四章 意志の果て際?
――深夜――
漆黒よりややマシ、といった空が重く広がる。月が出ていないせいで、山々と夜空の境界すら曖昧で、通学路に点々と連なる常夜灯が、妙に眩しく浮かんでいた。
黒い石塔じみた学園の建物が連なっている。寮と裏山が広がる裏手の方に、マグライトの明かりが一つうごめいていた。
「ジャーマンで相手ぶっこ抜いて投ーげーてーゆきたいーっ♪」
明らかにのんきそうな少女の歌声が、何かをはばかる様に小声で響く。
軽快な足取りで、部活動用の用具室が並ぶ暗い小道を進んでいた少女の足が、不意に止まった。照らし出された用具室が作り出した陰から、黒い塊がじわりと伸び上がってくる。
「おわ、また?」
少女の声に緊張感が走った。塊がよろめく様に一歩踏み出す。
一瞬、腰を落として身構えた少女だったが、思い直したように、元の飄々とした調子に戻った。
「どもー、私新入生、なんですけど。道に迷っちゃって。運動部系に入部しようと思って、探してたんですけど。部室棟って解ります?」
夜半を過ぎているにも拘らず、少女は当然のように言い放つ。
のったりした塊に向かって、一文一文を確かめるように、語り掛けた。その度に、ブレザーのリボンが薄く、緑色に発光する。
「……」
少女の問い掛けに、黒い塊は立ち止まった。しばらく間を置いて、ゆるゆると動き、部室棟が有る、学園のグラウンド側を指差す。
「あ、あっちですか、あざーっす!」
少女の礼を聞くと、ブレザーを着込んだ腐敗した死体がゆっくり元の場所に戻り、ずぶずぶと地面に沈んでいく。
少女は、小さくため息をつくと、唇を舐めた。マグライトで周囲を照らすと、方向を変え、学園の校門側に向かう。
『てりらりったったったらったったってりらりったったったらったっ♪』
「うひょうっ!」
突然鳴り出した着信音に、具体的に驚いた声を上げながら、少女はスマホを取り出した。
「はいはーい、生きてますよー、ホンモノですよー、わさわさ出ましたよー」
「まず聞こう。何が出た?」
反響する音が大きく響き、少女は多少声を潜める。
「がっこ指定のブレザー着た、動く腐乱死体が調べろと言われた場所付近に。んま、最近の学校には、付き物なんじゃないすか? この手のゾンビって。アタシは初体験だったけど」
電話相手の声が穿ったものになった。
「いつもの調子で、粉砕してないでしょーね?」
「しないしない。一瞬考えたけど。言われた通り、迷った学生ギミックで押し通ったですよ。しっかし、ホントに呪法って効くんっすね。ドコも拍子抜けする位、あっさり引き下がりましたわ。さっきなんか、ご丁寧に、尋ねた場所まで教えて貰ったですよ。首無かったんで、ジェスチャーだったけど」
深刻そうな声がスマートフォンから響く。
「そう、無事だったんなら良かった。一応、出向なんだから、無理はするな」
「えー、ちょっと護衛するだけの簡単なお仕事です、から、突然の潜入実態調査に変更させといて今更っすわー。しっかし」
そういって、少女は初めて緊張を解いた。
「ホントにああいうの、居るんっすね」
「おおい、アンタは対『ああいうの』用の専門訓練名目で、ウチに出向して来たんじゃないっけ? 一応、レクチャーはしたろう」
少女は、街灯脇の花壇に座れる場所を見付け、マグライトを消しながら座り込む。
「いやいやいや、上意下達に詳しい理由なんか無し。期日と場所に、誰々に説明を受けろっていう、書類が口頭になっただけの命令聞くだけっすよ? いざ出頭して驚いたのなんの」
眼鏡を軽く押し上げながら、真顔に成った。
「ホラー映画やアクション洋ゲーの主役に成れるとは、思ってないですって」
「いや成るなよ。許可するまで実力行使は禁止。情報収集がアンタの任務なんだから。危険を感じたら即撤収。可能な限り隠密に……は、無理だな」
「無理っす、こんなムチャ命令。地雷原の地雷を爆破せず密かに踏んで回れって命令並みにムリゲーっすわ。これでゲーム実績解除だったら暴動起きるレベル」
「あ? その位、良くあるレベルだろ?」
「ないわー、クソゲー経験世代は、流石に訓練され過ぎっすわー」
「おい、私は一応二十代だ……まぁいい、不毛な応酬で時間を消費したくない。指定した場所は、後何箇所だ?」
少女はスカートを軽くはたきながら立ち上がる。
「正門側一箇所」
「気をつけて」
「ういうい」
言うと、少女はスマホをしまい込み、周囲に視線を巡らせた後、歩き出した。
『ぴっ』
携帯の通話終了音が、室内に響く。
古めかしい畳敷きの六畳間に、吊り下げ電灯の蛍光灯が、薄暗い光を投げかけた。
壁には、古風なぜんまい時計が掛けてあり、歯車が小さな音を立てて時を刻んでいる。
良い塩梅にくたびれた丸テーブルに、二人の女性が差し向かいで座っていた。
黙って電話のやり取りを聞いていた女が、解っている事を確かめるように口を開く。
「やはり、お守り置いとりましたか?」
電話していた女が、小さく頷いた。
「ええ。魔道、結界の発動ポイントとするのに最適な場所へ。この動死体の術が、ゾンビにどういった命令を与えているのか解りませんが、現状、アクションを起こさない限り、積極的に排除行動を取らないようです」
和装に身を包んだ女性が、指先で思案げにほほを押さえる。
「今の話だけやと、流石に弱いでっしゃろなぁ」
タイトなビジネススーツに身を包んだ女性が、苦味を感じさせる表情をした。
「残念ながら。貴女の懸念を神儀局上層部も重く受け止めています。ですが、何が起きているのか、の具体的な説明すら出来ない状況ですと、他省庁への協力要請その他、交渉すらロクに成り立たないのが現状です。お役所的縄張り意識が相変わらず存在しますし」
「縄張り……ああ、どなたさんが仕切るか、でっか」
スーツのすそを軽く引きながら、疲れた笑みを浮べる。
「建前上、神儀局は厚生労働省の直轄。国の脅威に関しては、深刻さに応じて、警察組織から軍まで、対応する部署がそれぞれ有るのですが、生憎、こういった存在に対する即応、という点に関しては、ウチが一番場数を踏んでいます。緊急時には、ほぼ無制限な権限と、要請という名の命令が出来るようになるのですが……」
「元々、それ専門の人等やからな」
訳知り顔で和装の女性が頷く。
「ですが脅威内容が判明して無い現状、他の省庁からすれば、特定事象発現を確認されてない状況で、何故に他省庁の下部組織の指揮下で動かねば成らん、という輩が必ず出てくるんです。協力的な者や部署が存在しているのも事実ですが……」
「そういう出来物さんは、組織の中で疎まれとるんが殆どや。とどのつまりは、『ほれ見い』て言える状況まで、行かなあかんちゅう事か」
「です」
二人は揃って苦笑する。
不意に、携帯の着信音が鳴り響き、スーツの女性が失礼、と言いつつ通話モードを押した。
「はい、一条。……ほお、なるほど。それは、神儀局以外の八卦占星術もそうなのか? おい、それを確認しないでどうする。直ぐ各所に探りを入れろ。伝手が有る所だけで構わんが、それ以外からアプローチが有ったら、それとなく仄めかして、反応を見ろ。可能なら情報交換しておけ。ただし手持ちカードは切るな。この先、使う可能性が高いからな。うん。ああ、解り次第頼む。ハイ」
携帯を切ると、和装の女性が、お茶をすすりながら確認する。
「なんぞ妙な事でも有ったんか?」
「妙、と言えば妙ですが。直感が脅威を伝えているという、貴女の懸念を上層部に伝えた際、ウチの八卦予知系列の部署に、近々何か異変が起きてないか、データのチェックを命じたのです」
スーツ姿の女は、手で、礼を伝えると、置かれていたお茶に口を付け、一息入れた。
「今に成って、異変が確認されたそうです。コンピュータにデータ打ち込んで、図表化して気付くとか、間抜けも良いとこですが」
「で、なんですのん?」
「今年に入って、占星術、八卦、その他未来予知系列の的中率が加速度的に上がってきているそうです。ここ最近は、ほぼ完全に予知出来ているとか」
スーツ姿の女性は、うんざりした表情を見せる。
「俺達最近イケてるっ! っと、予知担当者達は本気で思ってたようです。データ管理の子が、疑問を提示して、初めて不自然さに気付いたとか」
後で〆ときます、そう言うスーツの女性に、和装の女は、程々にな、と苦笑した。
「しゃーないわな、予知者は当たれば当たる程、腕が良い、と認知されるさかい。せやけど、八卦占いに満点はあらへん。何かが外れるか、全く見えへんか、が何処かで起こる」
見ようと思ったものが総て完全に見えるのは流石にありえへん、そう締めくくる。
「ウチのブレーン陣に、現状の情報から類推、想起される禍事を洗いざらい列記させてます。運が良ければ、正解が掴めるかもしれません」
ふと、和装の女性が怪訝な顔になった。
「ちょい待ち、今回の件、占い八卦の類で、調べてないんか? 今やったら百発百中なんでっしゃろ? そうで無くとも、ここまで結構時間は有ったんやし」
問われたスーツの女性は、え? と疑問系の顔をした後、心底驚愕する。
「……え、あれ? ……わ、し、失念していました。そう、ですよね。八卦占い夢見、総動員で当たるべきなのに。何やってるんだ、私はっ」
和装女性の視線に、鋭いものが混ざった。
「うっかり、にしてはやらかし過ぎやな」
「面目有りません」
本気で恐縮しているスーツの女性に、和装の女性は真剣な表情をむける。
「いや、あんさんだけの話や無い。このピリピリした感じについて話たんは、一年以上前に成るな? それから今まで、あんさんは色々手を尽くしてくれはった。本腰入れた調べや無いにせよ、真剣に受け止めた筈なんに、予知の技を使う事を一切せず、うちはあんさんが何度か訪ねてきた時に、予知や八卦を使うて無いか確認もせんと、使うよう勧めた事すら無かった」
うちら二人、そろって阿呆でうっかりさんって事か? と、冗談とも本気とも取れない調子で締めくくった。
「正直有り得ない話ですし、自分でも信じられません。ですが、私達二人を含め、呪法その他、何らかのエフェクトをこれだけ大掛かりに行使する事が出来る存在等、到底……」
有り得ない、とスーツの女は首を振る。
「せやけどな、多分、それが起こってるんや。先入観いうんは、この際置いとこ。何より厄いんは、今まで思わへんかった事が、今日はすらすら考えれるっちゅう事やで」
スーツの女性がハッとした表情を浮べた。
「まさか、それは」
「今まで出来んかった事が、出来るようになった。邪魔しとった奴が居るなら、邪魔せんでも良うなった、つまりは、事が成就した、もしくは準備万端整った、ちゅう事やないか?」
「手遅れ……かもしれないと?」
和装の女性は何かを考えながら、茶道風に湯飲みを両手で回す。
「それはわからへん。せやけど、事は思てる以上に大事、大禍事かもしれん。手間やけど解ってる事を改めて上に伝えてくれへんやろか? 占星術や八卦使うんも念押ししてな」
スーツの女性は頷くと、携帯電話を取り出し、各所に連絡を入れ始めた。和装の女は、ちゃぶ台に置かれた、手付かずの羊羹を眺めながら、一人、物思いにふけっていた。
『さくらちゃん、あんじょうしてくれてるやろか。あの子やったら、一人で因にたどり着ける筈やけど。こっちから連絡……は無いな。あの子も因と成る可能性が有る以上、迂闊に手ぇ出して、応報に影響与えるんは、愚の骨頂や。やるなら、総てが極まったその時……』
電話相手と、もどかしげにやり取りしている女性に、気遣わしげな視線を送りながら、和装の女性は小さくため息をつく。
掛けてあったぜんまい時計が、軋む様な機械音と共に、定時を告げる乾いた音の鐘をならした。
――同時刻 護宝贋学園 学生寮――
通路の蛍光灯が、頼りなげな明かりを照らし出す。
幾つかを除いて、殆どの部屋が真っ暗に成っていた。荒宇土達の部屋も、明かりが消え、しんと静まり返っている。
結局、荒宇土達の『調査に関しての相談』と称するダベりは、夜半過ぎに終わった。
ぞれぞれに消灯前の準備をし、挨拶すると寝床に入る。就寝前、荒宇土は、気持ちが高ぶって眠れないのではないか、と危惧していた。余りにもイベント盛り沢山だった一日を振り返り、眠れぬまま夜が更けていく。予め整えられていた二段ベッドの下段に潜り込んだ時は、そう思っていた。おやすみ、の一言をそれぞれが投げ掛け、寝具をまさぐる絹ズレの音が暗い室内に響く。
荒宇土は、あくびと共に目をつぶる。眠りに落ちていく、という実感も無いまま、彼は落っこちるように意識を無くした。
途端、泡が弾ける様な感覚が広がる。ふつふついう小さな弾け一つ一つが、何かの呟きとなって彼の全身を包んでいく。
不可思議な感覚に、荒宇土は目を開けた。真っ黒な空間が広がる。虚無の中、体の感覚が無く、自分が立っているのか、座っているのかすら解らない。
視点のみ自由に動く。周囲を見渡し、何がどうなっているのか理解しようと意識を集中した。
『!?』
ふつふつという弾けが意味を成す言葉と成って、荒宇土の耳を掠めていく。大勢が独り言を耳元で囁いたような複合した小さな声が、意味を持って流れ出した。
『初めて気付いた時、自分がオカシク成ったと思った』『気にしないように勤めたが無駄だった。無理だった。総ての風景が重複し、拡散していく』『言葉も音も匂いも総てが折り重なって、意味を成す。田園風景に、見た事も無い巨大な毛トカゲが闊歩し、折り重なった黒衣の死体を焼き払っている最中、きらびやかな戴冠の儀式に高揚した人々の歓声が重なる。様々な色が混ざり、濁り切った絵の具そのもの。それを拭い去る為に、我が身を虚空へ投げ出した』
耳に届く言葉が映像と成って、映画のごとく真っ暗な空間に浮かび上がる。言葉が進むにつれ、違う映像が折り重なるように出現し、動き、重なり、増え、所々不意に消える。
『だが、虚無も天国も無かった。確かに我が我で無くなったのに、私は普通に存在する。絵の具も延々濁っている。何度か同じ事を試した後、ワシは総てを諦めた。気持ちが色褪せた頃、混沌の色味を意識しないで済む唯一のひと時が、活字へ没頭する事だった』『様々な文字を羊皮紙で、粘土板で、紙で。幾度か巡った後、初めて転機が訪れた。総てが薔薇色だと思われた一瞬。夢のエネルギーと驚嘆を綴った物語。科学を虚像で糊塗した一節。時代転移。貪り続けた僕が己で無くなる寸前、萎びた震える指先がめくったページに、永遠を終わらせる言葉が有った』
『平 行 世 界』『界 世 行 平』
『だがそれは取っ掛かり。選択が無限分岐する事こそが、混沌を解く本当の鍵』
「それが解った時、総てが、氷解し、歩み始めたんだよ」
漆黒の空間に直立し振り向いた『荒宇土』が、にこやかに言い放った。
驚きと共に問い質そうとした瞬間、意識が途切れ、何もかも暗黒の深遠に埋没していく。
黒く塗りつぶされていく意識の中、これは夢なのだろうか? と荒宇土は自問自答した。再び、総てが覆い尽くされ、覚醒した意識も遠のいていく。
暖かで、懐かしい感触が、荒宇土を包み込んだ。
遠くの方で、何かががなり立てている音を感じる。
目覚ましか何かが鳴っていた。頭の中が再起動するコンピュータのように、様々な事柄を矢継ぎ早に列挙していく。今日はやる事が色々と有る。ぱっきんぼいんは勿体無かった。
あ、真祖中二病さんは座ってて下さい……。
荒宇土のふわふわとした意識がゆっくり覚醒していく。
「ふぁ……ん?」
暖かな毛布から、腕を伸ばして伸びをしようとするも、身動き一つ取れない。全身がんじがらめにされ、動けなくなっている。
昨夜見た真っ暗な夢が靄のように掛かり、多少混乱した頭のまま、荒宇土はしょぼつく目を開いた。
黒く艶やかな髪が、眼前に有った。安心しきった表情の惟知香が荒宇土に顔をうずめるようにして、小さな寝息をたてている。正面から抱き付かれた状態の荒宇土は大声を上げて飛び退こうとして、身動き一つ取れない事に驚愕した。
「ん……」
微妙に不満を感じる寝息をたてた惟知香が、絡み付けた腕や足で、荒宇土を思い切り抱き締め、身動き取れない胸元に顔を押し付ける。
「おぁーーーーっ!」
全身を絞め付ける強烈な痛みに、荒宇土は声に成らない悲鳴を上げた。
痛みで五感が覚醒する。さらりとした髪が流れ、シャンプーの入り混じった甘い香りが漂う。
身を寄せ合った暖かな温もりが、密着した肌を包み込む。押し付けられた胸元の弾力と感触が、ワイシャツ越しに荒宇土の体に伝わってきた。張りの有る太ももが、荒宇土の足に感じた事の無いしっとりした重みを与えてくる。
「ちょ、ちょっとのぶのぶ? 惟知香さん? 何をなさってつうか痛いってオイッ!」
痛みと混乱と、傍目に見たらテンプレラッキースケベな状況を理解し、荒宇土は顔を真っ赤にした。
「くぅ、ん……」
荒宇土の悲鳴交じりの抗議に、惟知香は寝足りない子供のような声を上げ、頬を荒宇土の胸元に摺り寄せる。同時に、抱き締められた荒宇土の背骨が軋む、嫌な音が響く。
「ぐぅぉあーーーーーっ! のぶさんちょっーと待って落着いてそーっと緩めてみようほらリリース放して助けろくださいぃっ!」
「ん……るさぃの」
寝ぼけた声を上げ、惟知香が薄目を開いた。荒宇土が悲鳴交じりで抗議する。
「おっ起きたかっ! 状況について言いたい事は色々有るが、そこは我慢する。先ずは緩めろっ離してくれ」
「……だきまくぁ」
「は? 抱き? 抱き枕?」
視界の端が赤く成っているのを感じながら、荒宇土は思わず聞き返す。
「子ろものころ無くしたの……見つけたの」
惟知香は、んーっ、と緩んだ嬉しげな表情で、頬をぐりぐりした。枕を持ちかえる様に両腕を動かしてくれたお陰で、荒宇土の緊縛が多少緩む。
「ちょっ、寝ぼけ? 今時そんなテンプレ寝ボケって有るの有りなのっ?」
「ははははは、掛かったなアラアラッ!」
不意に、足元でさくらの声が響いた。荒宇土が首だけ動かしてそちらを見ると、ベッドの空いたスペースに、猫モードのさくらが丸くなっている。
「ハーフのアンデッド、という点を失念していたお前の落ち度よっ!」
「は? んじゃ、この馬鹿力も真祖だかの能力かっ!? でもこの寝ボケはどういう事だっ!?」
「半パイアは冷気に強いっ。だが、その分……」
山猫は、起き上がって伸びをしながら、あくびした。
「低血圧なのだ」
素っ気無く言い放ったさくらに、荒宇土は慌てて懇願する。
「な、なんだってー……って、理屈は解ったから、コレどうにかしてくれ」
「目覚まし三個のジェットストリーム鳴らしすらロクに効かない鉄壁の低血圧ゆえ、救出は困難だと思う」
全身丁寧に舐めながら、さくらは暢気に応えた。
「ちょっと待て、お前がベッドで寝ないのって、もしかして……」
「え? 今更気付いたの? バカなの? 死ぬ……かもしれんな、そのままだと」
「テメーッ!」
「ちょっと待って欲しい。天袋は好きだから居るのだ。その辺についてお前が納得するまで詳しく説明するのも、やぶさかでは無いが?」
「聞き終わる前に俺がしぬるというか折れるっ。早く何とかしてくれ」
フッと人モードに戻ったさくらが、寝ている二人に身を乗り出す。
「どーしよっかなー、うちにどんな利益が有るのかなー」
惟知香の物言いを真似、眼鏡越しの眠たそうな目が、優越感の有る輝きを見せた。
「……んー、さくらうるさい」
鬱陶しげな声を上げた惟知香の手が有無を言わせないスピードでさくらの襟首を掴む。
「しまっ!」
さくらは逃げる間も無く、惟知香と荒宇土の間に押しこまれ、荒宇土の体と一緒くたに抱き締められた。
「みぎゃーっ!」
「まだおっきする時間じゃないから、一緒にねんねしよーねー」
「ちょっ! え? ……」
「ああっお前っ、その『これはこれで』っていう、とてつもない顔はなんだっ!? ええいっ、とっとと正気に戻らんかっ、のぶばかー! むぎゅんっ」
惟知香の胸に押し付けられ顔を半分うずめながら、さくらが荒宇土と惟知香に抗議する。
「いや、そんな事思ってない……てか、余裕が……無い」
「のっのぶちか、ねんねどころで無く、永久に眠る勢いの奴がココに居るぞっ!」
荒宇土が半ば白目を剥きそうに成っているのを見て、さくらは慌てて惟知香の顔をぺちぺち叩いた。
「んっもう……何ださくら。おなか空いたなら、自分でカリカリを食べれば良かろう」
「腹も減ったが目覚ましも鳴ってるっ! 起床時間を過ぎているぞ、のぶちかっ」
ミクロン単位で残っているかもしれない惟知香の理性に、精一杯訴える。
「あれぇ……もうそんな時間か……ならば起きる」
自称『抱き枕』とさくらを抱いたままの姿で、惟知香はゆるゆる起き上がった。片手で口元を押さえながらあくびすると、ぼぉっとした顔で、抱き枕とさくらを見比べる。顔を赤黒く染めている荒宇土を暫く眺めた後、ようやく状況を理解したのか、抱き締めていた手を緩めた。途端、脱兎の勢いで猫モードのさくらが上の段に飛び上がり、荒宇土が崩れ落ちる。
「……初日から夜這いとは、大胆な男だな、君は」
惟知香は眠そうに目をこすりながら、淡々と言い放った。
『こっちの台詞だーっ! むしろこの状況からその発言がいっそ大胆だよっ!』
正面切って抗議する余裕も無く、荒宇土は、這いつくばった姿勢で荒い呼吸を繰り返している。
「のぶばかーっ! だから手袋は常日頃身に付けろと言っておろう!」
「えー、室内のモノに対する力加減は、体で覚えているから大丈夫だと思って……」
見上げる惟知香に、さくらがベッド上段の枕元に置いてあった指貫きグローブを投げつけた。
未だ覚醒前っぽいのに、見事なワンハンドキャッチを見せる。ゆるゆるした動きでグローブを身に付けると、思いっきり背伸びをした。ワイシャツ越しの胸元がグラビアパースで自己主張する。うつぶせのまま見上げていた荒宇土は、自分のストライクゾーンから外れている筈なのに、うっすら顔を赤らめ、視線を外した。
ぼぉっとしていた惟知香の表情に、ようやくいつもの生気が戻り、両目が意思を取り戻す。
「……ああ、おはよう、諸君」
「お、おう」
「そ、それが第一声か?」
ふとんに倒れたままの荒宇土が、搾り出すような声を上げた。
「ん? ああ、言い忘れていたが、私は夜トイレに行った後、上段ベッドに戻るのが面倒で、そのまま下段で休む事が有る。気を付けたまえ」
そう言いながら、しなやかに立ち上がり、目覚まし時計総てを止めていく。
「いや、んな事は聞いてない」
荒宇土が恨めしげに見上げた。惟知香は小首を傾げた後、爽やかな笑顔を見せる。
「ああ、そうか。今日は普段以上に快眠だった。やはり前日忙しく立ち働いた結果だな。寝起きがちょっと慌しかったが、それも共同生活の趣だ」
『コイツ本気か天然か? それとも、誤魔化してるつもりなのかっ!?』
惟知香は荒宇土に背を向けたまま、小さく舌をだした。振り返っては、ごく当然のような表情で、キッチンへ向かう。
荒宇土はうらめしげな顔で起き上がった。人モードのさくらが、上の段からもぞもぞ降り、
何事も無かったかのように、コタツへ潜り込む。
「のぶちかー、朝はパン? トーストなら、バターの上に
はちみつるやつでしくよろー」
「ん、ではそうしよう。君は、バターの上に蜂蜜をかけて大丈夫か? 味は乙なものでお勧めだが。バター原理主義とか、のせるものは小倉あん以外認めない、という特定地域出身なら有る程度の考慮はするぞ? あ、飲み物はコーヒーか牛乳どちらかにしてくれ。紅茶は手間なのでな。もちろん、片付け含め、セルフなら話は別だ」
荒宇土は開きかけた口を閉じると、諦めた表情になった。
「あー、さくらと同じでイイです」
「うむ、では手伝いたまえ。私はまず、コーヒーを入れる」
さくらは、積んであった文庫本を一冊選び、コタツに突っ伏すいつものポーズで読み出している。
キッチンから、ケトルに水を入れる音や、冷蔵庫の開かれる音が響く。荒宇土は小さくため息を付くと、パジャマ姿のまま、手伝う為に立ち上がった。
食事自体は、小一時間程で終わった。それぞれ登校前の準備を済ませると、惟知香が率先し、学校へ向かう。荒宇土にとって、教室への初登校は多少の緊張感を伴うものであったが、到着直ぐの驚愕が総てを押し流した。
『じしゅう』
黒板の下手くそな平仮名に、思わず惟知香へ振り向く。
「……ええと、のぶさん、コレは一体?」
「言わなかったか? 基本、我がクラスの授業は総て自習だ。時折、気が向いた生徒が、自己の習得している言語や学問を教えてくれたりする以外は、総て自分の責任において勉学に励まねば成らない」
すまして応える惟知香に、荒宇土は引き攣った笑みを浮べる。
「マジで?」
「真剣で。君、仮に大学進学を目指しているのならそれなりに励まないと、三年後にツケが回ってくるぞ。私達は基本、ココに何年居ても問題無いが、君はそう言ってられんだろう」
見渡すクラスの中で、ソコココでグループを作ったケモ耳娘達が、きゃいきゃいはしゃいだ声をあげていた。机の上に丸くなっている猫も居る。中には真面目そうな顔で学園指定と思しき教科書や、文庫本を開いている者も居た。ひとしきり見渡した後、荒宇土は声を潜め惟知香に耳打ちする。
「あー、さくらが学園長を疑った理由が何となく解った気がする。……そ、それはさて置き、アレは何だ? あのオッサン達は?」
惟知香が荒宇土の視線の先に目をった。
幾人かの、厳しい男達が、歴史の有りそうな分厚い古書を開き、指先で文章をなぞりながら、何事かを真剣に話し合っている。初老や還暦を越えた、人生の渋みを感じさせる男達が、荒宇土と寸分違わぬブレザーを着て、ソコに存在していた。こちら学園長です、と紹介されたらごく普通に受け入れられるだけの貫禄と年輪を兼ね備えた者達が、実直に学園の制服を着て教室に存在しているシュールな光景に、荒宇土は軽いめまいを感じる。
「ん? 彼等に興味が有るのか?」
そう言うと、惟知香は一団に近寄り、荒宇土の知らない、イタリア語のような言語で言葉を交わす。暫く会話した後、軽い挨拶を残し、荒宇土の元に戻ってきた。親父ブレザーズは、荒宇土に視線すら寄越さず、古書を挟んだ論議に没頭している。
「何でも、形面学上の重要な問題に示唆を与える内容だとかで、この文章が彼等の探求にかなり影響を与えるらしい」
「そうかわかったありがとう」
生真面目に報告する惟知香に、荒宇土は諦めの入った謝意を伝えた。
『そうじゃない、聞きたいのは、んな事じゃ無いねん。ブレザーだろブラザー?』
「で、俺の席は何処に成るんだ?」
心の叫びを封印して、荒宇がは自分の席を尋ねると、惟知香が指し示す。
「ああ、窓際の一番後ろだ」
そう言って自分はその席の前に向かい、カバンを置いた。
荒宇土は形面うんたらより、転校生の席はココ、みたいな定番理論を研究した方が、余程有意義だと一人思う。惟知香に続いて示された席に向かい、カバンを置いてイスに座った。
「おっはろー」
先程まで空席だった、となりの席から突然声を掛けられ、荒宇土は心底驚いた。
金髪の髪に縦ロール。見事なボディラインに、勝気な表情。
昨夜、唐突に現れ消えた少女が、学園のブレザーを着て、そこに座って居た。
「おっお前……」
荒宇土のただならぬ反応に、後ろを向いた惟知香が眉をひそめる。
「君は……」
一瞬考え込んだ後、惟知香は得心行った顔をした。
「ああ、もう一人の新入生か。名前は確か……」
「どもー、わたしは瓜生藤花、よろしく、ねっ」
荒宇土と惟知香に笑顔で挨拶する。律儀に自己紹介した惟知香の耳元に荒宇土が囁く。
「こ、こいつだぞ、夕べのむちぱっきん」
「! ほう、それはそれは……では、色々と尋ねるとしようか?」
額を寄せ合って密談していた二人が顔を上げた時、瓜生藤花は座っていた席から姿を消していた。
「き、消えた?」
「いや、単に妙な雰囲気を察して、席を外したのだろう」
周囲を見渡した惟知香は、素っ気無く言い放つ。
荒宇土は、ふと、何か思いついた顔をした。
「しっかし、俺以外にも、新入生が居たとはな。知らなかったよ」
荒宇土の問い掛けに、惟知香が不思議そうな顔をする。
「昨日話したろう?」
「そうだっけ?」
「ああ、話した筈だ。それに掲示板のプリントにも、名前が二人分出ていたろう?」
「え?」
荒宇土が訝しげな顔に成る。覚えている限り、昨日見た掲示板には、自分の名前しか無かった筈だ。
「掲示板のプリント、俺には、自分の名前しか見えなかったって事は無いよな?」
「当然だ。ちゃんと瓜生藤花の名前も載っていただろう?」
否定しようとして、荒宇土は思い止まった。勘違いの可能性が万に一つ。後は、昨日さくらが話していた、妙な事に関係してくる可能性が一つ。
先ずは掲示板を見てこよう、と判断した。
荒宇土は適当な理由を付けて教室を抜け出し、掲示板へ走る。プリントは撤去されず、残されていた。昨日、ためつすがめつしたクラス分けの最後、神秘科の名簿を見る。
『……神秘科Aクラス 御崎荒宇土 瓜生藤花』
学生手帳を握り締めたまま、荒宇土は絶句した。昨日は間違い無く自分の名前しか無かった筈なのに、荒宇土の後ろに、瓜生の名前が存在している。
「おやおやぁ、ビックリ、つか御不満そうですなぁー」
後ろから聞こえる声に、荒宇土はゆっくり振り返った。
金髪縦ロールが風にそよぐ。ブレザー姿の瓜生藤花が、腕組みして立っていた。
「アタシの事がそんなに気になるのかな? え、まさか一目惚れってやつ?」
藤花の挑発的な視線が荒宇土に注がれる。
「そんなんじゃ無いな。俺が気にしてんのは、昨日無かった筈の名前が、突然プリントに出現している事さ」
「えー? 元から有った、んだよ。あの子もそう言ってたじゃんっ」
にやにやしながら答える藤花を、荒宇土は睨み付けた。
「俺にとって、あれだけ印象的な出来事を、最初の驚きを、一日で忘れたり記憶違いしたりするもんか。 お前は何者だ? 何を狙ってるっ? 惟知香の記憶に、何かしたのかっ?」
「そうね、答えてやっても良いかもね。極力単純に言うなら……」
真剣な荒宇土に、藤花は表情をあらためると、素っ気無く言い放った。
「アタシが狙ってんのは、アンタの首よ」
「はぁ?」
自分が標的だと言われた荒宇土は、その言葉の意味するところが解らず、混乱する。
「何だそりゃ、首って俺の命って事か? 何で俺が狙われなきゃ成らないんだっ!?」
「解ってないなー。ま、当然か。別に良いけどさ」
やれやれ、といった雰囲気で金髪の少女は肩をすくめる。
「さて、ややこしいのが来たみたいだから、アタシ行くわ。んっじゃねー!」
踵を返すと、荒宇土が呼び止める間も無く、軽やかに走り去る。
「ああ、こんなところに居た。君、不可侵協定仲裁者自身が、守らせるべき決まりを率先して破ってどうする?」
背後から惟知香の声が響いた。振り返ると、廊下の窓を開け、身を乗り出した惟知香が手招きしている。一瞬ためらった後、荒宇土は窓際に近寄った。
「ん、君、どうかしたのか?」
「いや、何でもない。それより、なんか用か? バックレ推奨派のお前が、決まりを守らせるためだけに俺を探してたとは思えんが」
「もちろん。早速で悪いが、相互不可侵協定仲裁者様の手並みを拝見する時が来た」
そう言いながらニヤリと笑う。ついて来たまえ、そう言って歩き出す惟知香を見て、荒宇土は慌てて昇降口から校舎に戻った。
行き先は学園の屋上だった。本来なら、こういった場所は立ち入り禁止なのだろうが、神秘科最上階は、出入りできるよう、ごく普通に開け放してある。
ただっ広いコンクリの平面が広がっていた。神秘科の誰かが持ち込んだのか、古いコタツが野ざらしで置いてあり、上にはお菓子が雑多に置かれている。端のフェンス際には、元から据え付けられていたのか、木製のベンチが左右に幾つか置いてあった。
惟知香は、慣れた足取りで奥へと進む。
入り口入って直ぐの屋上で、長身痩躯な外人と幾人かのネコミミ娘が何事かやり合っていた。
「あーのぶのぶ、きいてよー」 と、惟知香に気付いたちゃちゃが言い
「遅い、ちかりん。早く何とかして」と、クーが口を尖らせる。
「そーだそーだー」
周囲を取り巻いていた、様々な色合いの髪とネコミミ頭の少女達が、囃し立てるように同調した。
惟知香は鷹揚に、ネコミミ達を手で抑える。
「待ちたまえ君達。先ずは、何事で揉めているか、聞こうじゃないか」
長身痩躯の男が、付いても居ないブレザーの埃を払うような仕草をしながら、流暢な日本語で訥々と語りだす。
「既にお気付きの通り、現状の些細な、そう、遭えて些細と言わせて頂く、揉め事に関して私が第一に主張しておきたい事は、私自身も非常に遺憾であると言わざるを得ない点です。誰が、悠久の昔から人々を癒しピラミッドの深遠へと繋がる霊廟に秘められた秘密を双眸の奥底に秘めている愛らしい柔毛の友人達が、つかの間の安寧を求め、陽光の下そのしなやかな体を投げ出しまどろむ一時を好き好んで阻害するでしょうか? 諸兄に記憶して頂きたいのは、私自身がその、オーディン神の目を盗み狡猾に立ち回ろうとする醜悪な幽鬼染みた行為に及ばざるを得なくなった状況にどれだけの憤慨と悲哀を感じているか、更にはそうであってもやり遂げねばなら無いこの呪法と、それによって得られるであろう情報の持つ重要性について、であります。もちろん、もたらされるであろう対価の重みがどれ程のものか、という事に目をつぶった上で」
荒宇土はポカン、とした顔になった。
「の、のぶさん、今のは、何語なんですかね?」
「ああ、ヘイワード君……彼は、呪法と太古の神々を研究していてね。それでいて作家という中々の出来物なのだ。ちなみに、言語は日本語だ」
「お、おう」
収まっていたネコミミ達が、口々に不平を言い始める。
「だーっておてんきの日はココでひるねするのがすきなのにー」
「そーだそーだっおくじょーはぽかぬくだからひるねするのに」
「今日はだめってわけわかんないー」
「まぁ、落ちつくのだ君達。直ぐにこの『相互不可侵協定仲裁者』が解決してくれる」
そいうと、惟知香は荒宇土を見やってニヤリと笑った。
「さて、どうする?」
「はぁーー? 丸投げかよっ訳解んないのはコッチだよっ」
荒宇土は逆切れ一歩手前で踏み止まると、しばらくブツブツと先程の『呪文』を反芻した。眉根を寄せ暫く文言を吟味した後、双方の話を整理し始める。
「先ず聞きたい。普段、ココでこいつ等が昼寝するのはおっさ……ヘイワードも異議無い訳だな? んで、今日は何かやらなきゃ成らないから、昼寝されると困ると」
ヘイワードは神経質そうな頷きを返す。
「無論。本来なら昼寝する彼等を愛でる事はしても、その安らかな一時を奪うという邪悪な行為を私が率先して……」
「あー、解ったっ。んで、何やろうとしてるんだ?」
荒宇土からそう言われると、ヘイワードは脇に退く。昇降口のまん前に、チョークか何かで描かれた描きかけの円と、何やら外国語と思しき筆記体風の、のたくった文字が有った。
「なんだこりゃ?」
「何らかの儀式に用いる魔法陣であろう。召喚、呪法、エトセトラ。書かれる内容で出来る事も様々だ」
惟知香の返答に、荒宇土は眉をひそめ、耳打ちする。
「ちょっと待て、さくらが何か探すっていってたの、こういうやつの事じゃないか?」
「察しが良いな。まさに、こういったものだ」
ヘイワードの面長な顔と、書きかけの魔法陣らしい何かを見比べ、荒宇土は何事かを考える。
「それ、完成させるのに時間掛かるのか?」
「無論。このまま書き続ける事が出来たと仮定した場合において完成するまでに掛かるであろう時間を平易に言い換えると、夕方までは掛かるでしょう。其処から、発動と接触の時間を考えると、一刻の猶予も無いという事がお解かり頂けるかと思います」
「……ああ、そうか。つか、何故に猶予が無いんだ?」
怪訝な顔でヘイワードが答えた。
「下校の時間を過ぎてしまうからに他成りません。そうなっては、総てが台無しとなってしまうのです。本来なら夜半、総てが闇に覆い隠され剣呑な徘徊者が跳梁する刻にこそ行うべき技ですが、学業の時間外ゆえ致し方無し。校庭で行う事も考えましたが、元から引いてある体育用のラインを阻害しかねず、更には他者介入の危険を考えると到底選択出来ず、結果このような悲劇を生んだのです。おおよそ星の巡りと天界の慈悲が複合した今この時だからこそ、私のような者でも接触が為の呪法を扱う事が出来るのであり、本来このような呪法を行うには、ナイルの川面に記憶される太古の崇高な神官や、忌まわしく堕落し、それでいて英知のみ超越した名状すべきでない邪教の司祭が綿々と拵えていった末に漸く実を結ぶ技なのです……」
「そうか解った」
微妙に平坦な顔のまま、ネコミミの集団へと向き直った。
「お前等、基本昼寝がしたいだけなんだよな?」
「だよー」
「それは、三時位までに切り上げられんか?」
「さんじー?」「おやつの時間だー」「ならおやつだよねー」
「きりあげられたー」
わいわいと騒ぐネコミミ達の同意を取り付けると、惟知香に声を掛ける。
「よし。さて、惟知香」
「何事か?」
「基本、俺達のクラスは他とは違う、って話だったな?」
「ああ。おっと、先に言っておくが、ヘイワード君は堅物だ。紳士は決まりを遵守する事こそが肝要だと思っている」
「だからさ」
自信有りげな荒宇土に、惟知香が不思議そうな顔をした。
「裁定者やらの権限使えば、居残りの許可位、何とか成るだろ? ほら、学園祭の準備とかで残って作業する時みたいに。神秘科実地研修の為の使用許可とか、その辺で教務課に申請出来んか? そうすりゃ、接触か何か知らんが、おっさ……彼が望む時間帯に、コレを使うことが出来、猫達もひなたぼっこ出来るだろ」
「実地研修か……。うむ、その理由付けなら大丈夫だろう。何なら、すぐ申請してくるが?」
「頼む」
惟知香が小走りで校舎に戻る。荒宇土はヘイワードに問い掛ける。
「この屋上が、夕方から夜まで使用できれば、その呪法だか接触やらに問題無いか?」
「もちろん。夕方以降の方円作成が多少の労苦を伴うでしょうが、最新の懐中電灯を用いる事で、この不具合は回避されるでしょう。何より、柔毛の友人達の安らぎを阻害しないという事は、最も喜ばしい事です」
どこか文章でも読み上げるような調子で、ヘイワードが同意を示す。
十分程して惟知香が書類を片手に戻った。
「ほら、居残りの受理書だ。コレが有れば、夜にココを使っても問題無い」
そう言って、ヘイワードに書類を手渡す。ヘイワードは文面を読み返し、人差し指を紙の端と自分の頬とで幾度か往復させた。
「文体に優雅さが感じられず、添削したい事この上無いが、御役所仕事の文章が実用一辺倒なのは理解しています。この書類は必要を満たしている」
ヘイワードが、初めてぎこちなく笑った。荒宇土と惟知香に古風な雰囲気で会釈すると、お茶とサンドウィッチを用意しなければ、と言い残す。長身痩躯の男は、ネコミミ達に場所を譲り、優雅な足取りで校舎へと戻っていった。
「のぶのぶありがとー」
集っていた少女達は口々に礼を言うと、様々な色合いの猫に変わる。思い思いの陽だまりに陣取り、目を細めて丸くなった。
「ふむ。君、上手くまとめたな。中々やるじゃないか」
感心する惟知香に、荒宇土は小さくため息を付く。有名とんち坊主に笑われそうな程度の、取って付けた解決策がココまで高評価されると、流石に気恥ずかしく思える。
「いや、うん、そこまで感心されると、別の意味で心が曇りそうになるから、止めてくれなさい。つか、こいつらって、いつもこんな幼い感じなのか?」
「幼い?」
「いや、さくらと違って、話す言葉が舌足らずというか、子供っぽいというか」
荒宇土の問いに、惟知香は小首をかしげた。
「ふむ、言われてみれば、そうかもしれない。普段はもう少し、そうだな、ちゃちゃやクーと同じ位の語彙だったと思うが」
「何か、関係有ると思った方が良いのか……」
そう言いながら、表情を改めた。
「この魔法陣だかが、例の探す対象かどうかも確認しなきゃならないしな。さくらは今、何処に居る?」
「教室だ。多分、つまらなそうな顔で文庫本でも読んでいる事だろう」
惟知香に促され、荒宇土は陽光の差す屋上を後にした。
教室に戻ると、さくらは自分の机に突っ伏すようにして、文庫本を読んでいた。
「ヘイワードが魔法陣を作ってた? んー、はずれ」
荒宇土の話を文庫本に顔をうずめたまま聞き、一瞥もせず否定する。
「おい、その魔法陣見もしないで何故解る?」
「杓子定規に決まりを守る奴が、率先してやからす筈が無かろう。仮に、本気でやるなら、奴の自分ルールを侵す事無く、何故、邪神召喚をする必要が有るのか? の詳細な説明書類を文庫本程度の厚みで提出するのは確実だ。何より、人目に付かない場所は探せば幾らでも見つかるだろうし、バレバレな屋上を使う理由が無かろうに」
「そりゃそうだが……」
「しいて言えば、お前等に見せ付ける積もりだった、という線が有るが、流石に穿ちすぎて面白くない。理由も見当たらんし。もし当たってたなら、話し聞いた直後、うちの直感にビビっと来てる筈だ。それと、あいつ等が幼く見えたのは、何かに魔力を無駄遣いしていたからだろう。うちと違って、魔力の上限が低いからな。色々な事に魔力を使っていると、人への変化や言語に影響が出るのだ。ま、そんな事より……」
はい次さがしてー、というと、眼鏡のズレを直して、再び文庫本に顔をうずめた。
「ちっ、こやつめ」
「まぁ、違ったなら良かったと思うべきだ。他を当たろう」
惟知香に宥められ、荒宇土は引き下がる。学園のパンフを開いて話し合った結果、敷地内を大まかに歩いて回ることにした。
――数時間後――
「……で、だ。一日歩いてハイキングまがいに裏山まで上った結果……」
「うむ、何も無かったな」
夕方、一般生徒が下校する中、正門の上に腰掛けた惟知香が、肩をすくめる。
門に背中を預けた荒宇土は、下から見上げながら恨めしげな声をあげた。
「いや、何も無いってそりゃ無いだろ?」
「無いんだから仕方無かろう?」
「自習とはいえ、実質二日連続サボり状態……しかもやっちゃいけないドキドキ感一切無しの実務的周遊作業で殆ど歩き詰めとか、無いわーサボりの風上にも置けんわー」
「私的には、変化の無い日々に多少のアクセントが付いて楽しめたが?」
「ああうん、『試験も何にも無い』刹那的お気楽人生を謳歌出来る真祖さんにとっては、そうかもしれませんね」
「一々クドイ上に、真祖に対する敬意が感じられんな、君の言葉は」
殆どの生徒は、話す二人を全く無視して通り過ぎる。幾人かの生徒が、偶に其方を見、何事も無かったかのように歩いていく。こちらを不思議そうに眺めながら歩いて行く新入生の少女と目が合い、一瞬荒宇土はドキッとした。
「なぁ、俺達って、見えてないんだよな?」
「見えてない、はちょっと違うな。見えているが、気にしてない、が正解だ」
荒宇土は見送った少女を指し示す。
「だけど、明らかにこっちをみてる奴が居るぞ。さっきなんか、目が合って少し驚いた」
「おやおやー、むちぱっつんな女の子以外は眼中に無かったのでは無いか?」
「ええい、ネタを引っ張るな」
足を軽くぶらぶらさせ、時折荒宇土につま先を当てながら、惟知香が答えた。
「私達が視界に入り、何か気になるな、と思う者が居たとする。彼等は、私達を認知した上で、気に成った対象は別のものだと思うように、生徒手帳に施された術が発動しているのだ。正門の上に誰かが座っているか? と尋ねられれば、座っていたね、と答えられる。だが、誰が居たか、何人居たか、とかには、正確に答えられない。さぁ、特に気にしてなかったから、とか、曖昧な返答しか出来ないのだ」
「へー……いやちょっと待て。それは、俺達が探してるものにも掛けれないか? だとしたら、何も見付からなかったのも納得なんだが。あと偶然を装って蹴るな」
「ふむ、確かに一理有るが、その辺は抜かりない。そういったものが無いか、私はちゃんと注視していたのだ。何も無かったがな。それと、つま先が当たったのは不幸な事故だ。いわゆる一つの誤射かもしれん」
惟知香が正門の上から軽やかに飛び降りる。荒宇土のブレザーに付いた埃を、片手で手際良く掃ってやった。
「ああもう。ま、いいや。無かったんじゃどうしようもないな。戻って、さくらに善後策を考えさせよう」
「ふむ、教室まで戻るより、夕飯の材料を買って寮に直帰しよう。カバンは、さくらに持って帰ってくるよう、電話しておく」
惟知香は携帯を取り出し、さくらに掛けた。電話口から、ぎゃーぎゃー文句を言っているさくらのくぐもった声が漏れ聞こえていたが、惟知香が上手く宥めすかし、そのまま通話を終了する。
「む、晩御飯に魚を付ける事で、妥結した。さて、晩のおかずが否応無く決定と成った。後は今日の出物に、良い魚が有るかどうかだな。ついでに、2、3日分の食材を買い込んでおこう。幸い、荷物持ちが居る事だし、な」
そう言いながら、学園内のコンビニへ歩き出す。荒宇土は後に続きながら、昼間会った瓜生藤花が言った、自分の首を狙っている、という一言を二人に話すべきかどうか、考え込んでいた。
――同時刻――
古いオフィスの中に、慌しく人々が行きかっている。ひっきりなしに掛かる電話に、スーツ姿の男女が付きっ切りで応対していた。入り口には、建物と対象的に新しい、神儀局と書かれたプレートが掲げられている。
住宅管理科の案内プレートか下げられたパーテーション区画、置かれた事務机の上に女性が直接座っていた。手には受話器を持ち、ウンザリした表情で通話している。
「はい、ですから現状、御説明出来うる確たる情報は一切有りません。ええ、推測、推論の域を出ないものばかりですので、事態の全貌が見えてから、説明に伺う方が良いかと思います。ええ。もちろん、局長のお手を煩わせないように、と思っての判断です。別に情報伝えたって意味ねーだろボケとか、忙しいのに時間取らせてんじゃねーよクズがっ等と思った上での判断では決してありません。事態が判明次第、課長の緒方が説明に上がりますので、それまで黙って空気読んで待ってろや……あー電波状態が不安定にあーれー」
平坦な口調で会話を切ると、電話口でがなり立てる相手を無視して、据え付け電話に受話器を戻した。
「チッ無能なゴクツブシが、出来る男気分でしゃしゃり出やがってっ」
吐き捨てるように言い放ったデスク上の女性に、隣の席でデータ検索を行っている生真面目そうな女性が、気遣わしげな顔をする。
「ちょ、一条主任、局長にそんな態度取っていーんですか?」
「いいんだよ。どうせ官僚用の天下り待ちポストだ。ウチに対する裁量権は一切無い。何かいらん事やろうとしたら、奴がバレてないつもりの、これまで行ってきた些細な出来事が露見するよう仕組んである。即、懲戒免職処分直行だから、問題無い」
一条は、タイトなビジネススーツの襟元を正すと、机に座ったまま足を組み直した。
「で、飯島、どうだ?」
飯島と呼ばれた少女は、巫女衣装の袖を上品に押さえながら、慣れた手付きでマウスを動かしてデータを表示する。
「図表の後半部分が真っ黒になってるのは?」
「そこは、今日から四、五日以降の条件付けで八卦占いの類を行った結果です。一切、結果が出ませんでした。それと、一度占った結果を条件に加味し、再度別件を占った場合も、同じように結果が返ってこない場合が殆どでした」
一条は、身を乗り出すようにして、隣のデスク上に有るモニターに見入った。
「結果が返ってこない理由で、考えられる事は?」
「さっぱりです。短絡な結論でしたら、一言で済みますが」
「言ってみろ」
飯島は、胸元に手を当てながら、苦笑いに近い表情を浮べる。
「影響を及ぼす人間が居なくなってて、返ってくるべき結果が存在しない……とか?」
「はぁ? 毎度御馴染み終末論、世界滅亡ってやつか」
「それ、笑い話じゃ済まないかもしれませんぜ?」
パーテーションの向かいから、中年の男が渋い声で話に割り込む。
「教義経典に終末論が入ってる宗教団体で、異変に気付いた所が騒ぎ出してます。やり手の占い師を抱えてる所は、源がウチの国だと特定して、内々に接触してきました」
これが言ってきた団体のリストと要求内容です、と言って、ポータブルタブレットを一条に手渡した。
「で、徳さん、対処はどうしました?」
液晶画面を見ながら、一条が問いかける。
「課長権限で、伝手が有るトコと、場合によっては協力を求める可能性の有るトコには、現状解っている範囲の内容は総て通達しました。それ以外にも、情報交換名目で、大まかな話だけ伝えて、相手が占星等で手に入れた情報を貰ってます。もっとも、互いに情報つき合わせて、困惑しただけ、と言やぁそれまでですが」
徳さん、と呼ばれた中年男が、手元のマグカップに入ったコーヒーを飲み干す。
「で、終末論云々に絡んで、権力闘争まがいの綱引きが各宗教団体内部で起こってるようですわ。伝手の有るトコは、阿吽の呼吸で、伝手の伝手、各宗派が暴発しないよう、抑えてくれると言ってます。ただ、物分りが良いトコでも、内部のハネッ返りを抑えるのに、手一杯のようで。筋の悪いトコだと、肯定派否定派双方が預言成就を巡って、内々に実働部隊を派遣しました。公安、国防関係筋は、そいつらの水際確保と検挙と消去で、アップアップの状態だとか。ご愁傷様というか何と言うか」
タブレットを見ていた一条の顔が曇った。
「つまりは、いざと成ったらウチが借りる筈の特殊処理班が、使えない状態って事ですか?」
男は、呆れた成分が大目の苦笑を浮べる。
「自分達の『こういった時専用』実働部隊ですからなぁ。大手を振って、かつ、上に喧伝できる実績を積めるチャンスは逃しません。警察組織で例えると、お巡りさん的日常業務担当のウチが、公安や国防筋に対する指揮権限発動するって成る訳ですよ? そんなよぉ解らん部署の、要請と言う名の無理強いをハイそうですかと聞ける程の人格者は、そうそう居らんですよ」
言いながら、徳さんはマグカップ片手にコーヒーサーバーへ向かった。一条はげんなりした顔で、どんな時にも鶏冠の立てあいを忘れない輩共を小さく罵る。
「万一、が起こった時、どうなっても知らんぞ全くっ。飯島、呪法関係で役立ちそうな人材に手の空いてる者はどれだけ居る?」
「それが、図ったように全滅です。どの方も、笑っちゃうくらいに絶対外せない呪法関係の鎮守護法にてんやわんやです。むしろ手を貸してくれないかと、逆にお願いされる始末で」
飯島は呪法者のリストを表示し、小首を傾げながら弱りきった笑顔を見せた。
「そういや、伝説の凄腕呪法師が復帰したんじゃなかったですか?」
コーヒーサーバーが空に成っているのを見て、情けない顔をした徳さんが、思い出したように声をあげる。
「ああ、ありゃ駄目です。未だリハビリ中だし、基本的には結界や鎮めに特化した呪法師だから。一応、前にも出せるように成ってますが、肉弾戦闘に本人の反応が追いついてない。今回の、何が起こるか解らない状況への対処には、投入し辛いですよ」
「んじゃ、頭数には入らない、と」
徳さんは、おぼつかない手付きで荒引きコーヒー豆をドリッパーに準備すると、空に成ったサーバーに水を入れる。
「俺らは所詮、事務方ですからなぁ。他に切れるカードは無いんですかね?」
「有るには有りますが、私の一存では切れません。課長か、本人の意思次第です」
「ああ、そういや、課長から主任宛に連絡くれって伝言頼まれてましたわ。急ぎじゃないけど、なるべく早めにヨロシクって話でした」
片手で謝罪のポーズを取る徳さんに、了承の頷きを返すと、一条は自分のスマホを取り出し、登録先から課長の番号を選択した。最初の呼び出しコールが鳴り終わる前に、電話が繋がる。
「緒方課長、一条です。何か有りましたか?」
電話口の男は、すまなそうな声で詫びた。
「ああ、忙しいところにワザワザ連絡して貰って、申し訳ない。面白いというか、些細な、でもないな、んー、ちょっとした興味深い話を聞いたんで、伝えておこうと思ってね」
「興味深い?」
誠実そうな声で、緒方は続ける。
「科学技術庁の友人から電話を受けてね。ほら、長野の山奥に、最新の量子加速器備えた実験施設が出来ただろう? そこが実働試験やってたんだが、奇妙な事が起きたそうなんだ」
「課長御指名って事は、何か出ましたか?」
「出た、というなら結果だね。通常ならトータルで平均化する実験結果が、完全に偏ったそうだ。50%の確率、AB二つの実験結果が想定される状態で、Aだけ、の結果が延々続けて出たらしい。確率の偏在にしても、度が過ぎている、とか言われてね。文系には耐え難い専門用語が並んだどうして有り得ないか、の説明を長々と聞く羽目に成った」
「一応確認の意味を込めて聞きますが、機器の故障や、測定方法に不備が有ったり、といった可能性は?」
「交換可能部品を変えての再試験、測定中外的要素が影響及ぼしてないかの精査、出来うる限りチェックした結果、完全に問題無しだったそうだ。で、旧知の自分に相談する気に成ったらしい。真顔で聞かれたよ。『天狗の仕業か?』って」
長野だからねぇ、という緒方に、一条は苦笑まじりで聞く。
「どう答えましたか?」
「地鎮、鎮守そういった事前の筋通しは行ってあるから、仮にそんなのが居ても原因に成らない、と太鼓判を押しておいた。大体、最近の重要建築には、そういった存在の戯れが及ばないよう、有る程度の護法が施してあるからね。それを突破出来る存在が居るとすれば、よっぽど厄介なもの、もしくは存在自体の定義が私達の認知範囲を超えたものだ」
後半の声に混ざる深刻な成分に、一条の表情が曇った。
「何か、掴んだのですか?」
「掴んだ、というか、考えたくない推定を聞いたよ。天狗の仕業で無いとして、そういった偏りが起こる状況を仮定して貰った。堅物にフィクションを考えさせるの、大変だったよ。あーだこーだ宥めすかしてパフェ奢ってようやく一つの推論を出してくれた」
一条は黙ったまま話を聞く。
「さんざ仮定だから、架空の話だから、と前置きして彼は言ったよ。『未来が確定しているなら、そうなるだろう』とね」
「定まった未来……」
「ああ、言うまでも無く、未来って部分は解りやすく説明するための定義付けだ、そうだ。彼等の認知において、時間は流れるものでなく、未来も定まってない、観測する者の視点が定義された時、初めて相対化される、とかなんとか。いやはや、言ってて混乱してくるよ」
電話口で、緒方が疲れたような声を出した。一条は思案げな表情を浮べつつ、声に出しては課長を労った。
「お疲れ様です。参考になった、というのは変ですが、確かに興味深い話でした。個人的に、今回の件が影響している可能性はとても高いと感じます」
「君がそう言ってくれると、脂汗流しながら専門用語の洪水に耐えた甲斐が有ったと思えるよ。本省と各所への根回しが終わり次第戻るから。現状報告は、その時に聞かせて貰うよ」
「はい、まとめておきます。ああ、先程の内容に付いてですが、あの方、あやめさんに伝えてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。場合によっては、いや、おそらくは彼女の骨折りを願わざるをえない状況に成るだろうからね。そちらの取次ぎは宜しく頼む。……あっと言い忘れてた、最後に一つだけ」
回線を切る間際、慌てたように付け加える課長に、一条はスマホを握りなおす。
「あんまり局長をイジらんでくれよ。絞め殺される寸前のブタみたいな声で、部下の監督不行き届きについて、さんざ叱られたよ。エエハイ申し訳ありませんを延々繰り返していたら気が済んだようだが。一応、局長という肩書きを持っているんだから、それっぽく扱ってくれ」
課長の、苦情交じりの懇願を黙って聞いていた一条は、無表情に言い放った。
「それ無理」
ヒトコト言い置くと、さも当然な表情で携帯を切る。後ろで見ていた部下二人は、互いに顔を見合わせた。
徳さんは天を仰ぐと、わざとらしいため息と共に沸いたばかりのコーヒーをマグカップに注ぐ。飯島は気遣わしげな顔で上司と先達を見比べたが、諦めたように小さく息をつくと、再びモニターに向き直り、データの精査を再開した。
一条は気にせず、別の番号に電話をかける。明らかに何かが逼迫している感覚のみが、彼女の内臓辺りに重く圧し掛かった。
――夜半 護宝贋学園 学生寮――
風に擦れる木々の枝々が、耳障りな雑音を奏でている。山々は闇夜に暗く沈み、合間にはまり込むように建てられた学園の建物と、繋がる街道にのみ、蛍光灯の明かりが頼りなく灯っていた。就灯時間を過ぎた学生寮は墓標めいた連なりを見せ、人気の絶えた廊下はしんと静まりかえっている。何故か三階の廊下のみ何かを拒絶するように総ての明かりが消えていた。
そんな暗がりの中を、狼狽し切った影がよぎっていく。夜目の利かない漆黒の中、手探りでドアノブが弄られ、震える指先が、握りしめた鍵を必死に鍵穴へと導いた。
荒々しい手付きで扉が開かれる。転げ込むように人が飛び込むと、背後の扉に鍵を掛けた。
奇妙な事に、激しく開け閉めされた扉は軋み音一つ出さない。黒いシルエットで、遠目にざわついて見える木々の擦れる姿も、駆け込んだ足音も、無声映画でも見ているかのように、何一つ聞こえなかった。
男は焦りながらポケットをまさぐり、幾つかの小石を取り出すと等間隔で玄関に並べる。
石が地面に触れる小さな音が、殊更大きく響いた。驚いた男の、ヒッという悲鳴が、狭い室内に響く。初めて、自分が発する音は阻害されていないと認識する。
五芒星が掘り込まれた黒い石を並べ終わると、しりもちをついた姿勢で一息付いた。よろけながら立ち上がると、震える足取りで部屋の奥へ向かう。
電灯のスイッチを押したが、何度試しても蛍光灯が付く気配は無い。暗闇の中、男は絶望した表情を浮かべ、ポケットを探り出した。
静寂を破り、突然、ごとんという水気の有る重い何かが扉に当たる音が響く。やや有って、重く、ぬめりと粘りを感じる何かが、途切れ途切れに扉を叩いた。
震える手が、ポケットから懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。電池を換えてないせいか、弱々しい光が室内にぼぉっとした揺らめきを見せた。ヘイワードの彫りの深い顔に、暗い影を残す。
『逃げる。何処に? どうやって?』
相互不可侵協定仲裁者という単語が頭をよぎる。同時に、救いを求める行為自体が、全くの無駄であり、状況を受け入れる事こそが、精一杯の矜持ではないかと思ってしまう。
蒼白な顔で、室内を見渡した。締め切った分厚いカーテンの掛かったベランダへ通じる窓、其処からならば逃走し、庇護を求める事が適うのではないか?
庇護? 誰に? ヘイワードの恐怖で歪んだ顔が、自嘲で引き攣った笑みに変わった。
魔道を扱う者が内々に存在しているこの学園で、範囲呪法か魔道がかなりの規模で用いられているにも関わらず、誰一人気付いていない。
そんな状況を作れる、隠密裏に事を運べる存在から、どうやって逃げるというのか?
ほんの一時間前に接触した知性体との会見が、不意に頭をよぎる。
人知を超越し、有る部分においては害悪にも成りえる異星の知性体。彼等が、ぶんぶん唸りを上げ囁くように搾り出した情報が、彼の知性を刺激し、即座に一つの結論を導き出した。
それは間違い無く正鵠を射ている。でなければ、今、このような状態に成ってない。
重要なのは伝播であり、不確かな生存に望みを託すより、類推が導き出した、現状に裏付けされた確かな推論を伝える事こそが自己の責務である。何よりも、自分が書き連ねた中で、彼等『語り部達』は物語を明確にすべく、総てを書き残していたではないか!
ヘイワードの震えが収まり、表情に得心いった微笑が浮かぶ。ポケットから手帳を取り出すと、傍らに置いた懐中電灯の明かりの中、使い込まれた万年筆が罫線の上を滑っていく。
「状況に鑑み、この文章を書き残します。願わくば……」
スチールの扉が軋む、嫌な音に混ざり、万年筆のリズミカルな筆音が小さく室内に響き続けた。しばらくして、金属の扉が破壊され捻じ曲がる音に続き、水っぽくのたくるような重い足音がフローリングを踏みしめる。引きずるような不協和音が室内に反響した。その最中も、ペン先の軋る音は途切れなく続く。フローリングの軋みと零れ落ちる水滴の音が必死に走る万年筆の軋りを侵食し、やがて、総ての音が唐突に途絶えた。
「!」
真っ暗な中、不意に荒宇土の意識が覚醒した。何かを思い出すように、頭の中で様々な情景が目まぐるしく変化して、消えていく。
「首を頂くよって、戦国時代じゃあるまいし」
夕飯時、惟知香達に話した瓜生藤花の一件が眼前に浮かび上がる。さくらの、焼き魚を頬張った顔が鮮明に繰り返された。咀嚼の合間に見せる表情が、それなりに考えた上での発言だったと見て取れる。
「うむ、その気なら君の首は既に三、四回は頂かれているのではないか?」
魚の骨を丁寧に除きながら、惟知香が言った。下を向き骨を外すのに夢中で、話した内容事体は、そこまで意識して言ったのではないと解る。
『なんで、あの時気にしなかった事を、わざわざ夢で思い出すんだ?』
目を開き、左右を見渡す。先程まで薄明かりの中、眼前に有った二段ベッドの枠が消失し、ひたすら漆黒の空間が広がっていた。
荒宇土は、前回味わったのと同じ、明晰夢染みた状況に、多少混乱する。肌の感触は起きている時と変わらず、夢だという実感は乏しかった。
「ふむ、僕に感応して、記憶のフィードバックを観ていたようだな。客観視出来ると、意外と違って見えるものだろう?」
不意に、正面から自分の声がする。声の方を注視すると、ラフな格好の自分がリラックスした姿で立っていた。
「話に聞いたドッペルゲンガーってやつは、夢の中でも成立するのか?」
困惑と警戒が混ざった荒宇土の問い掛けに、ラフな自分が肩をすくめて見せる。
「いやいや、僕は君の影ではないよ。状況を理解はしてるがね。現に君が今、どんなビジョンを見ていたのか、ココで垣間見るまで解らなかったし、知りたくも無く知る必要も無い。知る気に成ったら即、把握出来るがね」
そんな些細な事はどうでも良いんだ、と眼前の自分はぞんざいに言い放つ。
「今は単に自分の欲求を満たす為、ココに居るんだよ」
「欲求?」
「完全犯罪に成功した者は総てが終わった後、それを誰かに聞いて欲しい、知って貰いたい、記憶に留めて欲しい、そんな誘惑に、駆られるそうじゃないか。それが、たとえ一瞬だとしても」
自分の姿をしたモノが、自分に向かって朗らかに両手を広げた。
「何の話をしている? 今起こってる事に関係有るのか? 大体、お前は俺なのか?」
「んー、僕は君なのか? と言われるとそうとは言えない、な。今起こっている事に関係有るか? は、そりゃモチロン当然だろう? 何の話か? は、短絡に言うと、世界消滅の話、というべきだな」
澄まして答える自分に、荒宇土の表情が険しさを増した。
「世界消滅とは、えらくまた大きく出たもんだな。そんな中二病でも躊躇するようなネタを、自分が語ってるのを見るのは、意外と痛々しいんだぞ」
「それは大層な能力を夢想したい年頃が、絢爛豪華な名前をその技なり何なりに付けた時使うべきだろう? 個人的に『世界消滅スイッチ・押すと世界は滅ぶ』なんてミもフタも無いネーミングの方が好みだがね。実際にその力を持っている場合、適応されないと思うんだが?」
腕組みした自分が、不満げに眉をひそめる。荒宇土は、嘘を言っているように見えない相手の態度を図りかねた。
「んじゃ、本当に世界を滅亡させる事が出来るっていうのか?」
「スイッチ、は持ってないがね。消す事は可能さ」
「消すってどうやって?」
「具体的に何かする必要は無い。己が消したいと思ったら、それで終了だな」
昼に食べた定食屋の味を思い出して論評するかのように、ざっくばらんな言い方をする。
「仮にそうだとして、世界を消したらお前だって終わりだろう? 一体何を考えてる? 一人ぽつんと、何も無いこんな場所で生きていくのを望むのか?」
荒宇土は相手の情報を少しでも得ようと、矢継ぎ早に問い続けた。
「いやいや、何もかもをを消し去る事で、初めて安息を得られるんだよ」
「安息……」
「先だって君が触れた通り、ちっぽけな文庫本に想起を得て、僕は世界を睥睨していると気付いた。理解できずに持て余していた不合理な日常を読み解く取っ掛かりを貰ったんだ。後は永遠に思える繰り返しの蓄積と思考、営まれる時代時代の識者がもたらす知識の泉を吸収し構築して、漸く一つの結論に達した」
眼前の荒宇土が、歳経た古老の如き視線を、虚空に向ける。
「世界存続の有無に関わらず、我の存在が消失する事は無い、と」
「は?」
余りに稀有壮大、と言うより、究極の中二病発言に、荒宇土は唖然とした。
「可能性は認識され続ける限り、無限に広がっていく。今と同じタイミングで、僕が手を下すまでも無く既に人が滅んでいる世界を感傷的に眺めた。科学より魔法というべきものが隆盛を極めた世界で、それを習得し、効率化し、強化する者達に学び、体得する一時を味わった。人染みたトカゲが二歩足で闊歩する『現代』を垣間見、シュールリアリズムという言葉を体感した」
眼前の荒宇土を形作った者は、清々しい笑顔を浮べる。
「ああもちろん、今言った世界は既に無い。総ての可能性を再び構築出来ぬよう、軒並み排除し尽くしたからね。青空に連なるシャボン玉を尽く弾けさせるように、簡単だった」
「簡単って、お前……」
話の荒唐無稽さと相手の笑顔に潜む底知れなさが、荒宇土を絶句させた。強張った荒宇土の顔を面白そうに眺めていたラフな格好の自分が、ふと気付いたように腕時計を眺める。
「さて、ヒントはこのくらいで良いだろう。今の話を是非、君の周囲と語らい、結論を導いてくれ。絶望への推理タイムを、楽しんでくれたまえ。」
「お、おい、ちょっと待て! 知って欲しいならもっと具体的に説明しろよ」
「偽悪趣味の発露に付き合ってくれて有難う。では、良い終末を!」
引き止める間も無く眼前の自分が消失する。取り残された荒宇土の意識が急速に混濁し、広がる漆黒の空間と溶け合うように、意識が遠のいていった。
「……あ、れ」
暗がりの中、眼前に二段ベッドの枠が見える。自分がベッドの上に居ると解り、荒宇土はホッとした反面、『自分』との会話が単なる夢だったのか、それとも何か意味の有る事なのか、困惑を覚えた。意味も無く喉の渇きを覚え、体を起こす。
キッチンの方から、流水の立てる音にドアの開閉音が被さった。とてとてと素足がフローリングを踏みしめる軽い響きに続き、惟知香が寝室に戻ってくる。膝を付いて二段ベッドの下段に潜り込もうとして、起きている荒宇土に気付くと、そのままフローリングにぺったん座りした。
「……ん、えらく早起きだな、君。……いや、眠れないのか? と聞くべきなのか」
眠そうでは有るが、昨日ほど寝ぼけてはいない惟知香に多少安堵しつつ、荒宇土は躊躇いがちに答える。
「……変な夢を見た、というか、訳が解らない事だらけで正直困惑してる」
そう言って、夢で見た自分との邂逅を、精一杯解り易く説明しだした。聞いている途中で、寝ぼけ眼の惟知香が手で制する。
「ちょっと待って……あ、いや、待ちたまえ。先ずはコーヒーを淹れよう。それと、さくらも起こす。その話、単なる夢で片付けるべきでは無さそうだ」
掌で挟み、自分のほっぺたをグリグリすると、一呼吸置いて惟知香がしなやかに立ち上がった。キッチンに向かう足取りは確りとして、足音一つ立てない。汲み置いていた水を注ぎ、コーヒーメーカーをセットすると、寝室にとって返す。ベッドを見渡し、下段に足を掛けると伸び上がって天袋を見る。扉が開きっぱなしの上部収納に、さくらが居ない事を確かめると、出しっぱなしのコタツ布団をめくった。
「今日はココだったか」
野生の欠片も感じさせない大の字状態で眠っていた猫モードのさくらを、惟知香が無造作に引っ張り出す。唐突にナイトキャップをかぶった、だぶだぶパジャマのニートが出現する。
「猫の貴重な睡眠時間を邪魔する奴は、一歩ごとにピラミッドの地下並みにモンスターと遭遇する呪いが掛かる。ソースはうち」
普段より更に眠たげな表情のさくらが、不服そうな声を上げた。
「荒宇土、彼が変な夢を見たようだ。例の一件に関係有りそうなので意見を聞きたい。コーヒーメーカーをセットしたから、直にコーヒーも出来る」
惟知香がそう言うと、さくらはそれ以上の不満を漏らさず、のっそり起き上がった。荒宇土を見やり、居間へぶんぶんと手招きする。当事者が移動すると、さくらは蛍光灯を付けながら、荒宇土に向かってぼそりと言った。
「緊急事態の概要を述べたまえ」
「なんだそりゃ、何かの真似か?」
「どうでもいい。それより、のぶちかが手ずからコーヒー淹れないとは、余程の事だ。何が有った?」
「いやその、昨日今日と変な夢を見たんだ。内容は違うけど、連続してる感じでさ。流石に、気味悪いんだが」
荒宇土が思い出しながら、順序だてて話し始める。さくらは先を促すだけで、混ぜっ返す事すらしない。惟知香は出来上がったコーヒーを皆の分持ってくると、話が終わるまで黙々と飲み続けた。マグカップが空に成る度キッチンと居間を往復し、サーバーのコーヒーが無くなると、次の分を淹れる。二度目のコーヒーが出来上がる頃、荒宇土が話し終えた。
「とまぁ、『俺』だとほのめかす輩からの訳解らんメッセージはこんな感じだ」
さくらは話の途中から、取り出したスマホを弄くりだす。荒宇土の発した単語を一々確かめると、画面へ顔を近付け、何事かを熱心に見やっていた。
「へいこうせかい……なんか良くわからんが解った」
「おい、それって理解出来ないのが解ったって意味か?」
何事かを検索しているのだろうと察して、荒宇土が水を向ける。
「違う。おおよそどんなものか、が、解ったという事だ」
「ほう。で、さくら、どう判断すれば良いのだ?」
さくらはミルク少な目のコーヒーを一口含むと、微妙に渋い表情を一瞬浮べた。
「ん、えっと、ココにデ……『ぽちゃスキー』が居るとしてだ。こいつが『つるぺたスキー』という性癖に成っている以外、全く一緒の世界が存在しても可笑しくないよねというかむしろ存在すると考えた方がかがくてきにイイよね、という話のようだ」
「おいちょっと待て」
何気に揶揄された荒宇土の抗議含みの制止を無視して、さくらと惟知香は話続ける。
「だが、アレだけ熱弁を奮う彼が、ぺっとんとんを至高とする世界は想像付かんが?」
「その場合、つるぺた世界のコイツはつるぺた至高の熱弁を奮う……要は些細な差異以外、全く異ならない世界が有ると言う話。個人の何気ない選択一つで、世界は幾らでも分岐するであろう、という学問や小説の説明を簡単にしてくれる魔法の言葉だ……多分」
ネットの解説を鵜呑みにした、微妙にふわふわしたさくらの説明だったが、惟知香は妙に納得した表情をみせた。
「何というか、話を聞いた後だと、非常に思い当たる節が有るのだが」
そう言って、マグカップを傾けていた荒宇土の方を見詰める。
「何だよ?」
「瓜生藤花、例の金髪巨乳だが、君の好みど真ん中だろう?」
荒宇土はキリッと引き締まった表情で返答した。
「そこまでは言わない……後5kgむっちりだったら、とは思うが」
平たい顔で惟知香が言い放った。
「それをど真ん中と言うのだ」
「で、さっきから俺の嗜好云々がプライバシー何それ美味しいの? 状態で弄られてるんだがこの話と、どう繋がるってんだ?」
両手でマグカップを持った惟知香が得意げな顔をする。
「唐突に現れた(と君が主張する)君好みのボディを持ち、君の命を所望する謎のぱっきん巨乳……それって、別世界の君自身なのではないか?」
「? ……おー、なんかそれっぽい」
冷蔵庫から持ってきた牛乳を自分のカップに注ぎながら、さくらは感心した声をあげた。
荒宇土は引き攣った表情で、歪んだ笑みを浮べる。
「俺は別世界の自分を見て『君のぱっつんボディ、ナイスだね!』とサムアップしてたと言うのか」
「究極のナルシストと言うべきか? 自分の理想通りな外観を作り上げたのだから、恐ろしい執念だな。いや、むしろ逆に考えるなら、君が女性だった場合、ああいった外観に成るからこそ、本来の姿を自己の理想として執着していたのかも知れん」
からかい半分に説明を始めた惟知香が、徐々に真面目な思索を始めたので、荒宇土は慌てて止めた。
「待った待った、仮に奴が別世界の俺だったとして、何故俺の首を狙う? 元の世界が滅びたから、この世界にやって来たとか言うのか? SF映画で良くある、異世界人がこっちの人間と密かに入れ替わるってやつも、性別違うから即バレして無理だぞ」
「それはそうだが……」
荒宇土の単純かつ最もな問い掛けに、惟知香も言葉を濁す。スマホを弄っていたさくらは、小首を傾げながら何処かのサイトを熱心に眺めていた。
「ふむ、仮に世界を移動できたとしても、行った世界での成功が、元の世界の既に起こった事象に影響を与える、というのは無理のようだ」
「例えとか載ってないのか? そのサイト」
「うむ、例えば自分の息子が病で死んだ、この世界では開発できなかった特効薬を別世界で開発成功し、それを持って戻ったとしても、自分の息子の生死に変化は無い、という事だ」
「はぁ……でも、世界を移動できるんなら、時間だって遡ったり出来るもんじゃないのか? 死ぬ前に戻ればイイだけだろ?」
「ええと……その男が認識した事象において、(この場合は、それまでの過去だな)息子が死ぬ前に特効薬がもたらされる事は無かった、という点は変わらない。特効薬がもたらされた時点で、その男が認識していた世界と違う、無かった特効薬が出現したぜ! やったねオメデトウ分岐した世界と成ってしまうのだ。
薬が来た世界の息子は助かる事になるが、そこには助かった息子を見て喜ぶ助かり世界の父親が存在する。息子助けたさに奔走した父親の息子が死んだ点に変化は無い。仮に、奔走父親が出発した世界に戻る事が出来ても、やはり息子は死んだままである、のだそうだ。……うん、親殺しのパラドックスは成立しない、とか何とか書いてあるな」
荒宇土は口の端を曲げながら眉をひそめる。
「むぅ、何というか、大まかな話は解ったような解らないような……。もう少し詳しく、というか理解した上で説明もしくはお手軽謎解きできる奴は誰か居ないのか? ほら、クラスの御学友(ブレザーブラザー集団)とかにさ」
惟知香は一瞬小首を傾げると、思い付いた様に口を開けた。
「ああ、それならヘイワード君だな。古典旧文明だけでなく、近未来科学や、宇宙惑星関連にも造詣が深い。例の地球外何某? と接触している一人だ」
「むぅ、どこぞのオカルト専門雑誌並みに雑多な知識を持ってるな」
不審げな荒宇土に、惟知香は含みの有る笑みをする。
「君が胡散臭いと感じるなら、より、重みを感じる別の人物も居るぞ。情報収集に多少の難有りだが」
「誰だ?」
「保健医」
荒宇土は素の顔で数秒静止すると、素っ気無く言い放った。
「うん、ヘイワード君に尋ねるのが最適だと思えるね」
「で、あろう?」
二人の微妙な阿吽の呼吸を見て、さくらは怪訝な表情を浮べたが、口に出しては別の事を言う。
「もっと単純な可能性も有る」
「どんな?」
「私怨、もしくは妄執といった、理性でなく感情に支配された理由の場合だ」
「ふむ……」
形良い顎先に親指と人差し指を当てながら、惟知香が考え込む。さくらはキッチンから調理用の砂糖が入った容器を持って来ると、自分のカップに大盛り投入した。
「夢に出てきた偽うどは、個人の感情的な部分をえらく強調していたという。それが本当なら、理詰めの分析は、意味を成さない可能性が高い。ピーマンが嫌いだから世界を滅ぼす、というのは馬鹿げたありえん理由だが、ピーマン死ぬ程嫌いな者からすれば、首肯出来る要因ではある」
「いや、さくら。ピーマン嫌いはあんたの理由だろう」
「苦々なたべものはやせいのいきものにとって毒、どくですぞー」
コーヒーを飲み干した荒宇土が、ふと思いついた顔に成った。
「あのさ、すっかり俺の偽者かぱっきん巨乳が何か企んでるかもって話に成ってるが、学園長の件はもう考えなくて良いのか? 結構気にしてたみたいだけど。立場上、情報入ったら報告すべきだと思ってたんだが、お前の話聞いて、迂闊にホイホイ情報持ってくのはマズイのかも、と考え直したんだが」
言われたさくらと惟知香が、マグカップを持ったまましばらく固まる。
「うむ、気には成るのだが、現状、学園長は胡散臭いだけで疑うに足る証拠が無い。対象が不確定だが、何事かを企んでいると自称する輩が跳梁している以上、そちらの件に対処するのが先決だろう。結果、学園長への報告が遅れてしまうのは不可抗力だ。対処の過程で、何らかの情報が出てくれば、話は別だしな」
「……だぞ」
惟知香の説明に、さくらがしたり顔で語尾を被せた。
「んじゃ、取りあえず明日学校でヘイワードに話を聞く……というか、正直んな事やってて良いんだろうか? 既にクライマックス宣言されてるってのに。金髪……瓜生藤花だっけ? アイツをとっ捕まえて、直接白状させた方が手っ取り早いんと違うか?」
惟知香は軽く肩をすくめなる。
「君が、瞬間移動の魔法が使える程、高位な呪術師に、真正面から自白を迫って問題無い実力の持ち主ならそれも有りだが?」
「フラグを立てなきゃ、ハンマーでどんなに叩いてもヤスは自白しーまーせーんー」
「いや、御真祖様万々歳! な超絶能力で白状させるとか、化け猫の何か知らん能力で何とかするとか出来ないかな、と思っただけだ。俺にそんな実力は無い。あと、ヤスって誰だ?」
「真祖の力が人知を超越しているのは事実だが、魔道関係に関して、際立って能力が高い、という事は無い。魔道を習得する際、寿命というタイムリミットに縛られない故、誰よりも永く、人間がそれぞれ途切れ途切れに習熟する呪法を延々錬り込んで行く事で他を圧倒する、というだけだ」
もちろん、真祖としての対魔法力や呪法強化の特典は存在するが。と、澄ました顔で付け加えると、惟知香は持って来たサーバーのコーヒーを自分と荒宇土のカップに注いだ。
「そして更に重大な情報を付け足しておこう」
「え? 何だ?」
惟知香は引き締まった顔で、言い放つ。
「もぉげんかぃ」
「はっ?」
直後、へにゃへにゃな表情に成って大口を開けて欠伸しながら続けた。
「きてぇすぃみんじかぁ~~~んっく。たりぇないかぁあ、ねみゅい」
「えぇ? 睡眠時間が足りてないって、事か?」
しょぼつく目を眠そうにこすりながら、こくりと頷く。完全におねむモードの惟知香を見て、さくらは、諦め顔で首を振った。
「流石にコーヒー連打だけでは、持たなかったか。低血圧のせいとも思えんが、子供並みの睡眠時間必須とは、半パイアとは難儀な種族よ。まぁ、今日のところはここまでだな」
自分も子供染みたあくびをすると、口の中でおやすみとっつぁんと言いながら、こたつぶとんの中に頭から潜り込んでいく。
「ちょっと待てっ ええ? いいのそんな調子で? って惟知香、のぶのぶさん? 俺のベッドに迷わず潜り込むのは
惟知香は荒宇土の制止をうるさそうに聞き流した。
「んぅるさぃの……したがぁいぁならうえでねるぇばぃいのぉ」
二段ベッドの下段にもぐり込むと、荒宇土のふとんに包まり、直ぐ寝息を立て始める。
「早っ! なんだその寝付きの良さはっ……ったく」
荒宇土はげんなりした顔でため息を付くと、コタツの中のさくらに声を掛けた。
「さくら、悪いけど俺もコタツで寝かせてくれ。まだ死にたくない」
言いながら足を突っ込むと、中からフーッ!という猫の威嚇がさくらの声で聞こえる。
「うちがココで寝ると決めた以上、このコタツは今、なんびとも犯せぬ絶対領域っ! 余所で寝れ!」
さくらは、爪を引っ込めた肉球で荒宇土の膝をパンチした。
「仕方ないだろっ、惟知香が下で寝ちゃったんだから」
「一緒に寝て、のぶちかに鯖折られるのが嫌なら、上で寝ればいい。アレはそんな事で怒ったりはしない」
「ええ……マジかよ」
さくらにコタツから追い出され、荒宇土は不承不承、作り付けの二段ベッドへ向かった。上がる前に、もう一度声を掛けてみたが、熟睡した惟知香の寝息だけが返ってくる。
多少躊躇った後、荒宇土は二段ベッドの上段に上がった。寝具が落着いた色身の薄い桃色で統一されている事以外、基本的に荒宇土の使っている下段と大差無い。ただ、隅に、妙な位置にへこみのついた、大きなイルカのぬいぐるみが鎮座していた。
「あ、被害者だ、これ」
荒宇土は、生暖かい目でふわふわなぬいぐるみを眺めると、小さくあくびしながら毛布の中に潜り込む。
ふわりと、懐かしさを感じる匂いがしたような気がして、一瞬戸惑う。記憶の奥底から何かが浮かび上がる感触を覚えつつ、眠りの淵に落ちていった。
意識が埋没し、落着いた安らぎの中で沈黙が流れていく……。
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