枯葉 Autumn Leaves

朝倉章子

第1話


 あたし、『枯葉』はセルジオ・サルバトーレが一番好きだなぁ。

 俺に一番近い席に陣取る若い女が、頭が悪そうにそう呟くのを聞いた。軽薄なメイクに安物のドレス。退屈そうで怠惰な眼差しには音楽への敬意をまるで感じない。この女がジャズを嗜んでいるとは到底思えず、きっとセルジオ・サルバトーレのこともたまたま名前だけを知っていて、俺の『枯葉』を聴いて知識をひけらかしたくなったのだろうと思う。

 でも、一体誰に対してだ?

 ピアノで『枯葉』を鳴らしながら、俺はふと疑問になった。女に連れはいない。ピアノバー〝PARTNER〟は週末らしい混雑で、ピアノの生演奏を聴きながら優雅なひと時を、なんて売り文句がクソとしか思えないほど、客たちはテメエらの会話に夢中だ。女はそんな店の中、演奏席の傍のカウンターに肘をつきながら一人、マティーニのグラスを愛撫している。グラスの中身がまるで減っていない。酒もよく知らないのが見え見えだ。ジャズのことも酒のこともよく判らねえくせに、虚勢を張りたくて何となく雰囲気のよさげなこの店に来て、お一人様を決め込んでるってところか。面倒くせえ女。おまけに小賢しい。俺の『枯葉』を聴きながら、セルジオ・サルバトーレのほうが良いだなんて、誰にも聞かれちゃいねえのにうそぶきやがって。

 俺は名も知らぬその女を軽蔑した。だが同時に、その安物のドレスでは隠し切れないほど卑猥な肉体に心動かされてもいた。

 女抱きてえなぁ……

 積極的な性欲ではないが、何となく触れて弄びたいという漠然とした欲求が、俺の中に生まれた。勿論この女と寝たいというのではない。こんな女はまっぴらごめんだ。遊ぶ女に苦労したことがないせいか、時々、そんな刹那に身を流したくなるんだ。落ちぶれかかったジャズピアニストという肩書は、女たちにはそれなりのブランドだ。その上俺は、女たちに言わせると「情熱的なセックスをしそうな顔立ち」をしているらしい。

 俺は目の前の安っぽいドレスの女が、ベッドで脚を広げているのを妄想する。触れている鍵盤が柔らかい腿をになったような錯覚を見て、静かに興奮する。とたんに『枯葉』の旋律が艶を増す。

 〝PARTNER〟の客たちは、今夜も俺の演奏に無関心だ。


 足下に枯葉の舞う、ジャズのテーマになりそうな夜の中、俺はいつもの帰路につく。ジャズと言ってもスゥイングジャズみたいなバカ陽気なのじゃない。ニューオーリンズ系の、しなびたジイサマみたいに辛気臭い秋の晩のこと。襟を立てて塞いでも、染み込むように冷ややかな風は容赦なく俺の肌を突きさしてくる。〝PARTNER〟が看板になり、地下鉄すらとうに終わっている街の中に、俺の足音が鳴る。タクシーに乗る金はない。

 むかっ腹を落ち着けたくて、俺はわざとらしく溜息をついた。白い息が夜に消える。けど、腹の中をゲジゲジが這い回ってるような感覚はまるで消えなかった。

 今夜、店が終わった直後のことだ。

 俺はいつものように閉店の手伝いをさせられていた。ギャルソンたちにゴミ出しを押し付けられて、ステージドアの脇にあるゴミ置き場に袋を放り投げた後煙草をふかしていると、支配人が現れた。またサボりをどやされるのかと思ってうんざりしたが、ハゲ頭のボスは、いつものように怒鳴って来なかった。その代わりに、お前は来月でクビだ、と言いやがった。

「お前、また客の女に手を出したろ」

 ハゲは蔑むというより憐れむような目をしていた。

「俺だってな、ジリ貧のお前にこんなこと言いたかないんだ。けどもう限界だ。お前さんも男だし、何よりもういい大人だ。どこで何をしようが知ったこっちゃない。だが店の評判を落とすほどの女癖を治せないってのなら、こっちも考えなくちゃならない」

「冗談だろ、ボス」

 俺はヘラリと笑った。先月も似たような会話をしていたから、その続きのギャグだと思った。けどボスは、俺がいくら笑っても、眉一つ動かさなかった。

「俺みたいな条件のいいピアニスト、そうそういねえだろ?」

 流石の俺も焦った。俺ぐらいのレベルと経歴を持った演奏者が、あれっぽっちのギャラで、こんなしなびたピアノバーでプレイするなんてことが、そもそも奇跡のはずだ。

「あんたの腕は認めるがな。けど、うち程度のお客さんなら、音大出たばかりの若造に弾かせたって大して変わりゃしねえんだ。腕がいいけど評判の悪いピアニスト置いておくよりも、演奏は固くてもクリーンな奏者のほうが店にはリスクがないからな。悪く思うな」

 そこまで聞かされて、俺はやっとボスがジョークを言ってるわけではないのに気が付いた。俺は反射的に、煙草の吸殻をハゲ頭に投げつけた。

「上等だよ、クサレ耳のクソハゲ」

 クサレ耳ってのは、あのハゲには相当きつい言葉だったようだ。捨て台詞を吐いて立ち去る俺に、支配人はありったけの侮蔑の言葉を投げてきた。天才かぶれの落ちぶれ野郎、テメエみたいな自惚れ屋を拾ってやった恩を仇で返しやがって。大体今夜も何だ、あんな滅茶苦茶な『枯葉』弾きやがって。テメエなんぞ腹上死しちまえ!

 あー、そいつは男のロマンだぜ。出来ればジュディ・ガーランドみたいな女の上で死にてえや――俺はハゲの支配人にそう怒鳴り返すと、〝PARTNER〟を後にした。

 枯葉が、足元を舞う。来月にはピアノを失うピアニストをあざ笑うメロディーが、がざがざと鳴る。冷たい風が、肌を刺す。店をクビになるのは今年に入って二件目だ。

 天才かぶれの落ちぶれ野郎、か。俺はハゲの言葉を思い返した。その部分にだけ反論出来ないことが、俺の心を萎えさせた。確かに俺にも、天才ピアニスト少年だなんて騒がれた時期があった。そして騒がれているうちに、ピアノしか知らないピアノバカに成り下がり、ピアノを弾く以外の生き方が判らなくなっていたのも本当だ。けど、今の俺には分別がある。今更いっぱしの芸術家を気取るつもりもないし、ピアノ弾きマシーンだと言われればそれでもいいと思ってる。だから〝PARTNER〟みたいな、ピアノバーの物珍しさだけが売りの店で、音楽のことなんか何も知らない客相手に演奏するのにも苦痛を感じたことは無い。俺を第二のビル・エヴァンスとか言って大はしゃぎして、俺からピアノ以外の道を奪った大人たちへの恨みすら、今の俺にはカケラもない。ただピアノを弾いて小金を稼げれば、俺はそれで満足なんだ。それなのによ……

 テキトーにピアノを弾いて、テキトーに残った人生の暇つぶしをして、暇つぶしの合間に女を抱いて。俺には、そんなささやかな人生設計すら許されねえのかよ。ジャズの神様よ、あんた本当にムカつくぜ。

 あーあ、いっそ本当に腹上死しちまいてえなぁ。

「ねえ、あんた」

 店の傍の公園を、いつものように突っ切ろうと通りかかった時だった。突然、声をかけられた。女の声だ。振り返って声の主を見て、俺は驚いた。あの下手くそなメイクと下品なドレスは忘れようもない。俺の『枯葉』よりセルジオ・サルバトーレの『枯葉』が好きだとぬかしやがった、あの客だ。女は人気のない公園に仁王立ちになって、無駄に太く描いた眉を恐ろしく釣り上げていた。

「あんた、あのパーナントカって店のピアノ弾きでしょ」

 パーナントカじゃなくてパートナーだ。そう言い返そうにも言葉が出ない。店の客を口説いて閉店まで待たせることはよくあるが、一方的に待ち伏せられたのはこれが初めてだ。俺の頭が状況整理すらつけられないままでいると、女は更にビシッと俺に指を突き付けてきた。

「あんたの『枯葉』、サイテーよ。すんごく卑猥。好きでもない男にあちこち撫でまわされてるみたいでさ。聴いててホント、吐き気がしたんだから」

 ハァ? 何だこの女?

「どうせあんた、女のこと考えながら弾いてたんでしょ。ああ、どっかに抱き心地のいい女いねえかな、なんて、弾きながら悶々と考えていたんでしょ。そんなのジャズへの冒涜。十二歳のセルジオ・サルバトーレのほうが、よっぽど『枯葉』を愛していた。あんたなんて、セルジオの足下にも及ばないんだから!」

 名前も知らない女に、俺は呆然とした。相変わらず頭の悪そうな喋り方だ。こんな難癖をつけるために、わざわざこんな時間まで俺を待っていたのか? イカれてるぜ。俺は女を避けるように再び歩き出した。「待ちなさいよ」と女はついてきた。

「ねえあんた、セルジオ・サルバトーレは知ってんでしょ?」

 俺と並んで歩きながら、女は聞いてきた。答えなかったが勿論知っている。俺が音大生だった頃だから、もう二十年以上前か。弱冠十二歳で初リーダーとしてCDデビューした天才ジャズピアニスト少年の名前だ。確かに奴は本物だった。奴の演奏するクリアなジャズは、二十歳を目前に突然才能が伸び悩み始めた俺の耳にも、クソムカつくほど心地良かった。だがそれも昔の話だ。あれ以来、とんと名前を聞かない。あの小僧、今はどこで何をしているのだろう。

「あたしね、彼の『枯葉』が好きなんだよね。何ていうの、他の人の『枯葉』ってさ、いつまでも地べたでクスクスしてて、ぐしゃって踏まれちゃう感じするじゃん。でもセルジオのはさ、潔くサッて風に巻かれて去っていくような、そんな感じするじゃん。彼と比べたらさ、ビル・エヴァンスの『枯葉』なんて、枯葉じゃなくて掃かれる前のクズゴミだよね」

 ビル・エヴァンスがクズゴミだと? この女正気か? 『枯葉』は元々フランスで生まれたシャンソンの曲だが、今では多くのジャズメンに取り上げられ、世界中のジャズプレーヤーがカバーするジャズのド定番中のド定番曲になっている。中でも、エヴァンスがベースのスコット・ラファロらと録音した『枯葉』は伝説と言ってもいい名演奏だ。それを、天才とは言え十二歳のガキの演奏と比べてクズゴミとか、それこそジャズの神様のバチが当たるぜ。

 俺は足早になった。女は俺の歩調に併せてきた。

「ねえ、店のパンフレットのあんたのプロフィール見たよ。あんたも天才少年だったんだよね。やっぱ尊敬するピアニストってセルジオ・サルバトーレだったりするの? あ、それともヤキモチ妬いてた系?」

 俺は段々イライラしてきた。

「俺が尊敬するのはクリス・ニュージョージ」

「ああー、クリスね。いいじゃん。あんたやっぱいいセンスしてるよ」

 バーカ、そんなピアニストいねえよ。知ったかぶりするならハービー・ハンコックぐらい出しやがれ。俺は女の無知が哀れになってきた。

「さっすが元天才少年じゃん。でもさ、それならやっぱ判らないよね。何であんたの『枯葉』はあんなに気持ち悪いの? 何でセルジオ・サルバトーレみたいにカッコよく弾けないの? あたし思うにさ、やっぱ女のこと考えながら弾いたのがまずいんじゃないのかな。やっぱピアニストはピアノのこと一番に考えてなきゃダメだよ」

「ご忠告をどうも、お客様」

 ウルセー、お前みたいな付け焼刃女にジャズの何が判るんだ。そう怒鳴りたいのをぐっとこらえた。この新手のクレーマーが言いたいことだけを言って去ってくれるのを、俺は待つしかなかった。

「ねえ、二人で飲まない? 奢るからさ」

 突然女がそんなことを言い出した。冗談じゃない、と俺は思った。

「お客様とは、そういうことは致しません」

「あはー、何言ってんの? お客さんに手を出してクビになるくせに。あたし聞いてたんだから」

「あなたに奢ってもらう理由がありません」

「そっちになくても、こっちにあんの。あんたにお説教するんだから。あんな『枯葉』もう二度と聴きたくないもん」

「それなら当分〝PARTNER〟にはお越しにならないように」

「いいから、奢らせなさいよ。セルジオ・サルバトーレの素晴らしさを語ってあげる」

「いい加減にしろっ!」

 俺はとうとう、限界に達した。

「さっきから何なんだっ、客だと思って大人しくしてりゃいい気になりやがって! ピアニストに説教? 上等だ! 是非〝むすんでひらいて〟の弾き方からご教授頂こうじゃねえか。セルジオ・サルバトーレ? ハッ、奴も昔は天才少年ってもてはやされていたから名前ぐらいは知ってんだろうけどな、あんな小僧の『枯葉』に心酔してるようじゃ、お前、ロクに他の『枯葉』聴いたことがねえんだろ。ジャズの先っぽも判らねえ娘っ子が! 俺の前から失せろっ!」

 俺の怒鳴り声が、冷たい夜の街に響く。

 女はしばらくの間、ぽかんとしていた。それこそ本当にバカみたいに口を開いて。だが、俺が今度こそ去ろうとした時、女は楽しそうに「ふふん」と笑った。

「ねえ、あんたに特別に、あたしの秘密を教えるよ。あたしを手放したくなくなるよ。あたしさ、娘なんだよね、セルジオ・サルバトーレの」

 そして彼女は、再び不遜に笑った。


 セルジオ・サルバトーレはイタリア系のアメリカ人だ。セル子――俺は彼女をそう呼ぶことにした――は、化粧こそ救いようがないほど下手くそだが、確かに、両親のどちらかがそういう血なのだろうとすぐ判る、シチリアオレンジのようにくっきりと垢ぬけた顔立ちをしていた。サルバトーレが神童と騒がれていたのは二十年以上前だ。その二十年の間に来日して日本人の女房を見つけ、娘をもうけた可能性は確かにある。だが、今ではいいオッサンとは言え、計算しても奴はまだ四十手前のはずだ。どう考えても、セル子ほどの年の娘がいるわけはない。

 自分をセルジオ・サルバトーレの娘だと言い張る女に、俺は呆れ返った。胡散臭いにもほどがある。この女がジャズの神様に祟られて野垂れ死んだとしても俺は驚かない。にも拘らず、あの晩、俺はセル子と寝た。

 手っとり早く言えば、あのイタリアンな肉体に陥落したのが真相だ。だが、セルジオ・サルバトーレの娘だと告白されて、あっけにとられながらも面白い女だと思ったのも本当だった。バカな女のバカなジョークだ。自分が神童の娘だと一分の疑いもなく信じているという堂々たる態度を見て、こいつは本気でイカれてると思った。あまりのイカれ具合に、俺はその女をにべもなく追い払うのが勿体なくなった。そして、ジャズの神様をも恐れぬその女に誘われるまま、抱いていた。

 尤も、頭のネジが何本か抜けているような女だ。ベッドに入っても大して楽しいセックスにはならなかったが。

 俺とセル子は、一緒に暮らし始めた。

 初めは、ベッドとピアノしかない俺の部屋に、セル子が泊まりに来るだけだった。迷惑だと思ったが、セル子は身体を合わせる時以外は放っておいてくれるので、やがて空気のように気にならなくなった。そうして入り浸られる数日が続くうちに、部屋の半分がセル子の私物で占領されていた。もしかしたらセル子は俺の部屋に住み着くつもりなのか? そう気付いた時はもう手遅れで、俺は完全にセル子に寄生されていた。

 女と暮らすのに面倒はつきものだ。だがセル子の一番の美点は、その面倒さを俺に味あわせないところにあった。甲斐甲斐しく俺の周りの世話をしたりしなければ、週末のデートも要求しない。まぐわう時以外は寝るのも別々。初めて会った時、俺に説教すると息巻いていたのが嘘のように会話もほとん求めてこない。セル子を手元に置いておく積極的な理由が俺にはなかったが、セル子を追い出す理由も見当たらなかった。俺はセル子が息を潜めるように俺の部屋に生息するのを黙認した。苦痛ではなかった。

 ただセル子にひとつ不満があるとすれば、ベッドでのことがあまりにも退屈なことだろうか。刺激的な女というのは得てして知的で慎ましいものだが、セル子はその真逆を行く女というわけだ。まあ、そんな女でも、気が向いた時にいつでも抱ける都合のよさには代えられない。俺はどこかでそう割り切って、セル子の身体に甘んじ続けた。

 セックスとは、身体ではなく人格とするものである。と、昔どこかの偉い哲学者が言っていたのを、セル子の上で果てる度に俺は思い出す。


 〝PARTNER〟での最後の演奏日が来た。俺は真面目に弾くのが馬鹿馬鹿しくて、『ムーン・リバー』をオードリー・ヘップバーンが安っぽい温泉宿でストリップをし始めそうなノリにアレンジして弾いてやった。それを聴いて慌てたハゲは、俺を速攻でステージから引きずり下ろした。そして殴りかかりそうな勢いで「もう二度と来るな」と怒鳴った。俺は「望むところだ」と言い返して、〝PARTNER〟との縁を切った。

 さて、明日からどう生きて行こうか。寒空の下、俺は考えもなしに考えた。枯葉すら舞わない真冬の夜だった。

 店を出て、いつもの公園に差し掛かろうとした時、俺はがっしりとスーツを着込んだ年輩の男に声をかけられた。

「失礼ですが、先ほどまであの〝PARTNER〟というお店で演奏なさってた奏者の方ですよね?」

 男は俺に深々と頭を下げると、「わたくしはこういう者です」といって名刺を差し出した。反射的に名刺を受け取った俺は、息をのんだ。

 そこに書かれていたのは、日本屈指の老舗ホテルの社名と、取締役の肩書だった。男は改めて名前と役職を名乗ると、俺に笑いかけた。

「先日より、演奏を聴かせていただいております。大変感銘を受けました。是非一度お話をさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」

 怪しい、と俺は思った。売れないピアニストを長年やっていると、この手合いの詐欺師に出会うのも一度や二度じゃない。俺は疲れているからと言って振り払おうとしたが、男はお願いですからお話だけでもと、俺を離さなかった。仕方なく、俺は詐欺師に一杯奢らせることにした。

 男が俺を連れて行った先は、名刺に書いてあったホテルだった。威厳のある佇まいと荘厳な内装に圧倒されているうちに、俺は最上階のラウンジバーに通された。そこは、透き通るような上品さを湛えた、見ただけで一流と判る異世界だった。窓からの夜景が息をのむほど美しい。さっきまでいた〝PARTNER〟が、掃き溜めにしか感じられなくなる。だが一番驚いたのは、バーテンやギャルソンたちが、俺をここに連れてきた男を見た途端、神を崇める民衆のように、一斉に頭を垂れてきたことだった。

 男は俺を席に座らせ、好きなものを頼めと言った。緊張のあまりウイスキーとは言えず、ジントニックを注文した。そして俺がグラスを舐め始めると、男は「早速ですが」と改まった。

 話を聞きながら、そしてここまで見せつけられながら、俺はまだ、この男が詐欺師ではないかと疑っていた。男は俺の予想通りの、期待通りの話をした。

 あなたの演奏の腕に惚れこんだ。是非このラウンジバーで弾いて欲しい。専属契約でも、そうでなくてもどちらでも構わない。あなたの腕を、わたくしどもに貸して欲しい――

 ラウンジバーの真ん中には、その名も高きベーゼンドルファーが、黒い宝石のように輝いている。

 その晩、俺は家に帰ると、寝ているセル子を叩き起こした。そして奇声をあげながら彼女を抱きしめ、戸惑う女に何が起きたのかを話して聞かせた。セル子は大して驚いた風にはならなかったが、俺の再就職を一緒に喜んでくれた。

 俺は場末のピアノバーの演奏者から、高級ラウンジバーのピアニストに変身した。そしてそれから、急激に運が向き始めた。〝PARTNER〟よりギャラが一桁近く違うのもそうだったが、客層が素晴らしかった。この老舗ホテルは著名人がよく利用することでも有名で、そんな連中に、俺のピアノを聴かせる機会もおのずと出てきた。弾き始めて数週間もすると、俺の演奏は連中の間で評判になった。それからテレビの金持ち特集なんかで見かける顔が、わざわざ俺のピアノを聴くためにバーを訪れるようになるまで大して時間はかからなかったと思う。俺はその数人と親しく付き合うことになった。ある社長は俺にとんでもない額のチップを寄こし、いつでも連絡をくれと名刺まで置いて行った。某有名デザイナーは個人的なパーティーに俺を呼んで、ピアノを披露させた。そうして季節が変わり緑が青々しくなる頃、俺はとうとう、俺のファンだというマダムの紹介で、新しい仕事を手に入れた。

 マダムの友人という音楽プロデューサーに、CDデビューの話を持ち掛けられたのだ。

 セルジオ・サルバトーレに遅れること二十年の話だ。

「お前って、本当にセルジオ・サルバトーレの娘なの?」

 デビューの話に舞い上がってセル子を抱いた晩、俺は彼女の背中を撫でながら聞いた。

「お前と寝るようになってから、バッカみたいにツキまくってる。お前のパパが本当にセルジオで、陰で手を回してくれてるんじゃねえかって疑っちまうぐらいだ」

 セル子は俺に愛撫され、猫のようにこそばゆそうにした。いい加減見慣れたその小賢しいい仕草も、この日ばかりは愛おしく感じた。

「あたしは娘だよ。セルジオの」

「ああ判ってる判ってる。そうだよな」

「あんた、あたしが嘘ついてるって思ってんでしょ」

 セル子は不機嫌に言って、俺はニヤリと笑った。

「信じるよ。信じてやらぁ」

 こうなりゃ何だって信じられる気分だぜ。俺は傍らのセルジオ・サルバトーレの娘の額にそっと口づけると、抱き寄せた。

 全く大した女だ。バカで化粧が下手で、ベッドでも大して楽しませてくれる女じゃねえけど、その一貫した面の皮の厚さと思い込みの激しさだけは見上げたもんだ。こいつがこういう女じゃなかったら、もしかしたら俺も自分の幸運を信じられなかったも知れない。女神、と言ったら言い過ぎだけど、セル子の図太さが、俺に勇気と信じる力を与えているのは本当だった。

「今後とも、パパによろしく頼むぜ」


 枯葉の季節にはまだ早かったが、無性に『枯葉』が弾きたくなって、俺はその晩の演奏曲目に追加した。今夜も、ラウンジバーの優雅な時間が始まろうとしている。

 そう言えば、ホテルに引き抜かれてから一度も『枯葉』を弾いていない。俺は、既に手に馴染んだベーゼンドルファーがどんな『枯葉』を鳴らしてくれるのか、他人のショーのように期待した。初秋と呼ぶにも少し早い、静かな平日の夜だった。ラウンジバーに客は少ない。俺は俺の為に遠慮なく『枯葉』を弾いた。乙女の柔肌のように繊細で神々しい旋律がラウンジに響き渡り、俺は俺に心酔した。

 ピアノに一番近いカウンターに女が座っているのに気が付いたのは、ひと演奏終わって休憩に入ろうとした時だ。まばらとは言え他の客もいる店内でその女だけが目に留まったのは、彼女の眼差しに、俺という音楽家への本物の敬意が輝いていたからだ。女と俺の視線が合う。彼女は僅かに頬を赤らめた後、幸せそうに微笑んだ。

「とても楽しい演奏でした」

 慎ましやかに、女は言った。俺の心が、枯葉のように動く。「素晴らしい」でも「素敵」でもなく、この女は俺の演奏を「楽しい」と言った。このラウンジバーに来てから初めて聞く、具体的な賛辞の言葉だった(尤も〝PARTNER〟の頃は「素晴らしい」なんてアホでも言える台詞すら、誰からも言われたことがなかったが)。俺は微笑み返した。

「お楽しみいただけて、俺も嬉しいです」

「ジャズ、と言うより音楽そのものに明るくないのですが、もの悲しさと高揚感が混在している雰囲気に惹き付けられました」

 女はそう言うと、生意気言って済みません、と申し訳なさそうに付け加えた。

 透き通るように美しい女だった。だがそれは表層的な美しさではなく、内面からほのかに漂う知性がそう見せているのだというのに、俺は気付いていた。彼女は、上質だがその振る舞いのように控え目で上品なスーツを身に着けている。それは女の生まれや生業を物語っているようで、俺は一層惹き付けられる。シニヨンにまとめた髪は、恐らく肩よりも長いのだろう。俺は、この女ともう少し話をしたくなった。

「音楽は普段嗜まれないのですね」

「ごめんなさい、そんなお客さん、迷惑ですよね」

「そんなことはありません。ただ、それなら何故今夜はお立ち寄りいただけたのか、お伺いしたいと思いまして」

「世間知らずの小娘の、ちょっとした好奇心です。こういうお店に今まで縁がなかったもので、ちょっと背伸びして、冒険したいと思いまして。笑って下さっていいですよ」

 女ははにかんだ。俺には彼女の謙虚さが心地よかった。俺は「笑ったりなんかしませんよ」と返しながら、目の前の女と部屋で俺の帰りを待つ女を無意識に比較していた。

 思えばこの数か月、セル子以外の女とまるで縁がない。

「冒険ついでに、お酒を一杯、奢らせてくださいな」

 店長が休みで、俺は本当にラッキーだ。

 カウンターで女と二人並んで、グラスを傾ける。他愛もない会話がその場を満たす間、俺たちには笑顔が絶えなかった。どこかの偉い小説家が、知性と自然な笑顔の中に、本物のセクシーさがあると言っていたような気がするが、彼女はまさに、それを体現したような女だった。彼女は本当に音楽に疎かったが、その分純粋で、好奇心に溢れていた。俺に音楽の知識を求め、与えると水を吸う土のように瞳をキラキラと輝かせた。夢中になって彼女に応えているうちに、俺の話は初代ジャズ王バディ・ボールデンにまで遡っていて、流石に我に返った。

「……失礼、話し過ぎました」

 女はチャーミングな笑顔を見せた。

「いえ、まさか本物のピアニストの方にご教授頂けるなんて光栄です」

「本物、と言われるといささか胸が痛みますが」

「でも本物ですよね。今度CDデビューもなさるって書いてありました」

 ああ、店に置いてある俺のプロフィールを見たんだな。俺は柄にもなく照れくさくなった。

「一応デビューは決まっていますがね。レコーディングは終わりましたがリリースはまだ先のことだし、どうなるか判ったものじゃないですよ。実は俺自身まだ夢みたいで、寝て覚めたら全部幻になるんじゃないかと、毎晩怯えながらベッドに入っているんです」

 セル子にも話したことの無い不安を、思わず喋っていた。女は微笑みながら「必ず買いますね」と言ってくれた。

 いつの間にか、次の演奏時間になっていた。名残惜しかったが仕方なく席を立つと、女は俺の腕をそっと取った。

「演奏が終わるまで、ここで待っていてもいいですか?」

 女は知性溢れる瞳を、俺との別れが夜が明けないという宣告かのように歪ませていた。一途な眼差しに、俺はそそられた。

「冒険が過ぎませんか?」

 咄嗟にそう言ったのは、セル子への義理立てからではない。そもそも、俺に勝手に寄生しているセル子にその手の義理を感じたことはない。誘ってくる女には、一度引いてみるのが定石。俺の体に染み込んでいるその常識が、自然に口から零れたに過ぎなかった。

 自分の大胆さに気付いたのか、女は頬を赤くした。

「ご、ごめんなさい。私、あなたともう少しお話がしたくて……それで……」

 女が悲しそうな目をするのに、俺は劣情を煽られた。この知的で慎ましい女を露にしたらどれだけ刺激的だろうという妄想が、俺の中に膨らんだ。この一年近くセル子しか抱いていない俺が、最も枯渇しているものだ。

 俺は腕に絡まる女の手を振り払った。そして代わりに、自分の指を女の頬に添えた。

「冒険なさるのなら、御伴します。次の演奏が終わるまでに決めなさい」

 そう言って、演奏に戻った。

 曲目には、エロール・ガーナーの『ミスティ』を選んだ。賢くて愛らしい彼女に捧げるのに、これ以上の曲は無いと思った。雲の上を、恋人とゆったり散歩をしながら愛を語らうかのごとき甘くて自由なメロディーが、ラウンジバーを満たしていく。

 女は結局、帰らなかった。

 ラウンジバーの前で、俺たちは落ち合った。彼女はホテルに部屋を取っていた。中に入ると、俺たちはベッドに行く間も惜しいとばかりに抱き合って、求め合った。衣服を脱ぎ捨てるのさえ煩わしくて、でも肌を隔てられているのももどかしくて。俺の息遣いに、彼女のそれが重なる。

 あんなに満たされたセックスは久しぶりだった。

 ことが済んだ後、俺は彼女をベッドで抱きながら微睡んでいた。充実感のある倦怠感が俺の身体を包んでいて、夢見心地ってのはこういうのを言うんだろうな、と、うつらうつらしながら思っていた。傍らでは、女が安らかな寝息を立てている。

 暗闇の中にふと、気配を感じた。寝ぼけながら目を開けて、俺は背筋を凍らせた。

 ベッドの傍に、別の女が立っていた。薄暗い部屋で中でそれが女だと判ったのは、化粧がやたらと下手だったからだ。ぬぼうとそこに立ちすくむ女の顔は不自然に濃くて、闇の中に浮かんでいるようにも見える。

 俺は小さな悲鳴を上げたつもりだった。だが声は喉の奥に詰まったまま出てこなかった。俺の身体は重しを乗せられたように動かない。女はメイクに不釣り合いなほど無表情に俺を見下ろしている。俺はただひたすら、女の遠慮ない視線に自分の無様な寝姿を晒すしかなかった。

 その女はセル子だった。


 自分の家に帰ったのは、次の日の昼過ぎだった。俺は前の晩女のベッドで見た妙な夢のことを覚えていて、セル子と顔を合わせるのが何だか気まずかった。セル子を恋人だとかパートナーだとか思ったことは無いが、悪夢で片づけるには、あの夢は生々しかった。

 部屋に上がると、セル子が俺を待っていた。彼女は部屋の真ん中で腕を組んで、憮然と俺を見据えている。見下ろすような態度に、俺は少し気分が悪くなる。

「何か用か?」

 まさか帰りが遅くなったのを咎めるつもりか? とんだ筋違いだが、喉の奥がひやりとするのは何故だろう。

「初めて会った日のこと、覚えてる?」

 真面目腐った顔で、セル子は言った。唐突過ぎて、俺は彼女が何を言いたいのか全く判らなかった。

「あの時の質問にさ、まだ答えてもらってない。あんた、セルジオ・サルバトーレのこと、どう思ってた? 尊敬してた? それとも嫉妬してた?」

 俺は益々セル子の真意が判らなくなった。そんな質問をされたかどうかすらもう覚えていなかったが、セル子の有無を言わさない鋭い眼光が、俺に答えを迫っていた。

「気の毒なガキだ。そう思った」

 彼女の質問に、俺は本心で答えた。

 そして自分の言葉に、俺は過去の自分と対峙した。

 天才ピアニスト少年、第二のビル・エヴァンス。そう呼ばれながら、大人たちが何故俺をそう呼ぶのかさっぱり判らなかった。俺は、ピアノが好きなのかも判らず、俺が弾くと大人たちが喜ぶという理由だけで、ただやみくもに弾いていた。初めは小さなピアノ教室でだったが、場所はすぐにナントカって偉い先生のレッスン室に移された。そしていくつかのコンクールで入賞するようになると、大きなホールのステージで弾かされるようになった。埋めつくす人々が、俺に賞賛の拍手を浴びせてくるのが快感でなかったと言えば嘘になる。だが俺は、大人たちが俺に向ける笑顔が、子供の成長を見守るのではなく、珍しい動物を愛でているそれに酷似しているのに、ある日唐突に気付いた。

 俺のピアノが賞賛されるのは、小さな子供が大人と同じレベルを感じさせる演奏をしているその物珍しさからであって、決して俺自身が評価されているからではない。俺ははっきり、そのことに気付いちまった。

 まだ声変わりすらしていない人生の早いうちにそれに気付けたのは幸いだった。その時ピアノを辞めていれば、もしかしたら違う人生を送れたのかもしれない。けど周りの大人たちがそれを許さなかった。俺は大人たちの言う通りにステージに上がり、ピアノを弾き、いつか自分が天才少年ではなくなるその日に怯え続けた。

 怯えというのは、場合によっては恩恵になる。二十歳前、突然才能が伸びなくなり、大人たちに飽きられても、俺は大して失望しなかった。ああ、その時が来たんだな、と思っただけだった。

 ただ、ピアノ以外の人生を歩むには、少しばかり遅すぎた。俺はいつの間にか、ピアノを鳴らす以外の生き方が出来ない男になっていた。

 セルジオ・サルバトーレが『枯葉』をレコーディングしたのは十二歳の時だ。俺は奴の無垢な演奏を聴き、ジャケットのあどけない少年を見て、心底気の毒だと思った。このガキもいつか、天才少年ではなくなる。大人たちに飽きられ、CDを出してただのどこそこでコンサートをやっただのという栄光は、紙屑のようにポイと捨てられ、掃かれもしないまま野ざらしにされることになる。小気味よい『枯葉』を鳴らすこの少年は、いつか自分がそうなると知っているのだろうか。いや、きっと何も知らないまま、大人たちの言う通りに弾いているのに違いない。

 こいつにもいつか、枯葉のような運命が待っている。

 一九九四年以降、セルジオ・サルバトーレはCDを発表していない。

 俺の答えに、セル子はニヤリと笑った。

「ピアノ弾くのって、楽しい?」

「考えた事ねえよ、そんなこと」

 俺はため息交じりに、そう答えた。

「楽しいもクソもねえよ。他の生き方が判らねえんだ。テキトーにピアノを弾いてテキトーに人生の暇つぶしをして。俺みたいな男に、それ以外のどんな生き方ができるってんだ」

「そっか」

 今まで見たこともない悲しそうな顔で、セル子は笑った。俺は刹那、心を奪われた。だが一瞬後、セル子は「ふふん」と小馬鹿にするように俺を笑った。

「じゃあね!」

 彼女はそう言って、俺の脇をすり抜けて部屋から出て行った。

 すれ違いざまに、ポンと肩を叩かれた。

 そうして彼女は、俺の元を去った。


 それから待ち受けていた運命のことは、あまり話したくない。

 あの時、ポンと肩を叩かれると同時に、俺は急激に眠くなった。立っているのも苦痛なぐらいの睡魔で、俺は逃げ込むようにベッドに横になった。

 目が覚めるともう夕方だった。薄暗くなりつつある自分の部屋を見回して違和感を覚え、俺はその正体にすぐ気が付いた。部屋のほとんどを占領していたセル子の私物が一切合切、跡形もなく消えている。彼女がそこにいたという痕跡すら感じさせないほど、そこは完全に、彼女が住み着く前のベッドとピアノしかない殺風景な俺の部屋に戻っていた。

 化かされたような気分だった。訳が判らず混乱したが、スマホのデジタルを見て、既にホテルへの出勤時間になっていることに気が付いた。俺は慌てて飛び起きた。

 いつも通り正面からラウンジバーに入店し、そのままバックヤードに入ろうとした。そこで「失礼ですが」と声をかけられた。昨日は休みだった店長だ。

「申し訳ありませんが、そちらへのご入室はご遠慮いただいております。また。開店は十八時からになりますので、もうしばらくお待ちください」

 俺は耳を疑った。一瞬、昨夜客の女と遊んだのがばれて、お灸をすえるつもりのジョークを言われているのかと思った。「勘弁してくださいよ店長」と俺が言うと、押し問答になった。昨夜のことなら謝りますから、堪忍してください。お客様、何のことでしょうか、ともかくそちらは困ります。お時間改めてお越しください。そんな、お互い噛み合わないやり取りが続いた。

「いい加減にしろよ。俺が判らないってんじゃねえだろ?」

「存じ上げません」

 俺はたじろいだ。店長の目にジョークはなく、開店前に店に入り込んだ迷惑な客を追い返したいという不快感だけが映し出されていた。

 店長は、本当に俺のことを知らなかった。

 騒ぎを聞きつけた他の店員たちが集まってきた。俺は連中に片っ端から俺を知ってるよな、そうだよな、と聞いて回った。だが酒を密かに奢ってくれたバーテンダーも、一緒に厨房で賄いを食ったギャルソンも、軽口交じりに口説いたセルヴ―スも、一人残らず俺のことなど知らないと言った。

 俺の混乱は頂点に達した。そしてあまりの仕打ちに怒りが噴出して、大声で暴れだした。ふさけんなお前ら、ひとをからかいやがって。俺はピアニストだ、取締役に直々にスカウトされたんだ。昨日もここで弾いた。そのまた前も、ここで弾いた。本当だ。嘘だと思うなら取締役呼んで来いっ。俺はピアニストだっ!

 だが連中が呼んだのは、取締役じゃなくて守衛だった。俺はゴリラみたいな守衛に羽交い絞めにされ、ホテルからゴミのようにポンと放り出された。守衛の軽蔑するような一瞥の後正面玄関に一人取り残され、俺はただ、茫然とした。

 胸の中に大きな空洞ができて、そこを風が突き抜ける。

 虚空感としか言いようのないショックから我に返ると、次に襲い掛かってきたのはどうしようもない不安だった。俺はスマホを手に取ると、連絡先を検索した。そして俺は戦慄した。チップをはずんでくれた社長、自宅パーティーで弾かせてくれたデザイナー、音楽プロデューサーを紹介してくれたマダム、ホテルで弾き始めてから追加した全ての番号、アドレス、IDが跡形もなく消えている。

 鼓動が早くなる。身体がブルブルし始める。

 俺は震える指先でプラウザを立ち上げると、ネットでとある音楽事務所を調べた。俺のデビューCDのことを取り仕切っているはずの事務所だ。電話を掛けると、三回のコールを待たずに相手が出た。若い受付の女だ。何度か話をしたこともある。俺はそいつに俺の名前を告げると、そういうピアニストを知っているかと聞いた。絶望の淵で僅かな光が射す奇跡を待っていた俺に、彼女は言った。

『申し訳ありませんが、ピアニストでそういう方は……モデルさんか、お笑いタレントさんではないでしょうか?』


 枯葉が、足元でコソリと舞う。今の音はキース・ジャレットか、それともエヴァンスか。秋が空しく広がる夕焼けの下で、無意識に枯葉の音を聴き比べる。見慣れたはずの侘い公園のベンチは、俺の体温で既に温くなっている。だが、秋の空気は、空洞になった俺の身体に容赦なく冷たい。こんなの、夢から醒めたばかりの芸術家に相応しすぎるじゃねえか。俺はそう思った。

 あれからどんな時間を過ごしたのか、実は俺にもよく判っていない。俺はただ、自分の身に〝起きなかったこと〟に混乱するしかなかった。どうすればいいのか判らず、それでもひょっとしたら一晩寝れば悪夢から醒めるかも知れないと思って、次の日ラウンジバーに舞い戻ったりもした。だが、悪夢は更なる悪夢にしかならなかった。バーに戻った俺は警察に突き出され、もう二度と店には近づかないと約束させられた。俺はそれでも悪あがきをした。あの晩一緒に居た、あの知的な女を探そうと思った。もう一度寝るためじゃない。俺が確かにあの晩あの店でピアノを弾いていたという証明をしてもらうためだ。だがフロントで部屋番号を告げ、そこに宿泊していた客のことを訊ねると、ホテルマンは冷笑を浮かべ、そんな部屋は元々無い、と俺に言った。

 その時俺は、俺という人間を失ったんだと、ようやく思い知った。

 それから俺は、文字通り屍になった。あれ以来、昼も夜も判らない生活をしている。いや、生活なんて大したもんじゃないな。今の俺は、ただ息をしているから死なないというだけの、人間の抜け殻みたいなもんだ。そりゃそうもなるだろ。昨日まで日常だと思っていたものに突然裏切られたんだ。輝く夢を見せられて、掴みかかったその時にさっと奪われたんだ。その事実を受け入れなければと諦めがつくまで、一人きりの部屋でいくつの朝を迎えたか知れない。ラウンジバーでの日々のほうが幻だったに違いないと自分に言い聞かせられるようになるまで、反吐の出るようなジレンマにのた打ち回った。酒も煙草も美味くなく、女を抱きたいという欲求すら生まれず、眠りすら訪れない。今の俺は、野ざらしの枯葉だ。いつか誰かが掃き掃除をしてくれるまでただ踏まれ、風に翻弄され、やがて朽ちていく運命にある、ただのクズゴミだ。

 もし俺と同じ経験をしたことがある奴がいるなら聞いてみたい。運命に騙されたピアニストってのは、大抵こういう生き物に成り下がるよな?

 秋のもの悲しい気配すら、俺の心を鳴らさない。だが俺が死んでいるうちに、季節は確かに枯葉舞う時期をまた巡っている。

 足下に纏わりつく枯葉に、ふと、セル子の姿が重なった。俺の『枯葉』より、セルジオ・サルバトーレの『枯葉』のほうが好きだとほざいた女。頭が悪くて化粧が下手で、セックスも下手な、セルジオの娘。薄情な女だ。一年近く住まわせてやったってのに、あれ以来、何の音沙汰もありゃしない。

 そう悪態をつきながら、それでも最近では、こうも思うようになっていた。セル子と出逢ってからの日々は、もしかしたら彼女が見せた幻想だったのかもしれない、と。

 考えてみれば妙なことだらけだ。俺が〝PARTNER〟での仕事を失ったのは、セル子に会ったその日だった。言い換えれば、あの失業がなければラウンジバーでの仕事にありつけなかった。俺の運が巡ってきたのはセル子が住み着いてからなのは言うまでもないだろう。そしてその運は、セル子の喪失と共に、煙のように消えてなくなった。

 もしあれがセル子の幻想だとすれば、この顛末は納得はいかないまでも合点がいくような気がした。要するに、不貞行為への制裁だ。

 愚かな男だと、自分を罵る。だが自分を呪いながら、どうしてもそうではないような気がしてならなかった。セル子には執着してなかった俺だが、彼女は男女の愛憎なんて次元の低い場所にいる女ではないと、心のどこかで感じてはいた。いやむしろ、彼女はそういうものと切り離されている存在だと察していたから、執着できなかったんだろう。だったら以前、謎は謎のままだ。

 セル子はどうして、俺の元を去ったのか。そもそもどうして、俺にあんな幻想を見せたのか。

 ピアノ弾くのって、楽しい?

 セル子の最後の質問が、俺の胸に蘇る。今になっても尚、あの質問の意図が判らない。もしあの時「楽しい」と答えていたら、一体どうなっていたのだろうか。もしかしたらセル子は俺の元を去らず、俺にまだ幻想を見せていてくれてたのだろうか。

 そこまで考えて、俺の心がヒヤリとなった。

 もしかしたらセル子が、セル子こそが、ジャズの神様だったのではないのか……?

 その思いは頭から離れなくなった。そして俺は、唐突に全てがバカらしくなった。

 冗談じゃねえ。要するに俺は、ジャズの神様の気まぐれに付き合わされたってことか。ふざけんな、ガキの遊びじゃねえんだよ。テキトーにピアノ弾いて生きて行けりゃいいとは言ったけど、俺はテメエの暇つぶしの道具じゃねえ。

 冷たい興奮に、俺は支配された。神様が仕組んだ壮大な悪ふざけに抗う術なんて、最初から俺にあるわけないだろうが。脳裏にセル子の不敵な笑みが蘇る。あの下手くそな化粧を施した顔で、今も夕焼けの上から俺を小馬鹿にしてせせら笑っているような気がしてならない。ああ、笑いたきゃ笑え。俺は所詮、あんたの供物にもならない男だ。卑怯なハニートラップまで仕掛けやがって、そんなに俺の人生で遊ぶのが楽しいか。俺の人生はガキだった頃からあんたに弄ばれっぱなしだ。あんたの玩具にされるのが、俺の運命ってことなのか。

 セルジオ・サルバトーレの娘だって名乗ったのは、一体何の皮肉だったんだ!

 気が付くと、俺は笑っていた。声をあげて笑っていた。冷たい夕焼けを、俺の狂気の大爆笑が引き裂いた。

 自分の笑い声が空に消えると、妙に白々しい気分になった。突然静けさに包まれて、心に空洞ができた。そうして自分を散々嘲笑った後、俺から冷たい感情は消えていた。

 代わりに生まれたのは、熱苦しい思いだった。それは最初、小さな明かりのように俺の胸に灯っていただけだった。だが次第に大きくなり、溶岩のように沸々としたものになっていった。怒りのようでもあったし、復讐心でもあったし、闘争心に似ていなくもなかった。その時一緒に燃えていたのは、セルジオ・サルバトーレの娘だと名乗った女の下品な笑顔と、俺と同じ天才ピアニスト少年だったイタリア系アメリカ人の名前だ。

 衝動的に、俺はスマホを取りだした。そしてプラウザを立ち上げて、検索ワードを打ち込んだ。


〝Sergio Salvatore〟


 動画が、いくつかヒットした。違法アップロードだろうけど、そんなこと知ったことか。俺はその中で一番最近の日付のものを選んでタップする。二か月ほど前のものだ。

 映し出されたのは、どこかの小さなライブハウスでのセッションだった。カルテットを率いるピアノの前に座っているのが大人になったセルジオ・サルバトーレだと、俺にはすぐに判った。デビューCDのジャケットの頃より精悍な顔立ちになっていたが、動画から流れる旋律は、あの頃と変わらず力強かった。俺は小さな窓の向こうに囚われた。

 そこには、ジャズの神様はいなかった。かつて天才少年だった男は、神に抗うでもなく、服従するでもなく、ただピアノを弾いていた。無心になってピアノと向き合い、昔と同じ、いやそれ以上にクリアなジャズで、小さな会場を魅了していた。俺はそれに巻き込まれる。音から溢れる圧倒的な熱量が、熱く滾っていた俺の心を更に熱くする。

 セルジオ・サルバトーレ、こいつは俺と一緒だ。ピアノを弾く以外の生き方を知らない。だが奴は、それを運命にしなかった。奴がピアノを弾く理由は、今も昔もただひとつ。魂が欲するからだ。

 ピアノを弾きたい。

 俺の中に、渇きが生まれた。干からびかかった旅人が、泥水を啜りたくて這いつくばるのはこんな気持ちに違いない。俺は突き動かされるように立ち上がると、枯葉を蹴って足早に歩きだした。

 ポケットの中には、紙切れが忍ばせてある。フリーペーパーで偶然見つけた求人広告だ。ピアニスト募集。夜の賄付き。ギャラは弾めませんが交通費支給します。

 そうして俺は〝PARTNER〟のステージドアの前に立つ。

 扉を開けると、懐かしい酒と揚げ物の匂いがした。



END

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枯葉 Autumn Leaves 朝倉章子 @aneakko

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