ自分』と会う事は無かったんだ。だから、自分と会う事は出来ないと思ってた。何より驚いたのは、その世界の自分は、五月蝿い囁きに煩わされず、ごく当たり前に生活している事だった」
アラードは荒宇土の方に視線を寄越し、笑みをみせると表情を改めた。
「直ぐ、その世界に飛んだよ。驚く彼をあしらい、矢継ぎ早に問い質した。解った結果を元に、深淵の中から『自分探しの旅』を始めた。見つけた幾人かの自分と面談し、結論に達した」
押し黙った皆の前で、苦笑とも自嘲とも付かない寂寥感の有る笑みを浮かべる。
「異なる自分も、多かれ少なかれ同じような別世界の幻影を垣間見てはいる。だが、殆どは単なる夢レベルで、日常生活に支障が出るような圧縮された深淵に苦しめられている者は一人として居なかった。変った夢を見た、位で、気にも留めず生活していた」
僕だけだった、と言うと、アラードは離れた所に浮かんだ魔法円に視線を向けた。
「後はどうなったか、は解るだろ? 消せないものを消せるようにする為の手段を模索し、連なる世界の、微細なグラデーションの中から、必要な情報を纏め上げた」
そして今、静寂という念願が叶おうとしてるんだよ。そう言って、アラードは魔法陣へ向け両手を広げる。黙り込んだ惟知香の背後から、荒宇土がため息混じりに確認した。
「んじゃ、俺に聞きたかった事って、その異世界云々を見てるかどうかって事だったのか?」
「そんな事じゃない。もっと些細、といってもいい事さ」
「?」
首を傾げる荒宇土に、異世界からの来訪者は真剣な表情を向ける。
「何故、この世界だけ物の怪、妖怪という、珍妙な架空の存在が実在している?」
「へ?」
荒宇土は思う様呆気に取られた。
「僕は総ての連なりを観た。様々な違いはあるが、並行する世界は、どこかしら関連した部分を必ず持ち合わせている。だが、御伽噺の妖怪が実在する世界はココだけだった。根源への分岐を辿ってみたが、巷間語られる内容そのままに、バケモノ共が世界に現れている。興味本位で様々な過去の文献を紐解いたが、ドコにも答えは無かった。存在理由が僕に全く解らないなんて、こんな気持ち悪い事は無い。不条理で奇天烈なモノが当たり前のように存在するとは、ココはどうなってる? 荒宇土君、この世界の僕である君なら、自覚が無くとも理由を理解している筈だ。今更隠す必要は無いだろう? さぁ、教えてくれ!」
真顔で問い質すアラードに、荒宇土はぽかんと口を開ける。学園長室でのやり取りで感じた違和感の意味が初めて理解出来た。のだが、その『バケモノ』が実在すると知ったのは、つい先日なのである。きょろきょろ周囲を見渡し、見詰める瓜生と惟知香に、片手と首を左右に激しく振って意思表示した。
「いやいやいやいや、マジで知らないっ! バケモノが実在してる理由なんて解んないぞ。惟知香も知ってるだろ? さくらの同族、ちゃちゃとクーを見るまで、いや、見た後だって俺がそんなもんロクに信じて無かったって!」
惟知香が掌を握りこぶしで軽く打つ。
「おお、確かに。私がダンピールで有る事すら、信じてなかったからな」
「ばかな」
訝しげなアラードの視線が一瞬虚空をさ迷い、やや有ってポツリと呟いた。
「……確かに。君の中には、退屈な日常以外、存在してない。唯一有るのは、幼い頃の思い出、花柳君との邂逅だけか」
「おい、俺の一生を何気にクサしてないか?」
思わず素に返り、不満げな声を上げた荒宇土を無視して、平行世界からの来訪者は心底落胆した表情を浮かべる。
「ありゃりゃ。最後の最後に残した、とって置きの世界が、最も歪な寸詰まり世界で、最も何の能力も無い『僕』が存在する世界だったとは」
劇的な幕切れを演出するというのは、大概難しいもんだね、そう言って、アラードは寂しげに笑ってみせた。
途端、周囲に展開していた魔法陣の明滅が激しくなる。虚空に浮かび上がっていた総ての魔法陣が連鎖的に輝きだし、瞬く紋様染みた文字が回転を始めた。
「ま、後腐れなく総てが消失するんだから、多少のガッカリ感はご愛嬌という事で」
アラードは吹っ切った表情で、一行に振り返る。
雰囲気を悟った惟知香が、横合いの荒宇土にそっと呟いた。
「どうやら、話を引っ張るのはココまでのようだ。書き換えの目処は付いたのか?」
「すまん、書かれてる言語が解んなくて、何も出来てない」
「はぁ?」
惟知香の罵声成分多目な問い質しが、屋上に響く。のんびりした顔で、アラードが口を挟んだ。
「ああ、時間稼ぎしてる間に、魔法陣書き換えようと思ったんでしょ? 悪いけど、それは無理だよ。彼女が知らないこっちの言語と、呪法構文で構成してある」
アラードの言葉に真祖のダンピールは一瞬ムッとした顔をする。惟知香は荒宇土と瓜生に向き直ると、キッパリと言い放った。
「君、ラテン語くらい、覚えておきたまえ」
「え? よ、読めるのか?」
「当たり前だ。対象構文とやらは奴の足元、世界を意味する部分だろう?」
澄ました顔で答える惟知香を見て、アラードは初めて狼狽した表情を見せる。
「なっ? 英語すら覚束ない君が、ラテン語を知っているだと?」
「失礼な。発音に、ほんの少し違和感有るかもしれないが、ヒアリングにリーディングは完璧だ。……ああ、そうか、学園長殿は件の妖怪文献調査に掛かりきりで、生徒の成長に気を配る暇は無かったと見える。そういえば、彼に語ったのではなかったかな? 『君は余裕が有ると、隙を見せるタイプらしい』だとか。どうやら、平行世界の『出来る荒宇土君』も、同じ特性持ちだったようだな!」
得意気な表情に挑発の成分をタップリ含ませて惟知香が言い放つ。引き攣った表情を抑えながら、アラードはなお平然とした態度を保とうとした。
「これは教育者として痛いところを突かれたね。だが、世界に終焉をもたらす者としては、些細な話だ。君の身体能力を持ってすれば、魔法陣を起動する前に該当箇所を消せる筈、と思っているね? 一旦発動さえ止められれば、書き換えも可能だと。だが、それは無理だ。僕が発動したい、と念じた瞬間に発動するように成っている。同じく、彼女が最終手段として残している縮退崩壊魔法でも間に合わないよ。もちろん、気を逸らす、虚を突く、手段が有れば可能だが。そんなもの残って無いだろう? だから、僕もこれだけノンビリと最後の会話を楽しむことが出来たんだ」
意趣返しのつもりなのか、図星を突かれ歯噛みする惟知香に向け、殊更に挑発的な笑みを向ける。
「それとも、僕を阻める者が誰か居るのかね?」
「ここにいるぞぉっ!」
思い切り芝居がかった少女の大声が、屋上に響いた。声の主を探し全員の視線が集中した先、隣接する校舎の一番高い所に、スカートを翻したブレザー姿の少女が立っている。
給水塔の上で腕組みしたまま、中山まさみが不敵な笑みで仁王立ちしていた。
「中山!」
無事を確認して荒宇土が嬉しげな声を上げる。アラードは一瞬驚愕したが、離れた校舎に居る魔法関連の能力が無い少女のドヤ顔を見て、思わず失笑を漏らした。
「ああ驚いた。確かに虚を突かれたよ。魔法も武器も無い輩が、そんな離れた場所から登場してどうするんだい?」
「それはどーかな?」
あおり気味の顔で、中山が不敵な笑みを浮かべる。組んでいた腕を解き、指先に挟んだ二、三枚の紙切れをひらつかせた。
「……呪符か!?」
見て取ったアラードの声に、思惑を図りかねた不審感がつのる。次の瞬間、アラードの表情が引き攣り、ハッとした表情で夜空を見上げた。
「まほーつかいは自己防衛の為、色々守る術が有るそーですなー。弾の大きさ種類に関わらず、どんな物でも弾ける防御呪文とか」
月の無い暗い夜空に、一瞬何かが閃く。中山の笑みに、ある種の凄みが加わった。
「どんな物でも弾き返せる代わりに、その呪文は大抵、防げる弾数に上限有りだそうで」
言いつつ、ポケットから取り出した一口チョコを音高く噛み砕く。
「そーいや、先程、チョコの雨あられをお受け遊ばしたんじゃ有りませんコト?」
「なっ!?」
足元に散らばった一口チョコを見たアラードが跳躍し、元居た場所から虚空へ逃れた。
途端、魔法陣の前をすさまじい勢いで例のモップ、『るにぐんぐ』が掠め、エグイ弧を描いてアラードを追っていく。動体視力の良い惟知香には、モップの柄に「跳躍跋扈」、「見敵必中」なる文字の書かれた札が貼ってあるのが見えた。
俊敏な高速機動をみせるアラードに負けず、「るにぐんぐ」がぐいぐい追いすがっていく。
「奴は回避の為に魔法発動したっ! 真祖ちゃんっ」
「解ったっ!」
隙を逃さず、惟知香が魔法陣へ駆け寄った。握っていたチョークで、魔法構文の崩壊対象である「世界」を意味する部分を斜線で消す。途端、赤黒い明滅が止まり、浮かび上がっていた発光する文字が消滅した。
上空で錐揉みしつつ光る槍の鋭鋒をかわしていたアラードが、異変に気付き顔を歪める。
「やっちゃったかぁ。僕的にはそれでも構わない。けど、君のやろうとしている事は、止めた方が良いと思うよ?」
この期に及んでもなお、冷静かつ心配げな声を上げたアラードに、惟知香が棘の有る視線を向けた。
「申し訳無いが、私は今しばらくこの世界に存続してもらわないと困るのだ。一キログラムの重要性について、きっちり認識させねば成らぬ必要が有ってな」
言うと真祖のダンピールは背後に居る金髪の少女へ振り返る。
「君、あの男の名前っ、正確な綴りを!」
「あ、それは……」
瓜生が告げた単語を、惟知香がラテン語で書き写した。途端、止まっていた魔法陣の輝きが復活し、先程と同じように発光した文字が空中へ浮かび上がる。
俊敏な回避行動を取っていたアラードが虚空に急停止した。間近に迫っていた槍も同様に止まり、力を無くした様に屋上へと落下し、乾いた音を立てる。
浮かび上がった魔法陣の明滅と、回転する文字が加速度的に勢いを増していった。全身をおぼろげな光に包まれながら、アラードが嘆息する。
「ありゃりゃ、自ら進んで世界崩壊の咎を負わなくても良かったのに」
「何を言っているっ!? 世界を消失させようとしたのは、お前ではないかっ!」
光に浸食されていく並行世界からの来訪者は、子供の悪戯を垣間見た近所のおっさんのような、対処に困った表情を浮かべた。
「ま、せっかく消失させずに済んだんだ。世界が滅ばないよう、祈ってるよ。頑張ってね、ふーか」
最後の最後、瓜生に向け悪戯な表情を見せると、アラードの姿が夜空から掻き消される。同時に、周囲に展開していた魔法陣総てが連鎖的に消え失せ、唐突な静寂が辺りを包んだ。
荒宇土と惟知香が、顔を見合わせる。
「終わった、んだよな?」
「うむ、そのようだ。瓜生君、他に魔力を感じ……」
惟知香は瓜生に尋ねようとしたが、途中で口をつぐんだ。
「ふーかって……最後の最後にあだ名呼びって……ずるいじゃん……」
瓜生は顔を覆ったまま、涙目で呟く。歩み寄った惟知香が、震える肩にそっと手で触れた。
どう慰めて良いのか迷っていた荒宇土の耳を、何かがショートしたような小さな音が掠める。
「?」
思わず辺りを見渡す。惟知香も気付いたのか振り返って、夜空の一点を凝視していた。
「何だ、あれは?」
確認するように呟く。荒宇土も目を凝らしたが、特に変ったものは見えない。必死に目を凝らしていると、何か点のようなものが見えた。
「あんな点みたいなものが良く見えたな。あ、そか、真祖様は色々凄いんでしたね」
軽口交じりに言う荒宇土に、惟知香は真剣な表情を見せる。
「凄いのは事実だが、対象が勝手に肥大化しているのだ。誰だって見えるだろう?」
「え?」
言われた荒宇土が視線を戻すと、先程より大きくなった粒が、同じ場所に有った。良く見ると、粒の周囲で何かが蠢いているように感じる。ガラスか何かが割れるような、耳を突く鋭い破裂音が小さく、だが断続的に鳴り始めた。
「おいおいおい、なんか妙なモンが有るんだけど」
嗚咽を漏らしていた瓜生も気付き、夜空の一点でじわじわ肥大化している丸に視線を向ける。
思慮深げに考え込んでいた惟知香が、何かに気付いたのか、ぽんと手を打った。
「ああ、妙に既視感が有ると思った。ヘイワード君から聞いた、知識無き荒ぶる神の現出とソックリなのだな」
「は? 神? 何だそれ?」
「ああ、知性も知恵も意思も無い、それでいてモノを生み出す事に膨大な力持つ者を、彼等の探求していた文献で、そう定義していたのだ。宇宙かどこかの深淵で、鎮守するモノの神楽に祭られ邪な蠢動を繰り返しているとか」
「何だよそれ。まさか、そんなもんが本当に居るとか言わないよな?」
微妙に焦った声を上げる荒宇土へ、惟知香は鷹揚に答えた。
「保健医の件を考えれば、居てもおかしくは無かろう? だが、居たとしても私達の与り知らぬ隔絶された何処かに、だ。そんなものを召喚する事等、とても叶わぬだろうし」
「んじゃ、アレ何なんだよ?」
「ま、まぁ、現出の仕方が文献通りというだけだからな、他人の空似では無いか?」
言いながらも、どんどん肥大化していく虚空の蠢くモノを見て、惟知香の表情が微妙に強張る。
「あ、対称置換……」
「うぉーいっ! また何かプリーズ専門用語っぽい変な響きを持つ言葉を、それっぽく呟かないでっ! ……で、何それ詳しく」
小さく呟いた瓜生の声を、荒宇土が耳聡く聞きとがめた。妙なテンションに成っている荒宇土の問い質しに、瓜生が精一杯平静に答える。
「生物でも物質でも何でも、突き詰めるとマナ……えっと、エネルギーなの。定義上、私達がこの場に立ってるだけでも、空気というエネルギーを質量っていうエネルギーで押しのけて、存在してるって事に成る。この世界は、エネルギー同士が影響し合う中、それぞれ均衡を保ってるって事」
「は? ……えーっと、物理はあんまし得意じゃなくて」
「先ずは聞きたまえ。疑問はその後だ」
惟知香が荒宇土をたしなめ、瓜生はそのまま話を続けた。
「この世界にアイツ……アラードが出現した時、当然、そのエネルギー分均衡を保つための消費、対に成る逆ベクトルのエネルギーが発生し、バランスが保たれた。でも、私達はさっき、アイツを消失させるために、そういったバランスを維持するためのエネルギー消費を伴った消去を用いなかった」
「ふむ、重い岩を動かすには強い力が必要、その強い力というエネルギー消費を用いず、裏技で岩を動かしてしまった、という事か」
惟知香の発言に、瓜生が頷いて答える。
「普通なら、その辺補完する構文が魔法陣に組み込まれてるんだけど、あの魔法陣には、それが無かったんだと思う。アイツからすれば、後の事を考えなくて良かったから」
「で? その後先考えてない魔法陣とやらが動いちゃった結果、どうなったんだ?」
「アイツが内包しちゃってた膨大な情報って、換算するなら凄まじいエネルギー量扱いされるの。複合した多数世界の情報量総てだから。それが突然消失したら、エネルギー、熱量の空白地帯が発生する。その、人一人分のちっぽけな点に、これまで均衡を保ってた、この世界の膨大なエネルギーが一気に押し寄せたら?」
「たら?」
容易ならない状況を察した荒宇土が、歪んだ笑顔で促した。
「科学定義で言う、『ビッグバン』が起こるわ」
「ん? それって確かこの宇宙が出来た最初の凄い爆発とかだよな? でも、今んとこそんなの起きてないっぽいけど?」
「そう、代わりに起こったのが、この世界自体の自己修復。対称置換による補正。膨大なエネルギーでの破局を回避するために、同等の相反する力をその場に定義させる事で、打ち消しあった。うちの世界では魔道的に認知されてたけど、科学的には推論止まりだった、世界自体が意識しない自己修復機能を持ってるって話がホントだった、ってワケよ」
「打消しって、互いに消えるもんだろ? の割には、なんかうにょうにょが頭上に残ってるんだけど?」
荒宇土の視線の先、暗い夜空で、ぬめりとてかりの有る内臓の固まりじみた物が肉眼で確認できるサイズに成っている。塊から突き出した沢山の触手が、怖気を感じさせる艶かしさで煽動を繰り返し、のたくっていた。
「エネルギー衝突による破局を、マイナスベクトルのエネルギーで相殺し、安定させただけだから、マイナスベクトルの対象自体はその場に残るのよ」
「ちなみにのぶのぶさん、あの触手って、ほっといても美観以外特に害は無いとか、そんな素敵情報は無いんですかね?」
「有る訳無かろう。神認定の理由はその禍々しさを持て余すゆえだ。本来、人と接触する事が無いからこそ、のん気に語れる存在だぞ。向こうに害意が無くても、目の前に存在する人間など、単なるカロリー、栄養分だ。あ、でも我意はない、と言えるな。知性や自我は無いそうだし」
「そっか、良く解った」
何故か、落ち着いた笑みを浮かべ、荒宇土が総括する。
「つまり、世界消失を目論んでいた異世界人は完全に消えた、万歳! 代わりに、ソイツと同じ位のエネルギーを持った、神認定されるゴイスーうねうねがボクらの学校に登場しました、絶望! って事か?」
涙でメイクの崩れた瓜生が、困った笑顔で頷いた。
「もーだめだー!! あだっ!」
突然思う様取り乱した荒宇土の頭に、惟知香がチョップを食らわせる。
「ええい、みっともない! 落ち着きたまえ。兎に角、アレを何とかしよう。瓜生君、呪文はもう残ってないのか?」
「有るわ。いざと成ったらアイツと刺し違えるつもりで残してた、とっておきの縮退崩壊魔法が。でも、発動までに時間が掛かるから……」
そう言って見上げた頭上で、照りの有る肉と触手の塊が、加速度的に増殖しているのが見て取れた。
「時間稼ぎするしかあるまい。兎に角、君は呪文を唱えて射てる様にしてくれ」
惟知香の提案に瓜生は頷くと、少し離れて詠唱を始める。
「May i help you?」
ネイティブな発音の英語が背後から響く。振り向くと、昇降口に中山が肩で息をしながら立っていた。
「空を飛べる御札に例の幻影符、ラスト何枚か残ってるけど、御入用かな?」
ニヤリと笑う中山に、惟知香が真剣な顔で頷く。
「私が囮になる。君達は瓜生君の呪文が発動可能になるまで、守ってやってくれ」
「ん、それが最適解っぽいね!」
「お、おう」
手早く御札を貼り付けると、惟知香が小さく息をつく。御札がうっすらと発光し、ふわりと空に舞い上がった。
上空でのたうつ触手の塊は、既に数十メートルのサイズに達しており、秒単位でサイズを増している。長く伸びた触手の一つが、裏山の一番高い部分を掠めた。何の抵抗も無く触手が山肌を通り過ぎる。岩、土、木、素材の違い無く、触手が通った部分は綺麗に抉れ、消え失せた部分から断面が見えていた。
「おおおおい、なんだあのうねうねっ!」
垣間見た荒宇土が息を呑む。
「アラド、悪いけど気合入れて頑張ってね。ご丁寧に、私らにも見せ場が来たみたいだから」
隙の無い声で中山が促した。視線の先、増殖していた臓物と触手の塊から、照りの有る肉が雫の如く降り注ぐ。屋上へ落ちた一滴は、ぺしゃっという耳障りな音を立てた後、甲殻類の幼生染みた姿を形作った。
臓物で出来た一メートル程の艶やかな蟹が、ギクシャクした動きで荒宇土達の方へ迫ってくる。
「おわーっ キモキモキモッ、動きキモイッ」
荒宇土が嫌悪感の有る悲鳴をあげ、辺りを見渡す。先程まで虚空を飛び回っていたモップの槍を見つけ、慌てて拾い上げた。中山も、捨て置かれていた一本を拾い上げ、堂に入ったポーズで構えている。
「最終防衛線はアラドね。取りあえず、アタシの使い方見て、『学びなさい』」
「いや何でココでそんな演技込みな台詞吐けるんだよ、お前っ!」
荒宇土の切羽詰った突っ込みに不敵な笑みで答えると、中山がモップの槍を持って駆け出した。臓物蟹目掛け、一直線で突進すると、肉の中心部へ真っ直ぐ突きたてる。
途端、ビュギャッっという形容し難い悲鳴を上げて肉が悶絶し、どろどろの臓物の固まりに変容した。腐って溶けた肉の塊は、数秒経つと何も無かったように消失する。
「まー、当たればどーとでもなりそうだから、気楽に行こう!」
いつもの調子で中山が声を掛けた。
「そーは言ってもだな」
キモイのが手近に迫ってないか、周囲を見渡した荒宇土が視線を空に向け、思わずポカンと口を開ける。
先程まで数十メートルだった臓器と触手の塊が、既に眼前の空を半分覆っていた。脈動する度、臓物が膨れ上がり、隙間から零れ出た脂肪染みた破片が地面へ降り注ぐ。貧欲に振り回される触手は、何かに触る度、大きな弧を描いて触ったものの大部分を抉り取った。
蠢く触手の前を、漆黒の少女が見事な曲線運動で飛び、伸ばされた触腕が当たる寸前で回避している。
手近な獲物を狙っているのか、触手の殆どが惟知香目掛けゆったりしたモーションで乱雑に殺到し、空振りを続けていた。飛翔符という翼を得た真祖ダンピールの、曲芸飛行染みた華の有る動きに、荒宇土は思わず見とれてしまう。
「ほい、次、来たよー」
中山の促しに我に返り、荒宇土は寄ってきた雫の成れの果てを撃退した。
「お、おい、まだ終わんないのか?」
数分すら経っていない筈なのに、既に何時間も経過したような精神的な疲労を荒宇土は感じる。屋上へ向かってくる臓物蟹は秒刻みで増え続け、数で圧倒されそうになってきた。雫が落ちる頻度もじわじわ短縮され、数十秒に一匹だったのが数秒に一匹レベルまで上がっている。
上空で触手を引き付けている惟知香も、増加し続ける触手の数に、当たらないようにするだけで手一杯に成っていた。
荒宇土が見上げた先で、ターンした惟知香の体を触手が掠める。下半身が抉り取られ、荒宇土は絶句した。瞬間、残った部分が軽い音と共に弾け、幻影符の分身だったと解りホッとする。
荒宇土が現状維持の限界点を感じ取った。このままでは数分、いや、数十秒後には臓物蟹の群れに蹂躙されてしまう。 ――もう持たないっ!?
「瓜生っ!」
振り返った荒宇土の視線の先に、魔法陣に囲まれた瓜生が見えた。荒宇土の知らない発光する文字が、前後上下、複合的に幾つも重なり、壁染みた輝く文字の円柱を作り出している。スッポリくり貫かれた中心に佇む金髪が静電気でも浴びたかのように幾筋も浮かび上がった。
荒宇土の問い掛けから、やや間を置いて、閉じていた目が見開かれ、金髪の少女が大きく頷く。
「準備できたっ! のぶっ離れてっ!」
触手の先端を掠めるように、黒髪セーラー服の少女が編隊を組んで行き過ぎ、アクロバット飛行のように綺麗なブレークで、空を覆った触手の塊から一気に距離を取った。
「~っ!!」
何事かを叫んだ途端、円柱の魔法陣が激しく輝き、瓜生の姿が見えなくなる。
直後、上空殆ど総てを占めていた生々しい臓物の中央に、黒い球体が発生した。一瞬の無音状態の後、荒宇土の耳に空気自体が吸い込まれていく掠れた響きが届く。白いもやが球体の周囲を渦巻き、漆黒の中心目掛け、有無を言わさない猛烈な勢いで流れ込んでいった。その流れに吸い寄せられるように、異界の肉の塊が凝縮し、のたうつ触手共々吸い込まれていく。
生々しさを感じさせるねっとりした吸着音が響き、増殖していた臓物はみるみる小さくなっていった。暴れていた巨大な触手も吸い込まれ、最後に、漆黒の中心部に、暖色系の小さな点が一つ残り続ける。見上げた瓜生が愕然とした声を上げた。
「うっそっ! 縮退による消失と増殖が釣り合っちゃってる!?」
「は? んじゃ、このままじゃ駄目って事か?」
「他の呪文でも何でもイイから、増殖止めるか潰すかしなきゃ、追いつかないっ! 何か無いのっ?」
瓜生の必死な問い掛けに、大量の臓物蟹を一人で食い止めていた中山が答える。
「アラド、美味しいところをアンタにあげよう! あのうねうねのバケモノを確り思い描いて、『るにぐんぐ』を投げろっ! ぬっころの気持ちがあれば尚良しっ!」
「ブン投げるんだなっ? わ、解った」
言われた荒宇土がモップを握り締め、必死に平静さを取り戻そうとする。一旦、目を閉じ、大きく息を吐くと、闇夜の中心にこびり付いた臓物の染みを見上げた。
「せぃのぉ、でっ!」
おっかなびっくり、だが確り反動をつけて、モップの槍を投げつける。力が入ったせいか、槍は斜めにずれた形で宙を舞った。次の瞬間、全体が白く発光し、鋭い弧を描いて、虚空の一点目指し飛翔する。
「いったれー!」
荒宇土の絶叫をバックに、光の槍が突進し、無限増殖を続けていた臓物と触手の塊を正確に貫いた。ぴちゅ、という妙に可愛らしい音に続き、残っていた染み総てが一瞬で吸い込まれる。同時に、周囲で躍動していた臓物蟹の一群総てが力無く崩れ落ち、泡と成って消えていった。
見上げていた荒宇土の全身から力が抜け、屋上へ尻餅をつく。
瓜生の魔法が作り出した漆黒の球体が音も無く消え失せると、夜空に星が現れ、上空高く月が顔を出した。冷たさを感じる夜風が一同の頬を掠め、裏山の木々が風に揺れるざわめきが耳に届く。かなり遠くの方から、サイレンの音が響いて来た。
「何とかなったようだな」
距離を取って浮遊していた惟知香が、屋上へ戻ってくる。ふわりと舞い降りると、セーラー服に貼り付けていた御札をそっと剥がした。
「みたい、だね」
油断無く周囲を見渡した中山が、初めて疲労感の有るため息を付き、へたりこんだ。途端、携帯が鳴り出し、寝っ転がりながら受け答えを始める。
「はいはーい、生きてますよー。何とかしましたよー。えー、今直ぐっすかー……」
何事かやり取りしている中山を横目に、荒宇土は瓜生へ歩み寄った。
「ありがとな、お前の呪文のお陰で、助かったよ」
半ば呆然としていた瓜生が、小さく首を振る。
「ううん。アタシも目的は果たせたし」
「そっか、そう、だな」
皆、途方に暮れたように、黙然と佇んでいた。軽く伸びをした惟知香が、踏ん切りを付けたように凛とした声を上げる。
「さて、当初の目的は無事達成した訳だ。では諸君、予定通り戻ってコーヒーブレイクと洒落込もうか」
「いいのか?」
一瞬、躊躇する荒宇土に、スマホを耳から外した中山が声を掛けた。
「事後処理はこっちでやっとくから! 皆戻って良いよーっ。世界救済乙でしたぁー!」
いつもの調子でひらひらと手を振ると、再び電話口の相手とやり取りを始める。
「世界救済って、そんな軽い扱いかよ」
荒宇土は思わず苦笑してしまう。話し込む中山に手を振って挨拶すると、荒宇土達は屋上を後にした。
***** ******* *****
認識する虚無の中に、彼は存在した。視線を向けた瞬間、何も無かった空間に、遠景から見た地球が浮かび上がる。呪法や結界を使わずとも、湧き上がる呟きや漏れ伝わるビジョンが存在しない。本当に焦がれていた静寂がそこにあった。唐突に浮かび上がった人間の姿が、屈託無い笑みを浮べる。
『これが、個なんだ』
構成された姿を垣間見、自己の置かれた状況を理解した上で、彼は心底穏やかな表情を浮べた。
「君のはからいかな?」
微笑を浮べたまま、背中越しに振り返る。背後に、重厚な呪法師ローブをまとった金髪の女性が佇んでいた。
「いえ、貴方に課せられた重荷が解決した、それだけです。『オール』、『総て』に意思も感情も無い。相対的な選択の集積が、大局を形作るのみ。ですが、人はそれにこそ意味を持たせる。なれば、これは『総て』からの、ささやかな心付け、そう受け取って宜しいでしょう」
「君はあの時の彼女なのか?」
「そうですね。彼女が呪法を極限まで追求し、言葉で言う森羅万象を把握するに至った結果、複数存在する可能性の中でも極小の、最も突き抜けた分岐が、この存在(私)です。俗に言う、ヒトが神に成り上がった存在、でしょうか?」
幾年の重みを感じさせる青い瞳が、少女の外観に場違いな違和感を感じさせる。が、その表情は歳相応の少女っぽい、悪戯な輝きを見せた。
「『解ってしまった』が故に、この事態を認識出来るようになり、貴方への説明をする事と成りました」
そう言って、彼女が居た世界での貴賓に対する礼を、優雅なローブの動きでほどこす。
「おおまか、には解っている、理解した積もりだよ。相対、僕が把握する事で、成立していた、という事なのだろう?」
僕が、の部分で大きく両手を広げ、彼は総てを指し示してみせる。肯定の礼をみせると、少女は言葉を継いだ。
「認識する存在が居て、初めて総てが成立する、真理です。微妙に異なる存在、多数の乱数が並列化する事で、近似値が導かれる。道理です。その中で、揺らぎは最も歓迎すべきものですが、認識者が居なくなってしまうと、意味を成さない。背理、です」
彼は苦笑しながら、軽く頭を振る。
「我が事ながら、バカな真似をしたものだと思うよ。ああ、もちろん、この場合の『我』は、彼を指すんだがね。僕と違い、最初から総てを『解って』存在していたのに、さ」
「同時に、とても羨ましく思えます。ヒト、として」
豊かな胸元のローブを軽く抑えながら、金髪の少女が目を閉じた。
「そうだね。総てを投げうって、一つの感情を優先させた」
お陰で、僕がカウンターバランスを取る羽目に成った、と彼は愚痴っぽくため息を付く。その分、何者も味わった事の無い、力を行使出来たのだから、御容赦を、と彼女は宥めた。
「で、僕はこれからココで、総てを睥睨し、見守る……本来期待された、負っていた役割を果たせば良いのかな? 既にその必要は無いと理解しているんだが」
「如何様にも。仰る通り、真理は、『大多数の中に埋没し、観測と揺らぎをもたらすのみに縛られた存在』から、『自己を特異なものと認識した上で、超越しているからこそ見守べしと心得たモノの存在』へと、補完されました。こう言うのが、良いでしょう。貴方は、『自由』です」
少女の発した労い含みの一言に、彼は困惑した笑みを浮べる。
「そう言われると嬉しい、より、途方に暮れるな。どうしたものやら」
「いくらでも途方に暮れて下さい。幸い、時間は無限ですから」
「ああ、そうだね」
はにかんだ様な表情で、彼は呟いた。
「己の我が侭が生んだ『揺らぎ』のおすそ分け、有り難く受けるとするよ」
一礼した少女が、忽然と消え失せ、見届けた彼も細分化し、消失する。
虚無が再び言葉通りの存在を取り戻し、完成された静寂が空密に染み渡った。
***** ******* *****
「!」
唐突な覚醒感に荒宇土は両目を開けた。理の総てを把握したような万能感と、それでいて触れることが一切叶わない達観が彼の中に広がり混乱する。薄手の毛布の感触に、自分が寝ていたのだと理解し、夢を見ていたのだろう、と把握した。
ドコからドコまでが夢だったのか? 薄ぼんやりした頭で考える。寮生活という、新しい生活に対する不安感で、妙な夢を見た気がした。吸血鬼に化け猫山盛り。神を自称する保健医に、異世界からの来訪者。お話の世界に存在する化物が、密やかに認知されている、秘密を秘めた進学校。そして、異世界から来訪した自分自身の同位体が目論む世界消失を、ごく普通の生活を送っていた自分が解決し、ついでに現れた邪神も追っ払った。
俺、こんなに中二病感へ憧れてたったっけ? 思わず自嘲気味の苦笑が広がる。しょぼつく視線の先に、艶やかな黒髪が広がっているのを見て、驚きよりも先に、ため息が漏れた。
熟睡している惟知香を起こさないよう、そっと毛布から抜け出し、トイレに行く。二段ベッドの上段で、いるかのぬいぐるみを枕に、中山が無邪気な寝息を立てている。コタツ布団から、ナイトキャップを被り眼鏡を外したさくらの寝顔が覗き、胸の上で、黒と茶色の猫が抱き合うようにして丸くなっていた。
打ち上げ、もしくは祝勝会と称する、チョコとコーヒーが酒肴の宴会は深夜まで続いた。途中、後始末に奔走した中山や、魔力の回復したちゃちゃとクーも合流し、賑やかなパーティとなる。今回の件に関する話は誰言うとも無く避け、他愛ない話ばかりに花が咲いた。
「OK解った。kg単位での増量要求と1kgの差異を付けた発言について、撤回する用意が有る」
「ならば、グラム単位での譲歩を今後の継続課題として盛り込む件について賛同しよう」
「過去の契約事項に関しては、継続課題に関して双方の合意がなされた上で、続行もしくは内容に付いての見直しも含めた再度の契約締結の件について、議題として盛り込みたい」
「その点については、前向きに検討したい」
「うっわ恥っ! 何このバカップル、見ててキモ恥ずかしいんだけど」
「バカップル言うなっ!」
惟知香がおねむモードに成った頃合いに、お開きと成ったのだが。
『中山と二人、二段ベッドの上段で、いるかを真ん中に寝ていた筈だよな』
トイレを済ませた荒宇土は、恒例化しかねない惟知香の寝ぼけをどう是正するか、或いは回避するか、考えねばならないなと一人思う。
居間代わりの学習部屋に戻ると、荒宇土は自分の居場所が無い事に思い至った。ベッドは惟知香に占領されており、コタツはさくらの絶対(占有)領域と化している。げんなりした顔で、どうしようか考えあぐねた。対処に困り、立ち尽くしていると、ベランダのカーテンが少し開いている事に気付く。瓜生の姿が見えない事に思い至り、足音を殺してベランダへと向かった。
朝焼けの光が差し込むベランダにもたれていた瓜生が、肩越しに振り向く。
「おや、早起きですなー」
普段と変らない口調で荒宇土に声を掛けてきた。
「お前もな」
言いながら、瓜生の横に並んでもたれる。沈黙が流れ、山の方から聞こえるウグイスの鳴き声が間を繋いだ。聞くべきか迷っていた荒宇土が、おずおずと問い掛ける。
「あのさ、お前、これからどうするんだ? 邪魔してた奴の魔法が解けたから、元の世界、復活してるんだろ。戻るのか?」
平行世界の自分が絶望交じりに語った話を思い出す。
――消しても、世界は勝手に元通り再分岐して構築された――
瓜生は投げやりな笑みを浮かべた。
「確かに、元居た世界は再生してる筈。ところがぎっちょん。アタシは、その分岐した世界から抜け出しちゃってるから、戻っても居場所が無いんですにゃー」
「は? ……あ、そうか……」
仮に再構築されても、瓜生は、アラードによって消される事が決定している分岐から他の世界へ跳躍していた。それより前の分岐に戻ろうにも、そこには分岐世界の瓜生が存在している事になる。
「取りあえず、元々存在した世界の近似世界に紛れ込んで、人知れず生活するか、アイツみたいにぶらぶら異界探訪するか、って感じ」
苦笑気味に言い放つと、瓜生は眼前の新緑へ目を向けた。どう、声を掛けてよいか迷い、荒宇土も同じように眼前の風景に目をやる。
「アイツの最後の言葉」
不意に、瓜生が呟いた。
「?」
「アタシにとって、仇、の筈なんだけどね。けど、最後の言葉、自分が居なくなった後の世界を気に掛けたっぽいあの一言、あれはさ……」
アイツの本心だったと思うよ、そう言って、瓜生は抜けるような青空を見上げる。心細そうな、儚ささえ感じる瓜生の横顔に、荒宇土は掛ける言葉を失った。
沈黙が流れる中、陽光が暖かな光を投げかける。ベランダを吹き抜けたそよ風が、生気溢れる新緑の匂いを運んできた。
荒宇土は散々迷った後、意を決して語りかける。
「あのさ、俺がこんな事言うのもアレだけど、取りあえず、この世界に定住したらどうだ?」
「え?」
「俺じゃ保障も何にも出来ないけど、中山やさくらは、なんか権限有る所と繋がってるっぽいし。定住しても大丈夫なように取り計らってくれるだろ。お前の持ってる魔法って結構凄いから、それだって交渉材料に成るだろうし。あ、そだ、メシだって美味いものは美味いぞ。ココの学食もたいしたもんだ。何より、イイ男もそれなりに居るぞ」
サムアップした荒宇土に、瓜生は思う様蔑みの視線を向けた。
「無いわ。無いわー、その提案の仕方。ってか、傷心の女子に、そんな即物的な提案マジ有り得ないっつーのっ! バカじゃね?」
「はぁ? いや、そこまで言う事ないだろっ!」
自分の言い様が恥ずかしかったのか、顔を赤くしながら抗議する荒宇土を見て、瓜生は思わず噴出す。
「まー、しばらくバカ観察して暮らすってのもイイかもね」
「え? じゃぁ」
瓜生が一瞬はにかんだ笑みを浮かべ、小さく頷く。
「おい、そこの不倫カップル、そろそろ朝食ゆえ、パンと御飯、どちらかに一票いれろ。現状、御飯派が優勢だ」
カーテンから顔を覗かせたさくらが、二人に選択肢を投げかけた。
「誰がっ!」
定番の抗議を聞き流しながら、さくらは指定席に戻る。何時も通り文庫本を広げると、顔を半分うずめた。活字を目で追いながら、頭の中では別の事を考える。
荒宇土と惟知香の関係が今回の騒動に絡んでくるという、自分の直感。屋上で起こった話を聞いた限りでは、それ程深く重要な関連では無かったようにみえた。単に、再会した幼馴染が協力して世界を何とかしただけという。
「むぅ」
絶対に外れる事の無い直感が微妙に空回りしたように思えて、さくらは困惑した。
『まぁ、そんな事も有るだろう』
食パンの焼けるこうばしい香りに、バターと蜂蜜の甘やかな匂いが鼻をくすぐる。さくらはアッサリ困惑の探求を放棄した。何より。
何より、今日も色々と面倒事が起こるだろう。学園長が居なくなった学校に、存在自体が危ぶまれる異種間交流のクラス。この世界で新たに認知された、高位スペルキャスターの存在。済んだと主張しているが絶対そう思えない、中山の事後処理。
目先で片付けなければ成らない事が、山積みだと思えた。
『ふすっ』
さくらは、ため息とも鼻息とも付かない息をつくと、半熟目玉焼きの載った皿を受け取るべく、いそいそと席を立った。新しい一日を始めるために。
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