究極の理解者

ここまでで創作というのは完全に自分一人の作業であり、誰にどのような支援を受けようが、もしくは非難をされようが、自分が変わらなければ決して変化しないものであることだけは証明できたと考えています。


先日、ある高名な小説家の方が「自分は文章が下手なのだが、どうしたらうまくなるか」という質問に対し「生来のものだから諦めるべし」と回答したというニュースを目にしました。


脳のうんこが誰の協力も得られないものであることが分かった今、私たちは創作について誰かに質問する行為自体が誤りであること、そして「自分は文章が下手だ」という出発地点がそもそも誤りであることを知っています。


体が栄養を摂るのは誰に習うわけでもありません。まさしく生来のものです。文章が下手なのは単に脳が栄養失調なだけです。その愚問に敢えて返答した先生は、公表することでこうした愚問の再発を牽制したのでしょう。


創作とは誰の協力も得られない過酷で孤独な作業です。多くの人は誰かからの評価を支えにそうした作業を継続しています。しかし誰しもが評価を得られるわけではありません。評価が時代や流行に左右されるのは仕方のない事です。


『白鯨』の著者ハーマン・メルヴィルは存命中は小説で生計を立てられませんでした。一八五一年に発表された崇高な長編小説が百六十五年を経てなお映画化されることを仮に周囲が予見し支援していたら、世界の文学史は確実に変わっていたはずです。


そんな時ただ一人貴方を全肯定できる存在があります。貴方自身です。誰にも理解されなくともこれは最高なんだ。そう言い切れるのは自分自身を置いて他にありません。これを味方にしない手はありません。


この唯一無二の応援者にはしかし、ある程度の資格を持たせるべきでしょう。例えば次の二例のどちらがよりモチベーションを高めるでしょうか。


・私は小説も漫画も映画もほとんど知らないがこの物語は面白いと思った。

・私はありとあらゆる創作物を知っているがこれはその中でも特に面白い。


同じ支援を受けるなら、やはりそのジャンルに対して精通した方の評価のほうが嬉しいでしょう。またそうした方の助言はきっと有用なものに違いありません。そしてそれが自分自身であれば最も効率が良いというものです。


随分と長くなってしまいましたのでそろろそまとめましょう。公表しなくても評価してもらわなくても楽しい翻訳作業ですが、最後はやはり日本語の、それも価値がある作品で締めたいと思います。


日本語に翻訳は不要と思われるかもしれませんが、古めかしい旧仮名使いは如何にも難しそうで、漢字も多く、読むのを躊躇する方もいるでしょう。しかしそうした理由で優れた作品を読まないのはあまりにも惜しい。


創作者と批評家の相互理解。これは私の独自な見解でもなんでもなく、かの偉大なる夏目漱石先生が提案されていたことです。最終章に以前、現代語に翻訳した『作物さくぶつの批評』を載せますので、興味のある方はどうぞご一読ください。


私のうんこ話なんぞよりむしろそれだけをお読みいただいたほうが脳に良いことは言うまでもありません。

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