作物(さくぶつ)の批評 夏目漱石

 中学には中学の課目があり、高等学校には高等学校の課目があって、これを修了しなければ卒業の資格はないとなっている。その科目の数やその成績の順はすべて文部科学省が制定するのだから各担任の教師は委託を受けた学問をその時間の範囲内において、出来る限りの力を尽くすのが妥当だと云わなければならない。

 ただ各課担任の教師はその学科の専門家なので、専門以外の分門に関しては知識もなく無頓着であるため、自身が研究している題目と他の教師の学科との比較に暗く、しばしば自分の範囲を超えて、自分の学問において有効な点を、他の領域にまで当てはめて主張しようとすることがある。たとえば英語の教師が熱心なあまり学生に努力を迫り、地理数学に利用するべき時間を割いてでも難読な単語集を暗誦させるようなものだ。それだけではなく、自分が専攻する科目、自分が担任する授業のほかには、頑張る必要があるものはないと言いふらすのだ。言いふらしにくるだけならまだいい。あげくあらゆる他の課目をバカにするのだ。

 このような行動に出る人の中に、それなりの論拠があって、公然と文部科学省所定の課目に従わない、という場合はここで引き合いには出さない。それほどの見識のある人なら結構だ。四角く仕切った芝居小屋のマスみたいな時間割のなかにたてこもって、モグラのように働いている教師よりはるかに良い。しかし英語だけの本城に一生尻を落ちつけるだけでなく、櫓から首を出して天下の形成を視察するほどの能力さえない人が、いたずらに自尊の念と頑固な見をより合わせたようならちの明かない無知を振って学生を精魂の続く限りたたいたなら、みじめなのは学生だ。熱心なのは敬服すべきだ。精神はほめるべきだ。善意的なのもまたよいことだ。しかし学生は迷惑だ。その課目の知識が不足するからではない。それ以外の科目に関する知識が全然不足しているからだ。ただ不足しているからというだけではない。結果的にいらないところまで出しゃばって、関係のない科目を打ちのめすまでは止めないという勇気があるから迷惑なのだ。

 これらの人は自己の主張を守る点において志士だ。主張を貫こうとする点において勇士だ。主張の頂点を認める点において智者だ。他意なく人のために尽くそうとする点において善人だ。ただ自分と他人の関係が分からず、眼を全体に配ることができないため、自分の縄張りを設けて、ほどほどのところに幅を利かせて満足しておくべきところを、足の向くままに天下を横行して気にしないのが迷惑なのだ。文句を言われれば言う。おれの地面と君の地面の境はどこだ。境は自分が決めていないだけで、相手のほうでは最初から決めている。もう一度文句を言われれば言う。このように足が健康だからどこへでも歩いて行けるのだ。足が健康なのは言うとおりだ。足に任せて人の畑を荒らされては困ると言うのだ。前出の志士といい、勇士といい、智者といい、善人という人たちもこうなるととたんに浪人となり、暴士となり、盲人となり、悪人となる。

 今の批評家の一部は、ある点においてこの教師に似ていると思う。もっとも尊敬すべき言葉で批評家を言い換えるなら教師だ。もっとも謙遜する移民で作家を解釈するなら生徒だ。生徒の点数は教師によって決まる。生徒の父兄友人だといってもこの権利をどうすることもできない。学業の成績は位置にすべて教師の判断に任せて、不平を述べることを控えるだけでなく、逆にこれによって生徒の優劣を定めようとしつつある。一般の世間が批評家に望むのは正にこれに他ならない。

 ただ学校の教師には専門がある。担任がある。批評家は個々までは発達していない。たまには詩のみを評するもの、劇のみを評するものもいるが、しかしそれすらわずかな人数だ。それだけでなくこれらの分類は形式に属する分類なので、専門として独立する価値があるかどうかすら疑問だ。そうしてみると、つまりは純文学の批評家は純文学の方面に関するあらゆる捜索を検閲して採点しつつあることになる。前例を推し進めて考えるなら、地理、数学、物理、歴史、語学の試験をただ一人で担任すると同様の結果になる。

 純文学と言ってしまえばとても簡単だ。しかしその内容を論ずれば千差万別だ。実は文学の標榜するところは何と何で、その表現し得る題目はいかなる範囲にまたがっていて、その人を動かす点は何カ所あって、これらが未来の発展に関わるときにどこまで押し広げられるものであるか、いまだ誰も組織的に研究したものはいない。また非常にやりにくいのだ。

 こう言っても分からないかもしれない。二、三の例を挙げればすぐに納得するだろう。古い話だが昔の人は劇の三統一ということを必要条件のように説いた。ところが沙翁シエークスピアの劇はこれを破っている。しかも立派に仕上がっている。してみると統一が劇にとって必要だという見地からシェークスピアの作品を見れば失望するに決まっている。あるいは駄作となるかもしれない。しかしそのせいで統一論の価値がなくなってしまったのではない。その価値が更新されたのだと思う。だからこの条件を満たした劇を見ればやはりそれなりに面白い。その代わりシェークスピアの劇を干渉する態度では見ないことだ。読者のほうで融通を利かして、その作品と同じ平面に立つだけの余裕がないといけない。もう一例を挙げる。またシェークスピアの話になるが、彼の書いたものはとても乱暴なところがある。劇の一シーンがたった五、六行で、始まったと思うとすぐにしまわなければならないだろうと思うのに、作者は大胆にも平然といくらでも、こんな連鎖を設けている。無論マクベスの発端のように行数は短くても、興味の上において全編を貫く重みのあるものは例外だが、平々凡々な十行前後の一段を設けるのは、話の続きをあらわすためやむを得ず挿入したのだと見え透いてしまうように思われる。言い方を変えるなら彼の戯曲のあるものは幕ごとの組織において比例を失している。だから比例だけを眼中においてヴェニスの商人を読むものは必ず失敗の作だと言うだろう。ヴェニスの商人はこの観点から読むべきものではないということが分かる。またシェークスピアを引き合いに出す。オセロは四大悲劇の一つだ。しかし読んでけっして気分のいいものではない。不愉快だ。(今はその理由を説明する余地がないから略す)もし感じ方だけであの作を語るならまるで愚作だ。幸いにしてオセロは事件の全体と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運ぶ手際のよさがある。読者はそれを見ればいい。日本の芝居の仕組みは支離滅裂だ。ばかばかしい。布置結構とか性格とかいう点からあれを見たら抱腹するものが多いだろう。しかし幕に変化がある。出来事が走馬灯のように人を驚かして次々と出てくる。ここだけを面白がって、そのほかを忘れておけばやはり幾分かは興味がある。十返舎一九はご存知の通りの作者である。一九を読んで崇高さを感じないというのは非難のしようがない。崇高でないから排斥すべしというのは、文学と崇高の感と内容において全部一致したときでなければ言えないことだ。一九を採点するときには滑稽が下卑であるから五十とか、諧謔が自然だから九十とか決めないといけなくなる。メリメのカルメンはカルメンという女性を生き生きと描いている。あれを読んで人生問題の根本に触れていないから駄作だと言うのは数学の先生が英語の答案を見て方程式にあてはまらないから落第だと言うようなものである。デフォーは一種の写実家である。ロビンソンクルーソーを読んでテニソンのイノック・アーデンのように詩趣がないと言う。個々まではなるほどと納得せざるを得ない。しかしだからロビンソンクルーソーは作品になっていないと言うのは歌麿の風俗画には美人があるが、ギド・レニのマグダレンは女になっていないと主張するようなものだ。――例を挙げれば際限がないので止める。

 作家が批評家に提出する答案はこのように多種多面だ。批評家は中学の教師のごとく部門を分けて採点するか、または一人で物理、数学、地理、歴史の知識を兼ね備えねばならないのだ。今の批評家は後者だ。いやしくも批評家であって、専門が分かれていない今の世の中に立つからには、多くの作家が提出する答案を検閲するにあたって、いろいろと立場を変え、作家の精神を汲まなければいけない。融通のきかない一本調子の趣味に固執して、その趣味以外の作品を一気に抹殺しようとするのは、英語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、全ての答案を英語の尺度で採点してしまうのと同様だ。その尺度に合わせられない作家はことごとく落第の悲運に際会せざるを得ない。世間は学校の採点を信じるように、批評家を信用するあまり、ついにその落第を当然と認定するようになるだろう。

 ここにおちて批評家の責任問題が起こる。批評家はまず世間と作家とに向かって文学はいかなるものであるか、という解決を与えなければならない。文学作品を批判するに当たって(詩は詩、劇は劇、小説は小説、すべてに共通する点は共通するとして)批判すべき条項を明確に備えていないとならない。ちょうど中学および高校の規定が何何と、これこれとを修了していないものは学生ではないと宣言するようにしなければならない。この条項を備えた批評家はこの条項の中にあるものについて百から〇にいたるまでの点数を作家につけなければならない。この条項のうち自分の趣味が乏しく自分には検査する資格がないと考えるときは作家と世間とに遠慮して点数をつけることを差し控えないとならない。批評家は自分の得意な趣味において専門教師と同等の権力を有することになるが、その分野以外の諸点においては知らない、分からないと言い切るか、または何も発言しないのが礼儀であり徳義だ。

 これらの条項を机の上に貼り付けるのは、学校の教師が、学校の課目全体を承知の上で、自身の受け持ちに当たるようなもので、自他の関係を明らかにして、文学の全体を一目に見渡すと同時に、自己の立脚点を知る便宜になる。今の批評家はこの便宜を認めていない。認めても作ってもいない。ただ手当たり次第にやる。作品に対すると思いついたことをいい加減に述べる。だから評しつくしたのだか、まだ残っているのか当人にも判然としない。西洋も日本も同じことだ。

 これらの条項を遺憾なく揃えるためには過去の文学を材料としなければならない。過去の批評を一括してその変遷を知らなければならない。したがって上下数千年にわたって抽象的の工夫を費やさねばならない。右から見ている人と左から眺めている人との関係を同じく平面に集めて比較しなければならない。昔の人が製作した精神と、今の人の支配を受ける潮流とを地図のように指し示さなければならない。要するに一人の事業ではない。一日の事業でもない。

 この条項を備えて初めて、この条項中に差をつけようと考えてもいいと思う。人力車も人を乗せる。電車も人を乗せる。両者を知ったものが始めて両者の利害長短を比較する権利を享ける。中学の課目は数が決まっている。時間は多少異なる。必要度の高い英語のような授業は比較的多くの時間を割いているかもしれない。(できないかもしれない)崇高感を第一位に置くのもいいだろう。純美感を第一にするのもいい。あるいは人間の機微に触れた内部の消息を伝えた作品を第一にすえてもいい。あるいは平々淡々のうちに人を引き付ける垢抜けた著述を推すのもいい。猛烈なものでも、沈静なものでも、形式の整ったものでも、放縦でまとまらない面白みのあるものでも、精緻を極めたものでも、一気呵成に作られたものでも、神秘的なものでも、写実的なものでも、朧の中に影を認めるような模糊としたものでも、晴天白日の下に手のひらを翳すような明瞭なものでもいい――。相当の理由があって第一位にしようというならば、相応の理由があって差をつけるのであれば差し支えない。ただしできるかできないかは疑問がある。

 これらの条項に差をつけると同時にこれらの条項中のあるものは性質において並立して存在すべきであり、甲乙をつけるべきではないということに気が付くかもしれない。しかもそうして並立するものが一見して反対の趣味で相容れないという事実も認められるかもしれない――批評家は反対の趣味も同時に胸裏に蓄える必要がある。

 物理学者が物質を対象とするように、動物学者が動物を対象とするように、批評家もまた過去の文学を材料として以上の条項とこの条項に従って起こる趣味の法則を得なければならない。しかしこの条項とこの法則とは過去の材料から得たという事実を忘れてはならない。従って古きに拘泥してあらゆる未来の作品にこれらを応用して得たりと思うのは間違っている。過去に起きた自然現象は古今を通じて同一だ。活動している人間精神の発現は判子で押したようにはいかない。過去の文学は未来の文学を生む。生まれたものは同じというわけには行かない。同じでないものを、同じ法則で品評しようとするのは、船を刻んで剣を求むるの類だ。過去を総合して得た法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在に常にその胸中に存在しなければいけない。批評の法則が立つと文学が衰えるというのはこのためだ。法則がわるいのではない。法則を利用する批評家が変通の理を理解しないのだ。

 作家は創造主だ。創造主である以上、批評家の予期するものばかりを作らない。突然、破天荒な作品を天降らせて批評家の思考を止めることがある。中学の課目は文部省で決めてある。課目以外の答案を出して採点を求める生徒は一人もいない。したがって教師は融通が利かなくてもいい。創造主は白いカラスを一夜に作るかもしれない。動物学者が白いカラスをみた以上は、カラスは黒いものであるという定義を変更する必要を認めなければならないのと同様に、批評家もまた古来の法則に従わない、また過去の作品中から挙げつくした評価的条項以外の状況をもった文章に接しないとは限らない。接した場合、白いカラスをみとめるほどの、見識と勇気と説明がなくてはならない。これができるためには以上の条項と法則を知っていなくてはならない。知って融通を利かさなければならない。拘泥したらそれまでだ。

 現代批評家の弊害はこの条項とこの法則を知らないことにある。ある人は煩悶を描かないものは文学でないと言う。ある人は他にどれだけ良い点があっても事件に少しでも不自然さがあれば文学でないと言う。ある人は人間交渉の際に卒然として起こるきわどい真実味がなければ文学でないと言う。ある人は平淡な学生の文章で事件が発展しないのを見て文学でないと言う。このようにして批評家が従来の読書および先輩の影響、もしくは自身の取るに足らぬ経験から出たわずかな趣味の中に含まれたものだけを見て真の文学だ、真の文学だと言う。私(夏目漱石)はこれを不快に思う。

 私は批評家ではない。これまでに述べた資格を有する批評家では無論ない。したがって評論家としての私の地位を高めようとこの文章を書いたのではない。時間の許す限り世の批評家と共に過去を研究して、出来る限りこの根拠地を作りたいと思う。思ったからには自分ひとりでやるより広く世間の人と一緒にやるほうが、我が文学界の慶事であるから言うのだ。今の批評家がこれしきのことを知らない訳ではないだろうから、お互いにこういう了見で過去を研究して、お互いに得た結果を交換して自然と我が国将来の批評の土台を築いたらどうだろうと相談をするのだ。実際、西洋でもそれほど進歩していないと思う。

 私(夏目漱石)は今日までに多少の創作をした。この創作が世間に解されていなくて不平があるからこのようなことを言う訳ではないのはもちろんのことだ。私の作品は予想以上に歓迎されている。例えある人々からいろいろな注文が出ても、その注文者の立場は良く分かっている。したがってそのようなひとに対してなおさら不平はない。だから私の言う事は自分の作品のためでないことは明らかだ。私はただ我が国未来の文運のために言うのだ。

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カクとヨムの間 玖万辺サキ @KumabeSaki

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