五章 嘘だと言ったろ? まぁねぇ……

「……い、君、朝だぞ。いい加減起きたまえ」

 惟知香の声に、荒宇土は目を覚ました。昨夜と違い、すっきりした気分で起き上がると、大きく伸びをする。既に目覚ましは止められており、コタツの置かれた部屋から、コーヒーの香りが漂ってきた。

「あぁ、おはよ」

「穿ち過ぎだな」

 惟知香は、初心者の悪手を垣間見た、ベテランゲーマー染みた視線を荒宇土に向ける。

「は? うが? 何が?」

「私が再度移動すると読んで、本来の寝床に夜這いを掛けて待ち構えるとは。読みが迂遠過ぎるぞ」

「おま……全然全く何もかも完全に違う。色々な意味で言いたい事は有るが、敢えてスルーしてやる。んで、今何時だ?」

「七時半だ。ちなみに、朝食の準備は既に整っている。こちらも諸般の事情を問わないから、手早く済ませるとしよう。今日も、やる事が多いからな」

「ん、それについては同意する」

 促されるままに準備されていた朝食を取り、仕度を整える。昨日よりやや遅れて、荒宇土達は教室へ向かった。

「で、『じしゅう』は良いんだけどさ」

 昨日と全く変らない、騒がしい教室内を見渡しながら、荒宇土が怪訝な顔をする。

「先ずはカバンを置きたまえ。で、何か?」

「ヘイワードの姿が見えないようだが?」

 教室内の其処ココに群れているケモミミ娘達と、本を中心に額を寄せ合う熟年ブレザー集団のドコにも、ヘイワードの姿が見当たらなかった。

「ああ、多分自主休学なのだろう」

「は?」

「今日の日直は誰だ?」

 惟知香の問い掛けに、オレンジ色の尖がった耳を持った娘が割り箸を持ったままの片手を挙げ、振ってみせる。

「ヘイワード君、今日は休みか?」

 惟知香の問い掛けに、ケモミミ娘が割り箸でカップうどんの厚揚げを冷ましながら答えた。

「うん。お休みお願い紙が、机に置いてあった。出席簿には『欠』の押印済み~ふぅがふっ」

 言い終わる前に、湯気の立つ揚げを大口開けてくわえ込みながら、日直は答える。

「えっと、のぶさん、教室で朝からカップうどんって」

「始業前だから問題無しだ」

 澄まして答えると、惟知香は教卓に向かい、置いてある出席簿へと目を通した。

「欠席理由は、昨日の一件で疲れたから、か」

 挟んであった欠席願いの小紙を見ると、惟知香は自分の机へと戻る。

「いや、そんな理由で休んじゃマズイだろ? ……あ、いや、休むための正当な手続きを踏んでるから、奴のMYルール的には問題無いのか?」

 理由を聞いた荒宇土が、突っ込もうとして自己解決した。

「ほう、君も中々解って来たじゃないか」

 惟知香は、したり顔で頷くと、優雅に足を組みながら荒宇土へ向き直る。

「さて、それはそれとしても、こちらにとっては多少焦れてしまう状況と成ったな」

「確かにな。さっさと話をつけて、さくらの言う怪しいものを探したいトコなんだが」

「ま、現状ではどうしようもあるまい。放課後まで、待ちの一手だ。それまでは件の怪しいもの探しを継続するとしよう」

「っていうかさ」

 惟知香の醒めた口調に、荒宇土は困惑した返答を返した。

「何なんだ、この状況」

「というと?」

「いやその」

 そういいながら、荒宇土は自分の机の上を指差す。狭い机は、何匹もの猫達が群れてひしめき合っており、巨大な混沌の毛玉が出来上がっていた。

「なつかれたな」

 ニヤニヤしながら、惟知香が言う。その間にも、今度は黒猫と栗色の猫が床から荒宇土の膝目掛け飛び上がり、二匹で、膝の上を占領した。

「おわっ、えらく人馴れしてるな……って、化け猫だから、当然か」

 膝上の猫は、伸び上がるようにして首を上げると、さくらに向かって尾を引く声で鳴く。

「うなぁ~~~~~うぅ」

 右前の席に座っていたさくらが、もぞもぞと振り向きながら不満げに呟く。

「えー、なんでうちが?」

「ぐるぅ~~~~~~ん なぅあぁ~っ」

「それはそうだが……」

「なぁ~~~~~~~~~~~おっ」

「むぅ」

 黒猫の押しが強い鳴き声に、さくらは不承不承頷くと、文庫本を伏せて席を立った。

 荒宇土の席まで来ると、山猫の姿に戻る。黒と栗色、二匹の猫と入れ替わるように荒宇土の膝上へと飛び上がった。

「な、どうしたんだ?」

 不審げな荒宇土の顔を下から見上げると、さくらは不機嫌そうな声をあげる。

「頭下げろ」

「は?」

「いいから!」

 言われるままに荒宇土は頭を下げる。さくらは荒宇土のブレザーに前足を掛けると、伸び上がって荒宇土の顎先に頬を擦り付けた。そのまま、全身をぎこちなく荒宇土の体に押し付け、膝の上で往復する。

「だぅるるうぅ」

 荒宇土の膝に座り直すと、さくらは野太さの有る猫の声をあげた。途端、さくらを凝視していた机の上の毛玉達がばらけ、それぞれ思い思いに散らばっていく。

「へ? 何だどうした?」

 問いに答えず、さくらはフンッと鼻を鳴らすと、人の姿に成って席に戻った。見届けた惟知香が、荒宇土の方をしたり顔で見る。

「ああ、君の所有権が定まったからな。他の子達は退いたのだ。さくらに感謝しておきたまえ。有る意味、命の恩人だ」

「そんな大仰な」

「吹かしているのではないぞ。俗に、『猫は家に付く』と言うが、実際は違う。猫は『人に憑く』のだ」

「それが俺の命と、どう関係して来るんだ?」

「猫にとって、家は縄張り、テリトリーとして重要なものだが、依存する対象としての人間はそれ以上に大切なのだ。よく、猫が顔を擦り付けるのを見て、懐いていると言うだろう? アレは自分の匂いを付けて、他の猫に所有権をアピールしているのだ。さて、ココに居る猫達は化け猫だな?」

「それは解ってる」

 惟知香は苦笑寸前の表情で続けた。

「猫が物の怪と成るのに重要な要素は、恨み辛み、だ。で、その対象は?」

「人間、って事か」

「そうだ。有れば最高だが、己が成りあがりの要因であり、二律背反な感情の元でもある。それが自分のモノと成ったら、どういった行動を取るか、予測不可能だ。感情の高ぶりに合わせて、過去の意趣返しを、今の所有物で晴らそうとしかねん。成り上がったばかりのモノは、自己の快感に直結する『狩り』の衝動を、ヒトとして感じた、感情の高ぶりと同じに扱ってしまう。愛情の発露で、人を狩ってしまいかねないのだ。君がたぶらかされるのは勝手だが、生き胆食われて三人目の調停者召喚と相成るのは、頂けない」

 話している二人の机に、先程の猫二匹が飛び乗ってくる。栗色の猫があっけらかんとした声を上げた。

「ここの子達は二世ばっかだからだいじょぶだと思うけど、中には、ヤンデレる子も居るからねー」

「『お手付き』なら他の子達も尊重するし、さくらが、ちゃんと匂い付けしたから、もう平気だよ」

 黒猫が、はきはきした声で後に続ける。

「あれ、もしかして……ちゃちゃとクー?」

 そう言われると、栗色の猫が片耳を震わせながら、答えた。

「おー、このヒト名前覚えてるスゲー」

「見所有る人間は嫌いじゃない。近う寄れ」

 黒猫が右前足で猫招きする。釣られた荒宇土が、顔を近づけた。二匹の猫は、先程さくらがやったのと同じように、左右から顔を擦り付け、全身をまとわり付かせる。途端、前の席から

さくらの不機嫌そうな声が飛んだ。

「お前等がやるなら、ワザワザうちが馴染み入れる必要なかったろうに」

「言ったでしょ? 一緒に住んでる子に一番権利が有るって。それと……」

「ひとりじめも有りだけど、はんぶんこもアリだってっ。ウチとクーはなんでもはんぶんこだからっ! さっちゃんともはんぶんこだよ!」

 左右から荒宇土の顔を挟み込みながら、人間モードに成った二匹が頬を摺り寄せる。

 惟知香が、にやにやしながら言い放った。

「ああ、補足すると、一番強い所有権を持つものが許せば、複数固体が同一物件の権利を主張して良いそうだ。ちなみに、さくらは基本的な『猫社会のルールや御作法』を知らないので、ちゃちゃとクーがその辺をレクチャーしている。何か質問は?」

 荒宇土は引き攣った表情で呻いた。

「とりあえず、コイツ等から俺を開放してくれ」

「なあ~ぉ?」

 机の上から、小首をかしげた二匹の猫に、上目遣いで見詰められる。

「ぐっ、な、なんと悪辣な……」

 荒宇土は苦虫を噛み潰した表情を浮べようと努力しつつ、しまりの無い笑みで二匹の喉を交互に撫でてやった。ちゃちゃとクーは、体を投げ出して、撫でる荒宇土の手に頭をこすりつける。

 耳の後ろを掻いてやっている荒宇土を見ながら、惟知香は平たい顔で言い放った。

「……ちょろい」

 結局、猫じゃらしと怪しいもの捜索の続きで、相互不可侵協定仲裁者の一日は終了した。

 

 ――放課後――


 授業終了のチャイムが響くと、クラスのネコミミ達が待ち構えていたように教室を飛び出していく。ブレザーブラザースは集団で分厚い古書を開いたまま、帰りつつ議論を続けていた。

 手を振り教室を出て行くちゃちゃとクーに応えながら、惟知香が荒宇土を見やる。

「さて、ヘイワード君の部屋を訪ねてみようか?」

 チェックした学校の見取り図をしまいながら、荒宇土は答えた。

「ああ。部屋番号は判るか?」

「もちろん。さくらはどうする?」

 やる気無さげな少女は文庫本をカバンにしまい込みながら小さく欠伸をする。

「んー、うちはデェトの邪魔をする気は無いゆえ、先に帰っておく。晩御飯は肉ごろごろなあまくちカレーがいい」

「おい、ジョークでも質が悪過ぎるぞ。単に引き篭もりたいだけだろ、お前。それと、カレーは中辛がデフォだろう?」

「相変わらず、さくらの冗談は横滑りするな。それと、カレーは激辛一歩手前位際立ってないと美味くなかろう?」

 異口同音な反応を横目に、さくらはいってらっしゃいと手を振って二人を送り出した。

 辛さの不毛な程度問題でやり合いながら出て行く惟知香と荒宇土を、さくらは無表情に見送る。あの二人が今回の件にどう絡んでくるか、未だ方向性が見出せていない。

 少しでも刺激を与えて、プラス方向なのか、マイナス方向なのか、どちらに転ぶかの判断材料が必要だった。ついでに、今後を考え、久々に裏山へ寄り道する事に決める。

 派手に麺をすする音をBGMにさくらが立ち上がった。音の主は、ダシの効いたうどんつゆの香りを漂わせながら、自分に眠たげな視線を向けたさくらに気付く。

 狐耳の少女が、開けてないカップうどんを視線と割り箸で指し示し、軽く首を傾げた。

『食べる?』

 さくらが困惑した笑みで謝絶する間も、口とカップの間で、箸が忙しく往復する。麺をあらかた片付け、だしの滴る厚揚げを摘み上げる頃合いに、ようやく口を開いた。

「仕事の後の一杯って、効くよね?」

「……あ、ええと、日直ご苦労」

 油揚げをくわえつつ、とがった狐耳を振って挨拶する日直に応えると、さくらは重い足取りで教室を出て行った。

 

 ――学生寮・第二棟――

 

「さて、ヘイワード君は在宅中かな?」

 惟知香が呼び鈴を押しながら荒宇土に視線を向ける。

「どうかな。体調不良なら部屋に居るだろうけど……」

 休んだ理由が解らないしな、と荒宇土は態度を保留した。

 二人はしばらく待ってみたが、ヘイワードの反応は無い。手持ち無沙汰な惟知香が、部屋のドアノブをまわすと、軽い軋みを残し、扉が開いた。

「開いていた、か」

 醒めた声で惟知香が呟くと、開いた隙間から、部屋の中を覗き込む。

「居ないのか?」

 半ば確認の意味を込めて荒宇土が尋ねた。締め切った室内は、昼間だと言うのに真っ暗で、奥の様子は窺い知れない。玄関先に首を突っ込んでいた惟知香が、荒宇土に真剣な表情を向けた。

「これから中を調べる。君は待っていたまえ」

「え? いや、俺も行くよ」

 口を開きかけた惟知香は、何かを思い止まる。荒宇土を見詰めながら、いつもの調子を装って言い直した。

「なら、お先にどうぞ。それと……覚悟して入りたまえ」

 惟知香に促され、荒宇土はヘイワードの部屋に足を踏み入れた。開かれた扉から差し込む陽光が頼りない明かりのように、玄関先を薄暗く照らし出す。

「なんだ? 小石が……」

 靴の爪先に、厚みの有る碁石染みたものが幾つか当たり、乾いた音を立てた。真っ黒で表面に記号のような紋様が刻み込まれている。拾おうかどうしようか迷い、惟知香に指し示した。

「何だと思う?」

「ふむ、護法に用いる黒曜石に似ているな。専門では無いので、断言は出来んが」

「護法、ねぇ……」

 何となくこみ上げる嫌な予感を振り払い、荒宇土は奥へ進む。惟知香の後手で扉が閉まると、暗闇が二人を包み込んだ。視界が利かず鋭敏と成った五感に、荒宇土の不安感が刺激される。 何かを追い払うかのように、どうでも良い話が彼の頭に浮かび、ふと、口をついて出た。

「何となく思ったんだけどさ――」

 荒宇土は手探りで先に進み、数分後、人生初と成る体験をした。

       *****    *******    *****

「日が落ちてきたな」

「ん? ああ」

 開け放たれたベランダに、二人は佇んでいる。既に夕闇が迫り、気の早い街灯に明かりが灯っていた。数時間経っている筈なのに、荒宇土には、時間の経過が実感できない。背後では、惟知香の連絡を受け、学園長が派遣してきた公的処理班が作業していた。

 部屋の明かりを付けた上で、大型のライトも持ちこみ、室内を照らしている。処理班は、鑑識のように、遺体の状況を綿密に確認し、現場写真を逐一撮影していた。

「警察とかを呼ばなくていいのかな?」

「呼べない、が正解だな。あの状態を見て、どうやってああなったのか? をきちんと書類に残そうと思ったら、一般常識的に無理が出るだろう。学園内の捜査にしても、皆が知らない、この学園の状況を、関係部署に開示せねば成らなくなる。で、言われる訳だ。『バカにしているのか!』とな」

 そういった筋に対する根回しと理由付けは、学園長がやっているだろう、と惟知香は締めくくった。荒宇土は、そんなものかね、と気の無い返事をしながら、ベランダの手すりにもたれ掛かる。

「悪い、遅くなったー」

 そう言いながらIDを捧げつつ、若い女性が上がりこんできた。荒宇土達と変らない年齢だが、処理班の面々は恐縮した面持ちで応対している。どうやら、一定の地位に在るらしかった。

 惟知香と同じようなセーラー服を着ているが、胸元の赤いスカーフが正反対の印象を与えている。ストレートの黒髪含め、どことなく古めかしさを感じさせた。

 新着少女は未だ横たわったままの死体を見て、うげっという表情を浮かべる。渋い表情のまま、なるべく触らないよう手早く検分し、所定通りの作業を済ませた。

 今度は、遺体を正方形の黒い塊四つで囲い、何事かを小声で呟く。呟き終えると共に、岩と思しき黒い塊に付いていた紙切れが妙な輝きをみせた。

 先に到着していた処理班と二言三言会話する段に成って、漸くベランダから作業を眺めていた荒宇土達に気付く。少女は、死体を避けながら二人の居るベランダに回り込んだ。

「えーっと、第一発見者って事で良い?」

 ざっくばらん、というより、何かを吹っ切るような感じで、少女が二人に問い掛ける。

「うむ、そうなるな」

「その、貴方は、学園長のお知り合いかなにかで……」

 荒宇土の発言を遮り、少女が顔の前で片手を振ってみせた。

「ああ、あたしは学園とは無関係な、こういった件の本職筋。ま、バイトなんだけどね」

 微妙に引っ掛かりを覚える発言に、二人は怪訝な表情となる。取り繕うように、少女が続けた。

「諸般の事情で、ちょいと現場から離れてたの。で、リハビリ兼、現地に近いからって理由で、人手不足の穴埋めとして寄越されたって訳。列車の乗り換えに手間取って遅くなっちゃった。おっと。一応、公的機関からの派遣扱いだから、安心したまえ!」

 微妙に安心できない発言が続き、対応に困る荒宇土達を気にせず、少女は通り一遍聴取まがいの質問をする。

「んじゃ、死体その他一切触ってないし、動かした物も無い。発見時のままでOK?」

「ああ、私達が見つけた時には、既にこの通りだった」

「ごらんの有様だよって訳だ」

「?」

「あ、解んないなら気にしないで。さてそうなると……」

 二人に向けた少女の視線が、初めて鋭くなった。

「試みに問うけど、君等って、一応、そういった事への理解が有るんだよね?」

「私は真祖のダンピールだ。『そういった事』が魔道錬金その他を指しているなら、答えは当然、イエスだ」

「その筋の術は使える?」

「え? 何だそりゃ」

「術とやらが魔法の事を指しているなら、彼には無理だ。私は素養を持ち合わせている故、使おうと思えば使えるが現状……」

「あ、うん、魔道としてはロクに使えないし、使ったこと無いんだ。よっく解った」

 少女は惟知香の長口上をばっさりカットして、答えのみ理解した。

「お、おい」

『テケテテンテンテケテン……タッタッタッタータッカッタータカターテケテーデンデケデケデケデン……♪』

 微妙にプライドを傷付けられた惟知香が抗議しようとした矢先、少女の携帯がゲームか何かの取り込み音源で鳴り出す。荒宇土達を手で制すると、少女はスマホを取り出した。

「はいはい。おう、一条ちゃん。アンタに言われたとーり、大盤振る舞いやったったわ。いやくろーしたした。ちゃんと動いてるでしょ? もちのロンッ。VR符とか、普通なら作れないんだからな。あたしだから出来る芸当だわ。流石あたしっ! SDカードを媒介にした全く新しい……え? お、おう。うん、そう。発見者に話は聞い……ってマジ? そうなんだ?」

 少女は多少驚いた声と共に、荒宇土に視線を寄越す。怪訝そうな荒宇土の表情を見て、取り繕った笑みを浮かべると、背を丸めて話を続けた。

「まー、詳しくは聞かない。当たり前だし面倒だし。おう、終わり次第帰る予定。うん、時刻表確認したら、改めて連絡するわ。詳しくはその時に。あっと、交通費バイト料と時間外手当は別枠だかんな!」

 未だ、がなり立てている相手を無視して、少女はスマホを切る。荒宇土達に向き直ると、営業向きの笑顔を浮かべた。

「さて、なんか色々大変だったね。取りあえずお疲れって事で、戻ってOKだから」

「え? あ、ああ。そうなの」

「ん、確定じゃないけど、容疑者候補からは外れたんで。問題ナッシング」

 そういう少女の背後で、ヘイワードだったものが厳重に包まれて運ばれていく。しこりの残る表情で見送った荒宇土に、惟知香は気遣わしげな視線を向けた。

 少女は陽気な成分多めな、カラッとした雰囲気で荒宇土に声を掛ける。

「その気が無くても引きずっちゃうと面倒だぞ。先ずは手洗って、ゲームか何かに没頭するが吉っ! シミュレーションかシューティングがオススメっ!」

「はぁ」

 返しに困った荒宇土の生返事を聞くと、少女は惟知香と荒宇土を玄関から強引に送り出す。

「んじゃ、協力どーもでした!」

「あ、ああ、どうも」

 微妙にベクトルのずれた反応をされ、毒気を抜かれた二人の鼻先で扉が閉まった。

「どうする?」

 途方に暮れた荒宇土の問い掛けに、惟知香はキッパリと答える。

「戻るしかあるまい。情報が入らなかった事だしな」

「そう、だな」

 二人は、重い足取りで自分達の部屋に向かった。

 道すがら、荒宇土は一言も発しない。惟知香も何かを察したように沈黙を守っている。

「帰ったぞ……ん?」

 寮の自室には鍵が掛けられており、二人は手持ちの鍵を使って部屋に入った。真っ暗な室内が、何かを思い起こさせる。身じろぎした荒宇土に、惟知香の淡々とした声が響いた。

「君、先ずは手を洗いたまえ。乾いたとはいえ、気持ち良いものではなかろう?」

 廊下の明かりを付けると、惟知香は率先して手を洗いに行く。続いて、荒宇土も自分の手にこびりついた、どす黒く変色した血の跡を洗い落とす。

 ハンドソープを使い、二、三度洗い直すと、荒宇土はようやく洗うのを止めた。中指と薬指で親指の腹を何度もこすりながら、洗い過ぎで赤みを帯びた掌をじっと見詰める。

 惟知香には、荒宇土が掌に残る消し難い感触を、必死に拭い去ろうとしているように見えた。

 暫く迷った後、彼女は荒宇土に声を掛ける。

「君、ズボンを脱ぎたまえ」

「え? は?」

 急な発言に、荒宇土は戸惑った表情を浮かべた。

「いいから、早く脱ぎたまえ。今、私に出来るのはその位だから……」

「脱ぐってその位って出来る事ってええっマジッ!?」

 顔を赤らめ狼狽する荒宇土に、惟知香はきっぱり言い放つ。

「既に乾いているから、きちんと落とせるか解らんが、何もしないよりましだろう。そうそう、ポケットの中のものを、忘れず出すのだぞ」

「ポケ洗……ポケットの外を洗濯……ああ、はい、ですよねー」

 荒宇土は自分のズボンの後ろポケット辺りを見やる。掌を擦り付けた、どす黒く変色した血の跡が残っていた。

 どこかホッとした表情で、スウェットに履き替えた荒宇土がズボンを差し出すと、惟知香は風呂場で洗濯用の液体洗剤を使い、揉み洗いする。シャワーで何度か濯ぎ、赤みを帯びた色が洗い水に混ざらなくなると、初めて洗濯機にほおり込んだ。

「なんか、その、悪いな。そんな事させちゃって」

 どう反応して良いか解らない荒宇土は、困惑混じりの表情で謝意を表す。惟知香は自動洗濯のスイッチを入れながら、微妙に硬い返事を返した。

「この位、構わない。私にも、問題が有ったからな」

「問題?」

 洗面台に向き直った惟知香は、ハンドソープで手を洗いながら答える。

「玄関から中を覗き込んだ時、臭いで、おおよその状況を想定出来ていたのだ」

 指先で自分の鼻先をつつく。

「なのに、君の反応を知りたい、という短絡な感情を優先して、心構えの無い君に現場を見せてしまった」

 敢えて婉曲な表現を使う惟知香に、荒宇土は首を振って答えた。

「いや、それは俺が望んでやっちゃった事だから、気にされても困る。まぁ、驚いたのは事実だけどさ」

「だが、今でもショックが尾を引いているようだが?」

 荒宇土は苦笑交じりの表情をみせる。

「そりゃ、引くさ。あんな状態、生で初めて見たんだ。哲学とやらに傾倒したり、宗教が救いだ云々って話に、実感持てた。でも、それ以上に、さくらの言ってた今後起こる何事かは、人の命より、重大だって事に成る訳だろ?」

「ああ、そうとも言えるな」

 荒宇土は腕組みしながら、微妙に真面目な表情で続けた。

「むしろ白だった事が最大の難問……」

「はぁっ!?」

「いや、何でもない。気にしないでくれ」

 威嚇の成分が含まれた惟知香の問いに、視線を外して答える。返答に被さる様に、ベランダの方から、猫の野太い鳴き声がした。

「今のは?」

「さくらだ。どうやら、山に行ってたようだな」

 言いながら惟知香は部屋に向かい、ベランダに続くサッシを開く。座って待っていたヤマネコが堂々とした足取りで部屋に入ってきた所を、首根っこを押さえ捕まえた。

「うなぅ?」

 不満げなさくらに、惟知香はしたり顔で言う。

「山に行ってたのだろう? 地脈の力を得たのは、それはそれで良い事だが、野山を駆け回った以上ダニノミ用心の為、きちんと洗わないとな」

「ぎにゃ~ぅっ」

「いや、のぶさん、今はそれどころでは……」

「駄目だ。守るべき決まりは遵守せねば、さくらの為に成らん」

 冷たく言い放った惟知香にそのまま風呂場へと連行される。派手なシャワー音に混じり、さくらの死にそうな鳴き声が響いてきた。しばらくして水切り音と、「わっ止めろ馬鹿」という惟知香の悲鳴が響く。風呂場のドアが開く音に続き、憔悴した表情のさくらがバスタオルを頭に載せ、Tシャツ姿で戻ってきた。

「水に慣れてるんじゃなかったのか?」

「山に行った後、しばらくシャワーやお風呂はノーサンキューなのだ。だから、他者の手によって強制的に洗ってもらうしか無くてな。毎回こうなるのだが……なんか、嫌」

 ぐったりした表情でコタツに突っ伏すさくらに、タオルで顔を拭きながら、戻ってきた惟知香が非難の声をあげる。

「だから、私が風呂場を出てからブルブルしろと言っているのに、嫌がらせかっさくらっ!」

「それ以外に何が有る?」

「だから、それどころでは無いだろ?」

 荒宇土から促され、ようやく惟知香がヘイワードの件をさくらに伝えた。一瞬、さくらの頬がヒク付いたが、それ以上大げさに驚いたりせず、黙然と眼を伏せる。

「そうか。ヘイワードが、な」

 他の子達の評判は良かったし、懐いている者も結構居たのだが、とさくらは猫好きな男を惜しんだ。

「何にしても、ヘイワードが何事かを知った、知っていた、話を聞いた際、有益な助言が出来た、の、どれかだったのは確かだな。今となっては、だが」

 荒宇土と惟知香に向かっては、そう答える。

「で、どうする? 未だ『それっぽいもの』が発見されて無い以上、答えに近付く術が非常に限定されるぞ」

 さくらの問いに、荒宇土はきっぱりと宣言した。

「最後の手段ってやつを使う。保健医に助言を求めてみるつもりだ」

「本気か、君?」

「おー、度胸あるー」

 二人の反応に、荒宇土は真剣な顔をみせる。

「他に思いつかないから、仕方ない。真面目に話せば、一応聞いてくれるかもしれないしな」

「聞いてくれなかったら?」

「諦めがつく」

「あー、なるほど」

「一理有るな」

 では、早速行って来い、と惟知香に促され、荒宇土は焦った声をあげた。

「え? いや、明日にならないと学校開いてないし」

「あの保健医は緊急外来(その筋専門)も兼ねているのだ。呪詛や魔道的フィードバックは、時差が付く場合が有るからな。故に、学園内に常駐している。園内スーパーと同じで、校庭側から二十四時間入室可能だ」

「ええっ!? マジ?」

「不幸中の幸いだな」

 ニッコリ微笑む惟知香に、荒宇土は、すがるような視線を向ける。

「えっと、惟知香さん、何が有るか解らないから……」

「うむ、心配するな。私は全力で夕飯の仕度に取り組もう。君の蛮勇に免じて、特別に中辛カレーを作って待っているぞ」

「いやいやいや、そうじゃなくて」

 解るでしょ? という荒宇土の視線を、惟知香はノーサンキューな笑顔で受け流した。仕方無く、コタツに突っ伏したままのさくらに目標変更する。

「オイさくら、『臥龍鳳雛に比肩す』って、月旦評に書き残してやるから、一緒に来てくれ」

「……湯冷めしたくない」

「はええっ!?」

 さくらは未だ乾ききってない乱れた髪を拭きながら、真っ当な理由でキッパリ拒絶した。

 鼻歌交じりにジャガイモやニンジンを取り出している惟知香に、荒宇土はすがり付くような声を掛ける。

「ちょっと待て、お前等に課せられた俺の護衛云々の話はっ!?」

 シチュー、カレー用の但し書きが印刷された肉のパックを取り出しながら、惟知香は厳かに言い放った。

「著名美術館で、超有名絵画が何者かに盗まれた時、巡回警備担当者がキッパリ言ったそうだ。『自分の給与当分で、巡回以上の事をする義務は無い』とな。時間外とはいえ、ただ、学園所属の職員に会いに行くだけで護衛を伴ったと噂されては、仲裁者として、鼎の軽重が問われよう?」

「かなえ? けいちょぅ? は? 何語? いやそんな事はどうでもイイから、一緒に……」

「行ってくるが良い」

 ニッコリ笑った惟知香に、有無を言わさない調子で部屋から送り出される。

 荒宇土はげんなりした表情で、鼻先で閉められた玄関扉と何が起こるか解らない保健室へと至る階段を見比べた。

「もうちょっと、心の準備ってものが、だな……」

 誰かに聞かせるように呟くと、とぼとぼ階段を降りて行く。

 寮の受付に、一応夜間の外出理由(相互不可侵協定仲裁作業における諸般の事情、という名目な、お題目)を伝え、最低限、学生としての寮則を遵守した。

 街灯に照らされた坂道を下り、隣接した敷地から学園の校庭に回りこむ。

 学園内のスーパーや教務棟の一部には未だ明かりが灯っており、専用保健室も、当然のように灯火が白いカーテンから漏れていた。

 『今:保健医は:-在室中-』と表示されたプラ製の表示板を横目に、荒宇土はグラウンドに面したサッシ扉をホンの軽くノックする。即座に反応が無いのを見て、引き攣った微笑を浮かべながら荒宇土は小声で呟いた。

「居ないっポイと言うか、行ったら席を外してたって事は、今日は会えないから明日改めてアイツラを連れてやってこようそうしよう仕方無いヨネいやー残念ダナァ」

 何故か忍び足でその場を離れようとして、ふと、白いカーテンの隙間からこちらを凝視するルビー色の三白眼に気付き、荒宇土はヒイッっと空気の漏れるような悲鳴を上げた。

 銀髪の保健医は特に感情を見せず、一人分のスペースだけ扉を開いた。

「入れ」

「っていうか、そういうドッキリGIF染みた出現マジ止めてっ! 本気でビビッたからっ。お解り頂いて心臓止まるかと思ったわっ!」

 淡々とした反応に、荒宇土は思わず逆ギレ染みた反応を返す。保健医は、気分を害した様子も無く、台詞でも読むかのように答えた。

「来ると思っていた。いや、来ざるを得ない、と言う感情か」

「来る……え?」

 思っていたという言葉に引っ掛かりを感じ、荒宇土は不審げな顔をする。保健医はそれに答えず、黙って中へと促した。

 保健室に入ると、サッシ扉が音も無く閉まる。気圧でも変ったような感覚と共に、変な圧迫感が荒宇土を圧倒した。

「なっ! なんか妙な感じが」

「普通、と分類される人間ですら気圧されるレベルの多重結界を展開してある。破られるまでは、秘匿すべき話を披瀝可能だ。結界名は、そう……エターナルフォースフィールド、破ろうとした相手は死ぬ、だ」

 そう呟いた保健医は、先日編んでいたマフラーを首に巻きつけている。余りに長過ぎて、両端が地面に引きずられていた。特に気にする様子も無く、据付と思しき事務用椅子に腰を下ろす。

 先日使っていた安楽椅子は端に片付けられていた。部屋の隅には、色とりどりの毛糸球がぬいぐるみでも並べるかのように沢山置かれ、周囲を囲っている。前回隙間から見た時は死角で気付かなかったが、廊下側の片隅に、一段高い上がり口のような生活スペースが設えてあった。四畳半程の畳敷きで、丸テーブルとカラーボックス、きちんと畳まれたふとんがみえる。

 丸テーブルの上には、カラー表紙の薄い本が山積みされていた。一番上に、渋みの有る、目のキラキラしたヒゲの中年と、更に目のキラキラした歳若い少女が手を取り合う表紙が見える。どうやらカラーボックスの中も、薄くて大きな本で埋め尽くされているようだった。

「で、何の用だ?」

 感情のこもらない声が促す。荒宇土は横目で一瞥しただけで、室内の情報を頭から追い出し保健医に向き直った。

「先ず、結界名から突っ込みたいところだが、それどころじゃないので、単刀直入に聞く。何が起きてる? その原因は? 犯人は誰だ? どうすれば防げる?」

 惟知香達の仕打ちで何かを吹っ切ったのか、敬語すら使わない荒宇土の畳み掛けを黙然と受け止めた保健医は、つかみ所の無い視線を虚空に彷徨わせる。

「限定定義、この世界と呼ぶべき総ての消失が迫っている。原因、は……定義が曖昧だから、大枠でしか返答できないが、現・相互不可侵協定仲裁者たるパーソナル。犯人? は……」

 そこで、彷徨わせていた視線が荒宇土に向けられた。

「指定された犯人情報を確定した場合、この多重結界すら短時間で突破されるだろう。対象はカウンタートラップを張って、自己を探る者を確実に排除している。相手の呪詛複合型感知符による被発見及び排除呪法を回避したいなら、情報定義を曖昧にすべき」

 何となくでしか解らない言葉の羅列に、荒宇土はじれったさを感じた。

「要は、もっと詳しく話を聞きたいなら、犯人の名前を出すな、って事か?」

 肯定する保健医に、荒宇土は何度も頷きながら返す。

「なら、相手にバレない程度で頼む」

 マフラーをした保健医は、巻きつけた首元を軽く整えながら続けた。

「犯人は、定義、他世界からの来訪者。魔道等高位呪法を習得し、この世界で更に分析研鑽を加えている。防ぐには、対象が行う大規模複合呪法の頓挫、あるいは対象者の消去が必要」

「その、魔法だか呪法だかって、どういったものなんだ?」

「この学園そのものを呪法発動体として使用する、広域対消失定義の魔法」

「えっと……平たく言って?」

「観測者の認識における、世界の完全消失。言語定義するなら、虚無」

「本気で世界滅亡云々やろうとしてたんだ……」

 愕然とした荒宇土を、感情のこもらない緋色の瞳が見詰める。

「対象は既に、多重分岐していく世界、可能性の過半を消失させている。認識による平行世界の分岐を上回る速度かつ、加速度的に消滅中。付け加えると、多層分岐自体を限定し、一度消失した分岐が類似世界から再多重化出来なくされている。最終的に、世界と認識できるものはココだけと成るだろう」

「うーわー、なんか俺ごときが聞いちゃいけない話が次々と。こんな事だろうから一緒に来いっていったのにっ、あいつらめ」

 思わず、ついて来なかった二人に毒づいた荒宇土に、保健医は薄紙一枚感情が乗った声を掛けた。

「いや、仲裁者よ。お前は当事者なのだから、率先して対処すべきパーソナルだ」

「対処と言われましても。つか、聞くべきかどうか迷うんですケド」

「何事?」

「一体全体、どうやってそこまで見抜けるんですかね?」

 言われた保健医の表情に、初めて得意げな成分が含まれた。

「本来、私は深遠の奥底、絶望と奈落の両端に足場を編み上げ、往来が為の橋を作るのが存在意義。同時に、重なり合う世界総てに顕在し、なれど単一の存在。総てを感じるが故に、人が区分する『神』に比される」

 GOD宣言した保健医に突っ込まず、荒宇土は懇願する。

「神なら、今の状況止めたり、犯人消したり、起きてる事を直ぐに終わらせる事が出来るんじゃ無いんすかっ!?」

 保健医は素っ気無く言った。

「困難だが出来る。だが、それは出来ない」

「何で!?」

「解るが故に、手を触れず認識だけに留めねば成らない。例え、この総てが消失するとしても、それは『其処に存在する総て』が己が意思で折り重なった結果。『神』と分類されるものが、解った上で『総て』の理に介入出来るなら、神に等しい力を持つモノ同士の、不毛な上書きの連鎖が繰り返されるだけ。そこを弁えるからこそ、力持つ存在足り得る。総てを把握している以上、唯々諾々と結果を受け入れなければ成らない。そうであるからこそ、総てを解っていても問題無いのだ」

 薄い表情の下、達観した、それでいてもどかしげな保健医の思いを感じ、荒宇土は思わず言葉を失う。

「であるが故に、神々と呼ばれる存在は常に意思持つ者達に神託を授けてきた。善しにつけ悪しきにつけ、な」

 保健医の口元に、悪戯な笑みが浮かんだ。

「我は本来、人の定義する善悪の天秤で量れぬ存在。深遠の架橋こそが関心事の総てであり、限定された境界で日々を営む者共など眼中に無し。超越しているが故に、我意によって、この場に神託を超える攻略本をもたらしても全然OK! 他の超越するモノドモが縛られる盟約から外れている故の、名状し難き一大特典本日大公開っ」

「こ、こうりゃくぼん?」

「大丈夫?! なくぁのこうりゃくぼんだよ! ……実際に本を与える訳ではない。比喩表現だぞ」

「一体どんな?」

 マフラーぐるぐるの保健医は、銀色の髪を揺らし緋色の瞳を輝かせる。

「『ファイル名の不正な上書きは、プログラムに重大な影響を及ぼす危険が有りますので、絶対に行わないで下さい』」

 オペラ歌手か演歌歌手が行うような感情表現のこもった手振りをしつつ、保健医は平坦な声で言い放った。荒宇土は引き攣った顔に困惑の成分を加える。

「は?」

「神託は授けた。相互不可侵協定仲裁者よ、世界を救っちゃいなよYOU!」

 淡々と砕けた表現を用いる保健医に、荒宇土は思わず突っ込みをいれた。

「いやマテまて待って! ファイル名? プログラム? って何よそれっ!? 俺、コンピュータとか詳しく無いんですケドッ!」

 無表情な緋色の瞳に、蔑みの成分が一滴混ざる。

「仲裁者よ、貴様は神託を賜ったり、人伝に聞いた事すら無いのか?」

「現代日本でそんなもん承ってる奴の方が少ないと思いますが」

「神託とは託すもの。読み解くのは賜った者次第。IF・THENが定められていたら、それは単なる説明、助言であり、神に許された行使の範疇を超える」

「判断って言われても」

 おろおろする荒宇土を見、銀髪の女性は小さくため息を付く。一瞬、閉じた瞳を開くと、踏ん切りをつけた表情で保健医は言い放った。

「さっきの例え話を実行すれば、世界の崩壊は防げる、という事だ」

 途端、何かがショートしたような音が大きく響き、保健室全体を揺らす。隅に置かれていた大量の毛糸玉が連鎖して弾け、塵と成って消えていった。保健室の縁を十重二十重に囲んでいた色とりどりの毛糸は、あっという間に雲散霧消する。

「おわっ! 何が起こって!?」

「結界が突破された。ま、これだけやれば、流石に、ばれるわな」

 保健医はため息を付いた。引きずっていたマフラーの端が弾け、急速に解けていく。荒宇土の視線に気付き、当たり前のように説明した。

「護法結界代わりだ。永くは持つまいが、時間稼ぎとしては必要十分ゆえ」

 解けていく端は赤黒く発光し、保健医が編んでいたのをなぞる様に解き、止まり、再び編み戻した手順を繰り返しながら、解きほぐしていく。

「それって……」

「我が身は消失する。常ならば多層の何処かに落ち延びれば良いだけだが」

 今はその避難先が無いからな、と言って、保健医はさばさばした表情を浮かべた。

 自分の狼狽が眼前の神なるモノに影響を与えたと理解し、荒宇土は顔を青くする。

「俺のせい、ですよね……すいません」

「構わん。欲求を満たせるという卦が出たからこそ、曖昧な召喚に応え、ココに存在した。仲裁者に逢い、多層の深遠を垣間見、初めて我意が満たされたと知った。だからこそ、ココで御前だけに神託を残す。総て、我の選択した結果だ」

「どうしてそこまでしてくれるんです? 世界の為、ですか?」

「違う」

 保健医は真剣な顔をする。

「あくまで、我の意思、我意の為、だ」

「我意……」

 真剣な表情に、微妙に照れた成分が混ざった。赤黒い発光は留まらず、手編みのマフラーは既に半分解けきっている。

「一度、逢ってみたかったのだ。単一の存在たる我にとっての、父なる存在に」

「父親?」

 保健医は軽く目を伏せ、満足げな表情を浮かべた。

「既に我意は満たされた。後がどうなるか、は総意次第」

 停滞していた崩壊が急速に進み、マフラーが首元の部分のみに成る。思わず制止するように手を上げた荒宇土に向かって、保健医は小首をかしげ、感情のこもった笑顔をみせた。

「頑張って! お父さん!」

 静電気の弾ける音と共に、保健医の姿はかき消される。不安定な明滅を繰り返していた蛍光灯が何事も無かったかのように点灯した。眼前の床に、小さな毛糸くずがふわりと落ちる。

「いや、何だよ、お父さんって」

 すがる様な荒宇土の呻きが、誰も居ない保健室内に反響した。


 ――同時刻――


 人気の無いローカル駅のプラットホームに、少女が一人佇んでいる。帰宅ラッシュの時刻から幾分遅いせいか、ホームに残っているのはセーラー服姿の彼女だけだった。電光掲示板の到着時刻を確かめると、慣れた調子でスマホを取り出し、登録された番号に掛ける。

「あーもしもし、おねいちゃんだぞっ! ……いい加減慣れなさいよ、もう。うん、終わった。乗り継ぎ接続が悪いから、帰るまでちょっと掛かるっぽい。晩御飯は先に……って、もう食ったんかーいっ! 当たり前だろ? うん、絶対残しといて! じゃなっ!」

 本当にもう、等とブツブツ言いながら通話を切ると、持っていたバックパックから古いゲーム機のカセットソフトを四本取り出す。小さく呟きながら自分の周囲を囲うように配置すると、伝説的なクソゲーを指先で突付く。瞬間、四本のソフトが薄っすら発光し、鉄が磁石に引かれたようにカセットが直立した。少女は満足げな頷きをすると、ベンチに置いていたスマホを持ち、改めて別の番号に掛けた。

「おう、あたしだっ。うん、今は駅。学園から離れたし、結界も張ったから大丈夫だろ。言われた場所はさり気無くチェックしといた。確かに最適な場所だけど、動死体の魔力以外、呪法云々が行使された形跡や、魔力残留は感じられなかったわよ。……はぁ? 全部ちゃんと回ったってっ! 疑り深いな全く……」

 言いながら、学園の紹介パンフを取り出すと、見取り図MAPのページを膝の上に広げる。

「言ってみ? まず校門でしょ、うん、行った。次に……」

 確認の為、マップをなぞる少女の指先が徐々にスローダウンし、突然小刻みに連打され始めた。電話口の相手が問い掛けるのを無視し、少女は慌てた様子で、学園全体を大写しした表紙の航空写真を凝視する。勝気な表情に困惑が浮かび、指先が写真をさ迷った。やや有って口元が引き攣っ笑みを浮かべ、小さく震える。パンフに掌を置いて押さえ、静かに深呼吸すると、がなっていた電話の相手に、キッパリ言い放った。

「すまん、見過ごしてた。……違うっ! そうじゃないっつーの。アレはそれぞれ独立した呪法の陣じゃない。全部まとめて発動する、大規模呪法円の為に設置されたポイントだわ」

 少女は、一瞬天を仰ぐ。

「うん、もちろん必要魔力量的に有り得んわな。あたしにも信じられん。だけど、やってる事の基本構想が、あたしが緊急避難的にやった、例の禍神封じのやり口と一緒なのよ」

 おんなじなんだよ、そう言って、少女は薄ら寒そうに、体を抱え込む。

「初動の呪法陣を発動し、その魔力余波が収まらない内に他所の呪法陣を起動。コレを連鎖的に引き起こして、魔力余波同士の複合干渉を用い、注がれた魔力を遥かに上回る出力を倍々プッシュで引き起こす。あたしの場合、相手をデジタルの土俵に引きずり込み、BIT単位の限定世界に封じる為の囲い込みに、その構想を使ったんだけど。ああ、うん。起動呪法陣の位置取りに、人間技を超えた精度が必要だ。現実世界なら絶対発動しない。だけどな、一条……」

 そういって、学園全体を写した写真を凝視した。

「指定されて調べた場所に呪法陣が有ると仮定した場合、そう判断するのが最も妥当なのよ。置かれてるそれぞれの呪法が、全く作動してない理由もコレで解る。連鎖パズルゲームと同じさ。さんざタネを仕込んで積みに積んで、起動一発ばよえぇ~ん終了! って訳だ」

 握り締めたパンフの端が、くしゃっと音を立てて潰れる。少女は、立ち上がりながら話を続けた。

「さっきも言ったとおり、普通なら初動魔力量だけでも絶対足らない。巨大宗教組織が手持ち魔力保持アイテム総ざらえで消費して、魔力供給の殉教者山盛り幾らで出しても追っ付かないレベルだ。だけど、あたしの観た所、コレ作った奴は作動する確信を持って方陣配置してる。一条、あたしに何か話して無い事有るだろ?」

 相手の返答を待つ少女の顔に、たなびいた髪の毛が被さる。煩わしげに髪をかき上げようとした少女に、ハッとした表情が浮かんだ。全身を冷たく強い夜風が吹き抜けたような気がして顔を上げる。

 眼前に見える木は、そよぎもしていない。貼ってある広告の類がバタつく事も無く、駅構内は電光掲示板の電子ノイズが聞こえるほど、静かだった。

 少女が足元に視線を向ける。足元のゲームソフトは怯えた小動物のように小刻みに震えていた。四本のソフトから垂直に半透明の壁が直立し、少女の四方を囲っているのが見て取れる。

 ――発動衝撃波?

 思わず立ち上がった少女の眼前で、半透明の壁に鋭いヒビが入った。途端、弾ける様に壁が砕け飛散する。置いてあったソフトが倒れ、プラケースや金属プリント基板が加速度撮影のように崩壊していく。塵となって散っていく結界を、少女はどこか投げやりな表情で見送った。

 魔法が発動する際、大なり小なり、出力に応じた反動が発生する。呪法を収めた者、魔力を扱えるものには、その反動を肌で感じれるようになり、出力によっては風圧のような反動を感じる事が出来た。だが――

 対魔道特化の結界を反動だけで崩壊させてしまう呪法等、これまで聞いた事も無い。

 携帯を握り締めたままの少女は、電話先で何事かやり取りしている相手に向かい、静かに言い放った。

「悪い、遅かったみたいだ一条……」

 視線の先、自分が先程まで居た学園の方向に、天高く伸びる白い柱のようなものが見えた。 それは、先程まで自分を覆っていた結界と同質のものであるという事が、彼女には一目で解る。ただ、発動している魔法力に桁違いの差が有ったが。

 少女の発言に驚いたのか、電話口の相手は暫く沈黙し、おもむろに気難しげな声をあげた。

「で、突然電話して、どうしたんです?」

 ゼンマイ仕掛けの古びた掛け時計が、時を刻む音が室内に響いている。

 古いアパートの中、神儀局主任、一条は、対面している相手から体をそらし、早口で続けた。

「今は出先なんで、後で掛け直しますから。で、どうしたんです? ……どうしたって? コッチの疑問系に疑問で返されても困りますよ。どうせバイト料の賃上げ交渉でしょ? なら、私でなく課長に……」

 何事かをまくし立てている相手に、怪訝な顔で聞き返す。

「えぇ? 学園の調査? 結界? ……何の事です? ……はあ、今はあの方の所に。何しにって? そりゃ……」

 来訪理由を問われ、言葉に詰まる。まくし立てていた電話口の相手が、口調を変え、諭すように何事かを話し続けた。

「ココ最近の案件発生件数? また唐突な。月当たり平均1,2件ですよ。ええ、忙しくて時間に余裕なんて有りません。何でって、そりゃ、案件が少なくても、それ以外に色々有るんです。書類整理や関係各所との懇談会兼ねた顔繋ぎ、上役への根回しも有りますし……」

 電話相手の砕けた口調に、一条は険しい顔で言い放つ。

「あ? 何で私がアホ局長の接待なんてやらなきゃならないっ! そんな事は課長にお任せに決まってるでしょっ?! 大体、外部への根回しは課長の役割だし、書類整理は飯島に一任して……」

 言い掛けて、一条のテンションが尻すぼみになった。

「あ……れ? その間、私は何をやってたんだ……」

 困惑した表情のまま、何事かを順序立てて話す声に聞き入る。やや有って、ハッとした顔に成り、頭を振った。

「OK、大丈夫です。思い出しました。ええ、依頼しましたとも。私が担当していた案件ですから。こちらを通さず、無能な働き者が上役気取りで手を打ったお陰で……」

 部下を一人失ったんですから、と彼女は悔しそうに呟く。

「ええ、多少混乱してますが。大規模呪法陣、発動したんですね? 多分その連鎖陣の中に、学園に関する情報への忘却改変呪法陣が含まれてたんでしょう。ココの結界は対外防御では無いですから」

 そう言って、四隅に張られた古びた札に視線を向けた。

「下手すると、神儀局も干渉受けてるかもしれません。最悪、気付いてるのが私達だけかも」

 ふと、対面していた相手に向き直る。コタツ机の上に白猫が体を投げ出し、優雅な動作で背中を舐めていた。

「私達だけです」

 言いながら、頭の中はフル回転している。恐らくは外部干渉を防ぐ為、結界や八門遁行陣、侵入者撃退用の動死体、様々な手段を講じて有る筈だ。眼前の古強者含め、干渉を受けた者に、自分が成されたような言い含めによる解呪を施すにしても、無駄に時間を取られるだろう。その上で、戦力を現地投入出来ても、結界を突破出来るか怪しいし、確実に存在するであろうタイムリミットまでに間に合うかどうか。

 現状、結界内部に存在している者に期待するより他は無い。

 対象を思い描きタップリ三秒固まった後、一条は電話口の相手に低く呻いた。

「うん、駄目かもしんない……」 

 沈痛な空気が室内に重く圧し掛かる。コタツの上の白猫は頭を抱えた一条を横目に、思い切り伸びをすると、大きな欠伸をした。


 ――同時刻 護宝贋学園保健室――


 どうしようもない後悔に立ちすくんでいた荒宇土の体が、小刻みにゆれる。顔を上げた荒宇土の眼前で、カーテン越しに校庭から強烈な光が差し込んだ。

「な、何だ?」

 慌てて校庭側のサッシ扉を開ける。発光する白いラインが、校門から校庭を横切り、裏山の方へと光の柱を伸ばしていった。地面には、のたくった様な文字が円を描き、走り書きのように浮かび上がる。円形が完成しても文字の発生は止まらず、次々とねずみ算式に円を描き続けた。書かれる度、円の大きさがどんどん大きく成って行く。

「これ……さくらの言ってた魔法陣か?」

 荒宇土は、呆然とした顔でグラウンドを眺める。

「はいはーい、ぼーっとしてないで、一旦撤退しますよー」

 聞き覚えのある声が、とんでもなくのんびりした調子で響いた。声の主を見て、荒宇土は素っ頓狂な声を上げる。

「な、なかやま?」

「や、お久しぶりだねぇアラド君っ! 二日ぶりかな?」

 中山は植え込みの間から立ち上がると、軽く腰を伸ばした。

「あたたた、しゃがみっぱは良くないわ、うん」

「いや、何やってんだ? お前」

「いや、この状況下で、誰何から入るのはどーかと思うけど」

「すいか?」

「あー、ゴメン。緊張して業界用語出ちゃった」

 笑顔で誤魔化すと、中山は周囲に視線を走らせる。

「何でもイイから、どっか安全そうな場所無い? しばらくダベっても大丈夫そうな」

「流石に思い当たらん。だけど、惟知香なら、どっか知ってるかもしれない」

「OK、兎に角この場を離れて、何がどーなってんのか聞かせてくれなさい!」

「えー? つれないなぁ!」

 『荒宇土』の声が唐突に上空から響いた。驚いて上空を見上げると、ラフな格好の荒宇土が浮かんでいる。中山が軽やかに茂みから飛び出し、見上げる荒宇土の前に立ちはだかった。

「折角の視覚的スペクタクルを観賞しないなんて、勿体無いと思うけど?」

 『荒宇土』は背中で掌を組み合わせ、洒落た足取りで虚空を歩く。

「あー、ごめんねー、先約有りなんで、時間無いんだわ」

 中山は後ろ手で荒宇土を押しやりつつ、いつもと変らない調子で答えた。そのまま、小さく声を掛ける。「タイミング測って退くよ、アラド」

 上空の『荒宇土』は、中山の事等意に介さず、下の荒宇土に向かって笑みを浮かべた。

「まだ、全貌、ってやつは解ってないみたいだね?」

 小馬鹿にした口調に、荒宇土は精一杯の自制をする。

「当たり前だろ? コッチはつい最近まで、ごく普通の日常おくってたんだ。それが突然、世界滅亡が起こりますなんて言われて、原因究明だなんだと上手く立ち回れるかよ」

「ヒント代わりの人材は居たでしょ? 上手く活用しなきゃ」

 保健室へ視線を走らせる『荒宇土』を見て、相互不可侵協定仲裁者は保健医が最後に見せた笑みを思い出し、険しい表情を浮かべた。

 思わず前に踏み出そうとする荒宇土を、中山まさみが視線で制する。

「バッカ、相手の出方が解んないんだから、挑発はしない乗らない気付かないふりをする!」

 普段より真剣な表情に、荒宇土は踏み止まった。

「んじゃ、どーすんだよ。ダッシュ逃げするにしても、空中散歩するような奴から逃げきれんのか?」

「こっちをヤる気なら、とうの昔にやってるっしょ? 弄びたいか、何かして欲しいか、空ウド基準の理由が有るんだよ」

「して欲しいって。世界崩壊に手を貸すとか、嫌だぞ、俺」

 普段の彼女から考えられないほど隙の無い表情で、中山は答える。

「んな理由じゃ無いよ。奴は、自分が高位、優位だと確信してる。実行したい何かにアラドが必要なら、無条件で従わせてるさ。アレは……」

 そう、種明かしをしたい手品師ってやつだ、と中山は言い放った。

「なら、適当に理由付けて逃げりゃ大丈夫なのか?」

「だったけど、おちょくられてご丁寧に乗っかってくれたヴァカが居りましてね。向こうの注意を引いちゃった以上、相手の望む方向で手打ちするしか無くなりましたですよ」

 上空から、面白がった表情でこちらを眺める『荒宇土』に、中山は視線を向ける。

「ふむ、学生除けの結界に“偶々”引っ掛からず、“偶々”動死体の餌食と成らず、“偶々”通りかかった保健室前で旧友に再会し、声を掛けた、そんなところかな?」

 至極当たり前の表情で、『荒宇土』は言い放つ。中山は普段と変らない、つかみ所の無い表情で笑みを浮かべた。

「ぐーぜんって、おっそろしいよねー! って、んな訳無いっしょ?」

 思い切り挑発としか思えない反応が、荒宇土を焦らせる。

「お、おい、挑発に乗るな云々って言った自分が挑発してどーする!」

「乗りかかった船に押し込まれちゃった以上、船員としての腕前を見せとかないと、そのままポイされちゃう可能性があるの! 時間稼ぎしなきゃでしょ?」

 中山は、良く解らない例えを小声でまくしたてた。

 ラフな格好の荒宇土は、やり取りしている少女を眺め、何かを見通したような表情に成る。

「この状況下で判断能力を失わずに、間を伸ばしつつの交渉、状況変化待ち、か。良く訓練されている。惜しむらくは、対魔道の本職ではない、という点か。ふむ、イレギュラーは排除すべきだが、本人に何の力も無い以上、クライマックスの観客が一人増えても差し支えないだろう」

 好きにしたまえ、と鷹揚に頷いて見せた。

 『荒宇土』の態度を見て、荒宇土は強張った笑みを浮かべる。

「と、取りあえず、何とか成ったっぽいぞ」

「……そうね、時間稼ぎ有難う」

「は!?」

 眼前の昇降口から、少女の声が唐突に響いた。驚いた視線の先に、ぱっきん巨乳、瓜生藤花の姿が現出する。いつものブレザー姿だったが、縦ロールの数が増え、六本になっていた。

 仁王立ちした全身の回りに、空気の凝縮と温度差が生み出した白い霧が発生し、激しく対流しているのが見て取れる。

 口元が何事かを唱えた瞬間、発光する魔法円が地面に浮き上がった。

 突き出した右手に、赤い炎が揺らめき、渦巻き、凝縮しながら白熱する球となっていく。球の回りで臨界を告げるかのごとく、放電現象が発生した。

「いっけぇーっ!」

 瓜生の絶叫と共に灼熱球が発射される。空気を切り裂く擦過音と共に、プラズマが白い残像を残して『荒宇土』目掛け飛翔した。

「何!」

 上空の荒宇土が驚きの表情を見せた瞬間、凝縮されたプラズマ火球が直撃する。腹に響く炸裂音と共に、衝撃波が荒宇土達を圧倒し、二人は反動で地面に吹き飛ばされた。

「うっひゃー、何コレ?」

「……俺に聞くな、つか、魔法だろ、どうみても」

 中山は綺麗な受身を取って、即座に立ち上がる。二、三回転がった荒宇土を助け起こすと、上空で渦巻いている煙を注視した。荒宇土は周囲を見渡し、学園の建物や窓ガラスに、一切被害が出てない事に驚く。

 瓜生は緑色に発光する球状のシールドか何かに守られ、発射直後の体勢を維持していた。ただ、二本の縦ロールが、たなびくように解けていく。荒宇土はやや躊躇った後、瓜生に声を掛けた。

「お、おい、瓜生、どういう事だ?」

「アタシの狙いは話したでしょ? それを実行したまでよ」

 油断無い表情で上空を見上げながら、瓜生藤花は答える。

「全く、どういう事かね? 御崎君」

 突然響いた声に、荒宇土は再び驚いた。同時に、瓜生を覆っていた緑色の発光が細分化され引き裂かれる。危機感に身を翻そうとした瞬間、槍状の光が複数、彼女の体を貫いた。

「ぐっ!」

 くぐもった悲鳴が響き、金髪の少女は膝から崩れ落ちる。貫いた光の槍は瞬時に消え失せ、着古したブレザーを鮮血が染め上げた。途端、髪の縦ロールが一つ解け、彼女の全身を白い輝きが覆う。

「う、瓜生!?」

 思わず駆け寄ろうとした荒宇土に、再び男の声が響く。

「学園に存在する不逞分子を捕捉したら知らせてくれるよう、約束したじゃないかね」

「そ、その声……」

 見上げた先に、護宝贋学園学園長が浮かんでいた。

「まー、君も色々忙しかったから、仕方無い、かな?」

 学園長の部屋で見た、“あの”笑みが、荒宇土に怖気を感じさせる。中山が荒宇土の前に進み出て、納得した声をあげた。

「あーハイハイ、さっきの空ウドはアンタですか」

「飛んでるから、という、単純な連想ゲームかな?」

「いやいや」

 のほほんとした中山の表情に、一瞬、鋭い影が走る。

「その、感情を排除した視線は、中々お目に掛かれないですよ」

「なるほどね」

 感心したような顔で、学園長は頷く。次の瞬間、その姿がラフな格好の荒宇土に変化した。

「んじゃ、このままで問題無いよね!」

 両手を広げ、朗らかに言い放つ。

「取りあえず、万に一つの可能性は排除出来るし、約束の不履行については不問としましょうっ! そうそう、終焉まで少し時間が掛かるから、もしアレなら花柳君達と別れを惜しんで来るといいよ。ホラ、心残りとか有るだろうし。その後で改めて、ね?」

 曰く有りげな笑みを浮かべると、『荒宇土』は眼下の少女に視線を向けた。

「さて、こっちはきちんと処理しておこうか」

 そう言った直後、足元の空間に赤い魔法陣のようなものが浮かび上がり、何語か解らない、のたくった文字が赤黒く発光しつつ浮かび上がる。学園長だった者の前に、先程瓜生が作ったような火球が現出し、同じように凝縮し始めた。威力のせいか、種類が違うからか、瓜生の火球より、凝縮速度は遅い。

 ただ、そのサイズは優に三倍は有り、渦巻く炎は、離れた荒宇土達が熱気を感じるほど凄まじいものだった。

 学園長の意図を悟った荒宇土が、思わず瓜生を助けに駆け寄ろうとする。

「待て」

 小さく、だが鋭い声で中山が制止した。

「だけど!」

「私の任務はアンタの保護だ。現状、一人でも怪しいのに、二人救出は流石に無理だ」

 駄々捏ねるなら当身食らわせて映画っぽく持ってってもいい、そう言い放つ。

 普段と全く違う、淡々とした中山の反応に、荒宇土は思わず気圧された。二、三度口をパクつかせると、不意に何か思い付いた顔をする。

「あ、そ、そうだ、さっきの偽モンの発言」

「発言?」

「万に一つの可能性って言ったろ? 瓜生は、コレを何とかする術を知ってるんだよ。言い換えれば、アイツが居ないと逆転不可って話じゃないか?」

 荒宇土のまくし立てに、中山は一瞬、真剣な表情のまま視線を外して考え込む。

「でまかせ、と言いたいが、一理有る、か。どのみち温存しても意味無いし、天然モノの金髪縦ロールを無碍に散らせるのも夢見悪い」 

 何事か一人で納得すると、荒宇土の耳元で囁く。

「アンタの英雄的行動に乗ってやろう。一旦、目をつぶって。爆音と同時に行動開始。ダッシュであの娘を回収。ココから撤退する。途中で変なもの見ても、気にスンナ」

 荒宇土が頷いて目を伏せる。中山はブレザーのポケットから幾つかの紙切れを取り出した。

「ホントに使えるんかいな……ええい、ままよ!」

 小さくそう呟くと、握りしめた紙切れを虚空にほおり投げる。

「発動っ!」

 中山の声が響くと共に、投げ出された沢山の紙切れが膨張し、炸裂した。

「おや?」

 のんきそうな声で『荒宇土』が振り返ると、強烈な光が降り注ぎ、派手な炸裂音が連鎖で響く。思わず目を伏せた『荒宇土』の下を、中山と荒宇土は倒れた少女目掛け駆け抜けた。

 断続的に発生する発光と炸裂音に囲まれた『荒宇土』の魔法陣が止まり、消失していく。

「急げっ、長くは持たないぞ」

 ぐったりした瓜生の肩を左右から担ぎ上げ、荒宇土達は校舎の脇を必死に走った。

「ほぉ、青春だねぇ。助ける事を選択したんだ」

 上空から見下ろした『荒宇土』が感心したように頷く。

「でも、イレギュラーは無しだ」

 先程と同じ光の槍が『荒宇土』の隣に浮かび、瓜生目掛け発射される。曲線を描き、凄まじいスピードで飛翔すると、背中から突き刺さった。

 ぽん、という場違いな軽い音と共に、三人の姿が掻き消える。ちりじりに舞い散る紙切れを見て、『荒宇土』は苦笑した。

「符呪、幻影か。かー、まいったナァ。ちゃんと奥の手を持ってたとはね」

 視線の端を、必死に走る三人の姿がかすめる。グラウンドの方に向かって走る三人。昇降口に駆け込もうとする三人。先程の姿をトレースするように、校舎脇を駆ける三人。逃走を図る様々な三人が、『荒宇土』の眼前で繰り広げられた。

 面倒臭そうな顔で逃走劇を見て、申し訳程度に校舎脇の三人目掛け、光の槍を飛ばす。再び響いた“ぽんっ”という音に、やれやれといった調子でため息を付くと、『荒宇土』は、それ以上何もせず、唐突にその姿を消した。

 再び三人が現れ、校舎脇を駆けて行く。

「ひっ、ひえー、アッブネー」

 強張った顔で荒宇土は呟いた。

「いいから。さっきの映像ぽく走って。あと、道案内はヨロシク」

 中山は真剣な表情を崩さず、視線だけ左右に走らせ周囲を警戒している。

 瓜生の下に駆け寄った際、中山は爆音と目くらましの符に加え、逃走する自分達の幻影を生み出す札を投げていた。

 屈み込んで瓜生の傷を確認すると、姿隠しの札をその場に貼り付け、待機する。『荒宇土』が幻影に気付いた後、急いて逃げようとする荒宇土を押し留め、念押しの一撃を見届けた上で、初めて逃走を開始したのだった。

「傷、大丈夫かな?」

 荒宇土は、項垂れたまま、半ば気を失っている瓜生に気遣わしげな視線を向ける。中山は警戒を崩さないまま、瓜生を見ずに答えた。

「どうやってか、止血されてる。恐らく、呪法だか魔法だかで本人がケアしたんだね。普通なら即死コースだよ」

「なら、まずは安全な場所に移動しなきゃな」

 二人は精一杯の早足で、学生寮への坂道を登っていく。周囲や頭上には巨大な魔法陣のようなものが幾つも浮かび上がり、回転や明滅を繰り返していた。

 寮の入り口まで、呆気無いほど何事も無く辿り着く。建物の陰で一旦立ち止まると、中山が先行して、玄関ホールの様子を伺った。中は静まり返り、本来居る筈の受付も姿が見えない。

 そっと玄関ホールに入り、周囲の安全を確認した。

 戻った中山が隙の無い手振りで合図する。瓜生を担ぎ上げると、二人は、わき目も振らず忍び足で階段を駆け上がった。

 普段、秒単位で辿り着ける道のりが、とても長く感じられる。

 上がって直ぐ、自分の部屋に飛び込んだ時、荒宇土は思わず大きく息を継ぎ、その場に座り込んだ。

 奥の部屋から、扉の開く音を聞きつけた惟知香が駆け寄ってくる。

「無事だったか。一体全体、何がどうなっている?」

 言いながら、中山と瓜生に視線を向けた。ニヒルな顔で中山は笑みを浮かべ、だらりと項垂れたままの瓜生を、肩で支えている。真っ赤に染まっている瓜生のブレザーを見て、惟知香は顔色を変えた。

「お、おい、大丈夫か? 兎に角、上がりたまえ。怪我の手当ても必要だろう」

 一人で瓜生を支えていた中山に手を貸し、リビングへ連れて行く。肩で息をしていた荒宇土も、呼吸を整え後に続いた。

「おっじゃまっしまーす」

 敢えて発したのであろう、普段と変らない中山の声を聞き、一瞬、荒宇土に何かがこみ上げる。ツンとした鼻の奥を無視して、深く息を吸い込むと、何かを吹っ切って奥の部屋に向かった。

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