老女と虫

日月明

第1話

 九月の終わり、そいつは入って来た。忍び足でそろりとやってくる寒さに、私の古びて渇いた膝の関節が鈍痛として反応し始めた頃のことだった。


 近頃、子も孫もあまり訪ねては来てくれない。それもそのはずで、孫は全員成人してしまい、近々ひ孫が産まれるらしい。それぞれに家庭があるのだ。旦那に先立たれ、先の短い婆さんのところへしょっちゅうやって来る物好きなどそうそういない。


 中途半端に元気なものだから、誰かの厄介になるのも忍びない。

 いっそのこと首でも括ってしまおうかと思ったことはあるが、地獄の森の一本の木になるのは、何十年現実を見ていようが怖い。信心深い方ではないが、確実に無いとも言えないものは、やはり少しの恐怖を覚える。それに、笑顔で旅立った旦那に申し訳がない。


 仮に自殺したとして、私が死んだことを種にして、ろくに会いに来もしない者達が涙を溢すのも面白くない。


「私がもっと様子を伺っていれば」なんて言いながら泣く娘の顔が、目の前にあるかのようによく見える。老いた者の死によって流れる哀愁なんて、泡のようなものだ。酒の肴になるくらいなら、退屈を貪っているほうがまだ良い。


 動くのが嫌で、窓の側にある安楽椅子に座って読書をしていると、その虫は入ってきた。蝿のような、黒くて醜い羽虫だった。小さな羽虫の思いがけない来訪に、「きゃー」などと可愛い悲鳴を上げるような歳でもない。

 かといって、丸めた新聞紙を振り回すような元気もない。もう涼しくなるのに、随分と長生きな虫だなと思いつつ、虫の好きな様にさせておくことにした。


 えらく非力に飛んで来たように見えた。多少鈍い子供でも、手をパチリと合わせれば捉えられそうな程に。どこか年寄りのようにも見える虫は、数日の間私の家に留まることに決めたらしい。


 その虫は、一日の殆どを窓枠の上で過ごしていた。時折思い出したかのように羽を震わせてふらふらと飛びはするものの、時計の秒針が五歩も歩かないうちに、また同じ場所へと戻ってくる。


 虫と言う奴は、目障りな程に飛び回るものだと思っていたが、そういうわけでも無いようだ。

 それに、この窓辺は私が気に入っている場所で、年季の入った身体を気遣いながらも丁寧に掃除をしている。虫が寄り付くようなことは、今まで一度も無かったのだが、どういうことだろうか。


 老人の一人暮らしでは持て余すような家に住んでいるものだから、掃除の行き届かない場所もあり、小汚い虫が好みそうなところなど他にいくらでもあるだろう。虫に詳しく無いから知らなかっただけで、見た目に反して、実はきれい好きな種類もいるのかもしれない。


 私の二番目の息子は、虫が大の苦手だった。家族でキャンプへ行った時も、一番沢山虫よけを使うのは、娘では無くて二番目の息子だった。一番目の息子や娘が昆虫を飼っていただけで、部屋に近寄らなくなったものだ。男なのに情けない。


 虫嫌いは、画家になった今でも治ってはおらず、ハイパーリアリズムという種類の絵を得意としているくせに、虫に関する仕事は断るのだそうだ。仕事を選んでいるから、いまいち飛躍できなくて、地方の大学教授で止まってしまうのだ。虫と午後を過ごすという状況を二番目の息子が見たら、発狂するだろう。用事も無しに、やって来たりしないのだが。


 この虫も、過去を思い出したり、子供のことを想ったりするのだろうか。子供はどんなだろう。錆びた針金のような糸虫か。それとも、潰れたニキビの芯のような芋虫か。少し気にはなったものの、重たい図鑑を持ち出すような力はもうない。それに、どこに仕舞い込んだか忘れてしまった。


 昔は物覚えが良い方だったのだが、老いとは怖いものだ。自覚しないうちに老いているというのが恐ろしい。他人に言われて初めて気づく。

 近頃は、娘がよく私が老いたという話をする。もう若くないのだから、余生は介護施設にでも入って、家事もしないで自由に生きたら。なんて勧めてくる。


 真っ平御免だ。介護施設が自由だなんて、どういう思考をしているのか。「のびのびとした生活」と大々的に広告している方が、逆に信用ならない。

 施設なのだから、守るべきルールは施設の外よりも多いはずだ。沐浴時間、食事時間、消灯時間。終わりのない入院生活と言い換えるべきだ。残り短い余生なのだから、好きなときに好きなだけ風呂に入って、食べて、眠りたい。

 心配せずとも、そう長くないうちに財産は子供たちへ行くだろう。何も文句は言わないから、適当に山分けすればいい。


 娘は昔から、夢見がちな子で、欲を隠すのが下手な子だった。末っ子だから我が儘というのもあるのだろう。他人の物を羨んでは、それを欲しいと無言の訴えを見せる。

 今の旦那さんだって、一悶着あった末に勝ち取った人だそうだ。自制心が無いから、敵を多く作ってしまう。どれだけの心配を重ねたことか。器の大きな旦那さんで良かったと心底思う。


 その点、虫というやつは羨ましい。先祖代々受け継いできた、種を残すという使命に忠実に生きていればいいのだから。子孫を残せば、大きな気苦労もなく生涯を終える。夏だけを生きる虫のように、短い一生のものは、尚更そこだけに全力を注ぐのだろう。


 一見自分勝手なようで、実は種族全体の為でもある。という事は、それなりに重圧や責任感があるのだろうか。パートナーを探すことに焦ったり、質の高い子を残す為にいろいろと模索したりするのだろうか。そもそも、この虫が越冬するのかどうかすら、私は知らないのだが。


 一番目の息子は、責任感があり過ぎる子だった。自分に必要以上の使命感を感じてしまう。

 もう少し、自己を尊重して生きれば良いものを、他人を気にかけてしまう。それは美学的であるように見えて、実はただの臆病者だ。もう少し乱暴に言うならば、馬鹿でも妥当かもしれない。


 自分の居場所を必死に作ろうとして、出来上がるのは泥の船だ。弱い基礎で出来た船は、良いように使われ、あまり進まずに沈んでしまう。

 運よく助けてくれる者がいて、同乗させてくれるかもしれないが、それはやはり他人の船だ。今まで助けた分が返って来たと思うかもしれないが、失った物の方が明らかに大きい。

 一番目の息子は、運よく大きな会社に務めたものの、役職も給料も、会社の中では三番手以下だ。唯一良かったのは、拾ってくれた人が本当に良い人だったということだ。 


 ちょっと失礼するよと、何故か虫に断りを入れるのが癖になってきた頃、トイレから戻ってみると、虫は息絶えていた。いつも通りに動かないものだから、始めは気づかず、安楽椅子に座って紅茶を飲んでいた。

 よく見てみると、時々忙しなく顔の当たりを掻いていた前足が止まって、小さく縮こまっていた。側にあったペンで小突いてみると、抵抗もなく、そのままコロンと転がり腹を見せた。


 ああ、結局こいつは、何をしにここまでやって来たのだろうか。私のように、残りの余生を日の当たる場所で過ごそうと考えたのだろうか。

 本人にとっては長かった一生の後悔を思い起こしながら、次の一生に備えたのだろうか。


 転生だなんて信じていないし、また生まれ変わるのは考えると少し憂鬱なものもあるが、悪くは無いのかもしれない。似たような命の幕のとじ方をするもの同士、来世では同じ種として出会えるかもしれない。まったく逆の立場というのも、それはそれで面白いだろう。多少に関わらず、縁は持ちたいものだ。


 私は、暫くの間死骸を見つめると、虫が入ってきた頃よりも痛みが強くなった膝に力を込めて立ち上がる。二本の指で、崩れないように虫の死骸をつまむと、手の平に優しく乗せた。足の一本が力無く外れたが、人間と小さな虫の差だ。

 仕方がない。死んだこいつも、そこまで恨んだりはしないだろう。


 膝の痛みを無視しつつ、けれどあまり痛み過ぎないようにゆっくりと歩いて行き、木でできた質素な扉を開けると、私は、虫の死骸を水洗便所へと放り込み、大と書いてある方へレバーを捻った。三周ほど便器内を回った死骸は、排水管の方へと勢い良く流れ出て行ってしまった。

 私は、入念に手を洗うと、また元の安楽椅子へと戻り、紅茶をすする。

 老いた者の死によって流れる哀愁なんて、泡のようなものだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

老女と虫 日月明 @akaru0903

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ