間章 ささやかな平穏

ある枢機卿の自室にて

 部屋内の鉢植えにひととおり水をやって、セルビアはベランダに続く窓を開けた。冷たい風は心を冷静にさせてくれる。眼下の聖銀街の街並みをしばし眺めた後、セルビアは雨水を貯めたバケツに如雨露を沈めた。

 セルビア・ヴェグナンチカが花を育て始めたのは、もう八年も前、十六歳やそこらのときだ。セルビアは悪魔研究者として働く父と、騎士として働く母の間に生まれた。白い髪は少なからず奇特の目を引いたが、父母はセルビアを愛してくれたし、セルビアもそんな両親が好きだった。多忙な二人と過ごす時間は少なく、幼少期の記憶は預けられた教会でのものばかりだったが、その僅かな家族団欒は何よりも大切な記憶だ。

 自分も父母のように聖銀機関で働くと決めていた。そうすればより長い時間父母と共に在れると、そう思っていたからだ。

 現実は甘くなかった。

 時は経ち、父の研究を手伝う傍ら、騎士の養成学校で日々勉学に励んでいたセルビアの元に、任務先から母の訃報が舞い込んだ。盗賊から子供を庇い凶刃に伏したのだという。父も後を追うように病に倒れ、二度と家族の時間は訪れなくなった。

 それからだ。セルビアが花を育てるようになったのは。両親が死んだときも、何もかも、悲しいことにはずっと、如雨露じょうろで涙を流してきた。

「……アーシェラ……」

 深い紫色の花を見て、この三日で随分と心中に現れた若き部下の名を呟いた。伸ばした手がひとたび凍り、如雨露から先走った水が葉を濡らした。自嘲気味に頭を振り、改めて花に水をやる。

 アーシェラへの水のやり方が分からなかった。

 このままではいけない。それは確かだ。立ち位置が特殊なこの機関はただでさえ精神を磨耗する。心を病んで辞めてしまう知り合いも何人もいた。悪魔が復活した今は尚更だろう。機関の活動は人類の興亡にも関わる重要なものではあるが、その大義を奉ずる覚悟だけでなく、身体と心も健康でなければ、この仕事は続けられまい。どんなに楽観視しても、アーシェラの現状が健康であるなどとは思えなかった。

 何より痛ましいのはあの強烈な自己嫌悪だ。守れなかったことの痛みと自身への怒りはセルビアも知っている。だがそれだけでなく、悪魔への憎悪も一際強く、その上アーシェラ自身が悪魔の身なのが自己否定を加速させてしまっている。だから、まずは悪魔への憎悪を和らげようと、アーシェラは悪魔などではないのだと、そうセルビアは言葉をかけてきた。だが、これは違うのかもしれない。

 根があり、茎に枝があり、花が咲くのだ。

 如雨露の水が切れたちょうどそのとき、背後から声がした。

「猊下」

「アーシェラ? いつからそこに」

 窓枠に手を掛けるようにして、すぐ背後に立っていたアーシェラを見上げる。アーシェラはきまりが悪そうに視線を逸らして、セルビアと同じ高さまで腰を屈めた。

「すみません。ノックをしても、お返事がなかったもので」

「いや、いいんだ。いつでも入ってくれていいさ。それで、もう帰って来たのか? ダメだぞ、もっと遊んでこい」

「いえ。その……先程は、申し訳ありません」

 足を抱えたところから更にしゅんと縮こまるように首を動かしたアーシェラは、何かの小動物のようだった。鬼神のような戦士としての側面と、冷ややかな氷のような大人び過ぎた側面、その間に時折見せるこうした仕草が大変愛らしいなと心のどこかで分析する。

 セルビアは空になった如雨露を傍らに置いて、アーシェラに身体を向けた。

「……何がだ?」

「私は、ええと……猊下の仰られた通り、頑固に過ぎました。猊下の差し伸べて下さった手を、有難がるどころか、振り払ってしまうなど」

「気にしていないさ」

「しかし、猊下は、泣いておられました」

「……何の話だ?」

「私は……私は悪魔なのです。猊下。どんな些細な音も聞こえてしまいます」

 まさか聞かれていたとは露知らず、少し熱を持った頬を誤魔化すように笑い飛ばした。

「……そうか、いや、はは。泣いたのが他人に知られたのはしばらくぶりだぞ、くく」

「猊下……だから、本当に、すみません。私は、悪魔なのです。……私は誰より、他の悪魔より、今の私が嫌いです」

 聞いてしまったことよりも、聞こえてしまったことが問題なのだとようやく思い当たり、思わずアーシェラの肩に手を掛ける。

「アーシェラ、それは……」

「ですが」

 だが杞憂だった。何があったのかなど問うまい、しかしこの一刻にも満たない時間で、アーシェラは何か答えを見つけてきたのだろう。そうでなくては、アーシェラは、こんなに優しく笑えないはずだ。

「いつか……好きになれたのなら、それは……幸せと思います」

 まるで小さな蕾が開いたみたいな、はにかむような笑顔だった。思わずアーシェラを抱き締める。かいなの中でアーシェラが声を震わせて続ける。

「過去は変えられないから、だから……未来を変えたいと、強く、思います」

 過去を否定させようなど、なんと愚かだったのだろう。アーシェラは弱いわけではないのだ。悪魔への失墜から再び立ち上がった胆力を過小評価していた。ただ道を見失っていただけで。アーシェラに必要なのは、未来の道標だったのか。

「そうだったな。私はすっかり、それを忘れてしまっていた。私こそ、すまなかった」

「いえ、そんなことは……猊下?」

 溢れだした涙は止まらなかった。アーシェラが慌てるように身動ぎをして、セルビアの目元に手をやった。

「嬉しいんだ。とても、とてもな」

 抱擁をぐっと強めると、控えめな腕がセルビアの背に回された。


 それから少し。ひとしきり泣き終えてしまうと、気持ちは大変清々しい。

 二人ベランダの花々を眺めていると、アーシェラがぽつりと呟いた。

「猊下。その……本当に、お手伝いできることはありませんか? 正直なところ、暇でして」

「うーむ。今朝全ての報告を済ませたばかりでな。私としても上からの指示を待っているところなのだ。それか、暇なら機関の歴史について学ぶのはどうだ?」

 悪魔の研究という選択肢もないわけではなかったが、多少元気を取り戻したとはいえ、他でもないアーシェラに向けてそれを提示する勇気はなかった。

「そうですね。では……。資料室でもあるのでしょうか」

「もちろん、それはあるが。せっかくここに先達者がいるのだぞ。説教を受けるのが自然ではないか?」

「はは、では、お願いします」

 アーシェラを促して、先と同じように二人ベッドに腰かける。椅子をひとつ買ってもいいかもしれないな、とドレッサーの前の、この部屋ひとつきりの椅子を横目に思う。

「うむ、そうさな──」


 機関の興りは、千と百年前。最初の悪魔が現れ、そして爆発的に増加し、人類を鏖殺せんと世界に蔓延っていた絶望の渦中においてであった。

 その創始者は、たった二人の少女たちだった。聖女カルメンと、聖騎士ヴェルセディ。

 カルメンは悪魔を追い払う聖なる力を、ヴェルセディは悪魔の権能を自在に操ることができたという。

「お前を見た今だから言えるが、ヴェルセディ様は、ともするとお前のようなものだったのかもしれんな。確証はないが。どちらにせよ、ヴェルセディ様は英雄だった」

 二人は混沌渦巻く闇の世における唯一の希望だった。各地を渡り人々を救うたび、瞬く間に彼女たちの噂は広まっていった。

 彼女らが、悪魔を打ち払う組織として聖銀機関の発足を宣言すると、目に光を取り戻した人々はみなすぐに彼女らの下に集まった。

 カルメンの悪魔を払う力を込めた聖銀の武器を掲げ、彼らは命を懸けて悪魔たちと戦った。そうして機関は何十年も戦い続け、封印や撃滅を繰り返し、勝利を重ねていった。残る悪魔はもはや僅かになっていた。

「……凄いですね。みな、勇気ある者たちです」

「はは、その通りだ。伝説ゆえ、多少脚色はあるだろうがな。ひとつの中位悪魔にすら数人を割かねばならない現代の我々からしてみれば、まさしく快進撃だ。ただ、そこにはカルメン様の力が大きかったとも言える。只人にも魔を払う力を与えたという聖銀武器は、残念ながら現存しない」

「そうなの、ですか……」

「だがヴェルセディ様はここにいるだろう?」

「いや、私はそんな、聖騎士という柄では」

「はは。カルメン様は、まさしく唯一無二のお方であった。……故にこそ、その落陽は世界の太陽が消えたかのようだったとさ」

 カルメンは神の使徒とさえ呼ばれたが、人の子である以上天命には勝てなかった。救世の女神の殂落に世界中の人が嘆き悲しみ、その涙は大海にも匹敵したという。

 だが、カルメン本人の遺言から、カルメンとヴェルセディの思い出の地にカルメンを埋葬すると、異変──否、奇跡が起こった。

 カルメンを埋葬した途端、光が天を割き、大樹が枝を広げるように世界を包み、そしてそれが晴れたとき──残存していた中・下位の悪魔はみな消えてしまった。

 カルメンの遺した最後の奇跡は更なる涙と、そして笑顔を生み、程なく、世界には平和が訪れた。

「何というか……本当に、尋常ならざるお方ですね」

「まったくだ。そしてカルメン様を埋葬した地とは、他でもないこの聖銀機関本部。故に、この街の名は、サン=カルメンス聖銀街という」

「ええと……ヴェルセディ様は、どうなされたのですか?」

「不明だ。ヴェルセディ様はあまり、カルメン様以外の人の前に姿を現すのを好まなかったらしくな。元々伝承も少ないが、カルメン様の葬儀の後にはついに行方知れずになってしまったらしい」

「そうなのですか……」

 それからの聖銀機関は、悪魔の再来に備え、その際には再び剣を執る、いわば記憶細胞として再構築された。年月と共に悪魔は伝説の存在になり、機関の名声も薄れていった。

「それはとても、幸せなことだった。悪魔の脅威を皆が忘れ、そのまま思い出すことがなければよかったのだがな」

「ええ、本当に、そうですね」

「だが、封印は解かれてしまった。何者かに、カルメン様の遺骨を埋葬地から盗み取られてしまったのだ。その日から各地に悪魔が出現するようになった。それが現状だな。悪魔への対処ももちろんだが、我々はカルメン様の遺骨を探さねばならない」

 カルメンの墓が暴かれたのと悪魔の再出現が関係していることはほぼ間違いない。ただ、カルメンの遺骨の手がかりは少なかった。かの地を護衛していた騎士も死角から気絶させられ、下手人の顔を見ていないそうだ。長い戦いになりそうである。

 大きく伸びをひとつして、アーシェラに向き直る。

「さて、機関についてはこんなところだ。何か質問はあるか?」

「……気になっていたのですが。猊下は……その、そこそこ偉い、ということでしたが、枢機卿というのは、機関ではどういう立ち位置なのでしょう? 猊下から戴いたあのバッジを付けているだけで、その、行き交う人皆に敬礼をされてしまうのですが……」

 くすぐったそうに頬を掻くアーシェラへの返答はどうしたものか逡巡したが、セルビアは観念して白状することにした。

「あー……その、二番目に偉いな」

「は?!」

「五芒教皇聖下……例えるなら、五人の王様か。聖下方五名の合議制で機関の方針は決定される。その下にあるのが枢機卿の位だ。必要があれば聖下を補助し申し上げることもあるが、普段はわりかし自由だな。私などは特に好き勝手している。母もそうだった。私と同じように、枢機卿でありながら騎士として活動していた。執行部から言ったら、親子共々とんだ迷惑だろうな、くく」

「えっ、ええと、ええとっ」

 ああ、アーシェラが軽いパニックを起こしている……。

「だがその、他の枢機卿方はともかく、私をあまり敬わないでくれ。私の地位は、両親の功績のようなものだから」

「……その、度重なる失礼を……」

 ベッドから離れ頭を垂れるアーシェラをぐいと引き戻す。

「やっ、止めてくれと言ったろう! これ以上そんな、変な気を遣うようならあれだぞ、怒るぞ!」

「は、はぁ」

「まったく。……む? アーシェラ、少しいいか」

 すぐ近くのアーシェラの額に違和感を感じて、前髪を掻き上げると、そこにはぷっくりと薄赤いできものがあった。

「少し腫れているぞ。何か覚えはあるか?」

「……? いえ、特には」

「医者に視てもらうか?」

「そのうち治りますよ。なにせ腕が飛んでも再生しますから。それより、その……」

「ん、ああ! すまない」

 凝視するあまり息がかかるような距離でアーシェラがしどろもどろしていることに気付き、慌てて解放する。そうまで意識されるとは思わず、セルビアにも若干の気恥ずかしさが生じてくる。

 二人の間にできた隙間に鐘の音が割り込んでくる。六の刻から十八の刻まで、三刻ごとに鳴らされる、大聖堂の鐘楼だ。

「……時報ですか?」

「ああ。一五の刻だな。どれ、次は、枢機卿の説明に続いて、機関の構成について話すかな?」

「け、結構です。頭が爆発してしまいそうですから」

「はは。では、このあたりにしておくか。お前は自分の部屋でも見てくるといい。私の部屋の右隣だ。そろそろ掃除が済んでいるころだからな。日用品もある程度は用意させたつもりだが、足りないものがあったら遠慮なく言うんだぞ」

「はい。お心遣い、感謝します」

「ではまたな」ベッドから腰を上げ、退出するアーシェラを見送る。「失礼しました」とアーシェラはまた慇懃にぴしりと礼をして部屋を出ていった。まだまだ気のおけない仲には程遠いらしい、とセルビアは嘆息する。

 主従の面から見れば正しい有り様なのかもしれないが、それでも、セルビアは現状にどこか不満を感じてしまうのだった。その理由には概ね見当がついていた。おそらく、この感情はアーシェラを当惑させることになるだろう。それでも自分の気持ちからは逃げられない。

 ずっと憧れだったのだ。

 聖騎士ヴェルセディ。押し寄せる敵をみな切り伏せ、主を守り続けた英雄のことが。喪失の痛みの数だけ憧れは増していた。

 あんな風になりたかった。

 そしてアーシェラはまさしくヴェルセディの再来であった。また違った出会いかたをしたならば、セルビアがアーシェラを奉ずることになっていたかもしれない。

 故にこそ、アーシェラをただの従者と扱うには気が引ける。

 だから、あのささやかな贈り物が二人の溝を少しでも埋めてくれればと願いながら、セルビアはベランダに出た。

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