1966年 6月22日

レディ・イン・ザ・ウォーター 1

 金城かねしろなごを見つけるのは容易かった。

 後藤に教えられた住所のアパートへ向かい、自身の能力を用いて入口で身を潜めていた知念ちねん夢雨むうは、液体と化したその身体を再び個体に再構築することによって和の目の前に一瞬にして現れた。

 知念の姿を目の当たりにした和はどこか達観した調子で両腕をだらりと下げていた。数回ゆっくりと瞬きをしながら口を開く。

 頬にはガーゼが貼られ、瞼は腫れている。

「あなたも後藤の差し金ですか」

 あの男の手下だと思われるのは不本意だ。でも、こいつと対話なんかしていられない。知念は瞬時に戦闘態勢を取り、両脚に力を込めた。

 先日彼女の仲間、山県やまがた理真りまを打ちのめしたこの能力があれば。よっぽどのヘマをやらかさない限り、撃退されることはない。この戦いはひなへの禊。後藤に踊らされているに過ぎないとは分かっている。それでも、やるしかない。踊らされる前に、自分から踊る。

「あんたも……あんたの友達みたいな目に、あ、遭わせてやるよ」

 できるだけ挑発的に、露悪的に。知念は笑う。彼女の思惑通り、和は警戒しながら眉をひそめた。

「友達?」

「山県理真」

「あなた、山県を、殺しちゃったんですか」

 彼女の目付きが変わったことを、知念は正確に認識した。

「殺してない。ただ、動けなくして私の家にいてもらってる」


 山県理真は相手にならなかった。いままでしてきたことよりも、ずっと。そっと尾行して、背後から一撃。それだけだった。


「なら良かったです。私、抵抗とか……もう、しないですよ。好きにしてください」

 敵の甘言を鵜呑みにするほど自分は単純な人間ではない。知念は構える。金城和はどのような手段で攻撃を加えてくるのか、まだ判断はつかない。

「ただ……」

 和はどこか呆然とした態度で言う。それはあまりに無気力的で、惰性で唇を動かしているだけ、知念にはそうとしか見えなかった。

「山県は……見逃してやってくれませんかね。できればでいいんですけど」

 気まずさを内包したその苦笑が、ひどく痛々しいものに思えた。知念は一歩、彼女の前に躍り出る。


あゝ無情レ・ミゼラブル、って、知ってますか」

 和は歯切れの悪い笑みを浮かべたまま言った。

 知念は何も答えない。

「……なんか、釈然としないですね」

 吐き捨てるように呟き、和は腕時計を一瞥する。

「これから、私は仕事に行かなくちゃいけないんです。今日で一区切りがつくんですよ。私を殺すんだったら、それまで待ってくれませんかね」

 和はおもむろにその場にしゃがみ込んだ。その体勢のまま、氷の上を滑るようにして知念の目の前まで接近する。知念は一瞬、肩を震わせた。

 幼い子どものように、和は首を伸ばして知念を見上げた。

「今、私は自分の足にかかる摩擦を減らして滑ったんです。触ったものの摩擦係数を操作するんですね。それが私の能力です。知ってるかもしれませんが。ちなみに弱点は、視界に入ってないものには作用しないこと。だからこの前、透明になれるやつに襲われて、殺されそうになりました。山県のおかげでどうにか助かったんですけど」

 

 思考の余裕はなかった。知念はすかさず腕を振り下ろす。和の右肩に指先が触れた。

 いとも容易く、豆腐を箸で崩すみたいに、彼女の肩がえぐり取られる。皮膚と骨と血の混ざった、ペースト状の液体が地面に落ちる。

 和は痛みを感じなかった。確かに腕は自分の身体につながっている。そこから先の感覚、むしろ感覚だけが喪失した。腕はだらりと、体積の足りなくなった肩にかろうじてぶら下がっている。和は大学生のときに見た、銃で撃ち抜かれて肉体の欠損した兵士の写真を思い出した。それとよく似ていた。

 和は立ち上がりつつ、二メートルほど知念から離れるように地面を滑る。左手をえぐり取られた肩に押し当てる。摩擦係数を高め、腕がちぎれ落ちるのを防いだ。そのさなか、足元に砕けたアスファルトの礫があるのを見つける。

 それを爪先で軽く小突く。

 礫は地面の凹凸を無視し、光線めいた速度で彼女へ向かっていく。礫の直撃をくるぶしに受けた知念はそれの鋭角が皮膚にめり込んでいくのを感じ、脚に意識を促す。礫は黒い液体と化し、彼女の足元へと落ちた。

「仕事に行かせてください。二十二時には帰ってきますから。ここに、絶対」

 そばにアパートの掲示板があった。和はそこに貼ってあった選挙ポスターを破る。それを球状に丸め、迫ってくる知念に投げつける。

 丸まったポスターが知念の顔面に、視界を覆うように張り付く。彼女はそれを意に介さないまま、肩から下げたポーチを開け、小瓶を取り出す。中には水銀めいた色の液体が入っている。蓋を外し、中身を投げつけるように和に向かって振り下ろす。液体は宙を舞い、彼女の身体を濡らした。

 そしてそれらが、無数の釘と化した。

 『液体化』しておいた釘を、『元に戻す』。針が彼女の喉を四方から突き刺した。

 和の口から漏れた声は老いた犬の鳴き声にも似ていて、彼女自身、それを滑稽に思った。呼吸ができない。生田目なまためとの戦いにおける負傷がぶり返す。皮膚にめりこむ金属の苦痛は山県との戦いのときのそれにも似ていて、和は自嘲めいた数奇さを覚える。

 足元がふらついた。このまま前のめりになってうつ伏せに倒れたら、釘が喉を貫通してしまう。そう判断した彼女は足の摩擦を強化し、踏みとどまる。

 右手を強く握りしめる。知念の顔面に張り付いているポスターの摩擦を強める。厚手の紙がパリパリと軋む音が聞こえる。

「わかりましたよ、私の負けですって! 戦意のない人間を殺そうとしないでくださいよ」


 知念は強烈な熱を顔面に感じた。顔にくっついたポスターに手を触れる。それは水と化して彼女の身体を伝う。



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