暗き曇天、彷徨の果て

 走れ。走れ。焦燥、そして苛立ちが募っていく。悪魔が誰かを殺している、その事実が存在することに心が堪えられない。距離が近づくにつれて災厄はその姿を細かにしていく。血生臭い死の臭いが鼻腔に届く。誰かの遮二無二な叫び声が耳を裂く。崩落する平和が見える。

 馬を減速させつつ鞍から飛び降り受け身を取って、そのまま弾かれたように走り出す。瓦礫が崩れて舞い上がった砂塵のその先へ、断続する悲鳴を頼りに進んでいく。

 そしてアーシェラはついに無貌の獣に相対する。

「止まれ、クソがッ」

 疾走の勢いそのままに、鞘を引いて剣を抜き払う。ごぼり、と、およそ生き物が発するものではないおぞましい呻きを発しながらアーシェラに振り返ったその頭部に、再度剣閃を突き立てる。

 複数の人間が繋ぎ合わされた巨駆が二体。バラバラになった人間のパーツはそれらの周囲で踊っている。

 未だアーシェラに気づいていないもう一体の巨駆に剣を投擲、狙い過たず頭部に直撃する。溶け落ちるように表層が爛れ、奥の暗闇から現れた眼光がアーシェラのそれと交錯する。

「こっちだバケモノ。私がお前を殺してやる」

 二体の悪魔はゆっくりとアーシェラにその百足のように蠢く何対もの手を伸ばし──直後、それらから滴り落ちる血が突然重力という摂理を無視してアーシェラに殺到した。

 石でも投げられたかのような鈍い痛みを圧し殺して、姿勢を下げつつ右へ左へジグザグに、剣が刺さったままの片割れに向かっていく。ある程度の距離から一気に裏へと回り込み、巨駆を蹴り上がって頭部に突き立った剣の柄を掴み取る。

 計算外だったのは、刺さった剣が抜けなかったことだ。ごぼごぼと水が沸き上がるように腫れ上がり、再生した肉は、剣をがっちりと固定してしまっていた。

「な──ぐ、がッ」

 瞬間宙吊りになったアーシェラの隙を複数の腕が放った乱撃が襲う。まともな防御も取れずに異形の力に曝された矮躯はあっけなく宙を舞い、崩れかけていた煉瓦造りの壁を打ち抜いた。

 身体中を襲うぎしぎしという軋みに喘ぐ間もなく、家屋の倒壊も眼中にない様子で空から降ってきた悪魔の脇を転がるようにその場から退避する。

 呼吸を整えながら身体の状況を確認すると、手足の露出部に絶え間なくできた裂傷からどす黒い血が流れ出していた。

「悪魔だな、ハハ、ハ」

 土煙を切って襲来した悪魔の体当たりをすんでのところで回避するが、押し寄せた手足の欠片たちが軸足にまとわりつきバランスを崩す。二度目はなかった。

 再度訪れた衝撃。アーシェラは木っ端よろしく吹き飛ばされる。身体がバラバラになったかのようだ。それでもまだ手足は動く。地に這いながら血を吐き出し、嘆く骨でどうにかこうにか身体を起こす。

「まだだ。まだだ、まだ」

 膝を屈するには早すぎる。血塗れの拳を握る。さあ、立ち上がれアーシェラ・スフェリオ。はまだ生きている。

 二対の異形とその取り巻きはゆっくりと、手負いの獲物に歩を進める。アーシェラは血で固まった髪を掻き上げ、にやり三日月が欠けるが如く、獰猛に笑って眼前の悪夢たちを睥睨した。ぼたぼたと、開放骨折が発生した二の腕から血が溢れ出て、大地の色を塗り替えていく。──黒い血溜まりに、またひとつ、血の冠が浮かび上がる。

 握った拳が何かを掴む。

 迫る悪魔の巨腕に合わせて、再生の始まった腕を振り抜く。

 

 一撃。異形の右半分を大きく削り取った剣身は、鞭のようにしなりながら手元の柄へと戻っていく。伸縮する剣──否、それは剣と言って良いものか。アーシェラは自らの手に握られた異物を改めて見下ろした。

 薔薇の装飾が本来の機能性までもを多い隠してしまっており、剣らしい部分といえば僅かに覗く剣先だけだ。茨は剣を支柱としながらされどほうぼうに伸びており、明らかに異常なシルエットを形成している。ただひとつの統一性は、悉くがどす黒い血の色に染まり切っている点のみだ。

 あの奇妙な夢で見た武器に似ていた。剣とも、槍とも、弓とも盾とも知れぬ異形の武器。緑髪の悪魔がアーシェラに穿ったその一振りに。

「……私はやはり悪魔だ」

 この力は悪魔の力だ。血を操る異能の力──いまはもうその使い方が鮮明に頭の中に存在している。人間だなどと滑稽な嘘は最早つけない。

 大きく振り被った血色の剣を一気に振り下ろす。

 明らかに刀身の距離を越えた悪魔たちを、異常な速度で、それそのものがまるで意思を持つような正確さで、飛ぶ羽虫を落とすが如く簡単に──その全てを撃ち落としていく。

「これがお前たちの不条理か、くく、はは……どうして悪魔は、こんなにも」

 なあ、どうして、人の理を脱してしまったのか。

 細切れになった肉片が血の雨と共に降り注ぎ、霧となって消えていく。ふっ、と、緩めた緊張がそのまま途切れてアーシェラは膝から崩れ落ちた。視界がぷつぷつ暗転し、頭から血の気が引いている。ちょうど貧血で倒れるときに近い感覚だ。力を使いすぎたのかもしれない。半ば無意識に、倒れ伏した先の口元に広がっていた悪魔の血を舐める。

 美味しいと、感じてしまった。

 アーシェラは血の中に伏し、自らの頭を抱えた。


「……アーシェラ。アーシェラ」


 頬を叩かれてはっと身体を起こす。どうも眠りに落ちかけていたようだ。

「枢機卿猊下」

「まったく、本当に何てやつだ。一人でどれだけ倒したのだ。やはりすごいな、お前は」

 呆れ顔のセルビアが後ろ手を挙げる。後から続々と騎士たちがやってきた。一人はアーシェラの馬を連れている。その姿にアーシェラは少し安堵した。一日も経たず馬をなくしたとあっては斡旋してくれたケヴィン、なによりセルビアに申し訳が立たない。

「見えたものは、全て倒しました」

「どんな具合の奴だった?」

「……手足を幾つも持つ大きなものが二匹。あとは手や足だけのものでした」

「中位悪魔だな。手や足だけのものは下位の悪魔だ。本来は結界呪を用いねばやっていられないのだがな。血を尽きさせれば悪魔は死ぬが、それには本来危険が過ぎる」

「私は可能です。私をお使いください」

「馬鹿者。いくらお前が強いとはいえ限度があるぞ。結界呪を用いればもっと楽にできる。次からは、私たちを待て。いいな」

「そうなの、ですか──」

 再び目眩に襲われ、くずおれたアーシェラはセルビアに抱き止められる。

「アーシェラ。大丈夫か?」

「すみません。血を使い過ぎたようです、はは」

「……悪魔の権能を使ったのか」

「はい。恐らくは、そうだと思います」

 権能という聞き慣れない言葉があの異能に結び付く。アーシェラはセルビアの肩を押し自立しようとしたが、セルビアはそれを制するようにアーシェラを抱きすくめた。

 アーシェラの口元には、セルビアの首元、白磁の肌が覗いている。その下にうっすらと見えるブルーブラッドに心臓が跳ねた。その饗に噛み付きたくなる衝動を必死に抑える。

 セルビアはアーシェラの身体を若干引かせ、間に腕を差し込んだ。アーシェラの前で、外套が捲られ、袖のボタンが外される。現れた素肌がおもむろにアーシェラの口に運ばれる。

「血を飲め」

「え」差し出された腕に思わず尻込みするが、腕をさらに押し付けられる。「早く飲め」

「いえ、」

「飲め。これは命令だ、我が騎士」

 半ば口に突っ込まれるようにされた腕。アーシェラの鋭い糸切り歯はぷつりとその柔肌を割いた。一雫の血が糸を引く。

「あ、あ──」

 ぞくぞくと背筋に衝動が走る。顔が火照る。呼吸が荒れる。背中が熱い。身体が血を求めている。昨夜はこれほどまで血に飢えてはいなかった。もはや理性の箍は外れ、本能のままにがりがりと牙立てて血を貪り食らう。

「以後私に許可なく権能を使うな。分かったな。権能を使うには大きく血を消費するはずだ。最悪、死ぬぞ」

「は……しま、す」

 どうにかセルビアの肌から離した舌は、まるで呂律が回らない。ぴりぴりと麻痺したような刺激ばかりが口の中に残っている。

「なんだ、随分しおらしくなったな? ……馬に乗れるか? 夕方には聖銀機関管轄の教会に着く」

「だいじょ……」

 セルビアはゆっくりとアーシェラの背を支える手を離して立ち上がると、周囲の騎士に指示を飛ばした。

「……リオン、それに、アームング。お前たちはこの地の住民を導いてくれ。落ち着いたら本部に帰還しろ。頼めるか?」

「御意に」

「よし、行くぞアーシェラ。立てるか?」

 差し出された手を恐る恐る握り返した。



 それから後のことを、アーシェラはよく覚えていない。気づけば時は次の日の昼下がり、暖かい日差しの中、柔らかいベッドで微睡む自分を見つけた。

「やあ。おはよう、アーシェラ。初めてでよくああまで血を使えたものだ。感心するよ」

「お前は──ッ!」

 そしてその枕元でにやにやと笑みを浮かべている、若緑色の悪魔の姿も。

「まだ寝てたほうがいいよ。君には明らかに血が足りてない。あと八単位くらいは飲まないとまともに動けないぐらいにだ。枢機卿さんが帰ってくるまで、大人しく待っているといいよ」

「ッ、ここは何処だ。猊下はッ」

「ここはサン=カルメンス聖銀街は聖銀機関本部。機関の総拠点さ。もっと言うならここはその中の枢機卿さんの私室だね。部屋の持ち主たる枢機卿さんは何処かというと、普通に仕事。もうすぐ帰ってくると思うよ。それまでボクと話をしようぜ」

 ぽんぽん、と肩を叩かれる。振り払おうにも手に力が入らず、アーシェラは小さな呻きと舌打ちをする。悪魔の言葉を信じるなどできなかったが、部屋の匂いは確かにセルビアのものだった。それに、訊ねたいこともあったのは事実だ。

「あの力は……何だ。教えろ」

「うん。それでいい。あれは血剣けっけん。今のところオリジナルたるボクと、ボクが授けた君だけの術だ。血に望むカタチを与える力でね。これ、悪魔としては結構強いんだよ? 血は悪魔の力の源だ。それに望むカタチを与えられるというのは、実はとんでもないアドバンテージだからね」

「望むカタチだと?」

「君が使ったのは剣……まぁ剣だったね。ちょっと鞭っぽくもあったけど。他にも色々できるよ。槍とか、楯とか、弓にもできるし、あとはコップにだってできる」

 言いながら、若緑の悪魔は剣やらコップやら笛やらに自身の血を自在に変化させてみせた。

「……血を、消費するんだったな」

「そりゃあね。血を材料にしてるわけだから。ただ君がぶっ倒れてるのは単純に持ってた血が少なすぎたせいだよ。別にそこまで深刻な量を使う訳じゃあない」

「……クソが」

「女の子がそんな言葉を使わないでくださーい」

 何なのだこの悪魔は。苛立ちのままに舌打ちを重ねつつも、ある要求がアーシェラにはあった。そのために駆け巡る虫酸を圧し殺して会話を続けているのだ。

「お前の血を寄越せ。……猊下に迷惑はかけたくない」

 血を得なければ……悪魔は死ぬ。この手で悪魔を殺せたのだから当たり前だ。今この身が潰えては、悪魔を殺すことができなくなる。いまは生きなければならない。

 そして、血がどうしても必要ならば、人間の良い迷惑に係りたくはなかった。嫌な発見だったが、悪魔の血でも美味と感じられたのだから、代替は可能だろう。アーシェラは心中でそう考えていた。

「別にいいけど。ただ、人間から血を飲んだほうがいいと思うよ。悪魔であるボクの血を飲むと、恐らく君の中の悪魔性は高まるだろうね」

「私は悪魔だ。今更、人になどなれない」

「じゃあ飲むの?」

「……ああ」

「仕方ないな。ただ、対価はいただくよ。君の中にある猊下さんの血を少し分けてほしい」

 提示された条件に疑問を抱きつつも、アーシェラは小さく首肯を返す。緑髪の悪魔はそれににっこり笑って頷くと、アーシェラに一歩近づいた。

 そして悪魔は赤いコップにどこからかなみなみと血を注ぐと、それをアーシェラに差し出した。唇をつけ、一気に飲み干す。

 血の甘い香りが口内に広がっていく。流れ込む蜜の味。それがどんな味か、迸る熱がどんな感覚かを考えないように、アーシェラはじっと、空はどうして青いのかと、対して興味もない問いに思いを馳せていた。

 悔しいところだが、血を飲むとすぐに身体に残っていた倦怠感は取れ、四肢に力が湧いてきた。ともかくこれで血は足りたのだ。そうアーシェラは自分に言い聞かせながら、ベッドのすぐ横のチェストの上にあった水瓶から得た水で、念入りに口を漱いだ。

 悪魔が不満そうに口を尖らせる。

「自分から飲んでおいてそれはひどくないか」

「黙ってろ」

「まあいいけどね。今度はボクの番だ。こっちに腕を」

「……ああ」

 差し出した腕に悪魔が不思議な紋様を描くと、傷ひとつないというのに、アーシェラの腕から血が滲み出てきた。悪魔はそれをぺろりと舐めとると、にっこりと笑った。 

「ありがとう、これで全て上手くいく──っと、そろそろ枢機卿さんがお帰りだ。ボクは行くよ」

 瞬きをしたその一瞬で、無邪気、故におぞましい悪魔の姿は、影も形も無くなってしまった。

 しん、と静まり返った部屋をゆったりと見渡す。彼女らしいといえば彼女らしい、機能重視で、あまり飾り気のない部屋だ。だが部屋の南側では鉢植えの花々が微かに風に揺れていた。部屋の中だけでなく、窓の向こうにも影が見える。ベランダがあるのだろう。

 アーシェラはおもむろに花々の元へ向かった。開けられた窓の他に南側にはもうひとつ大きな折り畳み式の窓があり、そこがベランダへの出口になっていた。

「……これかな」

 ベランダを占有するように置かれた花々の中に、茎から直接生えるようにして、幾つもの小さな花が規則正しく並んでいるものがある。確かに、紫のがくとそれに赤みが差した花弁はアーシェラの髪の色によく似ていた。妖艶で美しいのだが、どこか毒々しさもある。

 アーシェラの髪は、厳密にはこの花よりも一回り濃い色だ。その一回りによって、美しさだとかと離別して、毒々しさを強めるばかりの色になってしまっている。少なくともアーシェラにはそう感じられた。

「私は……こんなに綺麗じゃない」

 遠くから足音が聞こえてくる。セルビアだろう。もう聞き慣れた足運びだ。いそいそとベッドに戻って、隅に少しだけ腰を預ける。

「きゃっ!?」

 予想外にふんわりとした座り心地にそのまま倒れ込んでしまったのを、開いた扉の向こうからセルビアが覗いていた。

 セルビアはにやにやとしながら、アーシェラを冷やかしてみせた。

「……く、くく……『きゃっ!?』って。くく」

「げ、猊下。どうか、忘れてください……」

「別にいいのだぞ。ゆったりとくつろいでくれ。具合はどうだ?」

 外套かけにマントを掛けて、セルビアはやっと身体を起こしたアーシェラの隣に腰掛ける。

「は、はい。良好です」

「そうか? 確かに幾分か元気そうに見えるな。だがまだ血は足りんだろう?」

「いえ。もう充分だと思います」

「そんなわけがなかろう。ほら。飲め」

 止める間もなく、ぱきん、とナイフで傷つけられた手首から血が滴る。アーシェラは食い入るようにそれを見詰めていたが、どうにか理性で吸血欲求を抑え込んだ。

「い、いえ。本当に大丈夫です。それより、そんな簡単に御身を傷つけては」

「む……そうか? 心配するな。治りは早いほうだからな」

 セルビアはアーシェラが吸血の本能に流されないのを見て、本当に必要ないのだと納得したようだった。サイドチェストに手を伸ばし、水瓶の横の救急箱から包帯を取り、大雑把に腕に巻いていく。

「猊下。その、私はこれから、どうすれば良いのでしょう」

「お前は私に仕える、そう言ったな?」

「? ええ、はい」

「つまりだ。お前は他の大多数の騎士のように聖銀機関に仕えているわけではなく、私という個人に仕えているわけだ。立場的には、枢機卿直属特等騎士、ということになる」

「えっ? ええと……?」

 舌を噛みそうな肩書きにしどろもどろになっているアーシェラを置いてセルビアは続ける。

「というわけで、聖銀機関から何かが直接お前に下されることはない。お前は私のすることを手伝ってくれ。いいな?」

「は、はい。了解致しました」

「よし。良い返事だ。ではお前に私のことを教えよう」

 セルビアは大袈裟な身振りと共にベッドから立ち上がり、アーシェラの前にくるりと翻った。

「私はセルビア・ヴェグナンチカ。この聖銀機関では枢機卿という立場、その一席を担っている。まぁ……そこそこ偉い程度だ。さてアーシェラ。ところでお前は、聖銀機関とはどんな組織だと思っている?」

「ええと……悪魔退治の専門家の集まり、でしょうか……。騎士とは、本来そういうものだったのですよね」

 聖銀機関は治安維持組織というのが常識だったが、いまはその真なる姿を知っている。各地の騎士は、悪魔の復活に備えての派兵だったのだろう。

 セルビアはうむ、と頷いて、ひとつ指を立てた。

「概ね正解だ。だが退治するには退治のしかたを知らねばなるまい? そうした、悪魔研究を行う研究者も存在する。私もその類いの一人ではある。退治屋、すなわち聖銀騎士としても働いている、というか私はこちらが主だがな」

「悪魔の、研究ですか」

「ああ。何事も知識は力だ。少し話したか、結界呪はその成果のひとつだな」

 ふと疑問が不躾に口を衝いた。

「……私のような者は、今までに存在しましたか」

「少なくとも確認はできていない。悪魔の血を被った人間はみなすべからく悪魔へと変貌してしまう。どうしてお前だけが自分の意思と人の姿を保てているのかは解らんな」

「……そうですか」

 今までに存在したら、それで何だったのだろう? アーシェラは自らの問いの理由に詰まった。存在したら、その者がどうしたのか──人間に戻れたのかなどと、アーシェラには無意味なことを問おうとしたのだろうか。

「まあそういう体質だったのかもしれん」

「失礼ながら、体質でそのようなことが起こるとは」

 否定的なアーシェラに、セルビアは複雑な顔をした。

「その、だな。実は私もかなり特異な身体でな。傷の治りが早いのもそうだが、私は悪魔の血を被っても平気なのだ。私の母方はずっとこうなのだと言う。平気というだけで、お前のようにはならないのが残念だが」

「残念など」

「私がお前と同じになっていたら、お前の心労を和らげられたかもしれない」

 セルビアは気味が悪いほどに善人だった。腕を失ったひとを憐れんで自らの腕があることを疎ましく思うなど、帳尻が破綻している。髪だけでなく性情もまた神や聖母のようだった。

「猊下は優しい方です。私は十分、気を使っていただいています」

「ならば何故そんなにも暗い瞳をする。何故に自分までもを忌み嫌う。なあ、アーシェラ、お前は悪魔などではないのだぞ。確かに人の心のある」

「これ以上」

 徐々に熱を持つ会話の中、セルビアの優しい声音を遮って、アーシェラはセルビアの透明な瞳から目を背けた。

 ああ、ひどく。

「これ以上、猊下のお手を煩わせるわけにはいきません。ご親切、痛み入ります」

 ひどく、冷たい声だ。

「何かお手伝いできることはありますか? 浅ましくも長らく眠っておりましたので、身体がなまってしまいそうです」

「……アーシェラ……」

 セルビアは悲しい顔をしていた。責務そして無力を感じながら、それでも何かできることはないかと視線を動かしていたが、ついぞアーシェラと再び目線が交錯することはなかった。

 アーシェラの瞳には靄のかかった大切なひとが幻視された。いつか……あの人とも、こんな風に喧嘩をした気がする。

「お前に、手伝ってもらうものはしばらくなさそうだ。好きに歩いてくるといい。ここは中々広いからな。気に入る場所もあるはずだ、きっとな。必要であれば、枢機卿直属特等騎士として名乗れ。まあ不自由しない程度の場所には入れるはずだ。この腕章とバッジを忘れずにな」

 アーシェラの手にカナリアを模した腕章とバッジを押し込んで、セルビアは衣装箪笥へと向かって行った。

「私は少し着替えて食事をとってくる。さすがに着替えを手伝わせはせん、もう行くといい。外套はそこだ。少し血がついていたが、一応聖水で浸けて乾かしておいた。ではまたな」

「……失礼します」

 促されるまま部屋を出る。渡された騎士の証は羽織った外套のポケットに落として、アーシェラは当てもなく歩いていく。悪魔の鋭敏な聴覚には、セルビアが押し殺した泣き声が聞こえていた。

 歯軋りの音は自責の悲鳴だった。長い廊下、そして階段を降りきったとき、アーシェラは更に自分が嫌いになっていた。

 陰鬱な気分のまま外に出る。存外活気ある街の姿を、アーシェラだけが虚ろな瞳で歩いていく。

 なんだか、疲れた。否定することは精神の磨耗を引き起こし、否定されることもまた然りなのだから、是非もなかった。いっそ死ぬべきか、否、否。悪魔をこの世に残して死ねるものか。

 だが、少しだけ休もう。ささくれだった心が、他人までもを傷つけてしまうことが二度とないように。見たことのないセルビアの泣き顔が頭に浮かんだ。

 アーシェラは手近にあったベンチに腰を下ろした。硬い板に背を預けると、視線の先では若々しい緑の木々が控えめに風に揺れている。さらに目を向ければ教会らしき建物に大きな鐘楼があるのが見え、遠くにはガラス張りのドームのようなものもある。植物園か何かだろうか。

「…………私は、……」

 風はここ一番に冷たい。まるで冬に戻ってしまったかのようだ。変わりたいが変われない。他の何を否定できても、自らの感情だけは否定できない。

「お姉さん、見ない顔ね。新米さん?」

「うん、ああ……そうだけど……」

 すれ違いざまに良く澄んだ声をかけられて、アーシェラはちょっとした戸惑いと共に振り返る。そこにはいかにも村娘然とした、なりは質素だが明るい太陽のように笑う少女が立っていた。

「私、ミランダ。ミラって呼んで。ロザミア通りのパン屋、デイリーアシエットで働いてるわ」

 ロザミア通りというのがどこなのかアーシェラには分からなかったが、察するにこの聖銀街のどこかにあるのだろう。アーシェラはそうなんだ、と曖昧な言葉を返した。

 ミランダはアーシェラの隣に腰かけると、ぱやぱやと光でも出そうな勢いで笑顔を振り撒きながら得意そうに続けた。

「毎朝百個限定、日替わりパンの店よ。とっても評判いいんだから。ふふ、あなたもそのうち来てね」

「じゃあ、今は売り終わったところ?」

「ええ! 今日もバッチリ! だから夕方まで休憩。騎士さんも休憩かしら」

 休憩と言うにはあまりに身勝手な時間であったが、無意味に波風を立てるべくもなく、アーシェラはぎこちない嘘をついた。

「そんなものかな」

「ふうん。ねえ、時間、あるかしら。良ければ私案内するわ! ここは素敵なところがいっぱいあるんだから!」

「いや、その……実はそこまで長くはないんだ。休憩は」

 この元気さには着いていける気がせず、アーシェラはつい断ってしまった。

「あら、残念。でも、そうよね。騎士さんはいつも私たちのために頑張ってあの悪魔と戦ってるんだから。訓練とかも、きっと厳しいのでしょうね。そんなあなたたちのおかげで、私は明日もパンを焼けるわ」

 会話に紛れ込んだ忌むべき名を捉えて面食らう。この少女は悪魔を知っているのだろうか?

「悪魔を、知っているの?」

「……ええ。私逃げてきたの。悪魔に街を滅ぼされて。でも記憶はあやふや。幼いときのことは覚えているのだけど……特に、ここに来る前一ヶ月くらいの記憶がね。強い精神的ショックを受けたせいでしょう、ってお医者様は言っていたわ」

 光からはとても推し量れなかったその闇に、アーシェラは申し訳なさと同情、そして疑問を感じた。

「……ごめん、その」

「いいのよ。騎士さんたちが私たちを助けくれたんだから、そんな顔しないで。それに、悲しいけど……ここには同じような人が他にもたくさん居るわ。だからもう寂しくはないの」

「……不躾だけど、少し、訊いてもいいかな」

「どうぞ?」

「どうして……前を向けるんだ?」

 そうだ。この少女にそんな過去があるなど全く想像できなかった。それくらい少女は明るい。なぜ壮絶な過去を経て、そうまで前を向けるのか。アーシェラは、失った過去に囚われた復讐鬼は、心の底から疑問に思った。

「言ったでしょ、寂しくないの。皆と一緒だから頑張れるわ。きっと他の人もそう。それにね、これは……私の、おばあちゃんの言葉なのだけど。子供のころ、不注意でおばあちゃんのお気に入りのカップを割ってしまった私に、笑ってこう言ったわ。『過去はいまを生み出すが、未来はいまからのみ生み出される』って」

「それは……」

 極めて抽象的な言葉、その真意をミランダは続けて説明する。

「過去の経験がいまの私をつくるのは、不思議じゃないでしょう? そして未来の私をつくるのは、過去につくられたいまの私がどうしたいか、どうしようとするかなのよ。過去は未来を決定できないわ。過去に失敗しても、私がめげずにもう一度チャレンジしたら、成功するかもしれないじゃない? ちなみに、おばあちゃんはカップを新しくひとつ買って、新鮮だって喜んでいたわ。過去にどんなにひどいことがあっても、後ろばかり見ていたら道を間違えるに決まっているわ。当然よ。私は前に進んでいるのだもの。過去は私の背中を押す風であるべきよ。振り向いてしまったら、ええ、あまりの激しい風に、顔をしかめてしまうかも!」

「……君は、強いね。うん、ありがとう。おかげで、なんだか少し、楽になったよ」

「どういたしまして。お礼は今度店に来たときしてもらうわ!」

「ああ、必ずね。朝は何時から?」

 自分は食べられないが、贈る人ならいる。悪魔が泣かせてしまった、心優しきあの女性ひとに。

「十刻からよ。有難いことに、十一の刻にはもう売り切れてしまうの。だから早めに来てね、騎士さん!」

「うん。じゃあ、私はこれで。……これからも美味しいパンを。頑張って」

「もちろん!」

 アーシェラはミランダと別れ、聖銀機関本部に足を向けた。

 実に不思議な人だった。相手を諭すのに慣れているというよりは、相手の心に触れることそのものが上手いのだろう。セルビアとはまた違った形で優しく美しい人だった。

 全てが変わったわけではなかった。悪魔は憎い。……姉さんを守れなかった自分が憎い。嫌いだ。大嫌いだ。そこは変わらない。そうとも、過去は変えられない。どんなに焦がれても、失ったものは戻ってこない。けれど確かに未来は変わった。いや、そも、まだ決まっていなかったのだ。

 自分は何をしたいのか。

 悪魔を滅ぼすことではなく。その先にあったこと──平和な世界を取り戻すこと。

 自分はどうなりたいのか。

 責務に殉じるのではなく。


 今度こそ、自分が愛せる自分になること。


 葡萄の髪止めを整える。ポケットからバッジと腕章を取り出して、胸と腕とに身に付ける。深呼吸。吐いて、ゆっくり吸って、また吐いて。アーシェラは歩いていく。

 まずはセルビアに謝らないと。

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