微笑むヘレナ
さかなへんにかみ
第1話
[Mother]
下半身の痛みと吐き気で、チカチカする頭で、ゆっくり腕を伸ばした。首ももたげる力もない私に、女の人が渡してくれた。私の赤ちゃん。濡れて膨れた手の平に、私の指をのせる。私の指は確かな力強さで、握り返された。
「さあ、ヘレナ。ご飯の時間だよ。」
ライスシリアルに林檎のジュースを混ぜたものをスプーンにすくって、ヘレナの口の前に差し出した。私の声と林檎の匂いで、ヘレナは恐る恐る口を開けて離乳食を受け入れた。再びスプーンにすくって口元に運ぶと、今度はすぐに口を開けてくれた。やっぱりこの子は覚えが早い。何回かそれを繰り返して、ヘレナの口をタオルで拭う。一食食べるのに二時間はかからなかった。ヘレナはちゃんと成長している。まだ口を動かしているのにうとうとし始めているヘレナを抱えて、ベビーベッドに寝かせた。握った手に差し入れた私の指をヘレナは握りしめて、すっかり寝始めてしまった。ヘレナはあまり昼と夜というのが関係ない子だから、日中でも寝てしまうことはある。一応先生に言われた通りに朝日に当ててあげているが。夜泣き、いえ昼泣きをしたら抱っこしてあげよう。それしかできないから。
いろいろな形の穴に、その穴にあった形のブロックを入れるおもちゃで、ヘレナは楽しそうに遊んでいる。ひとつひとつ手にもって形を確認して、それがぴったりはまるのが面白いらしい。私に見せようと私を探してきょろきょろしている。いつ見つけられるかな。そうやって見ていたらカーペットがよって膨らんだ部分に足を引っかけて転んでしまった。慌ててヘレナに駆け寄って抱きかかえる。大きな怪我はないようだけど、びっくりしたんだろう。その透き通った眼がみるみる涙でいっぱいになって泣き出した。すこししわがれた声を張り上げて泣いている。ヘレナはひどく泣くあまり過呼吸になったこともある。早く泣き止ませるために、自分の心臓の鼓動が伝わるように胸の少し左に寄ったあたりにヘレナの頭を触れさせる。鼻から涙が垂れてきて、ぐすぐすいっているけれどなんとか泣き止んでくれたらしい。
「今帰ったよ」ドアベルの音が響いてハリーの声が聞こえた。「ヘレナは大丈夫?」リビングに来てすぐにハリーは私に聞いた。
「ええ、朝はパンを1つとヨーグルトをちゃんと食べたし、お昼のチリビーンズも全部食べたし、庭で散歩もしたし、それに」
「分かった、つまり元気なんだね」
いつの間にかまくし立てていた自分に気が付いた。だけどヘレナのことを元気の一言で済ませてほしくはなかった。
「ヘレナももう5歳だろう。昔みたいにずっと気を張ってなくちゃいけないわけじゃないさ。それよりミラ、君は何日寝てない?」彼が私の肩に手を載せて聞いた。
「大丈夫よ。昨日だって夜泣きがあったから何度か起きたけど、ちゃんと睡眠時間は確保してる」ハリーは少し下を向いて、口元に手を当てた。溜息を一つついて、私の肩に当てていた手を今度は顔に当てた。
「僕もいる。二人で育てようと約束したじゃないか。僕も頼ってくれ。」
私の眼の下あたりをこするハリーの親指は滑らかだ。
「大丈夫。あなたには十分助けてもらってる。そんなに気にするなら、シャンプーとハンドクリーム買ってきてくれない?無香料のやつ」
「ついでに君の新しい枕も買ってくる。それと今日の夕食は僕が作る。」ハリーはそういって車のキーを持って家を出た。腕の中のヘレナは可愛い寝息を立てて眠っている。
「驚くべき成長です。重度の盲聾の障害を持つ子供はただでさえ少ないですが、その中でもヘレナさんは特異です。私は無宗教ですが奇跡と言うほかない。」机と椅子と、棚にいくつか専門書が並ぶだけの部屋でウィテカー医師は言った。3歳のころから一年に一度になった検診で、ウィテカー医師は毎回同じことを言う。今年で16回目だ。
『先生また同じこと、言いますね』
補聴器の力で彼の言葉を聞き取ったヘレナは、上ずった声でも確かにそう言った。最近では慣れてしまったけれどとても誇らしい。
「盲聾者にとって最も深刻な問題は、まあご存知だと思いますが、受け取れる情報が極端に少なくなることです。情報の少なさは学習の遅れに繋がる。これが盲聾者の社会進出を困難にしている訳ですが」
「ええ、それは分かっています。でもヘレナは少しずつですが勉強も進めています。文字という問題を除けば、計算能力も、語彙も初等科卒業程度になっています。」
私の言葉を遮るようにウィテカー医師は回転椅子を回して、ヘレナに目を合わせて言った。
「ですからヘレナさんに介護ボランティアの会で何かスピーチをして頂きたいんです。」
『いいですよ』私が何か言う前にヘレナはあっさりと承諾の返事をした。
みなさん、こんにちは。ヘレナ・アンダーソンです。
ゆっくり、一言ずつ話し出したヘレナに講堂の中の視線はみな引き寄せられていた。ヘレナはどこを見るでもなく話し出す。
「盲聾という障害をご存知でしょうか。視力と聴力、その両方に不自由を抱えているのです。私の眼は明るさしか感じられないそうです。私の耳は補聴器を付ければ静かな場所でなら、お話することができます。今日は1000人以上の方がいらしてくださったと聞きました。私にはよくわかりません。なんとなく熱気を感じますが、それが人のものなのか、冷房が効いていないだけかも。盲聾者にとっては自分の周りで何が起こっているかさえ分からないのです。だから私にはママの助けが必要です。ママだけでなく、パパや友達、そしてそのうちに、その、恋人ができたならその人も。パパはどう思うかしら。私には分かりません。」年頃らしいはにかむ表情を見せたヘレナに会場がぐっと和らいで、笑いが起こった。どこでそんなこと覚えたのかしら。舞台袖で、私の隣にいるハリーは余裕のある笑みのようで、目が心なしか泳いでいる、
「でもそうやって私の近くに誰かがいるとき、そのひとの傍に私もいるはずです。そうやってお互いに隣人になって行けると思うんです。それを教えてくれたのはアランです。」
アランとは盲学校にボランティアに来ている少年らしい、時折ヘレナから話を聞く。
「社会の人々すべてになんて説得力はありません。お互いに相手の感情や選択を尊重してこその自由です。だから一人ずつでも、別に障害はあってもなくてもいいんです。よく知らない人のことを、知っていきたいと、私は宣言します。」
最後を少しまくし立てた勢いのまま、演題の角に掴まって頭を下げた。
拍手が起こる。さして広くもない講堂がぐっと狭くなった気がした。気温が上がって、湿度も高くなった気がした。目が熱い。ハリーが赤くなった目でハンカチを差し出していた。
「すごかったよヘレナ。みんな君にくぎ付けだった!」
見るからに興奮してヘレナの手を握る少年。彼がアランだ。
「アラン、私のパパとママよ。」
ラルフローレンのポロシャツを着た彼はハリーと私の方に向きなおって挨拶をする。彼は握手のための手をハリーに差し出した。
「私たちの家にぜひ来てくれ。道すがら話したいこともある。久しぶりに散歩でもしよう。」ハリーの提案どおり、4人で歩みだす。私は普段より大きく見える3人の背中に付いてゆく。ふらりと視界が揺れて
[Husband/Father]
微笑むヘレナ。彼に肩を預けるヘレナ。ゆっくりとぎこちなく、彼の腕に掴まりながらも歩くヘレナ。彼女の纏うウェディングドレスは彼女の透き通った目とよく似あって魅力的だった。僕は彼女の父親としてこの日を祝う。ヘレナ、今の君に世界はどう見えている?
ヘレナは産まれたその瞬間から、何人目かのヘレン・ケラーだった。視力と聴力の二つが一切なく産まれた彼女に、僕たち夫婦はとても混乱した。彼女がどうやって生きていくのか、まるで想像がつかなかったからだ。だってそうだろう、暗い水の底に沈む赤ん坊をどうやって引き上げるかなんてどんな聖人にだってわかりはしない。だから僕はある意味で、あまり真剣じゃなかったんだ。焦らずじっくり向きあえばいいと思っていた。問題は僕じゃなくてミラだ。出産すぐは今にも風に吹かれて飛んでいってしまいそうだったし、つい最近までずっとナーバスだった。彼女がその不安定な状態から何をきっかけに脱したのか、僕は情けないことに分からない。だけどミラが昔の自分を取り戻すと時を同じくして、ヘレナも彼女の外の世界に心を開き始めたようだった。二人の間に何かあったのだろう。
ヘレナの話をしよう。ヘレナは彼女のやり方で少しずつでも、成長した。産まれてすぐはミラの腕の中でないと恐怖からか過呼吸になるまで泣いたし、彼女のおっぱいしか受け付けなかった。夜だってうっかり潰してしまわないようにミラはあの子が僕に心を開いてくれるようになるまで、ほとんど一睡もしていなかった。
「私は母親なんだから、当たり前じゃない」
そうやってミラはどんどんやつれていったから僕は早くヘレナの世話をできるようにならなければいけなかった。あのままではミラは過労で死んでいたと思う。過労でね。そんなこんなで僕も何とかヘレナの世話を出来るようになって、ヘレナは成長し続けた。言葉を知らない彼女は、触感と匂いで大抵の物は識別出来るようになり、それからしばらくして指文字を習得した。その時専属医だったウィテカー医師は驚愕しっぱなしだったが、彼からお墨付きを貰い、悩んだ末ヘレナは聾学校に入学した。
聾学校。彼女の非凡さが目立ち出したのはなんと言ってもここだ。いくら聾学校といえど子供はいつだって純粋で、好奇心に溢れている。僕は盲聾者のヘレナが虐められるか、さもなければ腫物扱いになってしまうと思っていた。それがどうだろう。僕が学校へ迎えにいくと、門の前でさながら女王のごとく少年少女を侍らせているヘレナがいた。言葉を発さないヘレナの手を握って笑いあう子供たち。笑声だけが繰り返されるその光景はとても不思議だった。僕とミラが近づくと子供たちはヘレナを守るように彼女を取り囲んだ。
「僕たちはヘレナの両親だよ。」
彼らは見るからにがっかりした様子でヘレナを引き渡した。僕の傍へ来た彼女は、その浅く日に焼けた手で喜びを表現していた。そして家に招待してもいいかとも。
「みんな、ヘレナと仲良くしてくれてありがとう。よかったら我が家に来てくれないかしら。歓迎するわ。」
歓声が上がった。ヘレナの手は子供たちによって握られていた。
ヘレナに寄り添うミラは、金髪を短く揃え、その顔の至る所にはしわが刻まれていた。カメラを三脚で立て、セルフタイマーを設定する。僕はミラとヘレナの間に入る。シャッターが切られる。
ヘレナは順調に大人へと成長していった。じきに背丈は生前のミラと同じくらいになっていたし、明るいブロンドの髪とガラスのような瞳は彼女を魅力的な女性たらしめていた。相変わらずミラはヘレナの傍を離れようとはしなかったが、今ヘレナを支えるのは僕とミラだけじゃない。ヘレナの肩を支える青年がいる。彼はアランだ。盲聾者の会で初めて会ったヘレナのボーイフレンドであり、真剣に彼女に寄り添う決意をした。ミラもきっと彼を信頼するだろう。
「一度家へ戻りましょう。彼女も久しぶりの散歩で少し疲れたそうです。」
アランが声を上げる。僕とミラは何も言わずその言葉に頷いた。
金髪の絡まった首筋に汗が流れる。歪む眉、荒くなる息を感じて、僕は彼女を強く抱きしめた。とても熱かった
スピーチからしばらくしてミラの追悼のミサを執り行った。街の中央に佇む協会で執り行った葬式には、アランをはじめとしてたくさんの人々が参列していた。若者も多い。神父様の言葉で、黒のワンピースを着たヘレナと祈りを捧げた。
敬虔な神の信徒であった彼女が、神の御許に召されることを祈りましょう。エイメン。
結婚式のそれよりずっと短い言葉で、教会の中、誰もが俯き手を組み、目を閉じていた。その時街の喧騒から一つ離れた本当の静寂がそこにはあった。窓から花の匂いが流れ込んでいた。
[Daughter/Mother]
お母さんへ。私も母になります。
微笑むヘレナ さかなへんにかみ @sakanahen
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