朝の光は柔らかに
気づくと、幻想的な風景の中にアーシェラは佇んでいた。これは夢だろうか。夢にしては鮮明で、繊細で……夢のようなとは形容できても、これを夢と言ってしまうのは趣がない、そんな世界だった。広がるのは華やかな色とりどりの花畑だ。花の香りをいっぱいに孕んだ柔らかい風を感じていると、隣に座っていたひとりの少女がこちらに笑いかけてくる。
白い髪はセルビアに似ており、顔つきもどことなく彼女に似ている。いや、これは、セルビアというより、どこか別のところで見た顔だ。少し考えて思い当たる。少女はミランダによく似ていた。どちらにしても、二人よりもだいぶ幼いが。
「見て、出来たわ! 綺麗でしょう?」
少女はせっせと作っていた花冠の形を整えると、満足そうにそれをアーシェラの頭に乗せた。
「あァ、綺麗……綺麗だナァ」
「でしょう? よく似合っているわ!」
「私も作りたイ」
アーシェラも辺りから花を見繕って冠に仕立てようとするが、指が言うことを聞かず、何かぐちゃぐちゃとした草花の塊ができただけだった。
「クソ……」
「女の子がそんな言葉を使わないでくださーい! 一緒にやりましょ。ここを、こうして……」
少女の手がアーシェラの手に重ねられると、まるで魔法のように花冠が編み上がっていく。多少不恰好ではあったが、十分綺麗に完成したそれを、少女の頭に乗せる。
「え……?」
「お返しダ。キャリーに」
「まぁ、ありがとう! 私とっても嬉しいわ!」
ぺかぺかと輝くその笑顔が好きだった。
ふわり、一陣の風が花びらを運んでくる。吹き抜けた風の向こうには少し成長した少女が、同じように笑っていた。
ランタンの灯は暗い室内を照らし、複雑な陰影を形作っている。少女とアーシェラは同じ布団に包まれ、手を伸ばせば触れられる距離で横になっていた。
「私を……好きだって? 君が?」
「そう言ったわ」
嬉しいことだったが、許されることではないとも知っていた。少女の肩を優しく掴み、諭すようにアーシェラは告げた。
「……駄目だよ。私なんかを好きになっちゃ。キャリーにはもっといい人がいるよ」
「まあ! あなた以上の人なんて見つかる気がしないのに」
「駄目だって。私は君を幸せにできない」
「それは、そうでしょうね」
その言葉に安堵すると同時にちくりと心が傷んだ。私とキャリーは違うのだ。
「だって私、あなたとこうしているだけで、もう至上の幸せを得てしまっているもの!」
面食らったアーシェラはしばらく口を開いて固まっていたが、ほどなく笑って目を細めた。
「……ふっ、安い幸せだ」
「あなたは、幸せじゃないの? それだったら、私──」
「私が悪かったよ。私たちは幸せだ」
肩に置く手を背に落とし、彼女を抱き寄せた。額と鼻の頭、そして唇に、彼女の口づけが降ってきた。
「……血を吸うみたいだ」
「あら、そうなの?」
「いや、それよりも、あったかいかな」
熱を誤魔化すようにランタンの灯を消すと、彼女の手がアーシェラの身体を這いに来た。
再び火が点る。ただし今度は身を焼く業火として。少女を腕に抱きアーシェラは赤い街から逃げ出していく。どうにか街を抜け、少女を地に降ろすと、「煤がすごいわ」と彼女はアーシェラの身体を叩いた。
「……ごめん」
「何がかしら?」
思わず口を衝いた謝罪を、案の定少女は笑い飛ばした。心中の苦悶を吐露する。
「悪魔は……どうして人を襲うんだろう」
「あなたが特別、素敵なだけよ。食べるために、『食べさせてください』って交渉する捕食者なんて、ふふ、おかしいわ」
「……食べさせてください」
「もう! ヴェティったら──」
「下がって。悪魔だ」
抱き着いてくる少女を引き剥がし、暗闇の中から現れた悪魔の前に立ち塞がる。アーシェラは手首を噛みきって血を流すと、権能を発動させる。そして、血の刃を振り抜いた。
どさり、背後で誰かが倒れる音に振り返る。守りきったと思われた少女が、自ら命を絶ってしまったなど、ああ、なんという喜劇だろう。胸に突き立った短剣は明らかに致命傷だ。少女の手が短剣の柄からずるりと落ちる。
「キャリー! ダメだ、どうして……! あぁ、行かないで、お願いだキャリー」
「ふふ。あなたの泣き顔……私好きよ。意地悪かしら?」
「意地悪……意地悪だ、君は! どうして、こんな……!」
涙が溢れて、少女の胸に落ちていく。施しようのない傷から、彼女の魂が抜けていく。
「だって。私ひとりが死ねば、皆が平和に、幸せになれるのよ」
「ボクはどうすればいいって言うんだ!? 君が居なくなったら、ボクは──!」
「それは、ごめんなさい。本当に、ごめんね。さよなら、ヴェティ。私の、騎士、様──」
「キャリー……? キャリー! キャリーッ!!」
アーシェラは日の出と共に目を覚ました。何か夢を見ていた気がするが、どうにも思い出せない。ただ、目尻からひとつ涙が流れたのは、欠伸のせいではない気がする。窓より射し込む光から逃げるように身体を横にすると、セルビアの整った鼻がすぐ近くにあって思わず身を翻す。と、そのとき光に大きな影がさした。
「……おはよう、アーシェラ。昨日はお楽しみだったね」
「な──」
思わず身を掻き抱く。緑髪の悪魔はアーシェラの様子にくすくすと葉が揺れるように笑った。
「……何の用だ」
「ふーん? 正直怒ってるかと思ったけど、あんまりなんだね」
「血を飲んだのは、私だ」
「少し、変わったね。猊下さんの言葉を借りるけど、君、今はどうなんだ? 自分が嫌いかい」
「……ああ。だけど本当に、嘘じゃなく……この私を好いてくれた人がいたんだ。この人を私は否定したくない」
「ふーん。けっこう、情熱的なんだね。大切なひとを、今度こそ守れるといいな。お互いね」
「……どういう意味だ?」
「ちょっとした失言さ。気にしないでくれ。じゃあ、ボクはこれで」
「おい待て、お前何のためにここに来たんだ」
「決意を新たにするため……かな。君はボクと似ているから。最後にアーシェラと話がしたかった」
「……最後?」
「それじゃあね!」
悪魔は陽光の中に溶けていってしまった。
隣で規則正しい寝息を発てるセルビアに視線を移し、揺れる睫毛をぼうっと眺める。
昨日は、そう……セルビアの血を飲んで……。昨夜のことがありありと思い出され顔がぼっと熱くなる。後悔であるわけはなく、羞恥ともまた少し違う。ただ、ああ言っておきながら即刻セルビアの愛に溺れてしまった自分はなんとも情けない。血を飲むとどうにも判断が鈍る。酒を飲んだらこんな感じだったのだろうか、ともう意味のない感想を思いながら、アーシェラはセルビアの髪に手を伸ばした。
セルビアはその白い髪で子供のころ疎まれていたと言っていたが、きっと余りに綺麗なために嫉妬されたに違いないと、少なくともアーシェラにはそう感じられた。
休むときはそうするのか、今は丸めるように束ねられている髪はきらきらと朝の光を受けて輝いている。房を辿るように撫でていると、不意にセルビアが瞼を開いた。
慌てて手を引っ込めて窓の外を見る。
花々が今日も陽光の中に揺れている。
「おはようございます、猊下」
「おはよう。……髪を撫でていたのはお前か?」
「あっ、その……すみません。あまりに、綺麗だったもので……」
「いや。実に優しい目覚めだった」
セルビアは髪紐をほどきながら身体を起こすと、大きく伸びとあくびをした。セルビアがちらりとアーシェラを見ゆる。より正確にはアーシェラの角を。
「一晩では治らんか。当然だが」
「え、ああ、そうですね」
「なんだ、思ったより気にしていないのか」
「おかげさまで」
「まあ、お前に血をやるのは楽しいしな。別に長くなっても私は構わないさ」
「……楽しい、ですか?」
アーシェラは血を飲んでからの記憶が朦朧としている。何かそれほど楽しいことがあっただろうか。いや、あの獣欲をカウントするなら嫌でも思い当たるが。
「ああ。酒にとっぷり酔っているかのようなあの顔は見ていて飽きないぞ」
「えっ、いや、その! それはですね!」
「くく。今日の夜も楽しみだな」
セルビアはベッドから足を下ろすと、衣装箪笥に向かって歩いて行ってしまう。
「……もう……」
着替えを始めるセルビアから目を逸らしながら、アーシェラは血を飲むときは気を確かに持つことを、あるいはさっさと寝てしまうことを決意した。
自分も着替えようとしてふと気づく。おずおずと声をかけると、セルビアはにやにやと意地悪そうな笑みを浮かべた。
昨日は色々なことがあった。中でも角の件と夜の件は鮮烈で、どうにも他のことが霞んでしまっている。アーシェラがパン屋の少女ミランダのことを思い出したのは、九の刻の鐘がセルビアの執務室に鳴り響いたときだ。
セルビアは本当に宣言通りアーシェラを一人にしないと心に決めているらしく、アーシェラがセルビアの側から離れることを許してくれない。離れるときといえばセルビアが所々の用事でほんの少し場を空けるときくらいだ。起床から二刻経ったところで、アーシェラは半ば観念した。セルビアの行くところに素直に付き従っていたアーシェラは、そういうわけでセルビアの執務室での書類事務に同席していた。
一人で外出することは許してくれそうにないし、かといってセルビアを付き合わせるのも気が引ける。そもそもこの角があっては往来に姿を見せられないか、とアーシェラは嘆息して、また落ち着いたらミランダにお礼を言いに行くことにした。
書類の山から一枚ずつをセルビアの手元に送る機械的な作業を繰り返していたアーシェラは、次を送ろうとして空を掴んだところで書類が片付いたのに気づいた。
「あぁ……外地ばかりの私でさえこれなのだ。内で働いている者はどれだけこれをやっているのだろうな……」
「お疲れ様です」
「ありがとう。どれ、気分転換にでも行くか。実は今、噂によく上るパン屋があってな。気になっていたのだ。お前は食べられないのが申し訳ないが……うむ、ついてくるように。何なら血はやるぞ」
「……デイリーアシエット、ですか?」
「知っていたのか?」
「猊下こそ、ご存知だったんですか」
先日そちらのミランダ嬢に世話になったことを伝えると、セルビアは顔をほころばせた。
「なるほど! そうかそうか、お前が世話になったのなら、ますます行かなければな」
「はい、ありがとうございます。ちょうど、私も彼女にお礼をしたかったんです」
「では行こうか。十の刻に開店だが、かなり人気らしいし、早く着く分には問題ないだろう」
「あ……しかし、私は……」
「む? ああ、そうだな。少し動くなよ」
アーシェラの角に思い当たったらしいセルビアは、懐から包帯を取り出すと、アーシェラの額と角をぐるぐると巻いていく。
「うむ、これでいいだろう」
「いや駄目でしょう!」
「根本さえ見られなければファッションだと思われるさ」
「そうでしょうか……?」
絶対駄目だろう、これでは。
「多分な」
セルビアはもう問題は解消されたと執務室を出ていってしまう。早くこいと急かす声を受け、ままよとアーシェラはセルビアの後を追った。
聖銀機関本部を出て、仲見世を歩むアーシェラは気が気ではなかったが、好奇の視線を向けられることこそあれ、悪魔だとなじられるようなことはなかった。存外本当に大丈夫なのだななどと思っていると、前を行くセルビアが急に立ち止まったものでその背にぶつかってしまう。
「あ、すみません」
「……うーむ。予想以上に凄いな、これは」
「うわあ……」
まだ開店前だというのに、店の前には既に長蛇の列ができている。
「とりあえず並ぶか」
セルビアについて列の最後尾に並ぶ。包帯が崩れていないかと角を弄っていると、列は間もなく動き出した。徐々に近づいていく店舗。香ばしい匂い。果たして、アーシェラたちはどうにか件の日替わりパンをひとつ買うことができた。今日はクロワッサンらしい。
「おお。確かにこれはいい腕だ。さくさくと噛むたびバターとアーモンドの香りが広がっていく。血も香り付けされるかもな」
「ははは。しかし、話す暇もありませんでしたね」
「そうだなぁ。この勢いならすぐに売り切れるだろうし、列が捌けたら改めて声をかけてみるか」
セルビアが指をひとつ舐めて手をぱんぱんと払ったあたりで、十数人が残っていた列は解散した。セルビアと顔を見合せ、店舗の中の人影へと再び近づいていく。
「すみません、今日はもう──って枢機卿猊下!?」
エプロン姿に清潔な三角巾のミランダ・アシエットからは実直さが窺い取れる。セルビアは聖銀機関のバッジを見て慌て出すミランダを制するように微笑んだ。
「やあ、どうも。君がミランダ?」
「ああ、急ごしらえですけど、すぐに新しいのを──」
「いや、もう戴いたよ。クロワッサンは大変美味しかった。噂になるのも頷ける。これからも皆に美味しいパンをよろしく頼む」
「えっ、そんな……勿体ないお言葉です」
「それはそれとして、また別の件で君にお礼がしたくてな」
「……と、言いますと……?」
ミランダの顔に怪訝が浮かぶ。そういえばあのときは階級のバッジを付けていなかったなと思い出す。枢機卿に訪ねられる心当たりなどないだろう。
セルビアの隣からアーシェラはひょいと顔を出した。
「こんにちは、ミラ。えっと、覚えてるかな」
「ああ、昨日の騎士さん……って、あなた、そのバッジ……直属騎士様!?」
ミランダはアーシェラが以前ポケットに仕舞ったままだった階級章を見て、目をさらに丸くした。
「……バッジを付けていなかったのか、お前?」
「はは。いや、でもそんな、大した者じゃ……昨日は本当にありがとう、ミラ」
「うむ、私の騎士が世話になったな。ありがとう。大変美味しかったと、ささやかながら宣伝しておくよ。と言っても、この繁盛具合では不要かもしれないが」
「いえ、本当にありがたいことです、猊下!」
「では、またパンを買いに来るよ、はは」
ぺこぺことお礼を繰り返すミランダに曖昧な笑みを送って、二人はデイリーアシエットを後にした。
「猊下猊下と呼ばれる私の気持ちが少し分かっただろう?」
「……ええ、本当に……」
春風に背を押される帰り道で、セルビアはそう口を尖らせた。
敬意は貰えば嬉しいものではあるが、どうも身の丈には合っていない気がして窮屈だ。
「私もセラでいいのだぞ」
「いや、それは、その……」
「では私もアーシェラ・スフェリオ枢機卿直属特等騎士殿とでも呼ぼうか」
「勘弁してください……」
そんな軽口を言い合いながら本部に戻る。そこには悪魔や角や、自分のことを忘れさせてくれるような、安らかな平穏があった。そのはずだった。
あのときと同じように、唐突に、平和は魔の手に打ち砕かれる。
「悪魔だ! 悪魔が出たぞ!!」
自分のことかと思わず角に手をやるが、血相を変えて逃げ出してきた男性はアーシェラを見ているわけではない。同じ方向からやってきた別の人々も口々に叫んだ。
「ドルティアーテ通りに、悪魔が!」
「……ドルティアーテ通りは、この街の西側最外周の通りだ。行くぞアーシェラ!」
「はいッ!」
鋭く首肯を返し、駆け出したセルビアに続く。パニックに陥る群衆、その人の流れに逆らってドルティアーテ通りへの道をひた走る。遠くから、黒い煙が立つのが見え、アーシェラたちは疾走の速度を速めた。
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