終章 これが俺の青春
6-1
微かに聞こえる小鳥の鳴き声を耳にしながら、俺はいつもの通学路を歩いていた。
まだ起きて一時間も経っていないのに、俺の身体に倦怠感はない。昨日の夜のぐっすりと眠れた証拠である。
最近は規則正しい生活を送れており、体調もほぼ毎日絶好調だ。
俺はワイシャツの袖をめくり上げた。
時折、この路地を吹き抜ける風が俺の前髪を揺らす。建物の切れ目から零れた朝日が一瞬だけ俺の顔を照らし、それに伴って俺も一瞬だけ目を細めた。
近づいてくる夏の足音が微かに聞こえる気がする。
ここ一週間、五月の中旬にしては暑過ぎる日が続いている。ニュースを見た感じ、七月並みの最高気温を記録したらしい。
事実、塀に遮られて影になっているこの路地でも、歩いただけで額に汗が滲んでいた。
ふと。ある場所を通りかかって、俺は歩みを止める。
一見何もないただの脇道だが、俺にとっては思い出の場所だ。
そう、俺の初恋はこの場所から始まったのだ。
再び歩き始める。
あの出会いからもう、四ヶ月も経過したというのは信じがたい事実だった。俺は猫に話し掛ける金髪の女の子の後姿を、昨日のことのように思い出せる。
もし、あの時。彼女に出会えてなかったら、恋に落ちていなかったら、今の俺は一体どうしていただろうか。
きっと、それまでと同様に部活にだけ打ち込んでいただろう。
それは、別に悪いことではない。高校生活において、部活動は学生が取り組むべき大きなことの一つであるのは間違いない。
だが、俺はそれしか見えていなかった気がする。ただただ、学校に行って部活して、帰ってバイトして寝る。というサイクルをこなしていただけだった。
しかし、あの出会いがあってから、俺の視野は大きく広がった。
今まで興味が無かったことにも触れた。交友の輪も広がった。色んな発見があった。今まで自分がどれだけ狭い世界で生きてきたかを思い知らされた。
恋は凄い。
他のことが一切手に付かなくなる、という噂も聞いたことがあったが、それは全くのガセ情報だった。
その証拠にこれまで身が入らなかった学校の勉強でも、最近は徐々に成績も上がり始めた。
そしてなにより、毎日が楽しくなった。
俺はほぼ毎日、ハイテンションで学校に向かっている。
塀に囲まれた路地裏から出るとそこは拓けた通り。遮蔽物が無くなって、朝日が容赦なく俺を照らした。
汗で俺の身体にワイシャツが張り付く。だが、何故か不快感は感じない。
人気の少なかった路地とは打って変わって、この通りは通勤する人や通学する子供たちの声で賑わっている。
登校中にはしゃぐ生徒たちの声が意識せずとも俺の耳に届いた。
川に掛かった小さな橋を渡ったところで、学校の前の上り坂に差し掛かる。
見上げると、そこでは登校する生徒たちの姿。
今日から制服は夏服になる。坂道はワイシャツの白が目立っていた。
気が付けば俺は、自分でも気が付かない間にある人物を探していた。それを意識した途端、なんだか少し気恥ずかしい気分になる。
坂を登る生徒の中に金髪がいないのを確認した後、辺りを見回してみる。しかし、やはり目当ての人物を見つけられなかった。
登校中に偶然出会って、そのまま一緒に学校まで行く。という青春っぽい経験をしてみたくて、最近は毎日坂のふもとでキョロキョロしているのだが。一向に成果が得られない。
事前に連絡を取ればいいだろ、って雲雀にも言われたが、奴は何も分かっちゃいない。
これは『偶然』出会うことが重要なのだ。そっちの方がときめくだろ。
実は……。本音を言えば、『一緒に登校しよう』って誘うのが恥ずかしいからなんだけど。これは皆には内緒だ。
今日もその甘酸っぱい経験は出来なかった。残念である。
諦めて俺は坂を登り始めた。
坂の中盤に差し掛かったところで、ふと。俺は脇道に視線を移した。
この坂道の途中には、ちょっとした休憩所のようなところがある。
ベンチが複数個置かれているだけの何もない場所であるが、景色が良く、風の通りも良いのでこの学校の生徒には人気のスポットの一つだ。
俺の視界に映り込んだのは、そのベンチに腰掛ける一人の女子生徒の姿。
その存在を確認するや否や、俺は小走りで彼女に駆け寄った。
いつも通り、本に目を落とす少女。長い睫毛が強調された綺麗な横顔に、俺の目は吸い寄せられる。
綺麗だ、と思う。
この少女に恋をしたのは必然だったのかもしれない。
俺の足音が耳に届いたのか、その少女は本から目を離し、こちらに視線を合わせた。
浮かべるのは、柔らかな笑み。
彼女は本を閉じて鞄にしまい、ベンチから徐に腰を上げた。どうやら彼女は、俺と似たようなことを考えてくれていたみたいだった。
こちらに近付いて来る彼女に、俺は満面の笑みで笑いかけ。
「金糸雀、おはよう!」
二人の間を一陣の風が駆け抜けた。
風で流れる髪の毛を手で押さえ、彼女はゆっくりと口を開く。
「おはよ。花鶏」
何気なく交わす言葉。
だが、このちょっとした挨拶が俺にとっては幸せなことの一つである。
「何笑ってんの」
「え?」
どうやら表情に出ていたらしい。訝しげな顔で金糸雀は俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、今日も良い天気だな……、って思って」
「なにそれ」
テキトーに誤魔化した俺を見て、金糸雀は呆れた表情を浮かべる。
「ってか、こんな所で待っててくれるなんて。そんなに俺と一緒に登校したかった?」
「は? そんなわけないだろ」
え? 違うのかよ。
「あんたが一緒に登校したいって泣いてた。とか、雲雀が言ってたから。仕方なくだよ」
「あの女……」
風評被害もいいところだ。
まあ確かに、一緒に登校したいとは思ってたけど。泣いてはいなかったぞ。
「まあ、でも。良い機会ではあったんじゃない? あたしも……、そのうち誘おうと思ってたし……」
後半に行くにつれて徐々にボリュームが落ちていく金糸雀。
何、今の。超可愛いんだけど。
「もう一回言って」
「絶対イヤ」
「そこをなんとか!」
「イヤ。ほら、早く行かないと遅刻するから」
「むむむ……」
上手く躱された気がする。
だが、彼女はしつこく食い下がれば最終的に折れてくれる。
だから、しつこいくらいに頼み込めば、明日にはきっともう一度言ってくれる筈だ。後ほど試してみることにしよう。
「早くしろよ、おいていくぞ」
「ちょ、待って!」
先に校舎を目指して、坂を登り始めた金糸雀の背中を追う。
坂の上では、雲一つない青空が果てもなく広がっている。
金糸雀の隣に並んだ俺は、彼女と一緒に空を目指した。
今日もまた、一日が始まる。
今日もまた、きっと良い日になる。
ずっと、この素敵な日常が続いていく筈だ。
これは、俺の初恋の物語。刺激的な毎日を綴った日常譚だ。
気になるあの娘に熱烈求愛! これが俺の日常譚 里場 茂太郎 @regulus0428
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