赦し、赦される日

 赤い線だけで構成された世界を視た。……悪魔の視界だ。もし暗い夜の星たちが、みな鮮血色に輝いたら、きっとこんな感じだろう。

 黒い海に漂っていたアーシェラの腕がぐいと引かれた。

「おはようアーシェラ。あそこで気絶なんかしないでくれ、中途半端で苦しいじゃないか。ボクはまだ生きてるぞ」

 赤と黒の稜線の世界で、たった二人だけが色づいている。その片割れ、緑の少女ヴェルセディはそう口を尖らせた。

 アーシェラはその口振りに笑ってしまう。

「手加減したんだよ」

「どうして? 君は悪魔を、恨んでたろ」

「ああ。だから私が斬るのは、悪魔だけだ」

 怪訝な顔をするヴェルセディの手にもう片方の手を重ね、アーシェラは立ち上がる。うねりを上げる水はどこかに消え、二人は確かな感触のある闇に立っていた。

「人は斬れない」

「……ボクが、人だって? はは、止めてくれよ。君も見ただろ、ボクは悪魔だよ」

「私の全てを壊した悪魔を産み出した原因では、あるけど。どうにも……恨めなくて。お前は私だ。お前を否定することは、私を否定することだった」

 人と悪魔との半端者。守るべき、大切なひとを失った過去。それに囚われていたいま。何もかもが写し鏡のようだった。

「ボクを、赦すって言うのかい」

「……赦そう。でなくては、私は私を赦せない。私自身が救われない」

 いま彼女を許せないならば、アーシェラは自身を最後まで好きになれない。そういう確信がアーシェラにはあった。アーシェラもまた悪魔なのだから。悪魔であることを許さなくては、アーシェラが許されることなど、自分を好きになることなど、幸せになることなど──過去に肯定され未来を創ることなど、決してない。

 ヴェルセディはふっと顔をほころばせて、天を仰いだ。泣いているのを誤魔化すようにも見えた。

「……そう。なら、甘んじて赦されるとしよう。じゃあ、これからどうしようかな。世界一周でもしてみるか」

 とぼけた様子で鷹揚に手を広げるヴェルセディの首根っこを掴み上げる。つままれた猫のように大人しく、ヴェルセディはちらとアーシェラの顔を覗いた。

「それはそれ、これはこれだ。罪の代価は支払ってもらうぞ」

「えぇ!? 許すって言ったじゃないか!」

 じたばたと暴れ始めるヴェルセディに苦笑する。セルビアの憧れのひとはまた、ずいぶんと子供っぽい。憧れから人間っぽさに惚れたというのなら、セルビアはこの緑の髪とも仲良くやれるだろうな、と考え、また自分とセルビアの関係を思ってため息をつく。

 アーシェラは、ヴェルセディとカルメンの通ってきた道を思い出して、悲しく呟いた。

「それに……私も、お前になるだろうから」

「……ボクたちは、不死身だから?」

「ああ」

 悪魔になった人間がどうなるか。それに確かなことは言えないが、腕を切っても端から生えてくるような者が、天寿を全うできるとはとても思えない。アーシェラもまた、ヴェルセディと同じように、きっと不死身だ。

 いまアーシェラにはセルビアがいるが、百年後のアーシェラにそれを望むべくもない。

「そうだねぇ。いまなら最悪、君がいるしね。お互いひとりぼっちにはならないわけだ」

「……そうだな。いい友達になれそうじゃん」

 ヴェルセディが、風に吹かれるように笑う。やはり聖女と聖騎士、二人の笑顔はよく似ていた。

「仕方ないなぁ。ヴェティ、そう呼んでくれ。君は? 何て呼べばいい」

「好きに呼んでくれ」

「ならアーちゃんでいこうか」

「やめろ」

 首をがくがく揺らしてやると、観念したのかヴェルセディはアーシェラの腕を数度叩く。

「まあ、無難に、シエルでいこう。君、昔はそう呼ばれてたんだろ。あの商人さんのメモによればだけど」

 ……その言葉を聞いて思い出す。なぜこいつは私の見たことを全部知っているんだ?

「そうだ、その覗きも不快だったんだけど」

「あ、やば──何でもない何でもない」

「何がだよ」

 ヴェルセディはふと何かを感じたように虚空を見た。

「……猊下さんが、呼んでるようだね。いや、はぐらかそうとしてるんじゃなく、本当に。そろそろ目覚めようか。ボクは肉の塊の中のどこかにいるから、優しく探し出してくれ」

「少しくらい切っても生えてくるだろう」

「そういう思考良くないよ、君!」

 ヴェルセディの叫びを最後に、世界は光に包まれた。



「──……シェラ。アーシェラ!」


 ぺちぺちと頬を叩くセルビアの手に手を重ねて、目を開く。

「……おはようございます、猊下」

「おはよう。いやはや、凄まじい量の血だったな。街まで浸からなくてよかったよ」

 そう言うセルビアの身体もまた血塗れだ。これがセルビアでなかったら、彼女は悪魔になってしまうところだっただろう。

「猊下こそ、平気なんですか? いくら悪魔にならないと言っても」

「くくく。お前は、どうだ? 中々おどろおどろしい格好だぞ」

「でしょうね。でも、いつか収まりますよ。角が収まるのが、ちょっと伸びただけのことです」

「ははは、は。……アーシェラ。吹っ切れたようだな。自分を好きになれそうか?」

「……ええ。猊下の、次になら」

「な……馬鹿者。もう少し段階を踏め」

「ははは」

「……なら、私のことは、セラでいい。セラがいい」

「……セラ様」

「様って、お前……まったく」

「おーい、シエル、ここだここ! 出してー」

 遠くの肉塊から手がずぼっと出てくるのを見てセルビアがびくりと背筋を凍らせた。アーシェラは生えた手の前に向かい、剣を添える。

「……なあ、ふと思ったんだけど、自分で斬れないのか」

「もうそんな余裕ないの。本当に死にかけだからねボク」

「はあ……」

 周りの腐肉からヴェルセディを切り出してやると、ヴェルセディ猫のように背伸びをひとつした後、改めてアーシェラの姿を認め大袈裟に驚いた。

「うわっ、君、凄いことになってるね。ボクの血をあれだけ吸ったんだから当然か。少し受け持ってあげるよ。ボクの体力回復にもなるし。首出して」

「ん」

 首筋を露出しながら屈み込むと、ヴェルセディは手慣れた様子で吸血を行った。

「……あー……説明してもらえるか、アーシェラ。その者は誰なのだ」

 と、背後に声がかかる。血の海に波紋を起こしながら、セルビアはゆっくりとアーシェラに近づいていく。

「ああ、これがヴェルセディです。あの、聖騎士の」

「は? な──いや、待ってくれ。この方がヴェルセディ様?」

「ヴェティでいいよ。もう聖騎士とかいうガラじゃない」ヴェルセディはぺろりと唇を舌でなぞり、悪戯っぽくにやついた。「アーシェラがどうしてもボクと生きたいって言うから、一緒に生きてあげることにしたんだ」

「……アーシェラ?」

 何か別の方面で波紋が立つ。

「あ、いや、その、それは──」

 慌て出すアーシェラを見て、セルビアとヴェルセディは同時に吹き出した。

 空には光の大樹の残滓か、太陽の微笑みに照らされて輝く虹があった。




 アーシェラはかつてのアーシェラに倣って行商をしている。

 記憶にはないものの、感覚としてはわりかし商人心も残っていたようで、営業成績は思ったより好調な滑り出しを見せている。

 だが困るのはそうして稼いだお金の使い道だ。定住していない上、悪魔になって物を食べなくなったので、どうしても手に余る。いい服を買って馬車をいいものにしたところまではまだよかったのだが、最近ではもう真面目な使い道など諦めていて、大方を二人の同行者たちとはしゃぐのに使っている気がする。

「シエル。そろそろ替わるか?」

 馬の背をぼうっと眺めていると、背後のカーテンを開いてセルビアが声をかけてきた。

「いや。ぜんぜん疲れてないよ」

「ボクはもう疲れたから、そのままよろしくね」

「お前働いてないだろ」

 ヴェルセディの声には冷ややかにそう応じる。

 同行者というのは、言わずもがな、この二人であった。

 ヴェルセディとの戦いのあと、セルビアは悪魔討滅の立役者として満場一致で次期五芒教皇候補に選ばれるまでしたのだが……。

 あのときの五芒教皇らの顔を思い出すといまでも笑いが込み上げてくる。

『この偉大なる業績に酬いなくては。何か望みはあるかね?』

 その問いにセルビアは、最悪の答えを返したのだ。

『では、私はいままでの地位を返上し、市井に下りたく存じます』

 向こうとしてみればまさかだっただろう。後ろで膝をついていたアーシェラも面食らって声を上げたくらいだ。一応反対はしてみたが、まったくの無駄だった。

 セルビアは未来をアーシェラと共にのんびり過ごすと固く決めていた。

「……セラ」

「ん?」

 アーシェラと瞳を交わして次の言葉を待つセルビアにふっと微笑んで、アーシェラは前方に視線を戻した。

「好きだよ」

「な、急になんだ。ばか」

「ボクも好きだよぉー」

「ははは」

「ヴェティまで……」

 馬車はつつがなく進んでいく。

 からころ、からころ、轍の音を響かせながら。


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赦し、赦される日【完結済】 郡冷蔵 @icestick

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