終章 人と悪魔と

騎士と大切なひと

 通りに辿り着く前に、悪魔は向こうからやって来た。整然と敷き詰められた石畳を踏み荒らして闊歩する破滅の使徒。その腕が逃げ遅れたらしい老人に振り払われようとする、その間に割り込んで間一髪攻撃を弾き返す。

「逃げてください。早く!」

 立ち上がり、よたよたと逃げていく老人に、セルビアが本部に向かうよう指示するのを横目に見ながら、追撃を再度緋色の剣で防御する。受けが悪かったかぴしりと亀裂の入った剣を投げ捨て、再度権能を解放する。伸縮する緋色の剣を居合の要領で振り抜き、巨駆をその腰の中程から一刀両断。再生を行おうとするそれらに苛烈な剣の雨を与え、血煙となって消滅したのを確認してその場を離れる。

 三角飛びで建物と建物の間を跳び、高台から西側を広く見渡す。

 がらがらと響く崩壊の足音。平穏とは何だったのか、灰塵に帰そうかとする西側の家々に、そこを進撃するおびただしい量の中・下位悪魔にアーシェラは唇を噛む。

「この数は……ッ」

「アーシェラ、何が見える!?」

「数え切れないほどの悪魔が! 猊下、私は先に行きますッ」

「あ、おいッ──」

 屋根から屋根へ跳び移り、一足跳びに群れる悪魔の元へと疾駆する。速く、速く。悪魔を狩らねば、狩り尽くさなくては、この悪夢は終わらない。

「……ッ、ミラ!?」

 その道中に、ミランダの姿を見た。そしてその手を引く緑の髪をした悪魔の姿も。悪魔は西側、悪魔の蔓延る方にミランダを誘っている。

 煙突を蹴って大きく跳躍して、二人の前に立ち塞がる。

「──待て。ミラを、どこに連れていく気だ」

「騎士様!?」

「……君は誤解しているよ。ボクは彼女を守る」

「なら、どうしてミラを本部に向かわせずに、悪魔の中に放り込もうとしているんだ。その手を離せッ」

 振り抜いた剣は緑の悪魔が返した同じような緋色の剣とかち合い、ぎちぎちと音を鳴らした。しのぎを削る二対の血の剣の横でミランダは当惑気味に震える声を出した。

「……騎士様、この方は騎士ではないのですか? 私をここまで、悪魔から守ってくださって──」

 言わされているという感もなく、ミランダは本当に二人がつばぜり合う現状を理解できていないようだった。

「……? まさか、本当に──」

「聖銀機関は信用できない。彼女はボクがこの手で守る。行こう、アーシェラ。ボクたちが悪魔を倒すんだ」

「……少しでも妙なマネをしたら許さないぞ」

 倒壊した家屋から現れた中位悪魔の身体に二振りの剣撃が刻まれた。殺到する下位悪魔を撃墜し、西へ西へと向かう緑の悪魔の背中を追う。

 緑の悪魔は言葉通り、ミランダを守りつつ蔓延る悪魔を屠っていく。疑念は揺らぎ、その真意を汲めないままアーシェラは本部街の西端に行き着いた。

 ここまで多くの悪魔を倒したものの、まだ討ち漏らしたものも多いだろう。ここから外周をしらみ潰しに探すべきか、とアーシェラは足を止めたが、緑の悪魔はミランダの手を引いたまま石畳の向こうの大地に走っていこうとする。

「待て。どこに行く気だ」

「……彼女はここにいるべきじゃない」

 立ち止まった緑の髪は、振り返らずに短くそう返した。遠くに聞こえる喧騒が、空気の層を幾重も重ねたようにフェードアウトしていく。アーシェラはすべての感覚を緑髪の一挙一動に向け研ぎ澄ましていた。

「ミラの居場所はここにあるだろ。美味しいパンを焼いて、皆がそれを買いにきて」

「ここにいたら!」緑の悪魔は切迫めいた叫びを漏らした。「ここにいたら、彼女は殺されてしまう」

「何故。……お前は、彼女の何なんだ」

「それは……言えない……」

 二人の隔絶は決定的となった。アーシェラは剣を構え、平原に吹く風を受ける緑の悪魔に怒声を浴びせた。

「やはりお前は信用できないッ」

「止めてください! 争わないでっ」

「下がってて。ボクが……今度こそ……君を守る」

 ミランダの手を離した瞬間──悪魔の姿が掻き消える。

 緑の悪魔の放った神速の一閃が、アーシェラを強襲する。がきんと響く硬質な音。続く剣戟は全くの互角。振り下ろす剣の出を弾く。崩れかけた体勢をこじ開けるように打ち出す突きは、再生に頼った決死の一撃で返される。剣を打ち合う度、ミランダの小さな悲鳴が耳に届く。

 緑の悪魔が血を操ると、手に握る剣の先は幾重にも分裂し、その個々が命を持ったかのように自らアーシェラに向けて伸びてくる。アーシェラは同じように緋色の蛇を量産してこれを迎え撃つ。後ろに大きく跳躍して距離を取り、互いに肩で息をする。

 緑の悪魔は必死の形相そのものだ。

「……改めて訊く。なぜ、ミランダがここにいてはいけないんだ」

「話せないッ! 話したら……君は彼女を殺す」

「そんなわけ……」

「ボクが彼女を守る!!」

「──ッ」

 悪魔によって突き刺された剣を始点に、根が延びるように大地に赤い線が描かれると、そこから突如無数の棘が沸き起こる。

 予想外の攻撃を到底避けきれず、アーシェラの身を赤く太い何本もの棘が貫いた。腕を、腹を、足を、身を裂く痛みは、自重でより深くに身体が沈む度に、塩を刷り込むような追撃で感覚をいたぶった。明滅する視界。赤い線だけで構成された悪魔の世界がちらつく。

 血剣を操り、脚ごと棘を切り払う。ぼこぼこと音を発てて再生した脚に血でやっつけの赤い靴を履かせ、アーシェラは再び立ち上がる。だが、朦朧とする視界の流転は収まらない。

 血が、足りない。単純で、決定的な現実がアーシェラに死を意識させた。けれど、。口に溜まった血を飲み込む。

「ヴェティ」

 ミランダの良く澄んだ声が、その間隙に響き渡った。ヴェティと呼ばれた悪魔はゆっくりとミランダに振り返った。

 その動作があまりにも感情的に過ぎて、アーシェラには空いた距離を詰めようだとか、この隙に剣を投擲しようとか、そういった発想はとてもできず、ただ抱き締め合う悪魔と人間、二人の少女の姿を見ていた。

「──キャリー……どうして……?」

「私、思い出したわ。当然じゃない。だって私、あの頃も……あなたのことばかり見ていたものね。あなたの技を見ていたら、何だか思い出しちゃった。どうやって、とは訊かないけれど。どうして……私を、甦らせたの?」

 いたずらをした子供をたしなめるような、優しく強い詰問であった。悪魔は泣き出しそうな顔でどうにか言葉を紡ぎ出す。

「……キャリー、お願い。お願いだから、ボクと一緒に……生きてくれ。悪魔を倒すのはボクがやるから。だから」

「あのときと、同じこと言うのね。問いが同じなら、答えだって変わらないものじゃない?」

 くすくすと葉が鳴くように笑う。その様子は、緑の悪魔のそれに似ていた。いや、もしかしたら、悪魔のほうが、彼女に似ていたのかもしれない。

「不可能じゃない! 時間はかかるかも、しれないけど、それでも! ボクは君を失った世界なんて」

「……駄目よヴェティ。ヴェルセディ、私だけの聖騎士様。私たちは、涙を無くすために戦っていたのじゃない。私が死ねば、いま悪魔を滅せば、無くせるこれからの涙があるの。未来は、変えられるわ」

「ボクの涙は! どうすればいいって、言うんだ……」

「それは、ごめんなさい。だって私、あなたの泣き顔大好きだもの」

 ──脳内に蘇った今朝がたの夢の記憶が、目の前の二人に符号する。ああ、あれは──緑の悪魔の血を吸った、副作用のようなものだったのだろうか。あれが、聖女と聖騎士に──いま目の前にある二人に起こった真実。

 奇跡の代償に、聖女は自らの命を賭したのだ。

「やめろ! ふざけないで……生きて、生きてくれ……君が死ぬこと、ないじゃないか……」

「ごめんね。でも、決めたの。さよなら」

 そう笑って、緑の悪魔──ヴェルセディの力なく揺れていた手から、血剣を奪取すると、躊躇いなく、自らの胸を貫いた。

 直後、その傷から光の大樹が現れる。カルメンに根付いた世界の意思が幹を、枝を伸ばし、実をつけていく。

 落ちていく実は空中で弾けて光の粉となり、きらきらと輝いて消えていく。

「あ……」

 ヴェルセディがくずおれるカルメンの身体を抱き止める。それでも消えていく魂は捕まえられない。涙でも魂は塞き止められない。

「あ、あ、ああ、」ヴェルセディの目尻からいくつもいくつもの雫が、聖女カルメンの安らかな笑顔に落ちていく。「ああぁぁァァッッ」悲しき悪魔は、ただひたすらに、吠え、咽び泣いた。

 アーシェラは状況をすべて理解したわけではなかったが、それでも、剣は納めるべきだと感じた。何も知ろうとせずに憎悪のままにこの悪魔を倒すことなど、もはやアーシェラには不可能だった。

 光の大樹が消滅する。

 アーシェラはゆっくりとカルメンの亡骸を抱くヴェルセディに歩みを進めた。隣に立ったアーシェラに気づき、ヴェルセディが顔を上げる。一瞬きっと強い眼差しが垣間見えたが、アーシェラに敵意がないのを見てか、剣呑な雰囲気はすぐに霧消してしまった。

「ヴェルセディ。お前は……聖騎士ヴェルセディ、なんだろう」

「……ああ、そう呼ばれたことも、あったね。だけど今は違う。大切なひとを取り戻したいがため、それが悪魔を復活させることになろうとも、それでも成し遂げて──そしてフラれた、哀れな道化さ。でも分かってた。彼女なら、そうするだろうって。『過去を背に、未来に歩け』が彼女の口癖だった。だから復活した彼女に記憶がなかったのは……悲しいと同時に、嬉しいことだったけど。やっぱり彼女は彼女だった。変わってないなぁ。今もまた、悲しくて、嬉しいよ」

 ヴェルセディがカルメンの墓を暴き、悪魔の封印を解き放った犯人であると知っても、不思議と憎悪は沸いてこなかった。惨劇を忘れたわけではない。アーシェラは悪魔のせいで大切なものを失った。

 ただ、ヴェルセディもまた大切なひとを失い、そして足掻いて足掻き続けた結果があれだったのだ。

「……まだ、彼女を甦らせようとする気はあるのか?」

「まさか。ほら、フラれちゃったし。でも……それだと孤独なんだ、ボクは」

 ヴェルセディは腰を下ろし、血で土を長方形に深く抉り取った。

「悪魔は不死身だ。上位悪魔はなおさら。中でも、千年前に悪魔の血を喰らい続けたボクは特にね。もはやボクは死のうとしても死ねないんだ。この孤独は、とてつもなく……怖い。千年我慢した。もう限界だった」

「……それは……」

 考えないようにし続けてきた、不死身であることの代償。何度でも得て、何度でも、失うこと。悪魔が人の血を求めるのは、生きたいから……人に戻りたいからなのかもしれない。

 ヴェルセディはカルメンの躯体を大地のうろに横たえ、土をかけると、ゆっくりとまた腰を上げた。 

「そこで、頼みがあるんだ、アーシェラ。ボクを殺してくれ。キミになら……できるかもしれない。それにほら、さっきので、恐らく大抵の悪魔は消滅してしまったから。これが復讐を果たす最後の機会だよ。ただ、ボクも血を惜しまず使うからね。そうしないと死ねないし」

「お前は、どっちだ。人なのか、悪魔なのか」

「ボクは人になろうとした悪魔だ。キャリー……カルメンがボクを変えてくれた。君はどうだい?」

「……私は、悪魔になった、人だ」

「ああ、お互い、ちぐはぐだ。でも……今からボクは、悪魔に戻るよ。もう、疲れたんだ。これが……ボクの本当の姿だ」

 ヴェルセディはアーシェラの首の襟を掴み、悪魔の膂力で強く放り投げる。アーシェラが受け身を取って起き上がると、ヴェルセディの身体の奥からは、ぼこぼこと肉が沸き上がって、そのシルエットを変貌させていた。ヴェルセディの仮初めの身体が弾け飛び、内から破裂の連鎖と共にその影は肥大していく。あまりの質量に大地すらもがみしみしと悲鳴を上げているようだ。

「──ッ。ヴェルセディ!」

 蠢く巨大な肉塊は、これまでの悪魔の比ではない。肉の山から顔と腕がいくつもいくつも生えているような異形。視界一面を覆ってしまおうかという巨体の節々にある目がかっと見開き、一斉にアーシェラを見つめた。


『さあ、究極の悪魔を倒してみせろ』


 悲しき咆哮が、大地を揺らした。

「……聞こえてる?! ヴェルセディ!」

 返答はない。空間そのものがびりびりと震えるかのような咆哮と共に、血の権能が発動する。ならばまずはヴェルセディの言うとおり、彼女を倒してやらねばなるまい。話はそれからだ。

 ヴェルセディは、これは復讐を果たす最後の機会と言った。同時にそれは、アーシェラが自分あくまを許す最後の機会でもあった。

 巨大な腕から血が滴り、その一滴一滴が槍となってアーシェラを追う。逃げ道を塞ぐように別の腕が眼前に迫る。アーシェラは腕を蹴って無理矢理に場から退避すると共に、血剣で腕を切りつける。が、肉厚な上、ぶよぶよとした肉が刃を止めてしまい深い傷を与えられない。それに加え強靭な再生能力で、傷の再生どころか、肉塊はいまなおその大きさを増していた。

 地を駆るアーシェラは、この最上位悪魔に攻めあぐねていた。明らかに攻め手が足りない。血の権能が使えないことがこんなに歯痒いと感じるようになるとはまったく思っていないかった。地に散布された悪魔の血を利用しようにも、ヴェルセディの権能に侵された血は、時折再起動してまた権能の糧となっている。あれを体内に入れるのは得策ではなかった。あれを利用するには、せめて権能の発動を止めなければ。

 大地から棘が連鎖的に生え、アーシェラを追い縋る。横っ飛びに死線から抜け出してこれを回避。溜まった息を吐き出す間もなく、また槍の雨がアーシェラを襲う。

 ついに避けきれなかった一撃が左腕に突き刺さり、直後に爆発。肘の先で腕は吹き飛び、宙を舞った。

 どうにか再生させるも、もはや限界だ。これ以上は血剣一本すらの余剰もない。血がつきて死ぬか、殺されるか。ふたつにひとつ、どちらにせよ死だ。

「アーシェラ! これは、どういう状況だ」

 と、そこに息を切らして走ってきたセルビアが屹立する肉塊を予断なく見上げながらアーシェラの後ろに立った。

「悪魔がみな突然消えたので、お前を追ってきてみたのだが。これは……上位悪魔にしても強力だな……そもそもこれは、悪魔なのか?」

 曖昧に微笑んで返答を誤魔化す。悪魔だと言ってしまうのは簡単だったが、本質は事を異にしていた。

「失礼しますッ」

 権能の予兆を感じ、セルビアを抱えて退避する。腕に握られた巨大な剣が横薙ぎに迫るのを間一髪で避け、一旦全力疾走で悪魔と距離を離す。

「……血を、飲んでもいいですか?」

 腕の中のセルビアに問いかける。答えはきっと分かっていた。

「ん? ああ、もちろん。お前からおねだりするなんて初めてじゃないか」

「これを、倒さなくちゃいけないですからね」

 セルビアを抱えて、追尾する血の槍の雨から逃れながら、差し出された腕にがぶりと噛みつく。芳醇な血が身体の隅々まで熱を駆け巡らせる。蕩けそうになる心を剣で武装する。

 波状に続く攻撃の合間にセルビアを降ろし、直後飛来した矢を叩き落とす。

「猊下、ええと……」

「ははは、下がっていろと? 私も騎士だ、援護くらいするさ。それに、このままでは近づけないだろう。──結界呪を展開できれば、少しの間動きを止められるはずだ。護衛を頼む」

「……はい、お願いします!」

 セルビアは満足そうに笑い、ぶつぶつと何かアーシェラには聞き取れない言葉を紡ぎ始めた。ぎょろりと身体中にある眼を剥く肉塊の反応が、それが有効なことを予見させた。

 撃ち放たれる何条もの赤の軌跡を迎撃し、地響きと共に振るわれる巨大な拳を切り落とす。ぼとぼとと降下して眼前で爆発しようとする膿の塊は巨大な盾を作り出して防ぎ、地を這う大樹は大地ごと抉り取って対処する。

 防ぎ、防ぎ、防ぎ続ける。

 殺す力ではなく、守る力を振るい続ける。

 今度こそ──そう、アーシェラの根底にあった願いを今一度希う。それを果たせなかったかつてのアーシェラに、そして眼前の同族に自慢するように。今度こそ、大切なひとを守ってみせると。過去を否定することではなく、過去に肯定されることを祈り続ける。

 そして──。

「──停まれッ」

 セルビアの手から放たれた閃光が異形の頭上で弾け、晴れた夜の星々が如き輝きが、幾重にも幾重にも降りかかる。

 巨駆の動きは目に見えて不活性化し、朝の光に耐えるようにぶるぶると震えている。

「アーシェラ!」

 呼ばれる間もなく走りだし、地を蹴って巨腕に取りついて、ぶよぶよとした表皮を頭部に駆ける。見よう見まねではあるが──。

 首元に突き立てた刃からを入れる。始点から放射状に、巨駆の全身に深紅の刺青を描き込んで──内部に向かって棘を突き出す。

 半ば爆発するように全身に穿たれた棘は、しかし決定打にはならなかった。おびただしい量の血で足首まで浸かる湖を形成しながらも、次々に穴は膨張した肉で塞がれていく。

 結界呪の効果も終了し、拘束を解かれた腕がアーシェラを追いやった。

「これでも駄目かっ」

「もう一度だ。行くぞアーシェラ」

「はいッ」

 再度詠唱を開始するセルビア。その瞬間だった。大空に光輝く大樹が再び現れ、ひとつの実を落としたのだ。実はセルビアの頭上で弾けると、詠唱はまだ途中だというのに、その手には先程と同じ光が握られていた。

 セルビアは信じられないといった顔で自らの腕を眺める。

「これは……」

「聖女、カルメン……?」

 アーシェラには、大樹の枝の一本に人影が……いや、人の形をした光があるのが見えた。今度こそ大樹は消え去り、肉塊は再び活発に蠢き出す。

 セルビアははっと我に返り、光輝く腕を掲げた。

「行くぞ、アーシェラ! 停まれッ」

「……いまなら……!」

 じゃぶじゃぶと波音を発てる血の海に剣を差し入れ──その莫大な量の血を血剣に喰らわせる。茨の意匠は沸き起こった新たな剣身に塗り替えられ、此度の大剣は随所で瞬く眼など生物のような味を孕んでいる。ついに辺りに残っていた血を吸い付くした純黒の剣は、眼前の巨駆にも匹敵しようかというサイズに成長していた。

「アーシェラ、お前……」

 セルビアの呆れたような嘆息がいやに大きく聞こえる。しかしきっと笑っているだろうことが気配から感じ取れた。額の角が疼く。視界が黒と赤に淀む。吸血の衝動が身を突き、腕は傷ついてもいないのにぼこぼこと再生を始めていた。

「これで……」

 血の力でブーストした膂力で、青き大空を割るように、大いなる剣閃を振るう。


「これで、終わりだぁぁッ!」


 一度、二度、三度──為す術なくその重い一撃一撃を受けた偉大なる悪魔は、ついに血飛沫の中にその身を収縮させていった。

 その光景を見届ける前に、アーシェラの意識は、緋色の大剣を解除すると同時、ぷつんと途絶えてしまった。

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