三章 話変わって桜をぬけて
――同時刻――
寮の裏山、小高い丘の部分に、一際見事な桜の木が立っていた。他の桜は、既に満開を過ぎたものが多い中、この木だけは、見事に咲き誇っている。
木立を揺らしていた春風が、桜の木へと吹き抜けた。心地良さよりも冷たさを伴って、満開の花びらを躍らせようと、枝々を振るわせる。
桜吹雪が舞おうとした瞬間、別れを惜しむように総てが止まった。
木々が、花びらが、生き物が、吹き抜ける風が。
千分の一秒よりも、更に短い時間、確かに世界が静止する。次の瞬間には、そんな事など無かったかのように、桜の木の周りを、花びらが旋風のように舞い散っていた。
花びらのカーテンが開くと、一人の少女がしゃがみ込んでいる。先程まで確実に誰も存在しなかった場所に、今は確かに誰かが存在していた。吹き抜ける風と逆方向に逆立っていた縦ロールの金髪が、思い出したかのように風にそよぐ。着込んだブレザーはややくたびれ、熱気を発するように、湯気のような煙が薄くたなびいていた。
少女は振り乱した金髪を気にすることなく、その場にへたり込む。片側に残っていた、見事に巻き上げた二本の縦ロールが突然解け、反対側と同じように、振り乱された。
「間一髪、か」
荒い呼吸を繰り返しながら、ぎらつく視線で周囲を見渡す。誰も居ない事を確かめると、スマートフォンを取り出し、慣れた手付きで回線接続した。
サーバーログインIDを入力し、関係者用のデータファイル探す。
新規入学者名簿、と書かれたデータにアクセスし、神秘科のファイルを開く。
『入学者:2名 御崎荒宇土
データを確認すると、少女は大きなため息をついて、花びらのじゅうたんに倒れ込んだ。
大の字で舞い散る桜の花びらを眺める。
「綺麗」
見上げた青空に小さくそう呟くと、青い瞳をゆっくり閉じた。
木立が風に揺れ、桜の花びらが刻の流れに沿って舞い落ちていく。
少しなら、いいだろう。そう思いながら、少女は束の間のまどろみに身を委ねた。
***** ******* *****
「ふむ、これで良いか」
寮室の扉に追加したネームプレートを確認し、花柳惟知香は満足げに頷いた。
『花柳惟知香』『さくら』『御崎荒宇土』
傾き始めた日差しが名札にコントラストを与え、荒宇土の名札だけ浮き立たせる。
二人分の表示しか出来ない名札挿入型のプレート故、最後の一人は厚紙でのガムテ貼り掲示と成っていた。
油性ペンで書かれた己の名前を見て、荒宇土はシニカルな笑みを浮べる。
「ワザワザ名札付けてくれなくてもいいのに」
「そういう訳にもいくまい。誰かが君を訪ねてきた際、困るだろう?」
真面目な顔で言い放ちながら玄関の扉を開けた惟知香に続き、荒宇土も部屋に戻った。
荷物の整理は、午後一杯掛かった。割り当てられた備え付けの用品入れに、服その他をしまい込み、空に成ったダンボールを潰して捨て易くする。ノートや筆記用具は、机にまとめておいた。
「ところで、この机、俺が使っても良かったの?」
学習用と思しき机は、コタツが有る部屋の壁に作り付けられている。問題は、それが二つしかない事だった。
「問題無い。うちの領域はココゆえ」
そう言いながら、さくらがコタツの天板に頬を押し付ける。
「どのみち、さくらが机を使う事等、有り得んよ。仮に、何らかの理由で机が必要に成ったら空いた時間に利用すれば良い」
コタツに置かれた煎餅を手に取りながら、惟知香が答えた。荒宇土は苦笑しつつ、もう一つの懸案を尋ねる。
「そうだ、布団の予備、ココに有る? ベッドがアレだし、俺はこっちで寝ようと思うんだけど」
寮の見取りパンフには学習部屋、と表記してある今現在居間を指差した。
「洋式のベッドは嫌いか?」
「そうじゃないけど、お二人さんで一杯じゃん」
荒宇土は、寝室兼物置に設置してある二段ベッドを眺める。
「いや、一つ空いてるだろう」
硬そうな海苔煎餅を音高く噛み砕きながら、惟知香は答えた。
五秒ほど固まった後、荒宇土は軽く手を打つ。
「ナルホド、吸血鬼は棺おけで寝るから、問題無いと」
「寝らんわっ! 普通に上の段を使ってるっちゅーのっ。大体狭いこの部屋の何処に棺おけを置くスペースが有るというのだっ」
「そうなの……?!」
少年の困惑した表情がハッとした表情に変わり、顔を背けながら微妙に赤らんだ頬で口元を押さえた。
「って事は、えっキマシ? キマシタワーってやつ!? あらヤだケモアン(デッド)って事かしらちょっと奥さん聞きました? ゆりしーだけでなく高度なケモしープレイまで……」
「言葉の意味は解らんが、兎に角邪な空想を巡らせているのは解った。絶対に違う」
「はははははあなたのめにはそううつりますか」
剣呑な表情で惟知香が否定し、さくらの声が飛び切り平坦に響く。
「うちの寝床はあっこだっ!」
漫画ならフスーッという鼻息と擬音が付く、得意げな表情でさくらが指差した。
「え? あのクローゼットの上の収納?」
荒宇土は指差す先が、扉のきちんと閉まってない、作り付けの上部収納だと解り、驚く。
「そう、天井収納天袋こそ我が最後の砦にして何人にも犯されぬ絶対領域っ、いわゆる一つの永遠に変わらぬ黄金郷っ」
自慢げに言いつつ、さくらはコタツから這い出した。のそのそ立ち上がった姿を見て、荒宇土が驚愕する。
「って、おぉーいっ! その格好はなんだっ!?」
「?」
「下っ、ぱ、パン」
さくらは、よれよれジャージの下、ダブついたTシャツのすそから覗く、真白い太ももと膝小僧を自分でマジマジと眺めた。
「安心して下さい、履いてますよ」
のっそり親指を立てて、笑みを浮べる。
「当たり前だーっ」
荒宇土の激しい突っ込みに、解せぬ、といった表情に変わった。
「だから、パンツちゃんと履いてるって」
余りに真っ当な表情に、荒宇土は素に戻る。
「え? あ、ありゃ、御免、ホットパンツ履いてたんだ。足が、かなり際どい所まで見えてたから、パンツ一枚だけかと思った」
「パンツ? 一つで十分ですよ?」
「やっぱり履いてないんかいっ!」
激昂する荒宇土に、さくらの眠たげな目が不満げに少しだけ開かれた。
「女性のファッションに疎い男はこれだから困る。普通、ワンピースの下に、ズボンなんて履きーまーせーんー」
「え? いや待ってちょっと待って、それ単なるTシャツだよね、直訳一つのかけらで表されるONEピースこと女性服じゃないよね?」
「パン一(いち)王に、俺は成る?」
「疑問に疑問で返すなっ」
「形状のみでいうならどちらも大差は無いのですー、ハイろんぱ」
「うぜーっ! どうでもイイからなんか履けっ嫌なら猫っとけ!」
荒宇土がそう言った瞬間、さくらの足が、太もも付近まで光沢有る黒い衣装で覆われた。
「す、パッツだと」
驚愕の表情で、ゴクリと唾を飲む。
「これで文句無かろう?」
さくらはTシャツを両手でたくし上げ、新着衣装を明らかにした。思いっきり上げたせいで小さく可愛らしいへそが露に成り、意外とむっちりした腰周りが、黒のスパッツで強調されている。
「あ、ええ、はい、お宜しいかと存じます」
何故か視線を逸らしながら答える荒宇土に、惟知香は不思議そうな顔をした。
「なんだ。偉い剣幕だったから、服を身に着けても、お説教の一くさり位やらかすと思ってたのだが、存外呆気無いな」
さくらの眠そうな目が、初めて漫画チックに見開かれ、小ぶりな口が大きく開く。
「はぁうわっ、コヤツめっ、今の表情は『コレハコレデ有リカモ』という、妥協的よくじょう肯定な自己分析結果の隠遁表現っ」
さくらの『ごく普通』に『見える』追求を受け、荒宇土は日本語が不自由な外人選手のようなジェスチャーを繰り返した。
「ノッ、ノーノー、違いますよ、後三歳位お年をお召しあそばされると、大変お宜しくあそばされ候と拙脳がシミュレートしただけでして。……そういえば、化け猫なら、外観とか、自在に成るんじゃ、ないか、な? なっ?」
「? 浴場校庭……さくらは偶に訳の解らないことを言う」
「のぶばかーっ ボケてる場合ではないっ。コイツはうちを、選手評『将来性に期待・未完の大器・じっくり育てて行きたい』認定しよったのだっ。くーわーれーるーっ」
惟知香はさくらからそう言われ、初めて得心行った表情を見せた。
「ああ、成る程。先程のは欲情肯定か。うむ、解らんでもない」
「なんとぉーっ」
さくらの平坦な驚きが走る。
「アンタはニート暮らしが長いからな。その上で間食大好きだから、野外を駆け回っている普通の猫に比べ、筋肉より贅肉が付き易いのだろう」
「ねっ猫の運動は立体的に作られた室内をウロウロするのと、おもちゃで一定時間遊んで貰うだけで十分っじゅうぶんですぞぉっ!」
そういいつつ、さくらは山猫の姿に戻ると、ふた飛びで半開きだった天井収納に飛び込む。
「いや、そこまで警戒せんでも、何もしないって」
荒宇土は、弱りきった表情でなだめに掛かった。惟知香が苦笑しながら制する。
「まあ待ちたまえ。実際の所、君にこういったハプニングの耐性が無かっただけだろう? これに懲りて、有る程度心構えを持っておくといい。どうせ、あの子は直ぐに復活するから」
「そうなのか?」
荒宇土が見上げる中、さくらは収納の中で熱心に全身グルーミングしていた。背中まで綺麗に舐め終わると、体を震わせ軽く伸びをする。
やや間を置いて収納から顔を出したさくらは、貫禄を感じる動きで間口に寝転がった。
「お、機嫌直ったか?」
「……」
猫は、ふてぶてしい表情でアラド達を見下ろすと、思い切り大きなあくびをして、フスッと鼻を鳴らす。
「うわ、何だあの見下した態度」
「どうやら高い所に居ると、落ち着き、かつ強気の態度になる様だ」
いつもの事だ、と惟知香は気にした様子も無い。
「さて、これで君の寝床は無事確定したな」
「おわっ」
自分が提議したことを自分で引っ掻き回した結果、結局予定通りに収まった事を微妙に気恥ずかしく感じ、荒宇土は照れたような表情をみせた。
それを見ていた惟知香が思案げに問い質す。
「ところで、話の流れ的に確認しておきたいのだがな」
「なに?」
「今日は、流れ的に着替える暇が無かったので、制服のままだが、私も普段、Tシャツにパンツというラフな格好で過ごしているのだが」
荒宇土は、真剣だが感情の無い表情で答えた。
「あ、もう、そういうの大丈夫なんで、すいません」
「なっ!?」
『えっ? 私の扱いぞんざい過ぎっ』
ショックで固まった惟知香を無視して、荒宇土は片付けを再開する。
やりとりを眺めていたさくらは興味無さげに視線を外すと、自分の腕の上に顎を乗せた。
***** ******* *****
開け放たれたベランダ側の窓から、最終下校を告げるチャイムが流れてきた。
引越しゴミの後処理を手伝っていた惟知香が、3つ並んだ目覚まし時計に目を向ける。
「おや、もうこんな時間か。君、夕飯はどうするつもりだ?」
荒宇土は、潰したダンボールを紐で不器用に結びながら答えた。
「ええと、考えてなかったな。晩飯も学食を使う事って出来る?」
「出来る。寮生用の食堂も兼ねているのでな。二十一時過ぎまで使用可能だ。だが、その時間に成ると、売れ筋はほぼ全滅だ。ワンパターンな固定メニュー位しか頼めなくなるので、面白くない」
手の埃を払いながら答える。
「ごらんの通り、狭いなりにもキッチンが有るしな。自炊する者もソコソコ居る」
「うち等自炊推奨ーっ組っ♪」
未だ収納に収まったまま、人の姿に成ったさくらが、上から変な調子の声を掛ける。
「アイツは何もしないがな」
惟知香は、苦笑いに近い表情を浮べた。
「それはさて置き、君さえ良ければ今後とも私達と夕食を共にしないか? 今日一日分位の材料はストックしてあるから、夕飯は歓迎の意味も込めて鍋でもしよう。以後、明日から材料費は折半、肉体労働はそのつど分担する。どうだろう?」
「そりゃ有り難いかも」
願っても無い申し出に、荒宇土は即了承する。
「うむ、決まりだな。なら、早速準備するとしよう」
言いながら、惟知香は洗面台で手早く手を洗うと、冷蔵庫の中身をチェックし始めた。
「なべー? うちに対する嫌がらせだー」
寝そべった姿勢で顔だけ見えるさくらが、不満げに抗議する。
「白身魚系列の塩ダレ鍋好きだろう? うん、冷凍のタラ、十分有るな」
「好きだけど熱い。この姿なら普通に食えるが、その熱さに対する魂の拒否感と、ほろほろ白身がもたらす旨味への飽くなき欲求が限りない二律背反となって、永続する思考迷宮を生み出すのだ」
良く解らない事を言いながら、さくらは奥行きだけ有る狭い収納の中で、もぞもぞ身悶えした。
多少迷った後、荒宇土は声を掛ける。
「あのさ、その姿でそこにひしめいてなくても、良いんじゃないか? 狭いだろ?」
さくらは、思う様見下した成分を眠たげな視線に含ませた。
「荒宇土くん、お前はバカかね? この全身隠れる位の、四方が閉ざされた程好い閉塞感がもたらす安心は、何物にも変えられんのだ。あ、中トロは別な」
猫姿でやっていたのと同じように揃えた両手の上に顎を乗せ、至福の表情を見せる。
荒宇土は改めて、ああ、コイツは何のかんの言って猫なのであるなぁ、と妙な所で感心した。
「君、役立たずと言われたくなかったら手伝いたまえ」
惟知香に促され、荒宇土はキッチンに移動する。
「で、何をすればいい?」
「材料解凍野菜の水洗いにカット、食器の準備に米研ぎ、やる事は幾らでも有るのだよ」
荒宇土は、ニヤリと笑った惟知香の指示に、ただただ従うだけだった。
流石のさくらも、不承不承ながら天袋から降り、食器運びを手伝う。
小一時間ほどで、総ての準備が整った。
「荒宇土君、相互不可侵協定仲裁者就任プラス入学おめでとう」「おめー」
「あ、有難うございます」
「さぁ、食べたまえ。味付けは市販のタレだが、うるさいさくらも文句を言わない良品だぞ」
「旨味御意見番として当然の権利、けんりですぞー」
挨拶もそこそこに、美味い匂いのする鍋に箸を付ける。
「うま熱っつ!」
盛大に湯気をたてる白身魚を頬張って、荒宇土が口の中で冷まそうと四苦八苦した。淡白な身は噛まずとも、舌先で転がすだけでホロホロと崩れる。噛み締めると染み込んだダシがじんわりと広がり、白身の味わいを増した。
「カセットコンロが無いので、最大加熱した後に鍋を持ってきている。適温のタイミングが難しいから、熱々を味わえるのもイベントの一環とでも思ってくれ」
「これはうちに対する無慈悲な嫌がらせであり、断固として抗議するよういが有る」
呟きながら鶏肉を頬張るさくらの前には、底の浅めな取り皿が二つ用意してある。
一方は、結構な量の切り身と鶏肉が持ってあり、程好い温度に冷ましてあった。最後の最大加熱前に、惟知香があらかじめ見繕って、取り分けておいたらしい。
眼前の湯気を立てる鍋から切り身とつくねを掬い出す。空の取り皿に置き、自分は適温な山盛りの白身を口に運ぶ。
「さくら、野菜もちゃんと食べなければ駄目だぞ」
とんすいと呼ばれる取り分け用の器に、白菜とエノキを移しながら、惟知香がたしなめた。
「残念ながら猫科は肉食、にくしょく系の生き物ゆえ、肉々しく生きるしかないのだ」
さくらはそう言いつつ、熱々の白菜を取り皿に移す。
『なんか、保護者と子供の会話だな』
自分も白菜の歯応えを楽しみつつ、荒宇土は思った。
結構な量の食材も、鍋の温度が冷める頃には、健啖な三人を前にアッサリ消費される。
「さて、締めといえば雑炊だが」
鍋の空き具合を確かめた惟知香が、さくらを見やった。
「さくらに悪いが、こればっかりは熱々を避けられん。許せ」
名残惜しげに最後の鶏肉を頬張っていたさくらが、期待と不満の入り混じった声を上げる。
「絶対に許さない。……が、のぶちかの雑炊はウマウマゆえ、己が野生の魂をねじ伏せてでも全力でハフハフする用意がある」
惟知香は了承しながら、鍋をキッチンに持っていく。炊飯済みの飯をざるで水に晒し、手早くぬめりを取ると、加熱しておいた鍋へと移した。
最後に入れる卵は溶くべきか、玉としての存在を残すべきか、で不毛なディスカッションが繰り広げられたものの、出来上がった雑炊の美味さが総てを洗い流した。
「ごちそうさまでしたー」
鍋の中身を綺麗に食べ尽くして、三人は満足げにくつろぐ。
荒宇土が率先して洗い物を済ませ、居間に戻ると、惟知香がお茶を差し出してくれた。
「ご苦労だったな」
「あ、ども」
銘柄は解らないが、すっきりとした甘さを感じる温めのお茶は、荒宇土をほっと一息つかせる。
すっかりだらけきった荒宇土に、惟知香は微妙に硬い笑みを浮べた。さくらが目で促し、惟知香の口が解っているっ、と形だけ声を出さず動く。
「う、うむ、鍋は実に美味しかったなぁ堪能したなぁ。と、ところで君、な、何故仲裁者になろう、等と思ったのだ?」
「な、なんだいきなりというかその喋りは何? なんか目論んでんのか?」
己が大根だと解ってない役者が、演技派を気取って読んだような台詞に、荒宇土は不審げな表情を浮べた。
「まさか、ココまでとは。もうちょっとこう、アクター心というかな」
さくらは、コタツ周辺に積んであった文庫本をいそいそと広げ、顔を覆い見なかった事にする。
「ええい、私の繊細な演技は俗物には理解できんっ。もういい、件の内容に付いてサッサと白状するがいいっ」
「くだんのないよう?」
「学園長は何を話した? 君がココに来た理由は?」
どうやら、何故自分が今の境遇に成ったか? や、学園長室でのやり取りに興味が有るらしいと荒宇土は理解した。
「言ってなかったっけ?」
「うむ」「だぞ」
「知らない方が、いいかも」
「いや、話せ」「だな」
「後悔するかも」
「ええい、もったいぶるな」「である」
「身内に売られた……」
「うーわー」
ガックリ肩を落とし、どんより曇った荒宇土を見て、惟知香は焦った表情をみせた。
「ちょっ、さくら、これはブラフか? 擬態か? マジモノか?」
丸投げされたさくらは、眠たい目で、レイプ目状態の荒宇土を凝視する。
「残念なお知らせが有ります」
「何だ? やはりブラフか?」
「実話」
マジカー、そう小さく言って、惟知香は頭を抱えた。
さくらは、やり取りに興味無いといった風で、文庫本の真ん中辺りのページに顔面をうずめ、熱心に読んでいる振りをする。
荒宇土自体は、膝を抱えて昼間の内容をブツブツ呟きながら、壁を向いて丸まっていた。昼の一件が、思った以上に堪えていたらしい。
「本命受かってたのに、工作されて落とされてさー。ココ受かった理由が、化け物仲裁する為ですーって何だよそれ放置国家なら正しいけど法治国家だろマジアリエナイワしかもそれおこなったのがじつのおじってどんなおじだよ食券らんようかよって食券って何だよ職権だろみうちにうらぎられたおれのたちばってあーぜんじつのおいわいっておやもしってたんだですよねーじゃないとあのはんのうはないわー」
「さ、さくらっ、この反応は何だ? 新手の呪詛か何かか?」
「有る意味重症だわな……プッ」
「おぉーい、合ってない語呂合わせで噴出している場合かっ?」
取り乱した惟知香が、自己縮退を続けている荒宇土の肩を揺すぶった。
「君っ、確りしろ、心の傷は深く致命傷かもしらんが、なあに大丈夫、誰も信用出来ないっていうのもそれはそれで寂しく後腐れ無い人生だっ、一人でがんばっていけっ!」
「うちは正に今、天然モノの恐ろしさを実感した」
「何? もっと厳しく突き放した方が、彼の為なのか?」
「止めてーコイツのHPはもうゼロよ……しかし」
慌てている惟知香と、ダウナーに堕ちていく荒宇土を見比べながら、さくらの眠そうな目が険しさを増す。ジャージの袖から、小さな紙切れを取り出し、荒宇土に向け指先で弾いた。
「!?」
荒宇土の背中に紙切れが触れた途端、静電気の弾けるような音がして、紙切れが消失する。
「にしても、突然仲裁者とか言われて、むちゃくちゃ驚いた……ん、どうかした?」
「え?」
素に戻ったような荒宇土の急な反応に、惟知香はぽかんと口を開けた。
「どういう事だ、さくら?」
「予め定められた禁忌の単語を発する事で、本人が頭で口にしようと思った言語と、実際に発言する内容が乖離するよう仕組んだ、呪詛か西洋魔道の類であろう。ついでに、本人自身も鬱的な心の痛みを受けているようだったが」
問題は、こんな手の込んだ呪法を、悪ふざけもしくは嫌がらせの為だけに使っている事であった。限定条件発動、呪詛の多重発動、どちらもかなり労力のいる呪法で、ココまでやるなら呪殺の方が余程手間が掛からない。
自分が知識として得ている呪法の心得を大きく逸脱した事例に、さくらはどう判断してよいか困惑した。
惟知香が何か言う前に、眠たげでない、さくらの声が被さる。
「今のは、お前がココに来る事と成った理由、昼間の出来事の説明か?」
「そうだけど、つまんなかったか? 悪いが、面白おかしく話す才能とか持って無いんだよ」
ごく普通に返す荒宇土に、至極普通の反応っぽく、さくらが求めた。
「三行にまとめて」
「はぁ? ……唯一受かったと思った超進学校の合格理由が、偽装学校内に有る化け物クラスでの調停業務でビックリ、実際には本命受かってて、それを辞退処理したのが、親戚だった。追加で極秘任務もバリューセットされて、さぁ大変……こんな感じか?」
「極秘任務詳しく」
「禁そ……一応、極秘なんで、秘密だ」
「のーーぶちぃーーかぁー」
「な、なんだその精霊召喚か最終兵器出現みたいな呼びかけは?」
「半パイアのお前が持つ、数少ないホンモノの力、今こそ披瀝する時ぞ」
「は?」
「魅了の技で、極秘任務の内容を見事聞き出してみせいっ!」
「ああ、なるほど。気付かなかった」
返答を拒む荒宇土を見て、さくらは珍しく普通の声で惟知香を担ぎ出す。半パイアと呼ばれた事に突っ込まず、真祖のダンピールは少年の前に進み出た。
「ヴァンパイアとしての私の力、信じていないようだったな? 今こそ、その身を持って体験して貰おう」
「えっな、何を突然っ」
しなを作ってすがりつく惟知香に、荒宇土は腰が引ける。有無を言わさない力で荒宇土を絡め取った惟知香が、耳元で冷たく囁いた。
「我が魂が、その身に宿る心を捉えて見せる。影は光に追いつかず、光は影に気付かない。双眸の輝きが緋色を増す折、結びつかぬ心が魂の従徒として、我の前に額づく……」
惟知香の両目に赤い輝きが増す。
ゾッとするほど冷たい響きが、ねっとりした熱い情熱の喘ぎを持って、荒宇土の耳朶を染めていく。やや間を置いて、惟知香が表情をなくした荒宇土から離れる。
「ふぅ。ん、完全に魅了したぞ」
さくらにそう宣言すると、会心の笑みを浮べた。
「ふはははははっ、昼間真祖の私をとことん疑った対価を、今、相応に払うが良いっ」
「その場で魅了を使うという短絡に至らなかった点だけは、自重したと褒めてやる」
「あ……」
「思い付かなかっただけ、か」
さくらは、この子アカーン、という残念なモノを見る目で、惟知香をジト見する。
「違うっ違うぞっ、断じて違うっ」
「うん、違うっていう事にしといたから、内緒の秘密を聞き出してくれなさい」
慌てる惟知香を、さくらは宥め、促した。
「理解したなら、いい。さて」
膝をついたままの惟知香を、荒宇土はぼんやりと見詰めている。少年に向き直ると、惟知香は作った妖艶な声を掛けた。
「君、先程の秘密を私にだけ聞かせてくれたまえ」
荒宇土は、きっぱりと言い放った。
「ああ、それ無理。内緒だから」
「えーーーーーーーーーーっ!?」
惟知香が驚愕する。
「バカなっ! 魅了が効かない等、有り得んっ」
「ちょっと待ってほしい。コレは、ドジッ子属性の発露なのか? それとも、きちんと検証すべき何かが有るのか? 半パイア=ポンコツが、当たり前のように成立したという事か?」
さくらも、驚いてはいるようだが、言外に『あー、こゆこと有るよねーポンコツには』という成分が満ち満ちていた。
惟知香は荒宇土を揺さぶって確認する。
「実は魅了されてるけど、ちょっとボケてみただけなのだよな?」
「良く解らんが、俺、何も変わってないと思う」
惟知香は、両手を付き、二の腕で左右から胸元を挟み、強調しながら荒宇土に迫った。
「こっ、この私の体を見たまえ、君にとって至高であろう? ムラムラするだろうっ!?」
荒宇土は失礼にならない範囲で、平坦な顔を軽く背ける。
「あ、そういうの大丈夫なんで。無理しないで下さい」
「おあーっ」
両手で頭を抱えた惟知香を無視して、さくらが荒宇土を凝視した。
『既に高位の術を掛けられていた? だが、解呪符の発動に耐えられるとは思えん……』
珍しく真面目な顔で、さくらが惟知香に問い掛ける。
「のぶちか、魅了は抵抗できない筈よな?」
「高位の術者や異形のものは抵抗出来るけど、普通の人間なら、まず抵抗出来ん」
「逆に思考しろ。出来たとしたら、どんな理由だ?」
涙目状態の惟知香が、口を真一文字に結ぶ。
「より高位の者が先に魅了を掛けているとか、本人が了承し、契約のような形を結んでるとか。後は、彼自身の素質が高い場合。言い方は変だが、神格のようなものを備えている人間が、ごく稀に居る。だが、最後の例はまず無い。私やさくらなら、遭っただけで気付けるからな」
惟知香は説明しながら落ち着きを取り戻した。さくらが荒宇土に確認する。
「で、誰かとそういったギアスを結んだ覚えは?」
「有る訳無い。そんな話、初耳もいいトコだ」
荒宇土は首を振って否定した。
「学園長と面談した際、何か無かったか?」
「何も無かった、と思う」
「契約した覚えは?」
探るようなさくらの視線に気付かず、荒宇土は考えながら答える。
「そりゃ、仲裁者の就任を契約といえば契約した事になるのか、な。後は……」
暗躍しているという何者かを、極秘裏に探す約束位か。荒宇土は肩をすくめた。
「お願いされて承った、って位の話だからな。俺が内容を納得した上じゃないと、契約した事に成らないってんなら、そんな話は出なかったよ」
「では、何故魅了されんのだっ?」
「解る訳無いだろ。何か有るとすれば……」
責めるような惟知香の問い詰めに、荒宇土は視線を逸らす。
「何だ?」
「それを言わせるか。俺にも恥ずかしさを感じる心というものが」
「黙れ、キリキリ白状しろっ」
微妙に視線を逸らしながら、荒宇土が小声で言った。
「俺の守備範囲が狭かったから、とか」
「? ……はっ!」
「あー、むっちりじゃないからへいきだもん、という事か。これは想定外だった」
愕然とした惟知香に、さくらの平坦な声が、トドメをさす。
「私は、邪な変態の執着心に敗北したというのかっ!?」
「*個人の感想です。実際の術施工後の結果とは多少異なる場合が有ります、だな」
「ちょっと待て、俺の好みはそうまで悪し様に言われるようなモノなのか?」
「好みの問題ではない。存在意義の問題だっ」
涙目で無茶を言う惟知香に、荒宇土が途方にくれた顔をする。
「んな事言われてもなぁ」
予想外な荒れ方をしている真祖吸血鬼を誤魔化そうと、荒宇土は話を逸らした。
「そ、そういや、さくら。なんでまたそんなに俺と学園長の話が気になるんだ?」
押し黙ったさくらが、ジッと荒宇土を凝視する。
「な、何だよいったい?」
先程までと明らかに違う雰囲気に、荒宇土が焦った声を出した。惟知香も何かを察したのか、元の落ち着いた調子に戻っている。
さくらは、一瞬思い止まったが、意を決したように顔を上げた。
「お前等が信用できないのだ」
「はぁ? いやま、俺は初対面だから信用できないってのは解るけど」
学園長は別なんじゃないか? 荒宇土はそう言いながら、首をかしげた。
「のぶちか、説明してやってくれ。うちは見ておく」
さくらに振られた惟知香が咳払いを一つする。
「コホンッ、君、昼間会った二人を覚えているか?」
「ああ、猫耳の二人?」
「アレを見てどう思った?」
「どうって……ちょっと突飛なトコも有ったけど、猫耳しっぽ以外は普通の子だったな」
「その普通とは、何と比べてだ?」
「ええと、この場合は人間の娘って事に成るか。それが何か問題なのか?」
「私もさくらに言われるまで、気にもしてなかったのだが」
そう前振りして、惟知香は一旦言葉を切った。
「現状、ココに来ている化け物の類は、殆どが人に化生する事が出来る、もしくは私のように外観は人と変わらない者達ばかりだ」
「そりゃ、人間に混ざって生活していこうとするなら、外見一緒じゃないとマズイわな」
「そこよ」
突然、さくらが口を挟む。
「元々人に化け、人海の間で生きてきた物の怪に、人の理を説く必要が有ろうか? 今更、だとは思わんか?」
「そりゃ、やらかす奴とか出ないようにするため、とかだろ?」
「お前は知らんだろうが、元々この国は、そういった物の怪に対処する者や集団が古来より存在しておったのだ。うち等がやんちゃをすれば、即排除される。排斥意識を持った集まりに、極少数が敵う訳無い。これまで残っている妖退治の文献がそれを物語っておる」
「だから、悪い事する奴がでないよう、禁止事項を教える為にココを作ったんじゃ」
「人間とて、取り締まる法があっても、悪事に手を染める輩が出るだろうに」
さくらは、苦笑寸前の表情を浮べた。
「ぶっちゃけ、人に力添えする物の怪も、同じ位古くから存在しておるのだ。餅は餅屋というしな。人と睦み、子を成す者も普通におった。ただ生き物と違い、執着怨念、意思の変容、条件を満たしてしまった結果、成り上がってしまうのが、妖、物の怪の生誕といえる。躾の成されていない、偏った感情のみを持ったツワモノが唐突に現れたらどうなるか? 躾がきちんと成せれば良し。さもなくば排除せざるをえん。多数の弱者と少数の強者、持ちつ持たれつの関係は、大昔から受け継がれてきたのだ。故に、この国の政を司る者は、物の怪が人に混ざり、人の営みを犯さず、ひっそり暮らす分には不干渉なのが慣わしよ」
ところが、そう言ってさくらはため息を付く。
「ほんの3年前、唐突にココが作られ、利権代表者に伝達者なる名目で、そういった輩が集められた。殆どは有力一族の歳若い血統でな。明日、学校に行けば解るが、生徒の殆どが、うちの同族だ。後は妖狐か。吸血鬼など、のぶちか一人きりだぞ。これは、この国における、吸血鬼の絶対数が少ないせいも有るが」
「化け猫ばっかって事か」
「そう。そして猫の物の怪は、古くからこの国に存在している。いわば、最も人慣れた存在だ。だからこそ、それなりの数が人に混じり生活しておる。混血の中には、己が血筋を知らされず、普通に人として営みをおこなっている者すら居る。さて、これ程までに馴染んだ我等に、殊更人の道を説く意味が有るか? 学園長は、何故そんな事をやろうと思い立った? 奴が普段やっている事と学園の御題目が一致しているとは到底思えん。なにやら大昔の書き物や伝承その他を大量にかき集めて、乱読しているようだが、それの何が我等と人の関わりにおいて生きてくるのだ? 温故知新は今を深く検証した後にこそ、意味の有る言葉となろう」
更にぶっちゃけるなら、そう前置きして、さくらはスマートフォンを取り出した。
「「最近のネット検索を使えば、ごく普通の日常用語や習慣等、懇切丁寧に説明して有るサイトが直ぐ見付かる。そこを閲覧すれば、大抵の事は理解出来るのだ。ワザワザうちらを一まとめにして学ばせる必要有るか?」
「なるほどね、言わんとしてる事は解った。学園立ち上げの目的が胡散臭い、本心は他に有るのでは無いかって疑ってるのか」
荒宇土は親指で顎をさすりながら、独り言のように呟いた。
「うむ。そんな状態で、赴任後ずっと胡散臭い行動を取っていた相互不可侵協定仲裁者が行方知れずと成り、推薦だという触れ込みで、お前が新たに現れた。どうしても作為を感じてしまう」
ジッと見詰めるさくらと惟知香に、荒宇土は肩をすくめてみせる。
「どうやら、内緒の秘密なんかより、重要な話をされちゃったみたいだな。解った、学園長に頼まれた件についてちゃんと話す。お前等が対象に成る可能性は低そうだしな。でも、他には言うなよ?」
そう前置きすると、昼間学園長に頼まれた極秘任務の話を聞かせた。
荒宇土が語り終えると、二人はしばらく押し黙る。
「学園の運営を妨げる者? ……何故にそんな事を」
「さくら、件の話は取り越し苦労なのか? 学園長は学園を維持する為に、内々気を配っているようだが」
「少なくとも、この件について、学園長が俺に嘘付く意味は無いんじゃないの? んな事やるくらいなら、黙ってりゃ良い訳だし」
「うちにもわからーんっ!」
さくらは突然、駄々っ子じみた声を上げた。
「大体、さっきの話は受け売りだし問屋卸だしだしっ! じょうほうをせいさする事なんて、軍師のしごとじゃあーりーまーせーんーっ」
「いや、うん、一番軍師らしい仕事じゃないかな」
荒宇土は、微妙に呆れた声をあげる。
「ちょっと待て、受け売りとはどういう事だ?」
焦った顔で惟知香が尋ねた。
「え? いやその、うちってさっきの話で言う、成り上がった者だし? そういった輩は、人間に一目置かれている同族の最高峰、『おかぁさん』って言われてる古強者に顔見せして、大丈夫認定もらわないと人の間で暮らすのが出来ないのだ。で、その時にさっきの話を聞かされて、『あんさんはあの場に居る中で、いっとぉ賢い子やから、皆を守ったってな?』と依頼された次第……」
何故か照れた表情で微妙に視線を逸らしながら、さくらは手元の文庫本を開いたり閉じたりしていた。
「ぶっちゃけ、さっき使った解呪符もぉ、その時、おかぁさん経由で貰った一枚だったり?」
荒宇土と惟知香は、顔を見合わせる。
「だとすると」「懸念は事実かもしれん」
「いやちょっと待てオマエラ、うちの事全く信用してないのか!?」
「もちろん冗談だ。冗談ついでに、ひとつ聞きたい。何故そのおかぁさんなる人物? が言った事、そっくりそのまま鵜呑みに出来るんだ?」
荒宇土の問い掛けに、さくらは眉根を寄せ難しい表情を浮べた。
「おかぁさんと同じピリピリを、うちも感じたから」
「何だそりゃ?」
「んー、どう言ったら良いか。何か頭の上の辺で光って、絶対異変が有った筈なのに、それが無いっていうか……」
「ああ、成る程。狙撃され直感で避けた筈なのに、狙撃した弾が飛んでこなかった、おかしい。こんな感じか?」
「のぶちかだいすきーっ!」
「いやいやノブさん? 今の説明で伝わるって、アンタ凄いっていうか、おかしいだろう?」
荒宇土は呆れた声を上げる。
「物の怪同士は、解り合える筈だから!」と、さくら。
「見えるのだ、色々と」「そう、そこで真っ直ぐ」「古い考え方が云々」
「で、時が見えると」と二人揃って。
「うっせえキマシども。解るように説明しろ」
焦れた荒宇土の声に、多少険悪な成分が混ざる。
「うち等、猫、の物の怪、の直感は絶対っ、これっ!」
「猫の化け物は、何事かが起こった時、直感的にそれを察知する力を持っているそうなのだ。それは、力の強い者ほど顕著に、そして些細な変化も知覚する。私が見る限り、この反応を見せて、外れた事は無いな」
二人の説明を受け、荒宇土がそれをまとめようとした。
「つまり、何事かが起こった、それは間違いない、でも、何も変わってない、それはおかしい、こう言いたい訳だな」
「あらあら(中トロくれるなら、あ、大トロはクドイから無しな)だいすきー」
「ココまでの発言の何処に、本マグロが関与する余地があった?」
「君の発言で合っていると思う。本マグロの前な?」
荒宇土は、そりゃどうも、と惟知香の肯定に肩をすくめた。自分の湯飲みを取り上げ、空に成っているのに気付き、テーブルへ戻す。
「言ってる事が正しいとしてだ、何なんだ、実際。何か、超魔法とか超能力とかで起こった事を隠蔽して有るとか、そういった系って事なのか?」
「かもしらん。でもしらん」
「何いってんだ、お前」
「それが解っているなら、こんなよーわからん説明なんぞしないっ。解んないから、こんなふわふわでもこもこした説明を繰り返しているのだっ」
「オカルトだわな。ロズウェル事件並みだわ」
途端、さくらの顔が嘲笑含みに成った。
「ばっかでーっこいつロズウェル信じてるよっ!」
「はぁっ?」
「あんなトコに異星人の乗り物が落ちた事実はあーりーまーせーんーっ! 伝わる話は又聞き伝聞ばかり、第一発見者も何かが落下するのを確認した、もしくはすさまじい衝突音聞いたから調べに行ったとかで無く、牧場の定期見回り中に変な破片見つけたから、関係部署に通報しただーけーでーすー」
「信じる信じないは置いといてムッカつくわーその物言い。後、ちょっと待て、お前、オカルト信じてないのか?」
さくらはきっぱりした表情で言い放つ。
「うちは科学的に証明されたものしか信じないねっ」
引きつった笑顔で、荒宇土が呻いた。
「えっとさくらさん? 自分の存在たった今否定しませんでした?」
「うちは科学的に立証された存在だ」
さくらが唐突にコタツ布団の中をごそごそすると、スマートフォンを取り出す。
赤外線の温度感知アプリを起動し、ドヤ顔で自分と荒宇土の間にかざした。
「ほーら、うちの温くたい体温が、熱源としてきちんと感知されてるっ。そんざいしてる、存在していますぞーっ」
「うっわー、非科学の塊が科学を信奉してるよ何この対消滅」
キッチンでお茶っぱを入れ直していた惟知香が戻り、皆の湯飲みに熱いお茶を注ぎ入れた。
「その、ろずうぇるは知らんが、地球外生命体自体、実際に居るようだが?」
「え? 確率や推論でなく、確実に?」
「うむ、冥王星の群体高度生命体とか、ヘイワード君、クラスメイトだが、が言っていたな。彼と仲間達が接触を試み、色々やっていたようだが」
「すげぇ……」
「そうなのか?」
愕然とした荒宇土に、惟知香はきょとんとした顔を向ける。
「何が凄いって、これだけありえない話を丸一日聞かされ続け、であるねー位の感覚のみで全く動揺しなくなった自分が凄い」
「何気に手前味噌と成ってないか? その発言」
惟知香が、ジト目になった。荒宇土は、首を振りながら頭を抱える。
「更に、何が凄いって、これだけうだうだやっておいて、話の根本原因が全く解消されてないって事だ」
「あー」
既に日が落ち、学園に至る道の常夜灯が、暗い中に筋を作っていた。惟知香は、窓に近いさくらに、カーテンを閉めるよう促す。
先程と違う熱いお茶を冷ましながら、惟知香が苦笑した。
「取りあえず、気分転換に風呂でも入ったらどうだ」
「んー、そうさせて貰うわ」
荒宇土は疲れた表情で頷く。
「シャンプーやタオルの類は準備しているか? 石鹸やシャンプーは、有り物で良ければ風呂場に有る物を使えば良い。ボディソープも有るぞ」
「ああ、ありがと。一応、シャンプーは用意してある。石鹸は、使わせてもらうわ」
「着替えも忘れるなよ?」
惟知香の含み笑いに、荒宇土はハッとした顔をした。
「危うく変なイベント発生するトコだった」
着替えを用意すると、風呂場に向かう。
「まぁ、くつろぎたまえ」
惟知香から給湯器の使い方を一通り教えてもらい、荒宇土は浴室に入った。全身を洗い、頭をトニック系シャンプーで泡立てる。石鹸やシャンプー用に使われている小物置きに、自分のシャンプーを置いた。値の張りそうなシャンプーの横に置かれた猫用シャンプーに、荒宇土は何とも言えない表情になる。
「ま、いっか」
頭からシャワーの湯を浴び、洗い流すと湯船に身を沈めた。暖かな湯に、思わずため息が出る。トニックシャンプーのすっきりした香りが湯気に漂った。それとは別に、甘ったるさと柑橘系の爽やかさが有るシャンプーの香りが全体を覆う。
「アレか」
常用されているせいで、残り香となっているシャンプーに視線が向く。今更ながらに、自分が女の子と一つ屋根の下になったのだと実感して、荒宇土は気恥ずかしさと多少の気まずさを感じた。好き嫌いと羞恥心は別物なのだな、と他人事のように考えてしまう。
「いやいやいやいや」
振り払うように湯船の湯を顔に浴びた。光の反射するお湯を眺めながら、そういやこの湯船に惟知香もつかるんだなと思い至り、荒宇土の顔が赤らむ。
「えーなになに、女の子のダシが出てるかもとか、思っちゃったわけ?」
出し抜けに響いた女性の声に、荒宇土は驚いて激しい水音を立てた。視線の先に、豪奢な金髪が揺らめく。
「!?」
何か言おうとする前に、荒宇土の口が金髪少女の左手で塞がれた。柔らかな掌の感触と共に、甘いようでスッキリした、青りんごのような香りが鼻腔をくすぐる。
「って言うかこういう場合、世間一般普通に悲鳴を上げるのは、アタシの方だし? それに、この状況であの娘達が来たら、君メンドイどころの話じゃ無くない?」
湯船のへりに左脇を乗せ、頭と肩だけ露出させた格好で荒宇土の口を抑えたまま、少女は意地の悪い声を上げる。
『もがっ』
「目の前に超絶美女がムチャ凄いカッコで現れてんだから、神に感謝するなり、思わず股間隠すなり、それっぽい反応しなさいよ」
『!! んごっ』
荒宇土は慌てて両手で股間を覆った。
「うっわ、超テンプレ過ぎるー」
微妙に高揚した口調で言いながら、少女は上半身を湯船に乗り出した。バスタオルで覆われた巨乳が湯船のへりに乗り上げ、窮屈そうにたぷんと艶かしく動く。見事な四本の縦ロールが揺れ、金色の髪が湯船に浸った。
『こっこれは!』
荒宇土は、惟知香に勝るとも劣らない胸元の見事さに驚愕する。視線の動きを悟ったのか、金髪少女が勝ち誇ったような声を抑えた調子であげた。
「男の子ってホントたーんじゅんよねー。どこでも変わんない。さて、この姿勢って意外ときついから、手を離したいの。大人しくしてくれるかな? 別に今殺すとか処すとかもぐとかは目的じゃないから」
軽い調子だが、有無を言わさない迫力に、荒宇土は思わず頷いてしまう。
「よしっ」
「ぷはっ、な、何だ誰だ何してんだお前っ」
押さえ気味の声でまくし立てた荒宇土に、金髪の少女は湯船のへりで腕を組みながら笑みを返した。
「アタシはアンタを良く知る女よ」
「は? 俺は知らんぞ」
「あ、だよねー、アタシも初対面」
「え? じゃ、何処で俺の事を」
「……嘘に決まってんじゃん。バカじゃね?」
『何コイツ性格悪っ』
「あー、今性格悪いって思った。ヒドーい」
「!?」
思わず顔をしかめた荒宇土を楽しげに見やりながら、金髪の少女は置いてあったプラのイスに腰掛ける。縦ロールが見事な金髪に、美しさより愛嬌が強調されるぷにっとしたほっぺ。微妙にたれ目のクリッとした瞳は、悪戯な光を投げかける。目元がかなりきつく見えるが、アイラインをきっちり書き込んであるせいだろう。なで肩に、柔らかなラインを形作る、適度に肉が付いた二の腕。髪型やメイクをものともしない、自己主張が激しい胸元。タオル越しでも解る見事なおしりと、対照的に確りくびれたウエストが、雑誌が所望する理想的なグラビアアイドル像を体現していた。見事なプロポーションに、荒宇土は心底、勿体無いと思ってしまう。
生真面目な表情に隠された、荒宇土の邪念に気付かず、くつろいだ表情で少女が微笑んだ。
「素直なのも考えものよねー。それはさて置き、アンタに警告が有ってきました」
「警告?」
用心深い表情となった荒宇土に、金髪の少女はそれまでと違う、重々しく硬い表情で言い放った。
「アナタは何もしないで」
「は?」
ポカンした荒宇土を見て、少女は初めて微妙に焦った声を上げる。
「あ……アレ? 知らない? むっちゃ流行ってるハズなんだけど」
「何か解らんが、悪いな。俺は知らない。ギャグか何かか?」
訝しげな荒宇土の反応に、少女は独り言を言いながら下を向いた。
「そっかー、変なトコでズレてんだなー。ぬかったわ。……ま、いっか」
気を取り直し、にこやかな表情に戻って話を続ける。
「ま、取りあえず、総ては手遅れだから、ウダウダ考えずにおにゃのことの、一時のキャッキャウフフを楽しんどきなってコト」
「手遅れって何だ? 何を言ってる?」
「今日一日、目まぐるしかったでしょ? わけわかだったっしょ? それってね、クライマックス間近ってやつ。最後の歯車がガッコンはまった状態。イコールもーどーしよーもないっすわーってやつなのね」
砕けた物言いと、対照的に悲観的な内容に荒宇土の混乱が増した。
「そんなんで解ると思うか? もっと具体的に言ってくれ。何故何もしちゃいけないんだっ。つか、俺に関係有る事か?」
「大有り、と言えなくもないけど、今のアンタじゃどうしようもないっすわ。仮に、状況説明やってもぜーったい理解できないし、自分の無力さに病むだけだから、止めときな」
少女は、軽い口調で突き放す。
「やってみないと解らないだろ?」
「そりゃ、そうだけど。……量子論って、解る?」
「き、聞いた事は」
「ごめんねー、それって、地球誕生から近代文明の成り行きまで話すレベルだわ、無理無駄無効の三段跳びってやつ。何より……」
少女の陰りに、荒宇土は思わず息を呑んだ。
「な、なにより?」
「それやったら、アタシがゼッタイ湯冷めする」
「だっ!?」
あんまりな理由に、思わず突っ込もうとした瞬間、静電気が飛んだような、バチッという音が派手に響く。同時に、縦ロールが一本、ふわりと解け、乱れ髪が湯船に沈んでいった。
「ちっ、細けーっ ウザッ」
少女は一人悪態を付くと、小声で口走る。
「んじゃアラード、まったねー」
「お、おい」
荒宇土が声を掛けた瞬間、先程より大きな音が浴室に響いた。
「おーい、君、どうかしたか?」
惟知香の声が、部屋からくぐもって届く。近寄ってくる気配を感じ、荒宇土の視線がそちらに釘付けと成った。
『ヤバイ。やましい事は何も無いけど、何故かヤヴァイと俺の脳内が喚き立てているっ』
「とっ、とりあえずお前、事情を……!?」
金髪の少女に視線を戻すと、綺麗さっぱり消えている。荒宇土が驚いていると、ノックと共に、惟知香の顔が扉から覗いた。
「なんだ? 今の音は」
室内を見渡す惟知香に、荒宇土は焦った顔で誤魔化そうとする。
「おっ音? ああ、えっと、湯船で滑ったっていうか、手でへりをうっちゃって」
「そうか? そんな音には……」
そう言いながら、惟知香はスンッと鼻を鳴らした。
「それより、あのぉ一応今裸なんで」
荒宇土の控えめな抗議に、惟知香は悪戯っぽい笑みを浮べる。
「これは失礼、気付かなかった」
そう言い残して、浴室の扉を閉めた。
「は、ははは」
荒宇土は乾いた笑いを漏らしながら、湯船に沈んでいく。
「風呂ですら、寛ぐ事が出来ないとは」
あまりにも目まぐるしい変化に、頭の整理すら追いつかない。
当たり前のように現れた吸血鬼や化け猫。裏が有りそうな、この学園の存在。唐突に現れた少女が残した、手遅れという言葉。多少、ぼぉっとした頭の中で、今日一日の体験が目まぐるしく渦巻く。
「なんか、余計に疲れた気がする……」
一瞬、湯船の中で意識が飛びそうになった。
何か考えるにしろ、のぼせる前に取りあえずは上がろう。そう思い直し、荒宇土は風呂を切り上げた。
「ありがとう、良いお湯でした」
「では、逝ってくる」
着替えを済ませ、居間として使われている学習室に荒宇土が戻る。既に入浴準備を整えてたらしいさくらが、タオルや着替えを持って浴室に向かった。
妙な雰囲気に、荒宇土は髪をタオルで拭きながら尋ねる。
「さくら、妙に悲壮感漂ってたが、やっぱ猫だから風呂嫌いなのか?」
コーヒーを片手に、惟知香が振り向いた。
「いや、元の種は普通に川に入ったりするらしいぞ。アレは本人の個性だな。別に風呂が嫌いという訳では無いようなのだが」
「にしては、決死の表情だったけど?」
「ああ、一度全身洗い出すと、隅々まで事細かに磨き上げないと気がすまないらしい。やってる時とやった直後は、充実感満点らしいのだが、直後に払った労力の重さに魂が引かれて心が持たないのがエゴだとか良く解らん事を言っていたな。んっ、アイスコーヒーにしたければ、氷は冷蔵庫の氷温室に入ってる」
惟知香が、自分のマグカップを掲げ、キッチンで保温されているコーヒーを指差す。
「どんだけ凝り性かつやる気無いんだ、アイツは。コーヒー、頂くよ」
カップを持って、保温の為だけに使われているコーヒーメーカーへ向かった荒宇土に、真剣な声が注意を促した。
「いいか、水で薄めず氷を大量に入れてから、コーヒーを注げ。折角の一杯を、無駄に水っぽくするなっ! ガムシロップとクリームは冷蔵庫の一番上、スプーンは目の前だ」
「そりゃどうも」
荒宇土は適当な謝意を伝えながら、惟知香も十分、妙な所で凝り性だなと思う。これが、学園長の言っていた、種族の我とか言うものの一端なのだろうか? 言われた通りにアイスコーヒーを作り、スプーンで攪拌した。
「ふぅ」
一口すすると、火照った体にアイスコーヒーが染み渡り、思わずため息が出る。荒宇土は出来上がったコーヒーを持って、居間に取って返した。
ベランダの窓が少し開けられていて、冷たい夜風が時折冷えた空気を運んでくる。心地良いそよ風と、冷えた甘味を、荒宇土はしばし堪能した。
惟知香も、ゆっくりコーヒーを口に含む。
「少しは気分転換出来たか?」
「おかげさんで」
そういいながら、げんなりした表情の荒宇土に、惟知香が小首をかしげた。
「にしては、未だ解せぬ表情のままだが?」
「あー、まぁ、何というか気の休まる暇も無いというか」
『風呂に入ったら、ぱっきん少女がぱっつんボディのタオル姿を晒しながら、オワタ宣言して消えた、ぶっちゃけ落ち着く暇なんて無かったですたい、なんて話を出来ようか』
苦笑と惜しさが無い混ざった不思議な表情で、荒宇土は黙り込む。
横目で見やりながら、惟知香はマグカップから口を離した。
「君、シャンプーはトニック系なんだな」
「ん? ああ、その辺、銘柄とかあんまり気にした事無くてさ。適当に選んでる。石鹸だって普通のだし。あんな形に凝った石鹸、初めて使ったかもしれない」
風呂場に置いてあった香り高い石鹸を思い出し、荒宇土は肩をすくめる。
「その調子では、アロマオイルを使った事すら無いのではないか?」
「アロマ? お香とかそういったやつか?」
疑問系の荒宇土に、惟知香は静かに答えた。
「ハーブを元にしたアロマオイルを、湯に入れるのだ。入浴剤の代わりみたいなものさ」
「へー」
「カモミール」
「へ?」
マグカップを置きながら、惟知香は続ける。
「先程、『静電気の弾けるような』大きな音がした時、浴室を覗いたろう? 君のトニックシャンプーや石鹸の香りに混じって、微かにカモミールの香りがした」
荒宇土はあやうくコーヒーを噴出しそうになった。精一杯自制すると、平静を装う。
「え? あっと、気のせいじゃ無いのか?」
惟知香は苦笑交じりに、やれやれ、という表情をした。
「ヴァンパイアは、五感総てが人を凌駕している。鼻も利くのだ」
「あー、あの」
荒宇土はドギマギしながら、どう誤魔化そうか考える。そんな荒宇土を惟知香は目で制した。
「話したくないなら、構わない。一々追求はしないし、無理に聞かない。だが、先程の話に関わる事なら、君自身の判断で、キチンと語って欲しい」
荒宇土は、悪い事をした子供のように、横を向く。
「言うとのぶのぶ怒るから」
「さくらみたいな物言いをするな。何故私が怒らねばならない?」
散々迷った挙句、荒宇土は風呂場で起こったハプニングを総て話した。
「ふむ、突然出現して、突然消えた女の子、か」
怒ったりイジったり、というテンプレ反応を予想していた荒宇土は、落ち着いた惟知香を見て驚く。
「え、えらく冷静だな」
惟知香は、マグカップのへりに指先を這わせた。
「当たり前だろう? 不可解な事態に、何事か知らんが、手遅れだと直言されてしまったのだ。早急に判断せねばならん」
「あ、さいで」
「それに、包み隠さず話してくれた事は、単純に嬉しいものだ」
人好きのする笑みで、にっこり笑った惟知香に、何故か荒宇土は照れを感じた。冗談とはいえ、迫られた時には全く感じなかった感情に、自分自身で驚く。
惟知香はコーヒーを取りに行き、保温されていた分総てを注いだ。コーヒーサーバーを軽く水洗いするとサイフォンをセットし、ケトルでお湯を沸かしだす。
「何で、コーヒーメーカーを使わないんだ?」
「準備する過程が、考え事をする際に丁度良いのだ」
マグカップを持って戻ってくると、惟知香は砂糖とクリームを入れた。
「で、件の金髪少女は霊か何かか?」
「いやいや、生ものだと思う。口塞がれた時、感触有ったし」
「では、瞬間移動出来る能力者、なのだろうか?」
「そんなの、俺が判断できると思うか?」
「だわな」
しばらく黙ったまま、二人はコーヒーを飲む。お湯が沸いた音が響き、惟知香はキッチンに立った。
「兎に角、話をまとめて考えると、さくらの言う何事かが既に手遅れ……の可能性がある、という程度しか想定出来んな」
注意しながらサイフォンへお湯を少しづつ注ぎ入れる。
「ま、まぁ、ぱっきんの何らかのブラフ、というかハッタリかもしれないし」
惟知香は注ぐ手を止め、ひたひたと零れる琥珀色の液体を眺めた。
「無いな。それだと、ソイツの目的が解らん。イタズラを主目的にしているなら、むしろ私と遭遇して、テンプレのような展開で君を弄ぶだろう? だが、言うだけ言って消えた。目的が件の少女曰くの警告に有ると思った方が自然と考えるべきだ」
ケトルの口を傾けながら、惟知香は思案げな顔をする。
「情報が少な過ぎる。取りあえずは軍師様にお伺いを立ててみるのが、カドも立たないし、良いだろう」
「軍師って、さくらにか?」
「ああ見えて物知りなのだぞ。得た情報をつき合わせて、精査や矛盾を炙り出す事は得意としている。推論する際、直ぐに飽きてしまうのがちょっとアレだが」
風呂場の方から、何かをブルブル振り払う、リズミカルな水音が響いた。やや間を置いて、ごそごそ物音が聞こえた後、妙にテカテカつるんとした印象のさくらが出てくる。
「あつー」
懲りもせず、やや大きめのTシャツ一つの姿で通路に仁王立ちした。
「随分綺麗に成ったな、偉い偉い。ちょっと待て、アイスのコーヒーをいれてやるから」
惟知香は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、1:3で牛乳多目なアイスコーヒーをいれてやる。
「ありがと」
手渡された一杯を、さくらはその場で一気に飲み干すと、カップを惟知香に突き出し、「んっ」と上目遣いでお代わりを要求した。
「はいはい」
いつもの事なのか、待ち構えていた様に、惟知香によって次のコーヒー牛乳が作られた。
手早く作って貰ったもう一杯を両手で持ち、さくらは居間の方へ戻る。
「君、先程の話をさくらにしてやっておいてくれ。私も失礼してお湯を頂いてくる。さくら、その件について皆で相談したいから、考えをまとめておいてくれ」
「かしこまりー」
惟知香は荒宇土に説明を任せると、湯浴みの準備をして浴室へ向かった。
敬礼して見送ったさくらが、あらぬ方を見てぼそっと呟く。
「かもみぃゆ」
「カモ……あっ、お前も気付いたのかっ?」
さくらは荒宇土をジト目で見ながら、コーヒー牛乳を飲んだ。
「猫は(目、科的に)犬の上位機種、上位機種ですぞー……で、何があった?」
涼しい窓際にぺったん座りしたさくらに、荒宇土は先程と同じ説明をする。
時折吹く風に髪の毛をそよがせながら、さくらは独り言のように言った。
「瞬間移動……それが本当ならどんなトコからも、引く手あまたな能力だな」
「実在するのか?」
「すると言って良いかは微妙だな。存在自体は認定されている筈だし、能力者が居てもおかしくないだろうが、ついぞ聞いた事はない。それだけ凄い力や完成された魔術なら、必ず界隈で話題になる筈。余程秘匿された力なのだろう。にしては、そいつはえらくぞんざいに扱ってるようだが」
「ぞんざい? そんな事まで解るのか?」
「凄い呪文や能力は、成立させるまでトンでもない手間と対価が掛かるのだ。そんなにポンポン使えるようなモノではない。それこそ命削りながら使うレベルの呪法だぞ。それを警告と称してイタズラ寸前の行為に使うとか、ぞんざい以外の何物でも無いわい」
言った直後に風が吹きぬけ、さくらは小さくクシャミをする。
くいっとマグカップをあおると、ジャージとスパッツがさくらの体を唐突にまとう。夜風が少し冷たく感じたらしい。
「つかさ、お前のその能力だって、瞬間移動に近いんじゃないの?」
「これはへんげであって、持ってきているのではない。種族固有の能力だ。ええと……単にお前の認識を変えているだけ、とか何とか」
後半の頼りない物言いに、荒宇土は受け売りなのだな、と察した。
「例えば、うちは実際にこの服を持っている。それをそのまま着る事も有るが、しまってあるのを出すのは面倒だ。きていますよ、とうちが思い、他者が着ているのであるなぁ、と勝手に思ってくれるなら、その方が楽だろう?」
「ちょーっと待てっ、それじゃお前実際には何も着てないんかいっ!」
「いいや、着ている。というより、お前には着ているという感覚以外を感じる事は出来ない」
「なんだそりゃ」
「仮に今、お前がうちのすぱっつに触っても、すべてかな布地の感触が有るだけで、うちの素肌に触る事はない、そういうことだ」
「何か、騙されてるような感じだが」
「触ってみるか?」
そう言うと、さくらは悪戯な表情でTシャツのすそをめくり、滑々テカテカなスパッツの布地を露出させる。
「いや、いい。そう言う事だ、と認識だけしとく」
手で拒絶する荒宇土を横目に、さくらは窓際を離れ、こたつに入り込む。
「さて、件の手遅れ、に間してはどうしようもない。事実か、どうにか成るのか? を判断する材料も無いしな。この件は惟知香が戻ってからで良かろう。そんな事より……」
さくらの眠そうな目に、興味本位っぽい光が宿った。
「ぱっきんきょにゅうだったのだろう? お前の好みだったのではないか?」
荒宇土は真剣な表情に、悲痛な成分を含ませて断言する。
「勿体無かった……全体的に、あと5キロむっちりだったら、どストライクだったのに……」
血涙を流さんばかりに本気で残念がっている荒宇土に、さくらは引き気味の声を出す。
「一体、何がお前をそこまでさせるのだ? 何故にそこまで限定的なのだ」
「え? ……なんでだろ。んー、大元っていうか、根源まで遡れば、子供の頃、かな?」
「何があった?」
どこか遠い表情で、荒宇土は記憶を掘り起こした。
「小学生の夏休み、ひと夏丸々うちで過ごした女の子が居てさ。今で言う自分に自身が無い系で、引っ込み思案でおどおどしてて、ほっておけなかったんだ」
訝しげな表情でさくらが促す。
「む、どこぞで聞いたような話であるな。それで?」
「ほっとけ。少し打ち解けた後、何か好きなものないのか聞いたら、プールが好きって言われたんで、一緒にプール行ったんだ。そしたら、むっちゃ喜んでさ。その時の笑顔が凄く可愛くて、こうなったんだと思う」
「プ、プールですと? そ、それはさて置き、笑顔が、むっちりスキーになる理由では無いと思うが?」
「そこまで聞くか」
荒宇土は苦笑いに近い表情で、顔を赤らめる。
「その子の体型がむっちりだったんだよ。可愛い顔にも似合ってたし」
「あー、水着で体のラインがクッキリぱっつん処女太り系、から覚醒したのか……しかし、即物的だな。所詮はオスだな」
「それだけじゃねーよ。その時の彼女がおどおどしてた普段とあんまり違い過ぎたから、『今のお前って十分可愛いんだから、自信持てよ』って、言っちゃったんだ」
「え? アレ? ……ま、いいか。その、いっちゃったという表現が不可思議だが?」
小首を傾げるさくらに、荒宇土ははにかんだ表情を浮べた。
「その子から、『自信持ったら、ずっと好きで居てくれる?』って言われちってさ。なし崩しに、うん、と約束したんだ」
子供の頃とはいえ恥ずかしいよなと言いながら、荒宇土は既に乾き始めている頭をタオルで乱雑に拭く。聞いていたさくらが、微妙に思慮深げになる。
「で、その約束は今でも有効なのか?」
「子供同士の他愛ない約束だぞ? 相手の名前すら忘れちゃってる位だからなぁ。でも……」
そこまで言って、真面目な顔で考え込んだ。
「あの時、あの場面だけは覚えてるんだ。印象強いって言うか、子供心に思うところが有ったのかもしれないな」
「真祖の魅了を凌駕する、鉄壁の性癖が構成された訳だしな」
「性癖言うなっ! 過去のチョッとイイ話を台無しにする発言は慎めっ」
平坦に述べるさくらに、荒宇土はつっこむ。それに返さず、さくらはコーヒー牛乳の入ったマグカップを傾けた。
頭の中で、過日惟知香から聞いた話と、『おかぁさん』との会見の際、傾聴した話が再現されている。
『子供の頃、一時期色々有ってな……』
『ええか、さくらちゃん、よぉ聞き。物事には、因果ちゅうもんが有るんや……』
一瞬、さくらの瞳が見開かれ、直ぐ、隠すように元の眠たげな視線に戻った。
『うわっちゃー』
マグカップで顔を隠すようにしながら、さくらは苦悶する。猫の直感が告げていた。下世話な、そしてとことん純粋な過去の話と、今正に表面化しようとしている話が、否応無く同時にクライマックスを迎えていくという事を。
絡まった二組の紐が、それぞれに干渉している。一方は自分でも解るくらい、簡単に解けそうな絡まり。もう一方は、漆黒の何かに全容を遮られ、どう絡まっているかも解らない。問題は簡単な方の紐の一端が、漆黒の中へと明確に伸びている事だ。簡単な方を解こうとして、安易に引っ張ると、遮られて見えない絡みにどんな影響を及ぼすのか、全く見当も付かない。
頭の中に突然浮かんだビジョンを、直感がもたらす結論への道しるべだと、さくらは正確に理解した。
『困るわー、うちにそんな事丸投げされても困るわー』
解っても、それが解決できるとは限らない。気付いてしまった自分の、猫としての特性を恨めしく思いつつ、さくらは残り少なかったコーヒーを一気に飲み干した。
開けていたベランダの窓から、吸い込まれるように風が入る。
「ふぅ、この時期は折角の風呂上りに、無駄に汗ばむ事が無いから、良いな」
風呂から上がったのか、惟知香の一息ついた声が、キッチンから聞こえた。
髪の毛をタオルで乾かしながら、居間に戻って来ると、自分のカップを持って引き返す。
冷蔵庫から牛乳を取り出すと、手ずから注ぎ一息に飲み干した。
頭を上げ、惟知香に声を掛けようとした荒宇土は、さくらの変化に気付かないまま、慌てて視線を逸らす。
惟知香と目を合わせない様、タオルをかぶったまま、荒宇土が呻く様な声を出した。
「あいや、のぶさん、よろしいか?」
「ん? 君も飲むか?」
「いやもうホント一々突っ込むのもアレなんですが……」
「?」
「その格好、何なんですかね? 全国あざとい選手権にでも、エントリー、なさってるんすかね? ……パジャマくらい、持ってるだろうっていうか着ろ」
惟知香は、素肌に大きめなワイシャツをはおり、ボタンを留めただけの、己が姿をまじまじと見る。生地が厚いせいか、特定箇所が透けて見えるという最大映像特典効果は発揮されていなかったものの、胸元の第二ボタンまで留めていないお陰で、白いシャツから露出する火照った肌色の谷間は確り演出されていた。
「……」
「何か、言いたい事でも?」
「ああ、そういう事か……安心したまえ、履いているぞ?」
「違うからちがうそうじゃないからボケて欲しくて振った訳じゃないからっ!」
「おやおやー一体何だというのだろう、君は私に何も感じないのだろう? 私がどんな格好をしていても大丈夫な筈だろー。その反応は実に不可思議だなぁ」
先程までのお返しなのか、完全に解った上で、惟知香は荒宇土を弄ぶ。意地の悪い表情に、荒宇土は相手の意図を察した。
「コイツ、意外と性格悪いな」
「ふむ、他者に配慮する気持ちの無い、君に言われたくはないな。大体、私の寝巻きは普段からコレだ」
「ぬぅ」「むぅ」『こいつらーっ』
苦慮する悟った自分と比べ、バカップル同然なやり取りをしているのん気な二人に、さくらは激しく不公平を感じる。
「おいそこのデヴ専と半パイア良く聞け!」
「デヴ専言うなっ」「誰が半端物だっ!」
「ええい、聞けというに。話は聞かせて貰った。むちぱっきんの言った事自体は、多分ホントだ。何かが起きてる。手遅れかどうかは……手遅れだとしても、それが何かを探り出し、出来る事は無いかを探らねばならん。明日から情報収集と調査を始める。そんな訳でのぶちか、ホットミルク甘々で作ってくれなさい」
「ああ、すまん。牛乳は先程飲み尽くした」
「ええーーー」
ショックを受けたさくらを見て、荒宇土は苦笑した。
「いいよ、俺買ってくる。学食のコンビニ行ってくるわ」
立ち上がる荒宇土を見て、何かに気付いた風の惟知香が声を掛ける。
「頼んでいいか? 良ければ食パンも買ってきてくれると助かる。御飯なら炊けるのだが、この調子だと明日は色々忙しそうだからな。トーストで、少しでも手間を省きたい」
「解った。どの位いる?」
「4枚か6枚切りなら二斤有れば大丈夫だろう」
「りょーかい……二斤って、本来の意味じゃないよな?」
「無駄に知識が有るんだな。現代流通単位で、だ」
手早く私服を着ると、荒宇土は買い物に出掛ける。
「ああ、この時間だと外からじゃないと店の中に入れないから、気をつけてな」
「あー、だよな。いってくる」
出掛ける荒宇土を見送ったさくらは、落着かない雰囲気をみせた。
「あ、あのさ、のぶちか」
「ん? どうした?」
さくらは、積み上げられた文庫本を物色する風を装う。
「まーえに話してくれた、昔々のコイバナだけど」
「私の、か?」
「うん。も一度聞きたい」
タオルで乾かしていた黒髪を、惟知香は軽く頭を振りつつ大きなモーションでかき上げた。
「それは構わんが? さくらなら詳細を覚えてるだろう」
「のぶちかの口から、ききたい」
「意外と照れるのだぞ、自分の口から話すと言うのは」
惟知香は苦笑した。
「かいつまんで、でも良いから」
さくらの微妙に真剣な雰囲気に、惟知香は混ぜっ返す事無く、話し始める。
「真祖としての私の立ち位置が微妙な状況を迎えていた時、とある関係者の家に、ひと夏匿われた。諸々の問題が山積みで、私は憔悴しきってな。その時、そこの家の子供と仲良くなっていたのだが、彼は『君は今のままでも可愛いけど』と、言ってくれたのだ。当時の私は、お世辞にも可愛いとはいえない体型でね。気を使ってくれた彼の言葉が、とても嬉しかった」
軽く腕を組み少しうつむいたまま、惟知香は懐かしそうに笑みを浮べた。
「それで彼に、『自分に自信が持てたら、好きに成ってくれるかな?』と聞いたら、頷いてくれてな。約束したのだ。その期待に全力で応えようと思った。己を節制し、磨き上げるのは結構難儀だったが、その時の約束のお陰で、これまで真祖として、やってこれたし、あの男が、ノーサンキューとのたまう位の、高い女子力を誇っている」
無意識に、両手で軽く頬を押さえる惟知香を見て、さくらは漫画チックな絶望の表情を浮べる。
『期待を打ち砕いてる、多分、全力で打ち砕いてるよそれっ!』
形容し難い表情でさくらは尋ねた。
「あ、相手の名前は覚えてないのか?」
「うん? あーちゃんだったかな? 互いにあだ名で呼び合ってたからな。本名を失念しているのはご愛嬌だ」
『確定、かくていですぞー』
ガックリ項垂れたさくらに、惟知香は不思議そうな顔をする。
「何だ、どうかしたか?」
「いや、うん、ありがと。いい話だった。少し泣く」
「そこまで感動する話ではなかろう」
『お前のニブさに泣いてんだよっ! むしろお前の鈍感さに感動だよっ!』
「いや、大変、興味深かった」
精一杯平坦な声で、さくらは礼を言う。
「そうか、何だか良く解らないが、役に立ったなら良かった」
タオルに顔をうずめながら、にっこりする惟知香の背後で、玄関の開く音がした。
「ただいまー。あのコンビニすげーな、品揃えが大型スーパー並みだぞ。お陰で、探すの苦労したした……牛乳はどんだけ要るか解らなかったから、1リットル買ってきた」
「お疲れ。1リットルで正解だ。何かと消費されるからな」
キッチンで出迎えた惟知香に、荒宇土は買ったものを引き渡す。部屋着に着替えながら、ふとさくらの方を見て、怪訝な表情に成った。
「な、なんだ、偉くげんなり、というか総てを諦めた様な顔してるじゃないか?」
『諦めてんのはお前のニブさをだよっ! むしろお前の鈍感さにげんなりだよっ!』
さくらは、全身洗われている最中の総てに絶望した猫のような表情のまま、口に出しては、別の事を言う。
「ああうん、気にするな。それより、明日からどうするかだが」
「なんか、考え有るのか?」
「ほう、聞こうか?」
「なんか、それっぽいの探す」
二人は呆れた表情でさくらに言った。
「それっぽい、て」
「それでは、何をどうしてイイのか、解らないのだが」
「結界、魔法発動用の魔道器、どうみても生贄ないたいけな何か、絶対怪しいけど怪しくないと主張される魔法陣、『手遅れ』の手掛かりに成りそうな物を兎に角、見付ける」
「そんな簡単に見つかるとは思えんが。仮に見つけてだ、その後はどうする?」
「うち等で解る範囲のものなら、何とかする。解んないものは、どっかにぶん投げっ」
「ぶん投げって、おい……」
「それで大丈夫なのか?」
多少呆れつつも、心配げな荒宇土と惟知香に、さくらはキッパリとした口調で言う。
「どのみち、五里霧中な今、事細かに決めても無駄になるだけ。高度なフレキシブルさと臨機応変な対応こそ必要な心得」
「うっわ、確か行き当たりばったりってやつだよな、その対応」
「元の例とは根本が違う。うち等は、不明瞭な何かに対して、明白な目的を達成する為の対応。『手遅れ』の内容を探って、可能なら対処する。出来ないなら、出来る者に丸投げする、コレッ」
真面目なさくらの顔に、荒宇土は肩をすくめて納得した。
「なるほど、確かに明快だ」
惟知香は納得ずくの表情を見せる。
「言うまでも無いな。私は、さくらの直感を信じる」
「のぶちか……」
さくらは、惟知香に向かって小さく頷いてみせた。
「あったか甘々ミルクまだー」
「……はいはい」
諦めきった表情で、惟知香はキッチンに立つ。荒宇土も後に続き、サーバーに残っていたコーヒーを注いだ。
「あ、牛乳ちょっと入れてくれ」
「ああもう。君まで私の手を煩わせるな」
開けたばかりのパック牛乳を、マグカップに程好く入れてやる。
「砂糖は良いのか?」
「ん、一杯頼むわ」
今日会ったばかりの筈なのに、既に馴染みきっている荒宇土と惟知香を、さくらはぼんやり眺めた。頭の中で、『おかぁさん』と会った時、聞かされた話が思い出される。
古びたアパートの一室が会見場だった。褪せた畳に、年季の入った炬燵。古い蛍光灯がぼんやりと室内を照らし、四隅に貼られている御札が、くすんだ色味をみせる。
手ずから切った羊羹を口に運びながら、『おかぁさん』は切り出した。
「ええか、さくらちゃん、よぉ聞き。物事には、因果ちゅうもんが有るんや」
「いんが?」
「総ての理には、必ず最初が有る。あんさん賢い子やから解る思うけど、事が起こった時、それは必ず何か、因が関わっとるの」
「原因?」
「大元の因ちゅう意味なら、せやな。けど、因は大抵途中のどっか、起こった事柄でしか、拾う事ができんのよ。せやから原因探るなら、そっから因をたどっていかなあかん。解るか?」
「何となく」
「事が起こったんは、因果、因が結びついた結果という事。字面でいうなら因が果として実ったちゅうことや。裏返せば事が起こるには、因の種が蒔かれて、実るまで掛かるちゅう事やねん」
「意味は解るけど、うちにどう関わってくるかが……」
「ああ、曖昧な物言いで堪忍な。せやけど、多分この話があんさんの為に、あっこに通ぉてるあの子達の為に成るて、ヒゲが教えてくれんねん」
己が直感をヒゲに例えた『おかぁさん』に、さくらは首を振って応える。
「ううん、うちも直感は当たるって解ってるから、言ってる事は覚えときます」
「そぉ言ってくれると、有り難いわぁ。ええか、なーんも関係無さげ、突飛に見える事でも、因が有るなら、必ず事に繋がる。忘れんでな」
「うん、解った」
そう言って羊羹を頬張ったさくらの頭を、『おかぁさん』は愛しげに撫でた。
「ほんま賢い子やわぁ。山の神さんの力は流石やね」
頭を優しく撫でる手が、さくらに妙な郷愁を与える。その感触は、今でも鮮明に思い出せた。
『やれば出来る子だという事を、証明しよう』
眠たげな目でそう決意を新たにすると、さくらの鼻に暖めた甘い香りが漂ってくる。
『ん、あしたからがんばる!』
決意を欲望で上書きすると、さくらは自分のマグカップを持ってキッチンへ走っていった。
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