ある騎士の自室にて

 なるほどこの部屋はまさしく長らく使われていなかったらしい、とアーシェラは納得する。手入れが怠られていた木扉はかなり年を経ている色合いを放つのに対し、磨かれたばかりのドアノブはぴかぴか輝いてちぐはぐだ。

 そんな扉を開いて中に入ると、必要な家具だけが置かれた殺風景な部屋が現れる。人に住まれていないのだから生活感がないのは当然だが、つい先程まで花の彩り美しいセルビアの部屋に居たこともあって、余計にもの寂しく感じられた。

 ただ、部屋そのものについては、角部屋で窓が多かったセルビアの部屋との差異はそれくらいである。小市民気質のアーシェラにはどうも広すぎるように思われて落ち着かない。セルビアに倣って花でも置けば、彩りも広さも改善するだろうか。

 機能美に溢れた家具様々を、アーシェラは念のため点検していくことにした。

 ベッドはやはり沈み過ぎてシーツに食べられるかと思ったが、寝心地は良さそうだ。サイドチェストにはメモと筆記具が入っている。ドレッサーも必要をコンパクトに収められた逸品だ。ドレスチェストを開いてみると、ある程度の衣服が備えられていた。

「けど、これ……私には、甘すぎるかな……」

 全体的に柔らかめの服が多い気がする。もっと可愛らしい女の子が着ればさぞかし似合いそうだ。例えば、ミランダのような。……セルビアはこういう系統のものを着てほしいのだろうか? 主君である彼女がそう望むのなら吝かではなかったが、これが自分に似合うとは、自分が人間だと言われるのと同じくらい信じがたい。

「……やめよう。やめやめ」

 仕方ない、しばらくはこれで過ごすとして、時間とお金ができたら自分で服を買いに行こう。

 外は落ちかけた日が橙色に輝いていた。ベランダに出ても、セルビアのそれとは違い何もない。いや、ひとつ。

「これは……」

 セルビアが、アーシェラの髪に似ている、と笑っていた花だ。挿し木が為されたばかりのようだ。植木鉢から真っ直ぐに伸びて、小さな花が連なって、ゆらゆら風に揺れている。


「引っ越し祝いだ」


 隣の部屋のベランダには、欄間に肘を立てて、にっかりと笑うセルビアが居た。ベランダ同士は独立しているものの、その気になれば渡れてしまいそうな距離しか離れていないのだった。

「な、ふ……」

「くく、何だって?」

「……ありがとうございます。嬉しい……嬉しいです」

「ああ。土が乾いてきたら、適宜水をやってくれ 。あと、まだ根ができていないだろうから、風で倒れないようにな。というか、このちょっとしたサプライズをやるためだけにそこに置いておいたようなものだから、室内に入れてしまったほうがいい」

 と、くちゅんと可愛らしいくしゃみの後にセルビアが寒そうに身震いをするもので、思わず吹き出してしまう。

「お前が行ってからずっと待っていたのだぞ」

「外套くらい着ればよいではないですか」

「それもそうだ」

 セルビアは肩を竦める。ひらひらと振られた手が不意にひときわ輝いた。遂に地平線の彼方に隠れようとする太陽が最後の光を放ったのだった。

「綺麗……ですね」

「ああ」

 そして程なく光は潰え、空には夜が落ちてくる。星々の瞬きを二人は言葉少なに眺めていた。

「なあアーシェラ。私は──」

 ……アーシェラの異変が起きたのは唐突だった。初めは頭部の鈍痛。

「──ッ!? ぐ、あ、あああ」

「アーシェラ!?」

 それはすぐに激痛に変わり、あまりの痛みにアーシェラは膝からくずおれた。視界の端でセルビアがベランダの柵を乗り越えるのが見えたが、すぐにべちゃりと流れ落ちてきた血で視界は真っ赤に染まる。ばきばき、めごめごと──ゆっくりと剣が折れるような怪音が頭蓋を揺さぶる。

「アーシェラ! アーシェラ、おい!」

「あああ、あ、あ──あ……?」

 不意に痛みはまやかしのように、一瞬に、完全に消え失せた。目が血で潰されていなければ気のせいだったのかとすら思えただろう。無事な右目で神妙そうな面持ちのセルビアを見上げる。

「……アーシェラ? 私が分かるか?」

「はい。突然、頭痛が……何だったのでしょう」

「アーシェラ。落ち着いて、いいか、落ち着いて、一緒に鏡を見に行こう。大丈夫だ、私がついている」

「……はあ」

 セルビアの緊迫した声に何が起こったのかも分からずただ頷いて、差し出された手を取り立ち上がる。セルビアはその手をぎゅっと握ったまま、部屋の中のドレッサーにアーシェラの手を引いた。


「え……」


 アーシェラの額左側には、髪を掻き分けるようにして、紫がかった角のようなものが生えていた。

 数瞬アーシェラはそれを呆然と眺め、次に空いている方の手でぺたぺたとそれを触ってみて、そして──。

 涙がぼろぼろと溢れた。

「あ、あ、あぁァ、う、あ」

「アーシェラ! 私の目を見ろ。いいか、落ち着くんだ」

 セルビアがぐいと手を引いて鏡とアーシェラの間に割り込んだ。

 アーシェラは、がくがくと焦点が揺れ、身体の震えが止まらない。思考は熱を持ち、心がどこかに消えていく。

「わた、私は、やっぱり、」

「落ち着け! いいか、ゆっくり呼吸をするんだ」

「離してください! 私は、悪魔ですッ」

「落ち着くんだ。アーシェラ。大丈夫、お前は確かにアーシェラだ」

「アーシェラは! アーシェラが、悪魔なんだッ。離せッ、そうじゃないと、悪魔は」

「離さない。お前は、私の騎士だ」

「違う、私は──私は。本当は……」

 ぞわ、と夜の闇が集まるようにアーシェラの手で短剣を形作る。がたがた震えながらアーシェラはそれを自らの腕にあてがう。鋭利な刃は服を、肌を裂き、血がつうと伝っていく。

「アーシェラ! それを離して、手をこっちに。さあ」

「だめ、だめです姉さん、離してください、離れないと、悪魔は殺します、姉さんを、ころす」

 セルビアはアーシェラの手を捻り上げ、短剣を叩き落とす。アーシェラの手から離れた途端、短剣はただの血溜まりに戻る。

 そのままセルビアはアーシェラの足をすくい、バランスを崩したアーシェラを抱え込むようにベッドへと押し倒した。両手をそれぞれ押さえ込み、胸にぐっと体重をかける。

「猊下、猊下、離れて」

「はっはは。さてアーシェラ、ゆっくり息を吸って、吐くんだ」

 アーシェラは子供のように咽び泣いてひぐひぐと喉を鳴らすばかりだ。

「アーシェラ。落ち着いて。三秒吸って、三秒吐こう。また吸って、吐いて。そうすればすぐ良くなる……そうだ、その調子」

 徐々に落ち着きを取り戻したアーシェラのゆっくりとした呼吸の音が静寂の中に響く。ばくばくと脈打っていた心臓が治まったのを胸で感じて、セルビアは拘束を弛めた。

 アーシェラの背に手を回してぐっと抱き締める。

「……猊下……」

「何だ?」

「……すみません」

「構わないさ。中々愛々しい様子だったぞ」

「猊下……すみません」

「構わないと言っているだろう」

「……自分のせいなんです」

 止んだはずの涙がまたぽろぽろと頬を流れていく。自分の愚行をアーシェラは恥じた。あれだけ言われて、二度も血を吸っておいて──それでもなお、私は怖かったのだ。血を食らう化け物を、真に信じてくれる人がいるなどとは思えなかった。仮初めの主を本当に尊敬してしまった哀れな飼い犬は、捨てられることを心のどこかで恐れていた。

「どういうことだ?」

「緑の髪をした、人型の悪魔から、私は血を飲みました。悪魔としての側面が強まると警告されましたが、私は、飲みました」

「……人に化けるとなると、上位悪魔か……? 何故だ? 理由があったのだろう?」

「猊下に……迷惑をかけたくなかった……。いいえ、あのとき私は、猊下を……心のどこかで、疑っていたんです」

「馬鹿だな。大馬鹿者だ。迷惑であるものか。……その角は、悪魔が強まった結果なんだな?」

「だと、思います」

「ならばこれからは、私の血を飲め。しばらくは毎日だぞ。流石に、一度にそんなに多くは飲ませられないからな。分けて飲むしかない」

「それは!」

 思わぬ提案にアーシェラは声を張るが、セルビアの手が口を塞いでしまう。

「アーシェラ。私は怒っている。これは命令だ。毎晩、私の血を飲むんだ。言ったろう、私も少々特異体質だ。私の血なら、悪魔の力を弱められるはずだ。いいな」

「……ですが」

「いいな」

「ごめんなさい、猊下……ごめんなさい」

「泣くな。ほら、涙を拭いて。少し私は行ってくる、すぐ戻るから待っているんだぞ」

 ふっと身体が軽くなる。セルビアは身体を起こして、ポケットからハンカチを取り出すと、アーシェラの顔に押し付けてきた。ゆっくりとそれを手に取ると、セルビアは乱れた服を直しているところだった。

「何処にですか……?」

「……あんまり、そう、濡れた瞳で見詰めるな……食事を運んで貰うように頼んでくる。しばらくお前から離れてやる気はないからな。最後の一人の時間だぞ」

 セルビアは冗談めかしてそう笑ったが、アーシェラにはそれに何と返せば良いのか分からなかった。

「……ごめんなさい」

「ああ、もう……お前は普段は折目高なくせに、感情が爆発すると凄いことになるな。ともかく、行ってくるから」

「……はい」

 ぱたん、と閉じた扉をアーシェラはしばし見詰めていた。ぐるぐると目が回るように視界がぼやけていく。アーシェラは歪む世界から逃げ出すように枕に顔を沈めると、ゆっくりと息を吐き出しながら、自分が何かを考えた。

 アーシェラ・スフェリオは悪魔である。

 そう、分かっていたつもりだった。角が生える前からアーシェラは悪魔だ。今更何が変わるのか、それは、そう、ついに人の姿すらもアーシェラは失いつつあるということだ。パッチワークのように縫い重ねられた人間のパーツたちが駆動する悪夢が脳裏に浮かぶ。私もああなるのか、否──角とは、そもそも人間のパーツではない。成り果て堕ちていくとしたらそれは、あの異形すらも凌駕する人間の影も形もない何かだろう。

 自身の角を根本から辿っていく。薄皮の張った硬い感触。また涙が出てきそうになるのをぐっと堪えた。

「アーシェラ? 寝ているのか」

「……いえ、猊下」

 枕に突っ伏したまま答えると、ぽすんと頭にセルビアの手が置かれた。優しく、温かく髪が鋤かれていく。

「さて、悪いが食事は私の部屋に運ぶよう頼んできたのでな。来てもらうぞ」

「私は一人でも大丈夫です」

「全く説得力がない。自分の手を斬ろうとしていたやつを放っておけるか。それにほら、いい機会だ。もう少し仲良くなろうじゃないか」

「……猊下、どうか……無理を、為さらないでください。いざとなったら、私を見放してください」

「つらくなったら逃げ出せと? それはこちらの台詞だぞ。ほら」

「え──きゃっ」

 セルビアはごろんとアーシェラをひっくり返して、背と腿に手を回してそのまま軽く持ち上げてしまう。この細い身体のどこにそんな力があるのか。

「げ、猊下っ」

「ドアを開けてもらえるか?」

「……はい……」

 すぐ真上にあるセルビアの顔を見ることができないまま、アーシェラはセルビアの部屋へと連行された。

 ベッドに放り投げられてアーシェラは奇妙なうめき声を発した。しばらくの後に身体を起こすと、セルビアは運ばれてきた夕食に手をつけている。相変わらず、アーシェラは食べ物を見ても空腹も食欲も感じられなかった。

「何だ。欲しいのか?」

「いえ、そういうわけでは。ただ……食事は美味しいものとは知っているのに、とても美味しそうには思えない矛盾に、戸惑っているだけです」

「あまり重く考え過ぎるなよ」

 セルビアはそれきり黙々と食事を口に運び、やがて空いた食器をサイドチェストの上に置いた。

「さて、待たせて悪いな。話をしようか。今日は本当に、激しい一日だったな。お前とも少し良い兆しが見えたと思ったら、大変なことが起こってしまった」

「……私は……」

「だがな、私にとっては、別に大変なことでもないのだ。たかだか角が生えただけだからな」

「…………それは」

「なあアーシェラ。私はお前が好きだよ」

「そんなことを……言わないでください。私を、ましてこんな角の生えた悪魔を、好きになど……」

「……よしアーシェラ。手を出してくれ」

 不思議に思いながらも、言われるがままに右手を突き出すと、セルビアは何を思ってかその甲に口づけをした。騎士が主にそうするように、敬愛の証を表した。

「は、な──」

「アーシェラ。尊敬している。子供のころから、聖騎士の英雄譚に……私はずっと憧れてきたんだ」

「しかし、私は聖騎士などでは──」

「不退転の勇気と、それを成し遂げる力は、私が夢に見続けた英雄そのものだ。だからまず、お前を尊敬した」

「違うんです。私はただ、復讐を願うだけの……悪鬼です。猊下の尊敬に値するような──」

「──それから、お伽噺の英雄が持たない、少女らしい可愛らしさに惚れたのだ」

「……え?」

 唇が、奪われる。愛するひとが、愛するひとにそうするように。セルビアは思慕を表した。


「アーシェラ。好きだ」


 セルビアはアーシェラを元気付けようとして嘘をついているのかと思った。だがその瞳が、固く結ばれた口元が、仄かに赤い頬が、セルビアが本気だということを嫌でも意識させるものだから。

 顔が熱くなるのが分かる。アーシェラは──有頂天に登ってしまいそうな気持ちを冷ややかに引き留めた。

「……ありがとうございます。でも……、申し訳ありません。私を好きだ、なんて……間違ってる、と。どうしてもそう、感じてしまうんです」

 それはあまりに突然のことで、本当なら嬉しさの限りであったから、物事を包み隠す余裕をアーシェラは失っていた。

 それは思うがままの答えだった。

「……だからな、そんな冷静に考えてしまうな。お前の目はお前の身体から離れてるわけじゃないだろう? 目を向けられないのだから、自分のことなんて到底理解できるはずがないのだ。目の前にあるものを見ていればいい。アーシェラ、聞かせてくれ。私のことはどうだ? ……好きか?」

「……えっと、その、それは……駄目です、猊下。お答えできません」

 セルビアのことは好きだ。だが愛しているかと問われれば、姉のことが脳裏をちらつく。

 姉さんは、記憶を失ってなお、情景の欠片が頭に残るほどに大切だったひとで。

 セルビアは、敬愛する主で、やはり守りたい大切なひとで。

 どちらか取れと言うならば、変えられる方を、一緒に歩いていける方を取るのがいい。そんなことは決まっている。けれどそもそも、どちらか迷うなんてことは、二人にきっと失礼だ。

「む。もしや嫌いなのか」

「そんなことは! ないです、けれど。やっぱり、少し……待ってくれませんか」

 それに、よしんばセルビアと共に行くとして、セルビアの言葉に正気を疑っていては話にならないだろう。セルビアの好意を何の憂いもなく受け止めるようになってから、それから二人はようやく動き出せる。

「……そうか」

 セルビアはふっと笑うと、アーシェラの髪をぐしぐしかき混ぜた。

「さて、ではそろそろやっておくか?」

「……血、ですか?」

「ああ。好きなだけ、飲むといい。私が死なない程度にな」

「そんなに一気に飲めませんよ」

 セルビアの腕が差し出される。治りが早いというのは本当のことのようで、以前の吸血の痕はもう残っていなかった。

 控えめに歯を立て、柔肌をゆっくりと裂く。口に広がる芳醇な香りはいつもよりどこか熱をもっていた。

 それを味わうのもそこそこに、傷をひとつ舐めて口を離す。口内に残った熱は柔らかくほどけて消えていく。

 蕩けるような世界でセルビアが小さく笑った。

「相変わらずだらしのない顔だ」

「ふぁ!?」

「恍惚としたというか、淫靡なと言ってしまおうか」

「そ、そんな……変な顔ですか」

「いいや」セルビアは腕をアーシェラの口元に置いたまま器用に体勢を変えると、背後からアーシェラの首筋に手をかけた。「実に──」

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